第4話 流血病棟

龍和会セントラル病院は、外科をはじめとして七つの診療科があり、医師と職員は合わせて一〇〇名、ベッド数は二〇〇ある。個人経営の中では大規模な病院だった。

建て替えたばかりの白い病棟は、広い敷地の中でコの字型に広がっている。ゆとりのある駐車場を併設し、患者や看護人が憩う中庭は、まるで公園のようにベンチが置かれ、花壇や木々が植えられている。

しかし、本館から押しやられるように、敷地の隅に建っている建物がある。

この病院の精神病棟だった。本館とは渡り廊下でつながれているが、とってつけたように、白い積み木のように、外観も味気ない。

 建物の中に入れば、ベビーピンクやベージュを基調にした、優しい色合いの壁や廊下が続く。日差しも入る。

 しかし、窓は他の病棟よりも明らかに小さい。そして、銀色の窓枠には冷ややかに、鉄格子が入っていた。この病棟には、二〇人の入院患者がいる。しかし、他の病棟のように、歩き回る患者も見舞客の姿もない。

 気配はあるのに、音もなく、静寂だけが重い。病棟を歩くたびに、医師の堤は思う。

……死に向かう病を診る場所ではないのに、ここはどこか『死の世界』に共通している。

 午前の回診だった。堤は、屈強な三人の看護士と共に、最上階、奥の病室の前で立ち止まった。

まず、堤を後ろに下がらせ、看護士の一人が声をかけた。

「……開けますよ」

 電子キーの暗証番号を押す。小さな電子音と共に、ロックが解除されて重いドアが開く。

 その奥にもう一つ、鉄格子のドア。他の病室と違い、この部屋の出入り口のドアは二重構造になっている。

 鉄格子のドアは鍵式だった。その錠に看護士の手がかかった瞬間、咆哮が部屋を揺るがした。看護士が慌てて手をひっこめ、そして気が付いたように堤に謝罪した。

「す、すいません」

 堤は目を細めた。泣くような、吠えるような、意味のある無しすら分からない、音程の狂った音声は、正常な神経を逆撫でする。

「まるで、獣だな」堤はひとりごちた。

 堤は、三人の看護士を従えて部屋に入った。広さは安いビジネスホテルほど。中央に置かれたベッドも狭い。

 しかし、壁は頭を打ちつける自傷を防ぐ工夫、全体にウレタンが張られている。色彩は精神的に最も落ち着くとされる茶系をベースにして、刺激的な色彩はどこにもない。

天井には、患者の様子を逐一見張るために監視カメラ。

 そして、数々の医療機器や点滴などの器具が運び込まれ、患者へ向かって管や線が伸びている。

 ベッドからはみ出るほどの巨体は、毛布で包まれてベルトで固定されていた。堤はふいに、患者に対して小包を連想したが、口には出さなかった。

「菅田梨恵さん、私の言葉が分かりますか?」

 猛獣のように唸る相手は、堤の顔すら見ようとしない。

 目を開いているので、意識があるのは確実だったが、出す声は呻き声と咆哮だけだった。

言語障害や脳障害を起こしている可能性もある。

堤は、この患者のカルテを見た。

三日前に、緊急搬送されてきたときの状況が記された、日誌と記録を何度も読み、当直の医師からも直に聞いた。それでも頭が受けつけない……咽喉に異物を詰まらせて、呼吸困難に陥り、意識不明。そして、その気管を塞いでいたのは、人間の手首。

「……三日目でまだこの状態か……喋ることも出来ないのなら、脳内を検査する必要があるな。検査部へ、MRIの予約を頼む」

 体温を測りながら、看護士が言った。

「でも何か、単語っぽい言葉も喋ることがあるんですよ『トコヤ』か『トクヤ』だか、人の名前みたいな、そんな感じ」

「うーん」

――心電図、体温などは異常なし。

 堤は、この患者『菅田梨恵』をじっと見つめた。

 ベッドに拘束された梨恵は、毛布を嚙み千切るようにもがき、真黒い目で堤を見返す。しかし、その目は堤を見ていない。

 まるで、動物の目だと思う。

どんなに思い精神疾患の人間でも、目の奥には人間性があるのだが、この濁った目には、知性や理性が見当たらない。隣の家で飼われている柴犬のケンタの方が、よほど賢いし、愛らしいなどと思ってしまう。

……こいつが人を喰ったのか。

「先生、あんまり近づかないほうが良いです」

 若い看護士の永村が声をかけて来た。

「こないだ、俺に噛みつこうとしたんですよ。喰いちぎられるかも」

 冗談じゃない。梨恵を覗き込んでいた堤は、慌てて体を離した。


菅田梨恵が、咽喉に異物を詰まらせた呼吸困難によって、この龍和会セントラル病院に救急搬送されてきて三日目。

菅田梨恵の咽喉から取り出された異物が、人間の手首であると分かった瞬間に、梨恵は精神病棟に回された。関連していた事件が、公立高校で起きた「大量殺人と集団自殺」という異常性もあった。

 マスコミ対策に家族対応で、病院の事務部も現場も慌しい。

『人喰い女子高生、俺の自宅近所の病院に入院しているらしいってヨ!』

『猛獣の檻じゃないのか』

『ぜひ行って来て欲しい。その目で現場を確かめてくれ。レポきぼんぬ』

『行ってきたよ……病院来ているじいちゃんばあちゃんと、マスゴミがロビーでぐちゃぐちゃ、警備員が大声張り上げて、大混乱。地獄の門が開いたようだった』

『その門より人喰い女が飛び出して、医療費を食いつぶす老人ども、世にウソ垂れ流すマスゴミを喰いまくってくれたら、世の問題一気に解決』

……巨大掲示板をはじめとするネット画面に、この病院の建物が晒されている。病院名はモザイクが入っているし、はっきりした住所までは分からないにしろ、背後の風景などを見れば、すぐ特定できる。

「あークソどもが」

職員詰所で、パソコンのネットサーフィンをしていた堤は、思い切り椅子の上でのけ反った。一人暮らしの部屋に帰れず、それどころかこの病棟からも出られない。

ずっと宿直室に泊まり込む羽目になったのは、野次馬根性を匿名という盾に守らせ、人の生活も人生も娯楽にしてしまう。無責任に物見高いコイツらのせいだ。

「あー、外に出たい! うんざりだ!」

 他のスタッフは、検査室や他所の見回りだった。見ている者はいないので、堤は隣の机の椅子を乱暴に足で蹴り飛ばした。

その時、ドアがノックされた。堤は怒鳴った。

「どーぞ!」

背広姿の初老の男が入ってきた。

病院総務部の部長、杉野だった。杉野は、二十才は年の離れた相手の堤へ、うやうやしく頭を下げた。

「杉野さんか。何の用です?」

「今夜のお食事を差し入れて来いと、ついでに様子を見て来いと、院長に頼まれましたので」

 差し入れです、と差し出した重箱の包みを、堤はひったくるように受取った。その乱暴さに、杉野が非難じみた声を出した。

「京都の料亭『四季旬』の若旦那に院長が頼み込んで、特別に作ってもらったお弁当ですよ」

「黒鯛のフリッターだろうが海老のウニ焼きだろうが、こんな場所で食ったって、味が消毒薬臭に汚染されるだけでしょ。どうせ酒も持ち込み禁止だ」

「まあ、それはね……」

「で、いつ、俺はこの病院から出られるんです?」

 うんざりと口にした言葉に、総務の虎、と異名を持つ杉野の目が鋭く光った。禿げあがった額の下の眼光が、堤を射抜く。

「この私が、この目で騒ぎが収まったと判断してからです。それまで先生は、この病棟から一歩も外に出ないように願います。今、マスコミの前に出たらもみくちゃにされますよ」

「……だろうな」

 ぶ然と堤はサンダル履きの足元に目を落とした。ここ三日、病棟から外に出るどころか、地面を踏んでさえいない。しかし、ネットやニュースを見る限り、まだまだ騒ぎは終わりそうもない。

当分家に帰れないかもしれないと、身の不運が染みる。

「まるで下は、地獄の門が開いたかのようです」

さっきのネットと同じ比喩に、堤は笑いかけた。

杉野はその笑いを、苦悩の色で制した。そして苦悩の色を湛えて杉野は続ける。

「日頃は、受付でおとなしく順番を待っている年寄りや病人たちの空間に、あの事件を取材せんがために、マスコミや報道が乱入して、総務の連中や警備の人間と衝突を起こしていますよ。病院じゃなくて、荒れ狂ったバーゲンセール会場です」

「おい、それ大丈夫か?」

 改めて、堤は慌てた。

「下手すりゃうちの評判が落ちる。病院の患者が減っちまう」

 堤はこの病院の単なる勤務医ではなく、この病院の経営者クループに名を連ねる身だ。病院の経営や存続に関わる問題は、自分にも関わってくる。

しかし、杉野の答えは予想に反していた。

「いや、来院患者は、事件以降かえって倍増しているんですよ。多分、ほとんどが野次馬根性で、この病院を覗きたいがためにやってきた、なんちゃって病人でしょうけどね」

「じゃあ、問題はないだろう?」

しかし、杉野の表情は暗い。堤は頭を傾げた。患者数が増えているのなら、経営上は有難いことではないのか?

「病院の受付前は、まるで野戦病院ですよ。秩序も規制もありゃしない、うねる群衆に占拠された広場です。それだけじゃない、一般人に紛れて、マスコミが病棟に潜入しています。先日、ロッカーから白衣が盗まれました。もしかしたら、敵は医者に変装しているかもしれません。気を緩めないでください、先生」

「脅かさないでくれ」

 堤は、思わず声に力を入れた。

「別に、マスコミは俺を暗殺しに来たわけじゃないだろ」

「分かっておられるとは思いますが、マスコミのターゲットは、あなたです」

杉野が、堤の顔を真正面から見据えた

「何せ、今ワイドショーやニュースだけではなく、海外にまでニュースが流れている、あの人喰い女子高生の主治医です」

「なりたくて手を挙げた覚えはないけどね」

 事件の夜遅く、突然叔父から個人用の携帯に連絡が入り、自宅に呼ばれたことを堤は思い出す。

 この杉野は、その夜、叔父の家の応接室に座っていた。

「お気持ちはそうかもしれません。ですが、院長先生はこの病院の秘密保持という正義を守るために、マスコミからこの病院を守るために、甥御である貴方を、あの女子高生の主治医に指名されたんですよ、堤先生」

「……」

「マスコミを避けるために、この病棟に一歩も出ずに身を隠し、行動範囲も娯楽も制限されるなんて、そりゃあご立腹の部分もあるでしょう。お若いんですからね。ですが、もう少しのご辛抱です、堤先生。東洋大から正式に書面連絡が来ました」

「本当か!」

「転院の承諾書さえもらえば、あの患者とこの状況、同時に縁切りですよ。ぜひ、穏当な方法で患者のご家族を説得なさって下さい」

「……俺がやるのか? 医科部長は? あいつが病棟の最高責任者だろ」

「医科部長は、ここはぜひ、院長先生に一任されている主治医に一任された方が良いと申されておりました」

 上司の保身に、堤は呆然となる。杉野は慇懃に頭を下げた。

「今、まさにこんな時です。あの患者の家族に、この話を切り出すのは困難かもしれませんが、文字通り、この病院の将来は堤先生、あなたに委ねられているのです。どうぞよろしく、期待しております」

 ふてぶてしいほど慇懃に、杉野は堤に頭を下げた。そして身をひるがえし、ドアへと向かう。憎々しいほど、静かにドアが閉められた。

 堤は、思い切り音を立てて、椅子に尻を叩きつけた。

「ああくそ、勝手言いやがって!」

 毛布です巻きにされて、ベッドに拘束されている女子高生。あの獣のような目、青黒い肌の、愚鈍な体型を思い浮かぶ。

 医者一族に生まれ、当然のように医大に進み、医師になったが、血を見るのは苦手だった。

 だから、手術のない精神科医を選択したのだ。病院経営にだって、さしたる野心はない。経営者グループの端っこに座ってつつがなく、安楽な身分をキープしよう、それくらいの人生設計だったというのに。

 それが、あんな患者をあてがわれる事態になるとは思わなかった。単なる殺人鬼どころか、人同士の共食いをした女子高生なんて、想像するだけでおぞましい。

 しかし、さっきの話で光明は見えた。辛抱はもう少しだと、気を取り直した堤はカルテを取り、添付されている書類を見つめた。

「――せんせー、お使いから戻りましたあ」

 気が付くと、看護士の永村が立っていた。堤のワイシャツの替えを持っていた。

「はい、クリーニング屋から戻って来ましたよ。大変ですね」

 病院と道を挟んで向かいにある、クリーニング屋さえも行けない身なのだ。情けない気分で、ビニールパッケージされたシャツを、堤は受け取った。

「下、ちょっとは沈静化しそうか?」

 わずかな希望を込めた質問だったが、あっさりと破壊された。

「当分無理ですよ」

「当分ってどれくらいだ? 三日? 一週間? それとも二十八日後か二十八週後か!」

 抑圧されているとはいえ、八つ当たりはみっともないと分かっていた。しかも相手は年下のスタッフ、看護士。それでも声を上げる堤に、永村は落ち着いていた。

「半年くらいで終われば、御の字ですよ」

「そんな」

「だって、人喰い動画見ました? 凄いですよ。閲覧注意どころか、悪夢注意! です」

 うええ、と吐くジェスチャーをする永村。

当然、堤だって見ている。自分の境遇に関わることなのだ。その辺りの情報は、ニュースからネットまで片っ端から当然見ている。

「あの、青空しか映っていない動画の奴か?」

「そうそう、事件で死んだ生徒が撮った、最後の動画」

 それは、あの事件の数分を記録したという動画だった。

 携帯端末はその時、録画を起動させたまま現場の屋上の床に落ちていた。遺品のカメラは青空を見上げ続ける。

青空に響く断絶魔と悲鳴。

蹴られて回る青空。

ソックスを履いた足がちらりと映る。青空を一瞬横切る顔、そして画面に散る血。

「つい見ちまったよ……俺は馬鹿だよ。後悔しているよ」

 思い出しただけで、堤の背中はにべったりと嫌悪感が貼りつく。

画像は青空だけ。殺人の直接的な画像はないが、殺されていく大勢の子供たちの声が、途切れなくオーケストラのように延々と続く。

「これこそが恐怖の真髄だって、人喰いと対談したいってロメロとヒミズが大絶賛のコメント残しているけどよ。何言っているんだよ、脳みそ鮮血に染まっているキチガイだぜ。お望みなら俺と役目を交代してやるってんだ」

「に、してもあいつ一人で、何人くらい食ったんでしょうね」

 半笑いを頬に浮かべて、永村は手近にあった椅子に腰を下ろした。

「最初に事件を聞いた時、俺、信じられなかったですよ。ですが、実際にあの患者見て思いました。あ、こりゃ人喰うわな、なんてね。何だよ、あれが女子高生? 母親は『うちの子がそんなもの口に入れるはずない! 信じられない』とか叫んでいたらしいけど、何でも口に入れるからあんな体型なんだろうって」

 大学を卒業したばかりで、一番若いせいか、永村の態度は時に不遜にうつる。しかし、今の堤に、それを諫める気は起きなかった。 

「しかもですねえ、人喰い鬼はあのでぶの子以外にもいるんじゃないかって、また騒ぎが起きているの、知ってます? 夕方のニュース見ましたか?」

「またかよ!」

 堤は声を上げた。

「あんなのまだいるのか? やめてくれよ、屋上の次は何だ?」

「廃屋で、大量の人間の骨と髪の毛つきの頭皮が見つかったってニュースですよ。一人や二人じゃなくて、七人分くらい。しかも腐敗して、骨だけ残ったってんじゃなくて、まるで喰われた鳥のモモ肉みたいな状態だったそうです。殺されて肉と内臓を喰われたんじゃないかって、さっそくネット住民騒いでますけどね」

「そういや、ちょっと前にもよく似た事件あったなあ……」

「ああ、ふ頭のヤクザの殺し合いでしょ? あれも共食いだったって言いますね。人喰うの、最近の流行りはじめですかね。アメリカの生物兵器だの、放射能だの宇宙からの謎の光線だとか、わけわかんない事言っている奴いるけど、結局何なんだろうな。流行ってインフルじゃあるまいし、人を喰いたくなる病気って、研修でもやってないっすよ」

「過去、食人はあらゆる形で行われてはいるぜ」

 堤は杉野が持ってきた料亭の弁当を、机の隅に異動させた……差し入れがあると分かっていれば、クリーニング屋と一緒に酒を頼んでいたのに。

後で永村にいくらか握らせ、酒を買ってきてもらおう。

「アフリカや南アメリカは慣習、北アメリカは狂気や犯罪、東ヨーロッパやアジアでは犯罪や食糧という形でね。日本にも、限られた地域にはあった。葬送の方法の一つとして、死者の脳を憑代に喰わせ、死者の意識を体におろすというものだな」

 相手を自分に取り込むという形の宗教的儀式、もしくは歪んだ愛情の形であっても、存在はしていた。

「しかし、純粋に食糧としては、飽食の現代日本じゃ考えられない。人格障害や、何らかの精神異常をきたしての行為なら前例はあるけどな」

「しかも、人を喰っていたのは、あのデブ患者だけじゃなかったんでしょ」

 その通りだった。事件現場の屋上で、何人もの生徒によって行われたと、ネットでも騒がれているし、検死結果も出ているらしい。

 最初、麻薬使用を疑われていた。それもあって、菅田梨恵は精神科に回されてきたのだが。

「しかし、集団で一斉に突然精神異常を起こすなんて、そりゃ病気じゃなくてヤクのせいでしょ。ネットじゃ屋上で、謎の宇宙放射能を浴びたんだとかあったけどさ、馬鹿馬鹿しいっすね」

「それがなあ、面白いもん見せてやる」

 それは、今朝、この病院の検査部から返却されてきたばかりの、菅田梨恵の血液検査結果の書類だった。永村の言う通り、病院は梨恵の薬物の使用を疑って血液検査をしたのだ。

 結果が来るのがやけに遅いと思っていたら、この検査結果に驚いた検査部が、他の大学病院にサンプルを回していたせいらしい。

「ほら、見てみな」

 堤はその結果通知を永村の目の前に突き出した。

「うわ、ひっでぇ」

 永村が一目見てのけ反った。

「何だよこの数値……花も恥じらう女子高生の血液じゃねえよ、今まで何食って生きて来たんだ? まるで糖分と脂のジュースじゃんか。不摂生なおっさんの血だろ」

「着目ポイントはそこじゃない。その横の写真を見ろ」 

永村の目が、カルテに添えられたもう一枚の写真を見た。梨恵の血液中の、電子顕微鏡写真だった。

「何ですかこれ?……血液中のウィルス?」

「気が付いたか」

 堤は、思わずニヤリと笑った。医療関係者なら、驚かずにはいられないこの写真。

 歪なペーズリー模様だった。この形のものは、日本ではほとんど見られない。

「……初めて見たわ」

 永村が、手に取ってつくづくと見た「肝炎じゃないし……」しばらくの間、頭をひねり、そして答えを教えろとでも言いたげに、堤を見る。

 堤は、鼻越しに永村を見た。

「おもしろい写真だろ。ラブドウイルス科のリッサウイルス……狂犬病だ」

「へ?」

 永村が、再び写真を見つめた。その反応も、不思議ではない。医師である堤も、本物を見たのは初めてだった。医学書の写真以外、今まで見たことが無かった。

「これ、狂犬病?」

 永村も同様、信じられないといった顔になった。

「どこで罹患したんです? 狂犬病なんか、日本じゃ五〇年くらい、患者の報告はないんでしょ?」

「俺も仰天したよ」

 堤は息を吐いた。まさかこの現場で、こんな患者の中から出てくるとは思わなかった。

「聞けば、他の死んだ奴らにも同じウィルスが検出されたらしい」

「……え、じゃあ……」

 永村の顔が引き攣った。

「あの、大量殺人と集団自殺は、もしかしてこの……狂犬病の起こした脳炎が引き起こした現象ってことで?」

 新事実に、呆ける永村へ、堤は穏やかに制した。

「……と、俺も最初は思った。だけどな、この報告をよく読んでみな」

 写真に添えられた検査室からのメモを、堤は指さした。

「フツーの狂犬病とは、少し形が違うらしい」

 それに、狂犬病にしても奇妙な点も多すぎる。

「確かに狂犬病による脳炎には、錯乱、幻覚、興奮状態による攻撃性も特徴だ。だけどな、どんな形で罹患したかは知らんが、一〇人の生徒が、全く同時に同じ場所で発症するか?」

 永村が絶句する。

「いや、ない、と思う……個人差がある、絶対に」

ウィルス自体は、狂犬病の新種だと思えば納得もする。海外になら、狂犬病は珍しくもない。しかし、どう考えても発症のタイミングが腑に落ちない。

一気に広がり、一気に発症する……しかも、人を喰らいあう。

 ぶるぶると永村が頭を振った。

「とんでもないですよ、俺らがここで相手しているのは、静かなキチガイですよ。それに、まさかこのウィルス、どこかで開発された生物兵器ってナシですよ」

「この結果に、東洋大の大学病院から転院の話が来たよ。杉野部長からの話だ、間違いない」

 大学病院の方で、このウィルスを研究対象にしたいとなったという。

「人を喰おうが、どんなウィルス持っていようが、珍品なら喜んで持って行きたがるのが研究者ってもんだ。有難い」

「助かりますね」

 二人は頷き合った。

――しかし、転院させる前に、大岩のような問題が立ち塞がっていた。

 堤は嘆いた。

「問題は、あの母親に娘の転院をなんて切り出して話すか、なんだよな」


 菅田梨恵の母親は、菅田美弥子という。

 娘に自分の分の食事も与えているのかと、永村が悪趣味な冗談を叩くほど痩せた女だった。一人娘を溺愛している傾向にある。 

 精神の病の原因というのは、患者本人だけではなく、その家族全体の問題を内包していることがあるので、本人だけではなく、その家族もカウセリングの対象になるケースがある。

 梨恵は当初、薬物使用の疑いがあったため、家庭環境に原因があるケースだとみられた。そこで、梨恵と美弥子の母娘関係を見直すという意味で、堤はカウセリングを行っていた。

 出来れば父親も来てくれたらベストだが、この事態で父はマスコミ対応に駆け回っている。無理だ。

「……いつ来ても、あの母親は半狂乱のままなんだよ」

 堤は呻いた。

「娘が人を食べるはずがない、あの子は事件に巻き込まれた被害者だって、現実を認めやしない。その現実にまず向き合わさないと、娘の治療も何も進展しない。娘さんが早く家に戻るためにも、一緒に治療しましょうっていくら言い聞かせても、泣きわめくのに精いっぱいって感じだよ。まあ、狂いたくなる気持ちも分かるよ」

 堤は息を吐いた。

 今、菅田家は世界中の注目を浴びていた。その中で、不道徳な馬鹿や物見高い低能がいる。菅田家は、今そんな人種のターゲットになっていた。

 ネットの書きこみだけでは飽き足らず、家の周囲も嫌がらせとマスコミの徘徊で、大変らしい。

「だからって先生、あの母親が落ち着くのを待っていたら、先生どころか、地球そのものの寿命が来ますよ」

『なぜですか? なぜ梨恵ちゃんが精神病なんです? そんなところに監禁されるんです? あの子は事件の被害者なんですよ? みんな分かっていないんです! あの娘を返して頂戴!』

 梨恵に会わせてくれと、泣きながら掴みかかってくる。

 しかし、今の状態で、母娘の対面は許可できない。

 特別室に入っている間は、例え家族であっても一定期間、面会は制限される。そして、今の梨恵の状態は人間ではない。病状も不明だし、こんな状態のままで、梨恵と美弥子を会わせることは出来ないと、何度もなだめ、慰めて言い含めるしかない。骨が折れる。

 美弥子にとっては、娘の主治医である堤が何といおうと、まるで、この病院が拉致監禁魔の巣窟であるといったような態度だった。この母親にとって、今や全世界が、愛する娘の命を狙っているらしい。

 堤は嘆いた。

「事件は精神的疾患ではなく、ウィルスのせいかもしれない。だから、治療のためにも、娘さんをもっと大きな病院に転院させる……そう言って分かってもらえるかな」

 永村が、堤へと肩をすくめて見せた。

「医科部長は、転院の話し合いの場に同席なさらないんですか?」

「怖いんだろ。逃げやがった」

「仕方がないですねえ」永村が息を吐いた。

「でも、あの母親にも分かってもらうしかないでしょう……転院するのには、承諾書のサインがいるんだから」

「そうなんだよ」

 明日、あの母親は来る。その時にどう言って切り出そうか。どんな方法で納得させるか。

 陰鬱な気分で、堤は机から財布を取り出し、一万円札を抜いた。

「……なあ永村、酒買ってきてくれない?」

 永村が、同情の半笑いで頷いた。


次の日。

堤は深呼吸をした。

夕方、菅田美弥子とのカウセリングが行われる。何としてでも、転院承諾書にサインをさせなくては。

 ようやく、この状況から抜け出られるのだ。かといっても、不運な母娘を無情に、この病院からただ追い出す訳ではない。

東洋大の附属病院があのウィルスを……いや、患者を欲しがっている。こちらにとっては文字通りの疫病神。しかし、国内どころか、海外トップクラスのウィルス研究の権威にとっては、あのウィルスは正に黄金だ。これこそまさしくwinwinではないか。

 この日、医科部長は一日外出とのことだった。分かっていたとはいえ、堤は彼を無言で罵った。

 医科部長は、外部の病院に勤務していたのを、頼み込んでこの病院に引き抜いてきた人物だった。しかし、この場において堤は決意する。

今は下っ端の精神科の医師だが、数年後、この病院の経営者陣に俺は名前を連ねる。その時は絶対アイツを冷遇してやる。


――午後一六:〇〇

 受付から、菅田美弥子来院の連絡が来た。

「来た!」

 堤は待機室で、文字通り飛び上がった。

「早く通してくれ!」

カウセリングルームは、精神病棟の一階にある。

患者やその家族をリラックスさせるように、室内の内装を工夫している。

 圧迫感を与えない程度の、こじんまりした広さに柔らかな照明。壁には印象派の複製風景画が飾られ、テーブルとイスも木製。暖かな雰囲気を重視し、この窓には鉄格子はない。

 主治医が白衣を着ている以外には、病院を感じさせない。

頭の中にあるのは『病院転院承諾書のサイン』これのみだった。どうやって言いくるめるのか、どうやって懐柔するか。

ドアの前で、堤は今日、何度目かの深呼吸をした。

ドアをノック……返事はない。

しかし、来院していることは、さっき受付で確認済みだった。堤はドアを開けた。

「お待たせしました」

 部屋の椅子に座っている女が、顔を上げ、そして申し訳程度に首を折った。本来なら、椅子から立ち上がってするべきだろうが、今の彼女にとっては、それが精一杯のお辞儀らしい。

 顔を見れば、憐れみと同情が込み上げる。しかし、それでも厄介払いしてしまいたい気持ちの方が数千倍大きい。

堤は椅子に座って女と向き合った。

 女……菅田美弥子の憔悴しきった顔へ、堤は表情勤を笑顔に動かし、声をかけた。

「いかがでしょうか。少しは落ち着かれましたか?」

 菅田家の現状を思えば、この呼びかけは実に白々しい。

しかし、会話は社交辞令で始めるしかない

「ご主人の方は、いかがですか?」

 ……鉛のような時が流れた。

 やがて、菅田美弥子のカサついた口がのろのろと動いた。

「……帰って来ません……」

「それは……」

 美弥子は茫洋と口を動かし続ける。

「警察やマスコミに、対策と行くと言って出たまま、それっきりです……」

 どこに行っているのか、それっきり、連絡がつかないという。

「携帯は? ご主人の会社には連絡されましたか?」

「携帯は、つながりません……会社も、欠勤していました……」

 まさか、蒸発かと堤は想像した。一家の大黒柱、しかもこんな時に、父親でもある男が家族を捨てて逃げ出すとはとも思ったが、責任感の無い男なんか星の数ほどいる。

 しかも、娘が喰人だ。その父親という重圧と責任が、どれほどのものか。

あの人は、昔からそうなんですと美弥子は呻いた。

「いつも……偉そうなくせ、いざとなると何もできない、意気地なしで役立たずのロクデナシなんです……あんな奴、死ねばいい。私が、どんな気持ちでいるのかも知らないで」

 美弥子の両肩が、ぶるぶると震えている。全身を負の感情で支配し、声は呪詛を含む悲嘆の声だった。

「私は、今、自分の家に、入れないんですよ? 知らない人や変な人が家の周りをうろついて、勝手に庭に入って窓から家を覗き込んで、壁や塀に酷い落書きやスプレーをまき散らすんです……ゴミを投げ入れられて、出て行けとか外で叫ばれて、人喰い人種とか騒がれて、いつ誰かに侵入されないかと思うと、怖くて家の中にいられません」

「今は、どちらに?」

「車の中です……あの中で。寝泊まりしています」

「でも、それではゆっくりと休めませんよ」

「ですけど、いざという時に車に乗ったまま逃げられます」

 声を震わせて、美弥子は言った。

「もしも、母である私まで何かがあったら、誰が梨恵を守るんですか?」

 堤は、声を失った。それはあまりにも真っ当で、当たり前すぎる親の言葉だった。

 例え娘が喰人をしても、親であり続けるその姿は、いっそ残酷ですらある。

 しかし、世間にとって、この猟奇と異常性に満ちた事件の加害者は、恐怖と好奇の生贄、そして排除すべき化け物だ。その分、いくら殴っても痛めつけても構わない。その巨大な悪意を前にすれば、当たり前の親心も無力にすぎない。

「……嫌がらせについても、ご主人についても、警察には届を出されましたか?」

 美弥子の顔が、醜いほどひき歪んだ。

「誰のせいだと思っているんです!」

カウセリングルームの壁は、音を吸収する。しかし、ぶつけられる怒気は吸い込めない……堤はたじろいだ。

「こんなことになったのも、あの警察のせいだ! あいつらが梨恵に無実の罪を着せたのよ、あの子が人間を? 人間ですって? 誰がそんなもの食べるのよ、馬鹿馬鹿しいどころか、気が狂っているんだ! キチガイ集団だわ!」

 転院届のためだ……堤はさえぎらず、美弥子を激昂するに任せた。

「あんな可愛い娘が、何故そんなもの食べるのよ! よくそんな恐ろしい事を言えたものだわ、 そう思うでしょう? 先生? 世間はどうして、こんな馬鹿らしい、大それた、とんでもない大嘘を信じるんですか?」

 涙と鼻水で、顔面を汚しながら叫ぶ母親にとって、今や全世界が敵で、全人類が狂人だった。悪意と狂気しかない世界に、取り残された母と娘だ。

「……あのこは、りえは、どうしているんですか……?」

 急激に、美弥子の声がかすれた。

「おねがいです、あわせてください……」

「今しばらく、ご辛抱下さい」

 堤は職業意識を、情で揺らすことなく言い切った。

「今の梨恵さんには、刺激になりそうなもの、全てを遠ざけて安静にする必要があるんです。

そうやって、梨恵さんの様子や病状を探り、治療法を探していく方法をとっています。ご了承下さい」

「そんな……」

 おいおいと、美弥子が泣き始める。

結局のところは、母親は泣く以外何も出来ないし、解決する力もないのだ。

美弥子を泣かすだけ泣かせ、涙も途切れるところを根気よく待ち続ける。

ようやく、泣き声が途切れだした。堤は美弥子に切り出した。

「ところで、今回は特に大事なお話があるんです」

「……え?」

 美弥子が顔を上げた。泣くことに、全精力を使い果たし、抜け殻のような目をしている。

堤は切り出した。

 さあ、本番だ。気を引き締めた。この母娘と縁を切る、大きなチャンス。

「いいですか、大事なことなんです」

言葉をゆっくりと、美弥子の脳内に流し込む。慎重に、丁寧に。

「……もしかしたら、梨恵さんは精神異常ではないかもしれない。あの事件も、違う原因で引き起こされたのかもしれない、そんな説が出て来たんです」

「……」

 美弥子の顔が、ポカンとなった。

「血液検査によって、あるウィルスが検出されました。原因はそれかもしれない」

「……」

 堤は、梨恵のカルテと血液検査結果、そして検出されたウィルスの写真をまじえて、空白状態の美弥子に説明した。ラブドウイルス科のリッサウィルス。狂犬病によく似た、しかし未知のウィルスの事と、その症例。

「……なにそれ……?」

 魂が半分抜けた声で、美弥子が呟いた。

「わけわからない……」

 堤は、その言葉を無視して、カルテと共に持ってきた『病院転院届』『転院承諾書』『診療情報提供承諾書』などの書類を取り出した。

 美弥子がウィルスや病状の説明を理解してくれなくても良い。ただ、この書類にサインをすれば、堤はそれで良い。

 これで、少なくとも事態の一つは前進する。この状況から脱出できるのだ。

 哀れな母親に対する同情よりも、今現在の自分と病院の将来は別だった。

梨恵をこの病院に、いつまでも置いていても良いことは何もない。個人病院の経営は、評判が命綱なのだ。それに、どの角度から見ても、梨恵を研究施設の整った場所に入れたほうが双方のためになる。

「この病院から、梨恵さんを違う病院へ転院させる、ということです」

「……追い出すの?」

 わなわなと唇を震わせる美弥子に向かって、慎重に堤は続ける。

「違います。梨恵さんを治せる病院が、見つかったんですよ」

やはり、話の内容を完全に理解させるのは難しい……転院の書類を突き付けて、堤は懸命に話を続けた。

「梨恵さんを、ぜひ治療させてほしいという病院が出てきました。高校生の娘さんを持つ親なら、もちろん東洋大学をご存じのはずです。誰でも知っている一流大学の附属病院です」 

「……とうよう……」

「ウィルス研究の分野では、特に優秀です。その研究成果は海外でも名を知られています。医師も設備も超一流です。ここなら、必ず梨恵さんを治せる。ウィルスの正体を突き止めて病気を治し、梨恵さんをお家に戻してあげられる」

「……りえを、ここから追い出すのね?」

「ご理解ください、お母さん。梨恵さんをこの病院に入れれば、梨恵さんは必ず良くなります。それに、この病院ならいつでも会えるんですよ」

 いつでも面会できるかどうかは分からない。何せ、狂って人を喰い殺したくなるなんて、未知のウィルスを体に飼っているのだ。

 しかし、堤はやり方を別方向に変えた。

「ここに入れたら、梨恵さんは治るんです」

 感染症なのだ。収容されるとすれば、隔離病棟だろう。ここよりも面会や監視が厳しく、もしかしたら母娘の再会など、もう不可能になるかもしれないが、それも転院と治療のためなら仕方がない。

「梨恵が、治る……」

 口調はうすぼんやりと、だが、美弥子の目に力が戻った。

「治るのね?」

「ええ、元の快活な娘さんに戻ります。そうすれば、以前と同じ生活に戻れるんですよ」

 梨恵が快活だったかは知らないし、治ったとしても、以前と同じ生活に戻るどころか、いばらの道だろう。それでも、堤は美弥子の願望を逆手にとって説得した。堤にとっては、何としてでも転院させなくてはならない。

 しかし『治る』それから続く希望だけは理解したようだ。美弥子のその手が、そろそろとテーブルの書類にかかった。

そうだ、サインしろ……堤はボールペンを差し出した。

「さあ、これでサインしてください」

うつろな目で書類を見つめ、美弥子はペンを掴んだ。りえがなおる、とつぶやきながら、署名欄にペン先を当てる。

さあ、書いてくれ……期待に見つめる堤の前で、美弥子のペンが突然止まった。

 転院承諾書と、東洋大の研究施設の入所承諾のサイン欄を見つめる。

「ほんとうに、あえるの?……」

 堤は舌打ちを堪えた。

 正に猜疑心の塊だ。いや、母親の勘のどこかに、堤のウソが引っ掛かったか。

「これは……病院じゃなくて、研究所って書いているわ」

 美弥子の声が震えた。

「本当に、転院先は病院なんですか? もしかして、それは……梨恵を実験台にするって、そういう事じゃないの?」

実験台でも、患者でも、何だって良いだろう、早くサインしろ。

怒りを堪えて、堤は言った。

「患者です。そして、ここなら梨恵さんを世間から守ってもらえます」

「……」

「確かに、疑われるのも無理はないでしょう」

 堤は頷く。

「今までに、お母さんも梨恵さんも、世間から酷い目に遭わされているんです。私どももその世間の中の一人と、お母さんの目には映っているのも仕方がない。ですが、私は世間の奴らと違うことは一つだけある。私は医師であることです」

 堤は、美弥子の背後に回って肩に優しく手を置いた。

「私の仕事は、梨恵さんを治すことなんです。それだけは分かって下さい」

「りえを、あの子は、モルモットなんですか?」

 わなわなと震える声には、本当の恐怖があった。慌てて堤は頭を振って否定した。

「違います。研究所とはいっても、普通の病院の中に入っている施設です。普通の病院と全く変わりありません。それどころか、今の梨恵さんにとっては、一番安全な場所なんです」

「ここは、でも……」

 世間は、すでに美弥子にとっては敵そのものだった。奸計と悪意だけが渦巻いている。

その誤解を違う方向に向けるために、根気をもって注意深く、堤は説得した。

「研究所とは、研究をしている場所です。病を治す研究のために、病院と併設している研究所はどこにでもあります。ここもそうです、患者はモルモットではないんです」

「……梨恵に、一目会わせてください……」

 怯えた声が、堤に嘆願した。

「本当に、あの子を治してくれるというなら、今からあの子の傍に連れて行ってちょうだい……梨恵に会わせて下さい……」

 まだ、猜疑心の塊だ。内心、堤はため息をついた。精神疾患を患っている病人にはよくあるケースだった。全世界が自分を責めて、敵に回っている。その猜疑心を解いてやるには、医師が患者の多少の我がままや無理を、受け入れる必要があった。そうやって絡まった糸を少しほぐしてやらなければ、前には進めない。

転院届にサインをさせるには、美弥子の疑いと恐怖心を緩める必要があった。

 少しくらいの無理なら、聞いてやってもいいだろう。

「分かりました」

面会は謝絶だが、あのウィルスに空気感染の危険性が無い。今まで梨恵に接していた、堤を含む医療関係者の様子を見たら分かる。しかし、ウィルスの全体像の解明は先でも、間違いなく一番危険度が高い、第一類感染症だ。しかし、エボラ熱やほかの病気よりも凶悪で禍々しい症状を発症する。

しかし、転院を承諾させるためだ。

 堤はボールペンを白衣の胸ポケットに入れて、壁にかけている内線電話の受話器を取った。スタッフルームの職員を呼び出す。

 しばらくして、カウセリングルームに顔を出してきた永村と、そして永村の同期である宮野という看護士へ、堤は指示を出した。

「梨恵さんの病室へ、菅田さんをご案内する。特別に面会だ」


 梨恵を収容している特別室は、三階の奥にある。

 エレベーターに乗り、廊下を歩いた。

特別室へ入るのは、医師の他、看護士二人が基本だ。

 宮野が「特別室の患者に、面会謝絶期間の明けない内に。家族を面会させていいんですか?」と質問してきたが、特別扱いだと押し切った。

「俺がこの件は、全て院長に一任されているんだ。後で報告書を出す。お前が気にすることはない」

 永村は、さして気にもしていない様子だった。

特別室へは、永村と宮野が先頭を歩き、堤、美弥子が続く。美弥子の沈黙が堤には気になったが、振り返って確かめるほどでもなかった。

「着きました」

 奥にある、まるで倉庫のような分厚い扉の前で、堤は美弥子に振り向いた。

「開けますよ」

 永村がカードキーを使って暗証番号を押す。重い扉が開いた。その次にある第二の格子扉の隙間から覗く梨恵の姿に、美弥子が固唾を呑む音が聞こえた「りえちゃん……」

 格子扉が開いた

 ベッドの上で、毛布ごと革バンドで拘束された梨恵は、入ってきた人間の物音に対しても、全く反応は見えない。ぽっかりと開いた黒い目は、天井の中の虚無を見ている。死人の様というには生々しいが、生きた人間にしては不気味だった。

「りえちゃん! なんでこんな……?」

 堤と、二人の看護士に振り向いた美弥子の目に、青白い炎が見えた。

「なんでこんな酷いことを……この子をベッドに縛り付けるだなんて!」

 床を蹴って走り出そうとした美弥子を、すんでのところで永村と宮野が制止した。

「離して! りえちゃん!」

「待って下さい! 梨恵さんには感染症の疑いがあるんです。説明したでしょう?」

 永村の声と、悲痛な声が病室の防音壁に吸い込まれる。しかし堤は焦った。梨恵を刺激するかもしれない。

「許して下さい、仕方のない処置なんです」

 男二人に抑えられ、もがく美弥子へ、堤は説得を試みた。

「あんな事件に巻き込まれ、生き残った梨恵さんです。凄惨な体験をしたあとの生存者は、その記憶から自己嫌悪やトラウマに悩まされ、自殺を繰り返したり、自傷のケースが多々あります、梨恵さんにもその恐れもあると判断しての事です」

「りえちゃん!」

「拘束は、梨恵さんが自分自身を傷つけないようにするための策なんです!」

 自傷予防なんて嘘だ。クラスメイトを喰い殺した狂人の拘束だ。しかし、堤は叫んだ。

「梨恵さんの為なんです! お母さん、分かって下さい!」

「りえ……りえちゃん……」

 永村と宮野に抑え込まれたまま、崩れ落ちる美弥子を見て、堤は梨恵を見やった。

確かに、母親にとっては、魂を引きちぎられる場面だとは思う。ベッドに括り付けられている、死んだ目をした娘。

「もう、出ましょう」

 そして、堤は美弥子へ優しく噓をついた。

「大丈夫、次の病院でも面会はいつでも出来ますよ」

 オネガイ、と美弥子の顔が上がった。

「少しだけ……りえちゃんと話をさせてください……」

 美弥子を取り抑えている永村が、困った顔で堤を見た。宮野が「どうします?」と口だけが動く。

 しかたがない、と堤も口を動かした。

 転院させるためだ。それに梨恵は身動きが取れない。少しくらい、良いだろう。

「少しだけ、ですよ」

 堤はそう言い、ゆっくりと美弥子を立ち上がらせた。

 ゆらゆらと、美弥子は梨恵のベッドに歩み寄った。そして、そっと梨恵の頬に手を置いた。

「りえちゃん……」

 呻くような、悲痛な声。どんな理由があろうとも、実際に自分の娘が閉じ込められて縛り付けられている、その絞り出される悲嘆を、堤は見つめていた。

「……りえ……」

 美弥子は愛おしむように、たるんだ梨恵の頬に自分の頬をすりよせた。虚無の表情を撫でさすり、何度も頬を撫でる。

 そして、その梨恵の首をかき抱いた。

 その瞬間だった。堤の頭に、雷鳴のような警報が鳴り響く。

「やめろ!」

「ぎゃぁっ」

 母親の悲鳴と、堤の声が重なった。永村がはじかれたように美弥子へ走り寄った。

「だ、大丈夫ですか?」

「くぁあっ」

 美弥子は、頬を抑えて激痛に身を折る。頬を抑えた手から、ぼたぼたと赤い血が床に落ちて広がっていく。

「……あ……」信じられないといった風に、美弥子が眼球を剥いた。

「何で……? りえちゃん?」

堤は宮野に命令した。

「処置室に連れて行け!」

感染症患者に、頬を齧られたのだ。心臓があばら骨を折って飛び出すほど、堤は狼狽した。

宮野が美弥子を抱き抱えて外に出る。

堤は梨恵を見た。そして背中に氷の杭を打ち込まれた。

……何かを咀嚼している。

 母親の頬肉を喰っているのだ。

 梨恵のその目は、漆黒の闇しか映っていない。人間であること、自分の取り巻く、全ての世界を放棄した怪物の目だ。

 一度、出直しだ。堤はドアへと歩んだ。

転院届の話は、一度保留だ。今は美弥子の怪我の処置。しかし、これは大失態だ。転院届のサイン欲しさに美弥子に特別面会を許可し、その結果、ケガをさせたのだ。

表ざたになったらまずい。叔父に、いや、院長にどうやって説明しよう。

堤は頭をかきむしった。その時、耳に途方もなく厭な声が突き刺さった。

 きぃぃぃぃぃ……

 そして、金属がきしむ音。

「!」

 顔を上げた堤は、呼吸困難と心臓麻痺を同時に起こしかけた。

 梨恵という名の獣が、ベッドの上でのたうっている。ベッドが大きく軋み動き、床をバウンドしていた。まるで嵐に巻き込まれた小舟を思わせた。今にもひっくり返りそうだ。

 梨恵を拘束している革ベルトが、ベルトの穴部分から引きちぎれそうなほど引き伸ばされている。堤は悲鳴を上げた。スタッフルームから異常を察知して、二人の看護士が中に駆け込んできた。

「早く! 麻酔を打て!」

「はい!」

 二人が梨恵に飛びかかる。その時、何かがはじける音がした。

堤は、信じられないものを見た。引き裂かれて床に落ちた、拘束用の革ベルト。

 怪獣の咆哮と共に、起き上がったのは梨恵の上体だった。やばい、と堤は叫んだ。

 注射器を持った看護士が、梨恵の振り払った腕によって吹っ飛んだ。そして壁に激突し、床に落下する。

 梨恵は、腕に刺さった点滴やコードを無造作に引き千切った。コードにつながる心電図モニターが、いかにも簡単に床に転がり落ち、大音響を立てた。

「やばい、逃げろ!」堤の叫びは、無駄に終わった。

 床に降りた梨恵は、心電図モニターを両腕に軽々と抱え、看護士の頭に振り下ろした。

 声もなく、看護士の頭が割れた。形の変わった頭をそのまま掴むと、梨恵はその顔を、リンゴのように齧りついた。

「……っ」

 堤は氷結した。もう一人の看護士が、齧られる仲間に狂った悲鳴を上げた。

 その時だった。

「ぎゃあああっ」

 廊下の方で悲鳴が轟く。さっき処置室に美弥子を連れて行った宮野の声だ。そして廊下が騒がしくなり始める。

「どうした、何があった?」

 部屋の中と外を、交互に見ながら堤は叫んだ。

「この部屋から出るぞ!」

 堤は残る一人と、永村に命令した。

「でも押田が……」

「もう駄目だ、諦めろ!」

 堤は、赤く染まった押田から目をそらした。

 押田は文字通り、喰われていた。梨恵が押田の腕を持ち上げて噛み付き、白衣ごと肉を喰いちぎる。そして、耳を喰い、頬を齧る。

 押田の人間の形が、徐々に失われていく。その経緯に戦慄しながら、堤は叫んだ。

「出ろ!」

 三人は、そろって特別室から飛び出した。鉄格子の向こうに押田を捨てて、梨恵を閉じ込めてドアを閉めようとする。それに梨恵が気付いた。

 梨恵が、ドアに猛然と体をぶつけてきた。はずみでドアが大きく開き、三人はドアに跳ねられた形で、廊下に転がり出た。

 背中を強く打ち、激痛が走る。しかし開放された特別室のドアに、堤は痛みを一瞬忘れた。

「やばい、閉めろ!」

 命拾いをした看護士が、廊下に転がって呻いている。堤は落ちているカードキーに手を伸ばし、拾い上げてよろめきながら立ち上がる。

 その目の前に、梨恵がいた。

「!」

 襲い掛かる梨恵から、堤は飛びのいた。その堤の後ろには、永村がいた。

 声にならない悲鳴が、耳に突き刺さった。堤は振り返った。

 永村の足首に、梨恵が喰らいついている。その頭を、永村が狂い叫びながら、蹴り続けていた。

 廊下の脇に、消火器が目に入る。堤はそれに飛びついた。安全ピンを抜き、ホースを梨恵に向けてノズルを強く握る。

消火剤が一気に噴出した。白くなった視界の向こうで猛獣の咆哮が轟き、一目散に逃げていく。

「おい、大丈夫か?」

 消火剤の白い霧の奥から、永村の姿が現れた。血に染まった足首を手で押さえ、呻き声を上げる永村に堤は駆け寄り、肩を貸した。

「処置室に行くぞ、立てるか?」

 消火剤で、髪の毛も顔も白くなった永村が、泣きながら頷いた。

「なにが、なにがおきたんだよ……せんせぇ……」

「分からん」

 永村に肩を貸し、堤は重い足で無人の廊下を歩んだ。非常事態だ、とんでもないことが起きている。堤は美弥子へ吐き捨てた。

「あのクソばばぁ……」

 廊下は、誰一人いない。騒がしかった声も止んで、病室のドアも固く閉じられていた。詰め所の前を通った。慌てふためく職員の声が聞こえてくる。

 しんとした無人の廊下。

 恐らく、事態の悪化と外部に漏れるのを恐れて、患者を部屋に入れたのだ。

 堤は歩く。何が起きているのか把握し、対処する前に、この場から逃げ出すことが最優先だった。

病室も音一つない。おそらく、この事態を察知して患者たちは病室に閉じこもっているのだろう。彼らは小動物並みに、危険を感知する能力に長けている。

他の看護士たちも、この事態を知って避難するなり、連絡や通報なりと、すでに対処している違いない。

 廊下の曲がり角が見えた。あそこを曲がれば、廊下の向こうにエレベーターがある。二階に降りて、処置室で永村の手当てをしなくては。堤は廊下を曲がった。

……視界いっぱいに、赤があった。

 壁から床まで、見渡す限りの暗赤色。床の血だまりに、靴のつま先が入っていた。真っ赤な人型が、廊下に折り重なり、散乱していた。

 手があった。足があった。胴があった。首があった。

 足元にある首は、宮野だった。

 堤は、ただ見ていた。見ること以外に何もできなかった。突然出現した同僚や患者たちの残骸に、何を考えていいのか、どうすればいいのか、判断能力のないカメラになっていた。

「ははは……」

 口から笑いの音声が漏れた。

「何よ、これ……」

 何が起きた? その時啓示が浮かんだ。あの未知のウィルスの写真だった。そして、瀬川高校の怪事件。

――一気に発症し、一気に拡散する。

堤の膝から力が抜けた。肩から永村がずり落ち、顔を血だまりに突っ込む。その血だまりから、血が跳ねた。赤い点は堤の頬にかかった。

 床についた膝のズボンに、誰のものとも分からない、生温かな血が染み込んでくる。

堤の咽喉から、笑いが込み上げた。この理解を超える光景は、今まで信じていた現実を破壊し、悪趣味で許しがたい、馬鹿馬鹿しい世界に堤を引きずり込んだ。

 可笑しかった。虚無と絶望の結末、無力と狂気に呑まれて、血の匂いの中で堤は笑った。笑い過ぎたのか、胃液が喉元にせり上がった。堤は床に吐瀉した。内臓と血の異臭が、堤の脳をしびれさせた。

 血だまりの中に倒れた永村が起き上がった。

 消火剤の白と床の赤にまみれた永村が、自分をゆらゆらと見つめている。その目が、あの人喰いの少女と同じことに堤は気が付いた。

 だが、もうどうでも良い。

堤は狂気の世界に逃げ込んだ。


 

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