第5話 自治会VSサラリーマンVS得矢VS……

『一三日午後、雨崎市の稲川の河川敷にある家屋から死体があると、市役所職員から一一〇番通報があった。県警雨崎北署の発表によると、死体が発見された家屋には人が住んでおらず、老朽化のために取り壊しが決定しており、職員はそのための立ち入り調査を行っていたという。発見された遺体は、男女合わせて七体。年齢や死後経過は不明だが、いずれも損傷が酷く、頭髪と骨だけが残された状態で、肉や内臓はほとんど無かった。

 骨や肉片に、犯人のものと思われる歯形や、わずかな体液が付着しており、警察は鑑識に回して照合を急いでいる』新聞記事より抜粋


『一四日夕方、雨崎市内の個人病院、龍和会セントラル病院の精神病棟にて、入院患者が突然暴れだして職員を襲い、死者九名(写真)死傷者三名が出る事件があった。入院していた目撃者によると「看護士が看護士を襲った」と繰り返しており、また「突然皆が狂った」「入院患者同士が争った」という証言もあった。目撃者証言や情報が錯綜しており、当時の状況を掴むのが難しいことから、警察は関係者の聞き取りや現場検証を中心に捜査を進める予定』新聞記事より抜粋


 朝のダイニング。

 コーヒーの香りと、チョコレートの匂いが混じる食卓の前で、広志は苦々しく読み終えた新聞紙をテーブルの上に置いた。発行部数九百万部を超える全国紙に、我が家の近所が禍々しい地名として、全国展開されていた。

 時計代わりに点けているテレビから流れてくるニュース。

 深刻な声のレポーター。

『当時の病棟の廊下は血の海になっており、正に地獄絵図となっていました。ですが、本当の恐怖は、三週間前にも、突如人間が発狂して人を襲うといった類似の事件が発生しており、未だにその原因が掴めていない事です!』

『インターネットの掲示板などには、面白半分や興味本位の書き込みが急増しており……住民に対する流言や誹謗などが流れ、警察や消防など、各関係者は、事実無根な情報などに惑わされないよう、呼びかけています』

 住民へのインタビュー

『もう、怖くて怖くて……暗くなったら外に出歩けませんよ』

『放課後、友達と遊びに行けないんですう』

 テレビから聞こえてくるのは、戦慄する事件が立て続けに起きている地域の現状、不安と恐怖に怯える住民たちの声

 広志はカフェオレを一気にヤケ飲みした。世間には、これ以外に国会の動きや共産主義の国の怪しい動向、それに対する国防やアメリカの動きなど、色々起きているはずではないか。  

こっちにばかりかまけていないで、たまには他のニュースも流せ。もう人喰いも集団発狂も聞きたくない。

広志は、会社の廊下で、知らない女性社員から話しかけられた事を思い出した。

「あの、斎藤課長は『人喰い町』にお住まいって、本当ですか?」

 朝から猛然と腹が立つ。リモコンへ手を伸ばした広志へ、里美が言った。

「他のチャンネル変えたって、無理なのはもう分っているでしょ。諦めてご飯食べなさいよ、お父さん。アメリカ大統領が暗殺か、共産国の書記長がミサイルを日本に発射する以外、ニュースは変わらないわよ」

 娘の真理が、母親の里美に続いた。

「お父さん、自治会長じゃないの。町の現実から目を反らさずに、今、近所に何が起きているのか、ニュースでちゃんと把握しないと」

 広志はムッと口を曲げた。

「しかし、いくら何でもこの報道は過熱状態だ。実際に風評被害も起きている。現にネットでは、人喰いウィルスだの、この町がアメリカの生物兵器の実験場だの、町の住民を隔離しろとか滅茶苦茶だ」

「滅茶苦茶だから、ネットなんだよ」

 ココアをホットミルクで溶かし混ぜながら、秀が落ち着き払った声を出した。

「誰でも思ったことを、検閲無しにそのままに発信できるツールだもん。当たり前じゃないか。怖いとしたら、ネットの発信が規制される、その時の方が怖いよ」

「……」

「それに、事故や事件というのは、当事者以外の人間にとっては、どこか見世物で娯楽に過ぎない。人ってそんなもんだよ」

「例えそうであっても、それとこれとは別だ! もしもこれがエスカレートして、子供のいじめにつながったらどうするんだ!」

 秀がチョコクロワッサンにイチゴジャムをのせた。真理が目玉焼きの黄身をつぶさないように、トーストの上にのせる。

「大体、マスコミ報道が偏っている! 朝から晩まで、我が家の住所を連呼しやがって、このままで行けば、宛先に『人喰い町』と書けば郵便物が届くようになるぞ。事件報道とはそもそも、公共性と正確さ、平等を重んじるべきだろう! 大衆の興味と関心度が報道の基準だというのなら、それは報道ではない! ショーだ!」

「お父さん、早く食べないと、パンが無くなるわよ」

 里美の忠告に、広志は気が付いた。干しブドウロールと、チョコクロワッサンがそれぞれあと一つ。

 慌ててチョコクロワッサンに手を伸ばす。ブドウロールは好きではない。

「お父さんの懸念は最もだけどね、僕ら子供にとって、事件の影響による問題点は、報道の偏りだとか、いじめだとか、流言飛語じゃない。違うところにあるよ」

 秀が仏頂面になった。

「この事件が起きてから、ずっと放課後、何でもかんでも禁止。まっすぐに帰宅して、家からも出るななんて、最悪だよ。大迷惑なんだよ」

 秀は外で遊ぶばかりか、塾も休まされている。今月入る予定で楽しみにしていた囲碁の教室も、延期になった。

「子供の生活をいつまで制限するつもりだ。大人は心配し過ぎで、大騒ぎし過ぎだよ、そう思わない?」

 反抗的な口調の息子に、母の里美は断固たる口調で言い切った。

「当たり前でしょ。少なくともこの状況で、夕方に子供を出せるはずないでしょ」

「いつまで?」

「それは分からないけど、状況的に今はダメ」

 里美はまっすぐに秀を見た。秀はまっすぐに母親を見返した。

「状況的にとはいうけど、事件が起きたのは病院で、瀬川高校の共食いはもう犯人も捕まって、決着がついているじゃないか。それに、河川敷の死体遺棄にしたって」

 秀はホットココアを一気にあおった。

「発見された七体の死骸は、成人した男女だ。金品が奪われた形跡はあっても、死体の損壊の状況から、ただの強盗殺人ではないという見方もあるらしいよ。僕ら未成年者が特に警戒すべきなのは、性犯罪者や身代金目当ての誘拐だよ。それに、連続殺人者の嗜好は決まっていて、その被害者の特徴は、ほぼ共通しているんだよ。少なくとも、今回の犯人の標的は子供じゃない」

 小学校五年生の理屈ではあるが、理路整然としている。里美の表情がぶ然となった。理屈ではなく、親としての曖昧模糊とした不安なのだ。

姉の真理が、呆れた声を上げた。

「朝っぱらからチョコクロワッサン片手に、死骸だの連続殺人だのって、あんたの感性どうなってんの。サイコキラーの素質があるよ」

 む、と秀が憎まれ口の主を見る。真理が続けた。

「河川敷の殺人、もしや未来から来たアンタが犯人じゃない?」

「話としてはよく出来たアイディアだけど、お姉ちゃん、それは映画の『ルーパー』のパクリだな。もっとオリジナリティを出しなよ」

「むむ」

「秀、話はそんな単純なもんじゃない」

 広志は、姉弟の間に割り込んだ。

「事件の終わりは、犯人の逮捕の後、世の中の不安を払拭してから終わるんだ。瀬川高校の事件は、同級生同士が何故殺し合ったのか、その原因が掴めていない。セントラル病院でも、同様の事件だ。まだまだ続くかもしれない。それがどんな形で、いつ、どこで発生するか、誰にも予測が出来ないんだ。河川敷にしたって、関連性が無いとはいえん」

「今は我慢しなよ、秀」

 むっつりとした弟へ、姉が声をかけた。

「私だってさ、放課後の空手部禁止よ。試合近いのに、練習が出来ないんだよ」

 とりあえず、今は大人しくしておきなよと、真理が続けた。

「囲碁と塾へ行けなくても、あんたは教科書と囲碁雑誌が家にあるけど、私はそれが出来ないんだよ」

……姉の言葉に、秀が黙り込んだ。


 出社すると、課長の机の上に雑誌数冊が置かれていた。ページに付箋が付いているそれを開くと、華々しいほど切羽詰まった見出しがあった。

ジョージ・B・ロメオというゾンビ映画の先駆けを作った監督と、現実世界の混沌をテーマにしたホラーを得意とする監督二人、大きくカラー誌面を独占していた。

『ホラーは予見していた! 混沌の時代と迷走の世相、今後の金融界はどこへ行く?』

『ヒミズ監督は語る! 増殖する恐怖と不安・不透明な時代に買うべき株は?』

 経済と人間の恐怖の感情を、無理矢理経済の流れと結び付けた予測、シュールな取り合わせを読んでいる内に、広志はううむと呻いた。

「……金融経済とは一種のキメラだと誰かが言ったもんだが、創刊一二〇年と言われる老舗経済誌が、何をホラーとコラボしているんだ」

「いえ、でもあながち無関係とも言えないんですよ」

 女性主任の沢田が、広志に顔を向けた。

「日経インデックス型とJーREITの商品が落ち込んでいるんですが、医療系のファンド商品が一気に跳ね上がっているんです。特に製薬関係と、ワクチン開発が絡んでいるファンドです……課長の近所の集団発狂事件、もしかしたらウィルスかもって、今ネットで話題なんですよ。そのせいかも」

広志は今日の株式チャートを思い出す。

沢田の言う通り、ここしばらく、日経平均株価と、不動産が地盤沈下を起こしているような動きを示している。

「しかし、そんな馬鹿らしい噂で株式が動くものか。ネットの噂なんか、ウィルスだけじゃなくて、アメリカ軍の生物兵器だとか、宇宙からの放射線とか、内容はカオス状態だぞ」

広志は続けた。

「集団発狂だってそうだ。集団心理が引き起こした暴動なんて、過去いくらでもあるじゃないか。ウィルスなんて馬鹿馬鹿しい。宇宙からの放射線? いつのSFだ。生物兵器実験なんて、映画の観過ぎだろうが。何だ、ウィルスを蔓延させた後は軍隊出動か? 最後は住民全員を乗せた列車を、カサンドラクロスに向かわせるのか? 密輸したサルを追いかけて、爆弾で我が町をぶっ飛ばすのか?」

「ゾンビと市民が入り乱れて、見分けがつかないから皆殺し、というのもありましたね」

「……沢田主任」

「冗談ですけどね」

 沢田は首を傾げた。

「噂というのは、世の中を動かす大きな波であることは、否定できませんよ。不安でも何でも、人の行動って、他人からの影響を少なからず受けて起こすものでしょう。それが無責任であろうとなかろうと、人の数という説得力さえあれば、物事は動きます」

「……」

 身近な例でいえば、食べログですよねと言われ、広志は納得するしかなかった。沢田がパソコンを叩いた。

通達のメールが来ている。

「それにね、見て下さいよ……本社の人事部から、全社員へ通達です。あさってから緊急に血液検査を行うそうです。保険加入者、非加入者関係なし、とにかく全員血液検査を受けろって。何があったんでしょう」

「……つい三か月前、保険組合の加入者対象、健康診断をしたばかりだろ」

 血糖値や白血球の数など、主な血液検査もその時に行われているはずだった。

「でも、この通達はマジですよ。血液調べさせないと、社内の懲罰対象になるって」

 ふっと、首筋に冷気が触れた。

 広志は思い出す……つい昨日、保健所から自治会に『住民一斉に血液検査を行う』という通達が回って来たのだ。

 地域の住民全てが対象。真理も秀も、すでに学校で、検査のための血液サンプルを採取されたという。

予防接種ではなく、血液検査だ。保健所は住民の血液データの何が見たいんだ?

 広志は、自分の足元が揺らぐのを感じた。

 瀬川高校に通っている、近所に住む女子高生が集団発狂事件の加害者になり、そして近所の病院でも類似の事件が発生、川べりの廃屋の死体遺棄。

 ウィルスなんて、馬鹿々々しい。そう思っていた頭の中に、血液検査という文字が加わった途端、人の理性を突然破壊する、何かの伝染病の可能性があるのではないか、とそんな疑いの念が湧く。

……携帯のメールが振動した。 

自治会の副会長、平川種三からの連絡だった。

『今夜、緊急の自治会の会合を開きます。時間は一八時半、いつもの公民館にて』

 広志は息を吐いた。

 不安と疑惑だけを後生大事に抱えていても、仕方がない話だ。目に見えない化け物相手に、怯えているだけでは進めない。

何が起きているのか、事件の糸は見えているが、アウトラインが掴めない。原因と発端も見えないし、結末はどうなるのか、そもそも結末自体あるのかも分からない状態だ。

しかし、自衛の必要があるのは確かだった。

犯人を見つけることは出来ないにしても、災いから生活を守るためには、何かが出来るはずだ。

警察と消防だけに頼らず、自分たちの身は自分たちで自衛し、家族と隣人を守る、それについて皆で知恵を出し合えば、何か突破口が掴めるかもしれない。

 自治会長として、不安な住民たちをまとめるのは、自分の役割だと広志は背筋を伸ばし、妻の里美にメールを打った。


『緊急で自治会の会合に出るので、今夜は遅くなる』

会社を早めに出ても、一度家に戻って夕食を摂る時間はない。広志はそのまま会合の場所に向かうことにした。

自宅の最寄駅に着くと、広志はプラットホームから降りて改札口に向かう。

広志と同じ、同じ改札に向かう乗客。しかし、風景は以前とは違うものになっていた。

事件前、駅のこの時間帯は、帰宅する制服姿の子供も大勢目についたものだった。

スポーツバックや制鞄を持って、にぎやかに歩いていた学生たち。笑い声、走る小学生に親子連れ。しかし、今は子供の姿が全く消えた。

大人ばかりだ。どこか寒々しい。

改札を出ると、パトカーや警官が目についた。駅周辺にはボックスカーがやたらと停車していて、カメラや機材を持ったグループがうろついているのが見えた。

 マスコミらしい男が、主婦にマイクを突きつけている。主婦が高い声で興奮していた。

「ええ、病院の事件といい、本当に怖くて……子供もいるし、ここから引っ越しを考えています」

街全体の空気が沈み込み、乾いた不吉と不安でざわめいていた。テレビで見る以上だと、広志は感じる。

 歩道を歩いていると、横を二台のパトカーが走り抜けた。反対側の歩道に、制服姿の警官が二人、トランシーバー片手に何か叫んでいる。

「警官が増えたな」

 広志はため息をついた。

 町の集会所に到着したのは、開会時間ギリギリの一八時二七分だった。

 集会所は、学校の教室くらいのスペースの一部屋に小さな事務室が付いて、その上に屋根が付いたくらいの簡素な建物だ。

広志はそこに入った瞬間、たじろいだ。

 集会所の中は、人で埋め尽くされていた。人の熱気のせいなのか、季節外れの冷房が稼働している。椅子が足りないらしい。立ったままの人もいた。

 広志は人の脇をすり抜け、壁を這うようにして、前の自治会長席に向かった。

 すでに椅子に座っている、副会長の平川種三が手を振った。

「よお、斎藤さん、お疲れさんです」

「何なんですか、この出席者の数は?」

 広志は、ぐるぐると首を回した。

 まるで、人間の顔畑だ。いつもの倍以上の人数、見たこともない人もいる。

「そりゃあ、皆怖いのやろ。何でも良いから、事件のこと何か知りたいと思って、ここに来ているんちゃうか? ネットやニュースがあっても、肉声で情報が聞きたいんやろうな」

「そうは言っても、私だって大した情報持っていませんよ。最近、行政や消防からの業務連絡も途絶えてますしね。そう言えば、今度の土曜日に避難訓練するとか言っていたけど、何も言ってこないんですよ。段取りとか物資とか、どうするつもりなんだろうな」

「そりゃ無責任やな。明日にでもワシが連絡するわ」

「恐れ入ります……ああ、そうだ。菅田さんのところに持って行くはずの、見舞金なんですけど、実はまだお渡し出来ていないんです」

ああ、と平川は頷いた。

「菅田さんの娘さんいる病院、今は封鎖らしいし、仕方ないわ」

「すみません。人の金をいつまでも預かっているのも、気持ち悪いんですけどね。いつでも渡せるように、持ち歩いてはいるのですが」

「斉藤さん、あんた、銀行員ちゃうの?」

 ……広志は改めて、眼前に並ぶ住人たちの顔を見まわした。

主婦に老人がほとんどだ。だが、共通するのは不安そうな表情。

広志は気を引き締めた。自分は自治会長なのだと、この人数を前に自覚する。

議会進行役が、声を上げた。

「自治会の臨時会議を開催します」

 その途端、決壊したダムからほとばしる噴流のごとく、次々と手が挙がる。

声が乱舞した。

「警察のパトロールや、見回りはこれからも続くんですか?」

「子供の登下校が心配でたまらないんです!」

「警察の捜査状況はどうなっているんですか?」

「ええと、皆さん、お一人ずつ仰ってください!」

 広志は叫んだ。だが、その声は人々の叫びの中に呑まれる。

「病院の殺し合いも、人の共食いだって本当ですか!」

「いきなり血液調べさせろって、何かの伝染病が発生しているんですか? 保健所は何をしているんです!」

「それは、まだ分かりません。こちらとしても、情報を収集したいのはやまやまですが……」

 怒涛の住民を前に、広志は『自治会長』という立場の元に、足を踏ん張りこらえながら、話し合いの秩序を立てようと抵抗した。

「皆さん、今は建設的な話し合いの場です! 今の状況把握も大事ですが、今後、どうやって住人たちで自衛を行うのか……」

 声の嵐のなか、乱暴な音が響いた。音を立てて、椅子から立ち上がった音だった。

中年女が叫んだ。

「あのですねえ、ウチの近所に怪しい男がうろついていて、私ソイツが犯人じゃないかって思っているんですよ!」

 いや、今はそういう話じゃ……言いかけた広志は、違う声で圧し潰された。

「それなら、私の近所のカケイさんって人が、いつも変なゴミを捨てて、とがめたら突き飛ばしてきたんですよ! 信じられます?」

 ちがう! 広志は無声で怒鳴る。

 議題を捻じ曲げるな、これは犯人捜査会議じゃねえ! 『今後の課題・住人の不安を払拭し、どう我々で暮らしを守り、自衛を行うか』このホワイトボードの文字が読めんのか、この文盲!

 隣に座る副会長、平川の表情は、すでに白旗状態だった。あてに出来るとは最初から思っていなかったが、やっぱり出来ないとは情けない。

「警察や消防を、全面的に当てにしても仕方がありません!」

広志は、口から内臓が飛び出すほど絶叫した。

「自分たちの暮らしは、自分で守り、隣人を守る! 官民一体となって協力し、事態にあたることが、今、必要ではないでしょうか! そこで、我々住人で有志を募り、自警団を作る案をですね……」

「とはいっても自治会長、犯人と格闘になって、怪我したらどうするんですか?」

 殺気立つ空間から、呆けた声が転がってきた。

「そういうのは、年寄りよりも、若い人に任せた方がええ気がするなア」

「ワシも健康に不安があるからなあ。腰も痛いし、耳も遠いから役には立たんわ。足手まといはいらんじゃろ」

 目の前で鼻毛を抜く老人の頭に、ホワイトボードを振り下ろしたい欲望を、広志は懸命に押さえつけながら呻いた。

「いえ、足手まといも何も、町のために自分で出来ることは何か、それぞれでお考えになってですね……」

 新たな甲高い声が、空気に突き刺さる。

「あのねえ、勝手なことばっかり騒いでないで、私の話をちゃんと聞いてちょうだいよ! そのカケイって人の出す変なゴミ、中身の見えない真っ黒な袋なんですよ! 何が入っているのか、調べないと!」

「あんた、ゴミの出し方くらいで人を疑うの?」 

「そういえば、あのオバサン、前にウチのゴミ袋を勝手に開けていたわ。変態」

「皆さん、一度深呼吸をして……」

「何ですって! さっき変なこと言ったの誰!」

 制御不能、暴走する住民。広志は、教室崩壊に立ち会う教師の絶望を体感し、自治会長としても使命感が崩れていくのを感じた。

……今まで、会社のどんな会議に出ても「物事の発展性」「閃き」を感じたことはない。

 いや、むしろ時間の無駄だと思っていた。人の顔を並べれば良いものではない、これは企業のもつ病の一つではないのか。話し合いという形をとったことで、責任の所在をあいまいにしてしまうやり方ではないかと、悪しき風習だと思っていたのだが。

「しかし、実は会社の会議とは、素晴らしいものだったのか」

 少なくとも、あそこには秩序と静寂があった。

無力と脱力、虚無と倦怠が広志を侵食し、集会は『崩壊』から『混沌』へと移り変わっていた。

 最前列、広志の目の前で、主婦二人が怒鳴り合い、つかみ合いの喧嘩をしている。

それをよそに、歩き回る住人たち。花咲く、会合とは関係ない会話。

「あら、イノウエくんのお母さん!」

「やだ、お久しぶりぃ」

「おお、ツルさん、最近碁会所でお会いしませんねえ、心配しとったんですわ」

「いやあ、面目ない。カゼを引いとりましてな……」

 カオスの中で、居眠りしているものもいる。

 夜食なのか、おにぎりを取り出す老婆たち。仲間内で回されているミカンとお茶。

 まだまだ続く怒鳴り合い。

「うるさい! このキチガイババア!」「だまれ、死にぞこない!」

 すでに、会合という形は失われた。広志は思わず天井を見上げた。

……こんな町、コロニーでも落とされて壊滅してしまえ。

良い案が浮かぶ。

いっそ『人喰い人種がいる町』で町おこしでもすればどうだ。

ふと、虚無が混じったニヒルな笑みが浮かんだ


結局、自治会の会合は徒労以前、時間の無駄以上だった。それは徒労ではなく虚無と絶望、時間の無駄ではなくて腐敗だった。精神は不毛の荒野、魂は泥沼の中に沈んだ。

 真っ先に広志は集会所から出た。背後からお疲れ様、と聞こえたが、広志は聞こえないふりをした。

 時刻は二十一時を回っている。広志はさっさと家に向かおうとした。妻の里美が夕食を置いて待っているはずだ。

 携帯が振動する。里美だった。遅いと心配しているのだろう。

「ああ、母さん。もしもし、今終わった、すぐ帰る……」

『あなた! 秀が家を出たのよ!』

 携帯が怒鳴り声で突き破られた。

「な、なななんだと、家出? こんな時にか、何があった! 喧嘩か?」

『本屋よ本屋!』

「……ほんや?」

『あの子ったら、三〇分くらい前に、将棋と囲碁雑誌を買いに外に出たのよ! 暗くなったら外出禁止だって、何度言っても聞きやしない! お父さん、あのバカを殴り倒して、首根っこ引きずって帰ってきてちょうだい。帰ってきたら、いくら理屈こねくり回したって、パンも焼けない事を体に叩き込んでやる!』

 妻の声を聞きながら、佇む広志の背広が引っ張られた。広志は振り向いた。

 秀だった。

「母さん、心配するな。一緒に帰る」

 囲碁と将棋の雑誌は、駅前の書店には置いていないので、家から少し離れた集会所近くの本屋を秀は利用している。周辺は住宅地なので、ガーデニングや囲碁、NHK講座など、趣味系のジャンルが充実しているのだ。

「お前、ここでずっと待っていたのか?」

「そうだよ。集会所の中でお父さんを待っていた。気が付かなかったでしょ」

 二人は、川べりを歩いた。

川べりには人気が無い。そして住宅地からの直線コースではなく、迂回する帰途だが、里美の怒り狂いように、頭を冷やさせる時間を稼ごうという目論見だった。

 民家とは土手を挟み、生活音も光も遠い。陸橋を渡る電車と、高速道路が、遠くから低い音を立てていた。

「集会所の中なら安全だから、本を買ったらお父さんと一緒に帰って来るって、お母さんには何度もそう言ったんだけどね」

「めちゃくちゃ怒っているぞ」

「理不尽だよ。現に、こうやってちゃんとお父さんと一緒に帰っているじゃないか」

 何をそんなに怒っているんだよと不満顔の秀を、広志は見下ろした。

「この場合、安全かどうかよりも、親の言いつけを聞かない事にお母さんは怒っているんだ」

「安全対策は間違っていない」

「対策云々の問題じゃあない。子供である内は、中身はどうであれ、大人の言う事を聞く心構えが必要だ」

 秀が、父親を見上げた。どこか冷えた目だった。

「相手が、あの集会所の大人であっても?」

 広志はたじろいだ。あの集会は大人たちのシュウカイではない、醜怪と醜態だった。子供に見せてはならない場面だ。正に一八歳未満禁止、エロと性教育ではなく、大人の威信崩壊という悪影響を我が子に及ぼしてしまった。

 ぷいと秀が横を向いた。

「あんな大人相手じゃ、お父さんが大変だ」

「だが、お前はお母さんを心配させたことは変わりない。帰ったら謝りなさい」

 お母さんは、本気で怒ったらお前が想像する以上に怖いんだぞと、広志は言いかけてやめた。その時まで知らなくて良いこともあるし、母親に怯える父親なんて、権威に係る。

二人は歩く。川の水が流れる、ざあざあという音。さくさくと二人の足音が夜に吸い込まれる。

 向こう岸に架けられた橋。まだ深夜でもないのに、車も人も通っていない橋は廃墟にも似ていた。

 風に乗って、土手に生える雑草が揺れる。

 背が高い草が揺れるさまは、どこかに何者かが潜んでいるようだ。広志は死体遺棄事件を思い出す。

 秀の足が止まった。

「おい、秀。どうした」

 土手から河岸を見下ろす秀の肩から、川面へ広志は視線を移す。

「何を見ているんだ?」

「人がいる」

 秀は、川岸から目を離さずに言った。その通りだった。

 黒い影が、川岸で何か蠢いている。耳を澄ませると、川の流れの音に、異音が混じる。

「あの人、川の中に何か捨ててない?」

 秀が小声で言った。

 広志は目を凝らした。黒い影の足元に、バッグのようなものがある。そこから何かを掴みだし、川に放り投げている。

 いくつもの水柱が立っていた。捨てられているものは、長さの差こそあれ、棒のような、白っぽいものだ。

 全て捨て終えたらしい、川べりに立ち上がった人影に、広志は叫んだ。

「おい、キミ! 何を捨てた?」

 驚いたように、人影がこちらを見た。月明りがその顔を照らした。

 少年だった。まだ高校生くらいだ。

 意外なほど顔は整っている。普通の少年の姿に少し広志は戸惑ったが、歩調を速めて川岸に下りて近寄った。

 秀が後ろから父親に続く。

広志は少年に向かって、声をやや上げた。

「何を捨てていたかは知らないが、ここは川だ。何を捨てても不法投棄だ、それはイカン」

「……」

 少年が広志を見る。

 視線がぶつかる。

「何を……」

笑っているんだ。少年の目を見た瞬間、そう言いかけた広志の本能は、何か異を唱えた。

 それは、温度の無い笑いだった。喜怒哀楽の感情が入った笑いじゃない。

人の感情が抜け落ちている。それは普通の笑いとは異なる不吉さをたたえている。

 広志の背中がざわりと、恐怖で舐められた。

しかし、秀がいる。広志は父親の自負を立て直した。

「今すぐ回収しろとは言いたいが……」

 広志は、水面を見た。黒い川の流れは、すでに少年のゴミを飲み込んでいる。水深もある川だった。回収は無理だ。

 さあ、どうしようか、広志は次の言葉に悩んだ瞬間だった。

「掛井さんじゃないか」

 秀の声。広志は思わず、息子と少年を交互に見比べた。

「同じ町内の人だよ。お姉ちゃんの中学の先輩」

 少年は、無言で秀を見やった。

「ああ」

 接点と正体が分かると、少年の笑顔に対する不吉な感覚が消えた。そうなるといつか聞かされた『娘の中学を卒業した掛井先輩』のデータが浮かぶ。

そうそう、真理があこがれていたのがこの少年か。女子から人気があるのに、バレンタインにもらったはずのチョコが、何者かによって盗まれて彼の手には一つも渡らず、プレゼントは校舎裏で捨てられる嫌がらせを受けていたんだ。

おまけに、本当は進学校を受験するはずだったのに、事故に遭って志望とは違う高校へ進学したんだ。里美が『不運ってこの事ねえ』と同情していた。でも『人生塞翁が馬っていうし』とも言っていたが、結局彼はグレて高校を中退、そして今はニートか。

 広志は、深い同情をおぼえた。どこの集団にも属すことが出来ない、ニートの深夜徘徊はよくある話だ。

人食いと集団発狂に怯え、夜は閉じこもっている町中だというのに、それでも彷徨わずにはいられない孤独な境遇には、同情以外何物でもない。

同時にさっきの集会を思い出した。そうだ、おまけにお母さんのゴミ出しが、町内のうるさいオババから文句をつけられているのだ。

しかも、あのオババは掛井家のゴミを暴こうとしているのだ。

「もしかして……お母さんの手伝いか」

 広志は、彼の川の不法投棄の理由に納得した。

 そうだったのか、ゴミを暴かれるくらいなら、川に流してしまえと思ったのだ。

「母親想いだな」

 広志はしみじみと少年……掛井得也を見た。

「しかし、不法投棄はやはりイカン。ゴミの監視バアさんから、お母さんを助けたい君の気持ちは尊重するが、これは環境破壊につながる。今回はもう見逃すが、今後はもうしないと約束してくれ」

 広志は秀の肩を抱いた。

「もう家に帰りなさい。この町の事態を知っているだろう。親御さんが心配しているぞ。それから、ゴミの監視バアさんは私の方から注意してやめさせよう。それでいいか?」

 得也の口が動いた。

「二匹か。腹はまだ減ってないけど、食えないことも無い」

「……何言っているんだ?」

 その時、広志は秀の肩が震えているのに気が付いた。両手でぎゅっと本の紙袋を抱きしめている。顔を覗き込んだ。

「どうした、秀」

一歩、得也が踏み出た。

 広志の背広を掴み、秀が後退した「おとう、さん……」

 それは、突然だった。

巨大な水音。

 向こう岸から何かが川に飛び込み、怪獣のような水柱を上げるのを、得也の肩越しに広志は目撃した。水しぶきが顔や背広に飛んだ。

 得也が後ろを振り向いた。

 ごぼごぼと、水の泡が音を立てる。

 息を呑み、広志は秀を背中に回した。

 黒い水面が盛り上がった。それは川を突き破って出現した。頭から水が流れ落ち、わかめのようなものが、頭上から貼りついている。

 ヒト? 広志の視覚情報は、すぐさま脳に回ったが、状況判断と人生の蓄積データがそれを否定しかけた。しかし、次の段階でそれはすぐさま回答を出した。

 怪獣が吠えた。

どぐやあああああああ。

怪獣はざぶざぶと岸に向かってくる。頭から下が徐々に表れるにつれ、その巨大なフォルムと体型に、広志は言葉を失った。

「え、得也って言った?」

 広志の背後にいる、秀の声が呆けた。

「掛井さん、ねえ、あれ、掛井さん知り合い?」

どぐやああああああ、と咆哮は轟いた。それは確かに、人間の声帯だった。

 得也が硬直している。初めて得也が感情を表に出し、呻き声を上げた。

「まさか、菅田……?」

「何だ、アレは掛井君の知り合いか?」

「え? あれ、菅田さんなの?」 

 菅田、というと……秀の名ざしによって、広志の脳内名簿が頁をめくる。あの女子高生だ、確か名前は菅田梨恵。あの瀬川高校の生き残り、病院に収容されているはずだ。

「退院したのか……はっしまった、見舞金!」

 退院してから見舞金なんて、実にタイミングが間抜けになってしまったと、広志は内心焦った。今からでもいい、金を渡さなくてはと、顔にかかった水しぶきを拭くのも忘れ、背広の内ポケットを探る。その時だった。

「うわぁぁっ」

 秀の悲鳴。

 広志は見た。満月を背にして浮かぶ、跳躍した巨大なシルエット。

 こっちへ落下してくる。見舞金を忘れて、本能が危険サイレンを鳴らす。思考より先に広志の体が反応した。硬直している得也の襟もとに手を伸ばし、ひっつかんで思い切り引いた。

 勢い余って、広志と得也は重なるように転倒した。地響きを立てて、それはさっきまで二人がいた位置に着地した。

 大地が震えた。

「だ、大丈夫か?」 

「畜生……」

得也が歯ぎしりする。広志は梨恵に向かって怒った。

「こら、危ないじゃないか!」

 梨恵の顔が上がった。目が赤く光る『菅田さん』に、広志は思わず唾を飲み込んだ。

 確か女子高生だと聞いている。だが、あの体型を女子高生といって良いのか。

 子供から大人へ向かう、不安定で幻想的な存在、それが一〇代の美しさだ。不安定で欠落感を抱えている、繊細な時代、それが少女というものだろう。

 しかし、目の前にいる者は幻想も何も「カロリーオーバー」その現実に尽きる、末広がりの体型。肉の段差を浮き彫りにする、濡れて貼りついた衣服。人間の皮膚は、脂肪を蓄えてどこまで伸びるのか、限界の実験をしているかのような肉の集合体。

 少女ではない声で、菅田梨恵が得也の名を唸った。

 得也の顔が引き攣った。

「くそ……どうせ喰ってもあんなクソ不味いなら、やっぱり殺しておけばよかった」

「ちょっと待ちたまえ、掛井君「くった」って、それは乙女の純潔を……しかもクソ不味いとか殺すとは……おい、それでも男か! 不実にも度が過ぎる!」

「うるせえな! ぐだぐだ言うんじゃねえよ!」

「いや、娘を持つ父親として、君のような男を許すわけにはいかん。確かに性欲に流されやすいのが男の性だ、しかし男には責任感というものがあり、いくらあんなの、いや、女の子を思い詰めさせるなんて、畜生だぞ!」

「訳の分からないご託を並べるな! 何が言いたいんだキサマ!」

「とぐやあああああーっ」

「お父さん! 危ない!」

 背後から秀の悲鳴。目前から迫る地響きに広志は気が付いた。怪獣、いや菅田梨恵が猛進してくる。

「キミ、気持ちは分かるが、やめなさい!」

 いくら怪獣体型でも、不実な男に弄ばれた被害者だ。だからといって、男への復讐に目がくらんではいけない。

「まだ若いんだ! 世界の半分は男だぞ、こんなけしからん男は早く忘れなさい!」

「どぐやああっあんたがぐいだいぃぃっ」

言葉は届かない。巨体は大型トラックのように、踏み潰さんばかりに迫りくる。

広志は横に飛びのこうとしたが、もう遅い。

 迫り狂う威圧感。踏み潰される予感に広志は思わず目を閉じた。しかし、悲鳴は隣で上がった。鈍い音がした。

「うあああっ」

「か、掛井君!」

 梨恵の巨体に跳ね飛ばされ、空で放物線を描く得也を広志は見た。得也は川岸から、土手に落下した。

「お父さん!」

「秀、お前は逃げろ!」

 雄叫びを上げて、梨恵が土手へ向かう。広志も得也の落下地点の土手に駆け上がった。

「くっそ、誰もこの騒ぎに気が付かんのか!」

 土手から見える、民家の灯へ広志は怒鳴ったが、事件の影響で日没には通行人はいなくなる。人気のない川べりなら尚更で、立て続けに起きた不解な出来事に、住民たちは窓を閉め切り、我が家から外を遮断していた。

警察へ通報するために、携帯を取り出す時間はない。警察は駅前をあんなにうろうろしているのに、ここには誰一人いない。

「掛井君!」

 土手の草の間から、得也がゆらゆらと上半身を起こす。その直線上に梨恵がいた。不気味な呼吸音と、生臭い匂いが夜の中に流れた。

得也を発見した梨恵の全身から、黒い歓喜の炎がほとばしる。全身で得也に襲い掛かった。得也の上半身が再び土手の草むらに押し倒された。

 どぐやあああと、梨恵が吼えた。

「ぐわぜろおおおお」

「きさまっ」

 迫る梨恵の顔を両手で押し返しながら、得也が絶叫した。

「もう殺してやる。死ね!」

「あんだじゃなぎゃ、いやだあっ」

 のしかかる巨体の下に沈む、得也の体に広志は戦慄した。やばい、圧死する。

「キミ、やめなさい!」

 広志は背後から、梨恵を得也から引きはがそうと飛びついた。その瞬間、梨恵から立ち上る、どぶと腐敗が混じった匂いに息が詰まった。

「じゃまずるなっ」

 グローブのような手が広志をなぎ払う。吹っ飛ばされて、広志は草むらに転がった。尻をしたたかに地面にぶつけた。

 その時「ごぶぅっ」と鈍い悲鳴が上がった。顔を上げた広志の目に、下から得也に蹴り上げられて、ロケットのように空を飛ぶ梨恵が映った。

 げほげほと咽喉を押さえて咳き込みながら、得也がふらふらと立ち上がろうとする。広志は急いで立ち上がり、得也を助け起こした。

厳しく広志は諭した。

「頭を冷やしてから、日を改めて彼女と誠意を持って話し合いなさい。痴話げんかの果てに殺し合いなんて、高校生がするものではない」

「ふざけたこと言うな! 痴話喧嘩じゃねえよ!」

「お父さん!」

 秀の声。いつの間にか、秀が土手の上で二人を見下ろしていた。

「早く! こっち向かってくるよ!」

 土手を揺るがす音。斜面を駆け上がって来る怪影。

 噴出する怒気に、思わず広志はたじろいだ。得也が息を呑む。

 逃げろとばかりに背中を向けるが、滑りやすい斜面に足を取られてしまう。秀がこっちへ向かってきた。

「秀、逃げろ!」

 はねられ、落下したダメージで動きが鈍い得也の腕を取りながら、広志は怒鳴った。だが秀は二人の元に走って来る。二人の背後に梨恵が迫る。

 秀が、二人と梨恵の間に割って入った。手にしたものを、梨恵に向けた。

 スプレーだった。噴出した中身が、まともに梨恵の顔を直撃した。

「ぶぎゃあああああっ」

 梨恵が顔を押さえ、のけ反った。そして勢い余って転倒し、苦悶に吼えながら手を転がり落ちていく。

「……秀、それは?」

「登山グッズのクマ撃退用スプレーだよ。こんな時だもん。護身用に持って来た」

 川岸で、草をなぎ倒し、踏み潰しながらブルドーザーのように梨恵が転がっている。

 その隙に、三人は逃げ出した。


父と息子は、ひたすら走った。

 あの『菅田さん』から、少しでも離れるために、そしてその恐るべき幻影から逃れるために、がむしゃらに走った。

 一緒に逃げ出したはずの少年の姿が、途中で消えていることも、もうどうでも良かった。

 それよりも、今自分と一緒に逃げている息子が、父が共に走っているのか、一緒に助かることが出来るのか、それだけをお互いに気にかけながら、窓からうつろに光が漏れる家々の前を、静寂の夜を走り抜けた。


 その窓の明かりの向こうには、結婚したばかりの夫を、包丁で削る新妻がいた。

 料理好きな新妻は、新婚旅行先で購入したドイツ製の包丁を、自分で研ぎ、手入れをするほど大事にしていた。この包丁で色々と食事を作り、夫婦で味わった。

 今の新妻にとって、この包丁をふるうに一番ふさわしい食材は夫だった。理性を失い、知能を壊すほどの美肉を、新妻は包丁で削りながら口に入れている。


ある家の母親は、支配者だった。

 その家には、社会人と大学生になった姉妹がいる。しかし、母親は育児ではなく、支配によって娘二人を成長させた。父親は家庭の傍観者だった。

姉は、恋人と無理矢理別れさせられた。妹は、第一志望の大学を落ちたことで、人生の落伍者のレッテルを貼られた。母親の独裁と、姉妹二人の苦悩を見ているはずの父親は、最後まで家庭の置物だった。

 今、姉妹は二人きりで晩餐を楽しんでいる。目の前にある御馳走そのものが、二人にとって自由の象徴だった。姉妹は我を忘れて食事を頬張る。

姉は母の死肉を頬張り、妹は父を解体していた。

 

 今、男は喰われていた。

 男は喰われながら、自分が何故こんな目に合っているのだと、全く分からないでいる。

 水晶の谷に住むドラゴンを、画面の向こうにいるパーティたちと力を合わせてようやく倒し、レベルを上げた。アイテムの『光のかけら』を手に入れて、城下町に戻ったところで、生身の腹が減ったので、一階にいる母親に、ベルを鳴らして合図した。

食事を持って上がってくるはずだ。それを待っていたが、なかなか上がってこない。苛立ちが噴火した瞬間、母親がのっそりとドアから顔を出した。食事のトレイは無かった。

「おい、メシ持って来いって命令しただろうが!」

いつものように殴ればいい。そうすればまた、母親を『リセット』できるだろうと思ったので、男は立ち上がろうとした。そしてよろめいた。部屋から出ないばかりか、パソコンとゲームの前で座りっぱなしの足の筋肉は、脂肪と共に退化していた。

 母親が、空を飛んで襲い掛かってきた。手に牛刀があった。

ウソだろ、おいと叫ぶ暇も無かった。牛刀は嵐の中の船のようにグルグル振り回された。男は成すすべも無かった。肉が飛び散った。

 そして、今はまるで骨格標本だと、暗い窓のガラスに映る己の姿に男は思う。生首だけが乗っている骨格標本だ。こんな姿は嫌だ、早く炎の鎧を身に着けて、魔導士に会わないといけないのに。

窓の外に向かって男は叫ぶが、もう声帯は無くなっている。


 まるで、世界の終末の夜だと思いながら、広志は走った。家の明かりはついているが、声は聞こえない、いや、耳をすませる余裕もない。

 こんな時ではあるが、父親をリードしている秀の俊足に安心する。正座して囲碁、胡坐を組んで将棋、椅子に座って読書の姿しか見たことはないが、ここまで走れるとは。

 公園を突っ切った。植え込みの影で何か黒いものが転がっている気がしたが、構っていられなかった。地面に何か衣服が落ちていたが、ベンチに拾い上げてベンチに置く余裕はない。多分、誰かの忘れ物だ、朝になれば持ち主が取りにくるだろう。

 目の前の街灯に、自宅のマンションが浮かび上がった。秀がエントランスに飛び込んだ瞬間、広志は思わず涙を流しかけた。

 エレベーターなんか待っている余裕はない。親子二段飛ばしで階段を駆け抜け、四階の部屋に向かう。

 到着した瞬間、安堵のあまり声が決壊した。

「おかあさん! 開けて!」

「かーさん、あけてくれっ」

 開いたドアの中に、広志は秀とひしと抱き合い、玄関に転がり入った。

 助かった……万感の思いだった。言葉はない、今は要らない。

「おかえり」

 広志は秀を抱きしめたまま飛び上がった。

 父と息子の魂の抱擁の向こうに、高校時代の愛用品、木刀で肩を叩きつつ、仁王立ちに立っている里美がいる。

 背筋に氷の針が突き刺さった。

「待て里美! 今夜は勘弁してやってくれ、秀のおかげで俺は生還出来たんだ!」

「お母さん、折檻は手でたたくか物で殴るかで、しつけと虐待の分かれ目になるんだよ」

「おだまり! いくら理屈こね回そうが、正当性をのたまおうが、所詮は親の支配下にあることを体で分からせてやる!」

「お母さん、待って待って! 女は暴力を正しく使いなさいって、いつも言っているじゃん! お父さん、秀、姉ちゃんがお母さんを押さえているから、外に出て逃げろ!」

 外に出ろ、その言葉に、突如二人の脊髄が反射した。広志は反射的に秀の頭を押さえつけ、秀もそのまま頭を下げて叫んだ。

「ごめんなさい!」


             ※

 何て夜だ。

 得也は走った。ひたすら走った。

 後を追ってくる巨大な影を恐れ、後ろを何度も振り返らずにはいられなかった。自分の家の敷地に飛び込み、閂をかけた。

裏口のドアにもたれて、爆発する心臓をなだめる。汗を滴らせながらも、全身がセンサーのように、見えない相手の息遣いを、気配を感じ取ろうとしている。

これが恐怖という感情だと、得也は気が付いた。

「なんてこった」

 だが、もう姿は見えない。

 とにかく、今は逃げ切れたようだ。得也は安堵し、裏口のドアノブを開けて家に入った。

 台所は真っ暗だった。だが、静かな息遣いが聞こえる。

「かえったの……? とくや」

 母親の声だった。

 目が暗闇に慣れてくると、床の上に座り込んでいる母親の黒い影が浮かび上がって来た。

 瓶や保存食が床の上に出されている。

得也は、父親を完食出来なかった事を思い出した。どうやら食べ残しを、母親は収納庫の中に入れたらしい。

「ほら、この中に入れちゃったわよ……ははは、これでもう、オイタはダメ、分かったわね…」

 狂った音程で歌うような、母親の呪詛が流れる。

「だめじゃないの、おとうさんころしちゃ……しかも、食べちゃダメでしょ、おなか壊すわよ、わるいこねええ」

 母親の不在中、父親が部屋に勝手に入って来た。うるさいから椅子で殴り殺した。

 ちょうど腹が減っていた。そう言えばコイツも肉だなと思い出し、台所の包丁を拝借して切り分けて食べていた。

「あんまり美味くねえな、コイツ」

その時は無理して食べるほど空腹ではなく、そして食料の調達も順調だった

 食べ残しても仕方がない。だが、あまり食べる気もしなくなる味に、どうしようかと独り言ちていたら、これもまた母親が勝手に入って来たのだ。

 父親は、まだ身も内臓もついていたが、もう食べるのは御免だった。

 文字通り、眼を剥いて立ち尽くす母親に『捨てておけ』得也は命じ、骨の食べ残しを捨てるために川に出向いたのだが。

「昔は、あんなにかわいかったのにねえ」

 うつろな明るさで、母親が歌う。

「とーっても自慢だったのよお、勉強でも運動でも、何でも出来るし口ごたえもしないし、ママはねえ、あんたは大きくなったら一流の大学に行って、絶対に外交官とか、そんな一流の仕事につくって思っていたのよお。だって、あんたって絶対に出来る子だもん、何でもできて、くちごたえもしなくて……ままはねえ……」

 得也はそっと台所の小窓を覗いた。

 しんとした裏庭に、人の気配はない。

 得也は息を吐いた。もし隠れていても、あの巨体ならいれば直ぐに分かる。

「ははははは……あんたって、ほんとにやくたたず、ばっかじゃないの、だからいったでしょ、なにが静観だ、このバカ。手遅れって言葉を知らないのかばーか。見守るっていって、厭な事先送りにしていただけじゃないの。そんな腑抜けだから、息子に殺されて、しかも食べられちゃうんだ。なーにがチチオヤだ、チチオヤなんか、その辺にいくらでも転がっているじゃんか。お前なんかトクヤのエサだ」

 得也は息を吐き、小窓から離れた。

 まさか、あいつと遭遇するとは。

 思考から、心情からも、完全に今まで排除していた存在だった。

 菅田梨恵……隣の家の女、いや、女というレッテルを張るのも嫌なほどだ。同級生という分類項目からも、できれば削除したい。

「ここから出てきたら駄目よ、あなた。とくやが捕まっちゃうでしょ」

 床を叩きながら笑っている。あれもいつかは始末する必要があるな。得也は母親の黒い影を見やった。

 しかし、急ぐことは無い。

 それよりも、あいつだ。得也は無意識に頭をかきむしった。

 邪魔者、目障り、天敵という呼び名を使えば、お互いに向かい合っている関係になってしまう。嫌いだといえば、ある種特別な関係だ。

出来れば、目の前から、記憶からも消したい。それがあの菅田梨恵という存在だった。

 忌まわしい、それが形容詞として一番しっくりくる。

得也の脳裏に、消したくとも染み込んで取れない、黒い記憶が蘇る。いつから目につき始めたのか、どの方向を見ても、あの巨体は自分の視界の中に、無理やり体をねじ込んできた。

目の前にいなければ、禍々しい視線が背中に突き刺さる。それは、肉食獣が草食動物を狙うとも言い難い、粘液が滴るような感覚だった。

「殺しておけば、良かった……」

 最初に遭った廃屋の出来事を思い出すと、心の奥から、いや、臓腑の中から得也は悔いた。あの首筋に噛みついた時に舌と口腔に広がった味を思い出すと、それだけで吐き気がする。

あれも肉だと思ったのが間違いだった。そもそも、あんな人外を肉と思うのが間違いだった。どこまでも規格外なのだ。あの脂臭に汚染された肉と血など、一瞬であれ、喰えるかもと錯覚した自分が憎い。

 おまけに、あのせいで食料保管庫を失った。人目につかないように、肉を自宅に持ち込むのも苦労した。

 あの化け物が、自分にとって全ての凶事を背負っている。

あの時殺していれば……

 床下にある収納庫を叩きながら、母親は笑い続けている。

父親か。ふと、得也は川べりで出会った男と子供を思い出す。そう言えば、あの男も父親らしい。

得也は、笑い続ける母親を蹴った。

笑いながら、母親は壁に激突し、崩れ落ちてようやく静かになった。

「うるせえんだよ」

 何でも出来たから、それが何になる。

 得也は思う。教師の言う事をぼんやり聞いていれば分かること、その答えを紙に書けば点数が取れた。運動も何もかも、そんな風にこなしてきた。

自分にとってそれだけのことに、それを見た他人が、何故自分を差し置いて熱狂するのか。何故自分の人生に、生活に口をはさんでくるのか。その温度差によって、周囲がバカに見えて仕方がなかった。放っておいてくれと思っていた。

 特にやりたい事も好きな事も無い、

 何も考えず、言われたことを只こなす、ただそれだけだ。

得也にとっては当たり前で、価値はない。それなのに周囲が勝手に目を見張り、持ち上げて熱狂し、期待し、自分の願望を押しつけてくる。「君なら出来る」その言葉がどんなに暑苦しかったことか。

周囲に対する関心なんて無かった。向こうが勝手に関心を寄せてくるのだから、別にこちらが持つ必要は無い。

 高校も中退したが、悲観も何もなかった。ただ、暑苦しいことを言う奴が減った、それだけだった。

 頭の中は、いつもそう乾いていた。

時間だけが進む、それが自分の人生なのだと、ずっとそう思っていたが、血の匂いの中でそれは覆された。本能は快楽になぎ倒され、今までの人生観は炎に焼かれ、違うものに生まれ変わった。

 床に転がって動かない母親に、得也は言葉を投げ捨てた。

「俺の邪魔をするな」

悟った。俺はこれだと。獲物の断絶魔の表情、その後に訪れる「死」を貪り喰らう時、これが生きる、という事だと体が震える。

喰った人間の顔が浮かび上がる。

 女もいた、男もいた。年齢は若いのもいれば、そうでもないのもいた。だがどうでも良い、骨格に肉がついていればいい、その中に内臓があればそれで十分だった。

 殺さないでくれ、こっちにこないで、ひとごろし。

 悲鳴や哀願は、得也にとって只の音声だった。

 ねっとりとした、官能的なのど越しの血液。飲んだ瞬間、その液体に包まれていた生命力は、得也と一体化する。そして肉と内臓は、濃淡に歯ごたえ、そして甘み。舌で溶ける脂の濃厚さも、個々で味わいが違う。いくら食べても飽きることがなく、探求しても極めることが出来ない。こいつはどんな味だろうと、狩りする度に期待に震えるのだ。

今まで、石ころに等しかった他人という存在が、実は自分自身の生命と一体化するという事実と、その愉悦を与えてくれる。

 これが幸福というものだ。幸福とは、人間の原始的な本能を思うままに満足させる日々の事だ。生きる目的だ。

 ひたすら食う。それだけで満たされる。

 そして、幸せな飢えはまた訪れる。美肉はいくらでもある。尽きぬことは無い。

「俺の邪魔をするな」

 得也は繰り返した。

 これも食物連鎖の一部だ。人間も牛もブタも、鳥と同じたんぱく質の塊に過ぎない。

しかし、川辺で遭った出来事に本能がざわついている。

 以前は、視界に割り込むだけのデブだった。しかし、今は視界の前に現れ、襲ってくる巨大な怪物だ。その危険さは、以前とは全く比較にならない。

自分に向けられた凶悪な欲望を、そのまま受け止めたら身の破滅だと、厭でも分かる。

 次にあったら殺す時だと、得也は決意を心に釘打った。いかなる時、どんなときであろうとも、必ず殺す。

 必ず殺す、心の中で何度も得也は決意した。

 その決意こそが、得也にとっての「恐怖」という感情だった。



 

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