第3話 自治会の闇とサラリーマン
朝の七時。
『生徒の命を守るべき学校の中で起きたこの事件は、謎に包まれており、未だに解明の糸口すらつかめない状態です。事件発生から四十八時間が過ぎた今、生徒や父兄だけでなく、近辺の住民にまで動揺は広がっています』
テレビレポーターの悲痛な顔の後ろには、近所の公立高校が映っている。
『校舎の屋上で、何が起きたのか? 集団ヒステリーというには余りある行動、何が生徒たちを凶行に駆り立てたのか……』
これから出勤するのに、このニュースは見たくない。それにせっかくの朝食が不味くなると、斎藤広志はチャンネルのリモコンを次々と変えた。
しかし、どこの放送局も同じだ。天気予報もローカルニュースも、この事件に塗り替えられている。
ニュース映像に映った、自分の住む町内と集会所。
つい一昨日、警察と消防から、この町の自治会に要請が来たことを思い出し、広志は気が重くなった。
「無駄だよ、お父さん」
家族で朝食のダイニングテーブルにつく、小学校五年生の息子、秀が口をはさんだ。
「アメリカの大統領が暗殺でもされない限り、このニュースは当分続くよ」
「やだなあ、このインタビューされている人、もしかして矢野先輩かなあ。顔は映んないけど、しゃべり方ソックリ」
中学二年生の娘、制服姿の真理が、トーストを齧りながら嘆いた。
「この事件のせいで、当分クラブ活動は全面中止だって。ホームルーム終わって二〇分したら、校門も閉めるって、生徒強制退去だよ。しかも登下校は絶対一人にならないこと、寄り道も禁止。そこまでするなら、いっそ休校にすればいいのにさ」
「こっちだって大変だよ」
小学校五年生になる秀が、イチゴジャムを紅茶に入れながら言った。
「学校の校門前は、送迎の親であふれかえってるよ。いつか、親目当てに屋台が出そうだ。それだけなら良いけど、子供が心配だから校舎に入れろって親が徒党を組んで押し寄せて、校門前で先生ともみ合いだよ。こうなると、事件そのものよりも、原因の究明が出来ないことによって起きる、姿のない不安の蔓延による父兄たちの暴走のほうが、新たな問題だよな」
「秀。もう少し、簡単に言えないかなあ。要は父ちゃん母ちゃんが学校に押し寄せて、無茶を言って暴れまくるからウザい、でしょ」
「姉ちゃんの貧弱すぎる語彙を増やしてやろうと思って、言い方を工夫しているのが分からないのか?」
「あんた、表出ろ!」
「七時五〇分になったらな」
平然と言い放つ弟。椅子を後ろに蹴る勢いで立ち上がった姉に、母親の里美が叫んだ。
「あんたたち、朝から喧嘩は止めなさい!」
とりあえず、我が家はいつも通りだ。
広志はどこか安堵しながら、朝刊に目を落とす。
その時だった。
マンションの玄関チャイムが、不吉に鳴った。
里美が広志を見た。
「お父さん」
やっぱり来たか。
思わずため息が漏れる。広志は立ち上がった。
玄関口に立っていたのは、案の定、同じマンションの三階に住んでいる木村という初老の女だった。カサついた顔に、くたびれたエプロン姿。
「昨日の集会の事ですけど」
この時間は出勤前なんです、そう言いかけたが、木村はすでに言いたい事を決めていたようで、まくし立てた。
「あのねえ、どう考えても急な話だと思いませんか? そりゃあ、近所でこんな事件があったから、というのは分かりますよ。だからって、子供の下校時には自治会全員、強制参加で通学路に立って子供を監視しろだなんて、無茶苦茶ですよ。こっちだって、習い事とか予定とか、色々用事ってものがあるし……」
笑顔だった。だが、瞼のきわがひくついている。
広志はドアを半分閉じた。
「保健所と警察から、自治会への緊急要請が来たんですよ。もう昨日の会合で決まったことですし、昼間にお仕事がある方は免除しています。それを言うのなら、最初から会合に出てきてくださいよ」
「晩は主人が外に出してくれないんですよ」
「じゃあ許可を頂いて下さい」
玄関のドアを閉じかけた瞬間、木村が叫んだ。
「あ、まってちょうだい! もっと大事なお話があるんですよ、こんな事……」
玄関のドアを閉じた。
「放っておいたら、とんでもないことになるんですよ!」
しばらくドアが叩かれ、喚き声がして、チャイムが四回連続鳴らされた。無視していたら諦めたらしい。やがて足音が遠ざかる。
舌打ちを広志は耐えた。娘と息子の前では教育上よろしくない。
「またあのオバハン? なんかさあ、自治会の会合のあった次の朝には、必ず来るよねえ。
こないだは、朝のラジオ体操で使うカセットの電池代? 体操に出ない住人がいるんだから、電池代は自治会費じゃなくて、個人負担にしろとか。なんかセコイこと言ってなかった?」
「あの人を見ると、年長者を敬えという教えは、間違っていると思うね」
さっきまでの姉弟喧嘩はどこへやら、壁時計を秀は指さした。
「老人を敬うというその意味は、僕らよりも長く生きてきた、その間に身に着けた知識や人徳に敬意を払うことだろ。あんな年寄りから何を学べっていうんだ」
「あれは反面教師よ」
「なるほど、そうか」
「お前たち、人を悪く言うのはやめなさい」
父として、広志は子供たちを諫めた。
姉弟は毎日、七時五〇分きっかりに家を飛び出す。
広志は、子供たちが出ていく背中を見送り、ドアが閉まるのを見届けた。そして里美へ思い切り叫んだ。
「おい! 里美、この町内から引っ越しするぞ!」
「ちょっとあんた、そう短気起こしなさんな」
「もお勘弁ならん! あんなババアの面を朝から見るくらいなら、肥溜めで泳いでいるクソでも見たほうがよほどマシだ! どいつもこいつもクソみたいな事言いやがって!」
「一年の辛抱よ。第一、子供たちに引っ越しの理由を何ていうの? お父さんが会長を途中でうっちゃりたいから、町から出たいんだなんて知れたら、教育に悪いじゃない。真理はああ見えて鋭いし、秀なんか言わずもがなだしさ」
思い切り、広志は息を吐いた。分かっているが、言わずにはいられない。
「……で、さっき、警察と保健所から要請って、やっぱりあの高校の事件の関係?」
クールダウンの目的か、話題がすり替わった。里美が淹れなおした紅茶を、広志は受け取った。
「……そりゃ、そうだろ。とりあえず、町ぐるみで子供たちから目を離すなって役所から連絡が来た」
瀬川高校の周辺地域、学校PTAから老人会、自治体全てにこの通達が回っているらしい。
「いまだに事件が大量殺人なんだか、集団自殺なのか、結局何があったのか、真相どころか原因もつかめていないらしい。原因が分からん分、警戒心と不安が広がる。秀の言うとおりだ。とにかく闇雲に用心するってやつだよ。父兄会、自治会が協力しあって、通学路に監視員を立たせろだとさ」
通学路に監視員と一言で言っても、大変なのだ。
人員の確保、ローテーションに配置、時間配分。しかも、世間ではあまり知られていないが、こんな時でも万が一の事故や怪我に備えて、保険の問題も出てくる。その保険手続きも会長の役目だ。
仕方がない。やるからにはそれが会長の役目だ。それでも文句が漏れた。
「あーめんどくせえ、いつまで続くんだ、こんな事態」
「さあねえ」
「さあねえ、じゃないよ。こんなことがあるって分かっていたら、自治会長なんか絶対引き受けなかった」
自治会長選任が行われた、町内会の集会場風景を思い出しながら、広志は嘆いた。
「でも、根比べに負けたんでしょ」
「しょうがないだろ! 晩の一九時スタートで、それから二十三時過ぎまで四時間、誰も黙ったまま立候補もないし、みんな会議テーブルで俯いているんだぜ!」
また、頭に血が上る。
思い出すだけで、脳みその隅が黒くなる。あれはお通夜どころか、死刑執行場のような空間だった。
陰鬱な緊張、広志はあの空気に窒息してしまった。次の日は日曜だったが、会社の端末システム入替えの立会いで、早朝からの休日出勤だった。
「私が会長をやります! 明日は仕事なので帰りますよ、あとは決めておいてください!」
所詮は町内会の会長なんだから、回覧板を管理して、月に一度の会合に『まとめ役』として出ればいいと思っていた。
その認識は甘すぎどころか、糖尿病だと分かった時はすでに遅かった。
自治会長というのは、言ってしまえば、その町内の代表なのだ。主な役目は、市役所と町内のパイプ役、事務係に行政の雑用に連絡係。
しかもタダ働き。
だが、感謝はされない。それどころか、役目を果たして当たり前。しかし、その働きに必ず文句をつけてくる人間もいるし、自治会の会合には出てこないくせに、決定したことに文句をつけてくる、木村のような人間まで相手にしなくてはならない。
木村に限らず、老人はそんな人間ばかりだ。自分都合で文句ばかり。年少者を導くどころか、気力を吸い取る妖怪ばかり。敬老の日なんか廃止しろと思う。
頭が痛い。
会長に立候補するんじゃなかった。あの時に立ち上がるんじゃなかった。
短気は損気である。今、広志はその言葉が身に染みている。
しかし、よく考えたら、本当はあの町内会の話し合いは里美が出るはずだったのだ。
友達とコンサートへ行きたいというから、俺が代わりに出たんだっけと思い出し、広志は尚気分が沈んだ。
「会社へ行ってくる」
仕事しているほうが、気が紛れる。
そんなことを思いつつ、広志は椅子から立ち上がり、スーツの上をハンガーから外した。
広志の勤める第一地銀不二銀行の本店は、電車に乗って二〇分、地下鉄駅直結した場所にある。
八階にあるフロアの一つ、金融法人営業部一五人。証券や金融業相手に、投資や証券取引を行う。
その中の事務担当課六人のチームが、広志の居場所になる。
仕事机の箱にたまった営業の稟議書類や経費の伝票を、今日も片付けながら、広志は思う。
……事務担当チームの課長でよかった。
営業が向いていないと判断されて、地味な裏方の事務に回されたときは『書類整理の親玉』と自嘲したものだが、今となっては感謝だ。
女性職員達の後とはいえ、広志は平均しても6時過ぎには帰れる。
もしも営業チームの課長だったら、連日の残業と接待で帰宅はほぼ、終電か明け方。休日は早朝からゴルフ接待。
これに町内会の『憂鬱』が入れば、脳みそは疲労で腐食する。
昼休みもきっちり一時間とれる。
社員食堂で、若い営業の社員と一緒になった。山田という。
山田はテーブルに昼定食のトレイを置き、広志に話しかけてきた。
「課長の家の近所、どんなもんですか?」
その表情には、好奇心に微かな恐怖が混じっている。
「あの事件の高校から近いんでしょ? 娘さんが受験するとか、ずっと前に話しておられませんでしたか?」
「あー、高校の周囲は、まだ記者や報道が道をたむろしているらしいよ」
きつねうどん定食のかやくご飯を食べながら、広志はうなずいた。
「さすがに、俺のマンションの前にはいないけどね」
しかし、マンションから一つ筋向こうの家には、記者がたむろしている事を広志は言わなかった。
……あの瀬川高校の生き残り、という女子生徒の家がある。その生存者の事を記事にしようと、週刊誌やスポーツ紙の記者がうろついていると、里美が言っていた。
「ご近所の方ですかって、記者らしい人が、その辺歩く人に聞いて回っていたわよ」
子供同士で殺し合い、しかも屋上から何人もが飛び降りて自殺。ネットでは、ニュースに流れない、もっとおぞましく、信じられない情報が流れている。
実は、その生存者は真理の中学の先輩と聞いている。だからこそ迂闊なことは言えない。
「気味が悪いからさあ、娘には違う高校受験させたいんだよな。出来たら、女の子らしくなるように女子高が良いんだけど……しかし、部活の問題があってなあ。空手部のある女子高って、少ないらしい」
「ええ、分かりますよ。俺も中学の時に手芸部だったんですが、手芸部のある男子校が無くて進学に悩みました」
山田が神妙に頷く。その線の細い顔が、息子の秀に似ているので、広志は山田を気に入っている。
食堂を出たら、喫茶室でタバコ。何度も携帯端末が振動していたが、相手は朝にやってきたあの『木村』なので無視をした。
昼食後、大量のファンド発注が来た。発注書類作成や告知書発送は、証券会社に送る時間制限と、法律が絡む取引の正確性を完璧に求められ、課内は一気に緊張する。
書類を一字一句、くまなく集中している広志の耳に割り込んできたのは、部下の沢山香子の声だった。
「課長、木村さんという方からお電話です」
「木村? どこの?」
思わず時計を見上げた。時間制限あと十分。しかし、出入り業者や取引先に、その名の心当たりはない。
「後からかけ直すって言ってくれるか?」
「それが、ものすごく大変なことが起きているって、斎藤さんと是非お話ししたいと」
香子はうろたえながら続けた。
「チョーナイカイとか何度も繰り返してらっしゃってたけど……」
「はぁ?」
椅子をひっくり返すほど、広志は驚愕した。なぜ、木村がここの電話番号を知っている?
金融法人部は、支店の窓口と違って世間一般には馴染みのない部署だった。個人客からの問合わせも、まずありえないので、ここの電話番号はネットですら公開されていない。
『ああ、良かった。やっとつながったわ、もうどうなることかと不安で不安で、しょうがなかったんですよ、あのねえ、会長さん……』
恨みがましい声。あの木村だった。
資本主義と社会的生活の場に、町内会という非生産的存在が乱入してくる、そのシュールさとしつこさに恐怖さえ覚えつつ、広志は尖った声を出した。
「ここは職場ですので、電話してこないで下さい」
木村の声が、甲高くなった。
『だって、夜は出られないし、朝だって追い返したじゃありませんか! あのねえ、会長、今、町内で大変なことが起きているのを知らないんでしょ。ちゃんと人のいう事聞いたほうが良いわよ。あんな人を放っておいたら、どうなることやら……』
「失礼します、仕事中です」
切ってから、ぞっとした。あんな女に、広志の職業の話をした覚えはない。ここの電話番号を教えるはずがなかった。
そして、もっと恐ろしいことに気が付く。木村が知っているのなら、自治会の他の奴らにも知られているかもしれない。
「あのな、沢山さん」
発注に一区切りがついた時、広志は部下を呼んだ。
「はい? 課長、顔色悪いです。大丈夫でしたか?」
「今後、チョーナイカイとか、ジチカイのとか名乗るやつの電話は、全てシャットアウトしてくれ。取り次がなくていい、いや、叩き切れ」
「……課長、その変なチョーナイカイとかって、アコムとかプロミスとか、カウカウファイナンスとか、マンダキンユウとか同じ類じゃないですよね? それって銀行員の立場上、ヤバい……」
「心配するな。取り立て屋より性質は悪いが、立場上はヤバくない」
不安げな部下に、とにかく広志は頷いて見せた。
今日も六時には職場を出た。
夕食の席で、広志は真っ先に里美を問い詰めた。
「……私がお父さんの職場の電話番号なんて、木村さんに教えるはずないでしょ」
夕食のテーブルで、サラダにドレッシングを回しかけながら里美は口を曲げた。
「それでか。あの人、昼間に私に文句言いに来たの『ご主人とお話がどうしても出来ない、大事な電話が一方的に切られた。奥さんから電話してくれ』だって」
「とにかく、なんであの人が俺の銀行の電話番号を知っているんだ? 自治会員の名簿なんかに、絶対に載せるはずもないぞ」
「お父さんの熱烈なファンですねえ」
そう言いつつ、アジフライを齧っていた真理が、何かに気が付いたように、顔を天井に向けた。
「あのさあ、お父さん、先週に酔っぱらって帰ってきたでしょ。会社の部下の人たちと親睦会だっけ?」
「ああ、あったよ。それがどうした」
「名刺入れ落としたでしょ。これで三回目」
「でも、それはマンションの入口で見つかったってお前が……」
「見つけたのは私じゃないよ。木村さん」
ビールを持つ手が固まった。真理が続けた。
「家に私しかいないときに『これ、会長さんのでしょ』って、木村さんがここまで持ってきてくれたの」
「……めいしいれ……」
まさか、一枚抜かれたのか。広志は戦慄した。確かめようにも、いちいち名刺の枚数まで覚えていない。
「あーあ、名刺のコピーが自治会のメンドクサイ連中にばらまかれている可能性があるよ」
広志の不安に、秀が後押しをした。
「お父さん、この間も言ったじゃないか。日本は名刺社会だから、名刺の管理はちゃんとしようよって。特に銀行員と弁護士と医者は、名刺が詐欺の小道具にされているんだよ」
小学生の息子の声を、聴覚の外で聞きながら広志は口を動かした。どうでも良いことだったが、聞いた。
「で、その木村さんの大事なお話を……母さんは聞いたのか?」
「ゴミ出しだって……はい。真理、アジフライ追加ね」
「お母さん、僕にもフライ残ってる?」
「はいはい、まだあるわよ」
「……ゴミ出しって何だよ」
「ええとね、あの掛井さんとこの、ゴミの出し方が問題なんだって」
里美がようやく、顔を広志に向けた。
「燃える燃えないの分別をしていないのか?」
「違う違う、ゴミの出し方の『態度』だって」
「たいど? この町内にはゴミ出しに礼儀や作法があるのか?」
「いえねえ、あの木村さん、毎日町内のゴミ捨て場を巡回して、ゴミ出しのルールが守られているか中身のチェックをしているのよ」
「……中身チェック?」
「そう。何を捨てているのかとか、ちゃんと分別は出来ているのかとか、袋を開けて見ているんですって。それでねえ、木村さん、それで掛井さんの奥さんから、突き飛ばされたんだって」
掛井家の主婦が捨てるゴミが、毎回中身の見えない、真っ黒な袋を使い、しかも捨てた後、主婦がその場をなかなか立ち去らないことに、ずっと木村は不審に思っていたという。
「そこの奥さん、ゴミ収集車がゴミ袋を回収するのを見届けるまで、ずっとその場を離れないらしいの。そこで木村さんは思ったらしいのよ。いい加減なゴミ出しで、それがばれないように、その場を見張っているんじゃないかって」
真理がせせら笑った。
「ずっと見張っているくらいなら、最初からゴミの分別するって。何その疑い、気ぃ狂ってんじゃない? つうか、今、町内はあの事件で大騒ぎまっただ中だってのに、ゴミの分別う?」
秀がふんと鼻を鳴らした。
「姉ちゃん、社会性のないキチガイってそんなもんだよ。それに、あの人の思考回路って、自分の出した結果あっての仮定なんだよ。何があるから怪しいじゃなくて、怪しいからこうに違いないって考えるんだ」
「お前たち、他人様に対してそんな言い方をするもんじゃない……じゃあ木村さんは、掛井さんのゴミを開けようとして、彼女に突き飛ばされたってことか?」
「そう。傷害事件だって。そんな恐ろしい人を町内で野放しにして良いのかって」
どっちを野放しにするほうが恐ろしいか。広志は呻いた。
「だけど、中身の見えないゴミ袋を、厳重監視ねえ」
秀がつぶやいた。
「掛井さんって、お姉ちゃんの中学の先輩がいる掛井? お姉ちゃん、去年『掛井先輩カッコイイ』って騒いでいただろ。バレンタインをどうこうとか」
「あー、今は学校中退して、グレちゃったからパス。しかも、文字通り巨大なライバルがいるし」
ぶるっと真理が身を震わせた。
「バレンタイン、掛井先輩の靴箱に入れたチョコレートやプレゼントが、毎年全て盗まれるって事件が起きていたんだって。お菓子は全部食べられて、プレゼントは校舎裏の溝に捨てられていたのよ。犯人の目星はついていたけど、怖くって皆、言えなかったやつで」
「ああ、あの菅田さんだろ。空手部主将の姉ちゃんですら恐れるあの人」
秀の声が、少し低くなった。
「ネットで見たんだけど、あの人が瀬川高校の、生き残りって本当? だとしたら、ええと……喰ったってことだよね」
「食事中にその話題はやめなさい」
里美が顔を思い切りしかめて、秀をにらんだ。
しかし平然と、真理がその話題を拾い上げた。
「そうなるんじゃない? 記者っぽい人が、よくあの家の近所でたむろしているもん。でもさ、あの菅田先輩は入院しているんじゃないの? だとしたら、掛井先輩、今はノーマークってことよね」
「やめときなよ、お姉ちゃん。ライバル不在中でも、グレているんだからパスしろ」
「そうよ、真理。お母さん、一昨日あそこの息子さんと夜に道ですれ違ったんだけど、何だか怖いのよ。ひどく目が暗いっていうのか、冷えているというか」
家族の喧騒から意識を離し、広志はそっと次のビールを開けた。
「どうでも良いじゃないか、ゴミなんか」
何だかひどく情けない。
食後、携帯に着信があった。
リビングで動画を見ている里美たちから離れて、広志はベランダに出た。
自治会の副会長、平川種三だった。もう七〇越えで、リタイヤしてやもめ暮らしである。前年度の自治会長でもあり、二重の意味で広志のサポート役でもある。
『ああ、もしもし斎藤さん。済まんね、今良いかい?』
「どうぞ」
『消防からのメールは見たかい? なんだな、今週の土曜日に、町内で臨時の避難訓練をしてくれとメールが入っとってな』
「へ? 町内の避難訓練て、先月地震の訓練したばっかりでしょ。ほら、みんなで小学校の体育館に集まって、消防署の訓話を聞かされたじゃないですか?」
広志は首を傾げた。訓練は、自治体どこも回数は共通して、火災と地震が半年に一度だ。
立て続けに行うことは、まずない。
『よう分からんが、またやるとよ。ファイル開いて読んだけど、意味がよう分からなくてなあ。避難内容が地震なのか、火災なのか、はっきりせんのよ。まあ後で読んどいてや。消防の避難訓練を無視したら、あとがめんどくさいで。消防署の奴らから、メチャメチャ文句言われるんや』
……はあ、それしか言えない広志に、種三が申し訳なさそうに付け加えた。
『ところでなあ、斎藤さん、ワシの代わりに、菅田さんのお見舞いに、行ってくれないかなあ。見舞い手渡すだけでいいから』
「え?」
カンダ、その名を聞いた瞬間、広志の思考回路は瞬間凍結を起こした。
「見舞いって、菅田さんてあの菅田さん? あの、瀬川……」
『そうや、娘さん入院しとる。ご両親は病院に付きっ切りでいてるから、その見舞いの封筒持って行ってや』
息を吞んだ。今、この地域は日本中の注目を集めている。しかも、その中で更に注目を集めている女子高生に、見舞いを持って行けというのか。
……喰ったってことだよね。秀の言葉が広志の頭をよぎる。しかし、種三はその広志の内心を、間違いなく見透かしているようだった。
『菅田さんも自治会の一員だしねえ、町内会費で見舞金が出てるのよ。それにねえ、こんな事が起きたにせよ、菅田さんの奥さんは自治会のボランティア班長を務めとった人やから、無視するわけイカンでしょ。それにやね、よっく考えてみ? 娘さん、こんな事になって、見ようによったら被害者やで』
「……まあ、そうですけど、こんな時に病室に顔を出したら、向こうにとってもご迷惑じゃないかと」
『何も病室に顔出さんでいい。看護婦さんの待合に行って、金の入った封筒を届けるだけでよろしい』
「……仕事が立て込んでまして……それに、いつもそういうお使いは、書記の千田川さんが行ってくれてましたけど」
『千田川さん、ぎっくり腰らしいわ。雲山さんはくしゃみが止まらんらしいし、鴻池さんはリューマチが悪化したとか。中田さんは膝が痛くてよう歩かんらしい』
「……」
『ワシは、腹を下してなあ。腹がピーピー鳴って、怖くてよう外に出られん』
高齢化社会の弊害か、自己保身どもの宴なのか。
『すまんの。見舞金入れた封筒は、明日の朝にポスト入れとくわ』
とりあえず、何かを言おうと口を開いた瞬間、通話が切れた。かけ直したが、種三の携帯はずっと通話中になっている。
広志は、自分がゴミ箱になったがした。厄介、面倒くさい、気が進まない……そんな役目を放り入れる箱だ。
「……自治会長って、何なんだ」
ベランダから見える、淡い星空に問いかける。なぜか背後から答えが聞こえた。
「町人の幸福は、自治会長の利益よりも大事である。自治会長は決して彼の支配する町人の絶対的な主人ではなく,その第一の下僕にすぎない」
背後へ、広志は問うた。
「……小五の子供に、マキャヴェリ読ませたのは誰だ?」
「反・マキャヴェリ論だよ、お父さん。啓蒙君主で有名な、プロイセンのフリードリヒ二世の言葉だ。あのさ、何なら、僕とお姉ちゃんが病院へお使いに行こうか?」
ゆっくりと振り向くと、真理と秀の顔が並んで父を見つめている。
お父さん、と真理が口を開いた。
「私、ここから引っ越ししてもいいよ」
父親の目の奥を見透かすような、子供の四つの瞳。
広志は、親子の地続きの関係というものを実感し、そして思い直した。
子供たちの教育。子供に見せる父の背中は、逃げる背中であってはならない。
「いや、駄目だ。この町の会長はお父さんだ。俺が行く」
広志は内心、ほんのわずかにだが、自治会の老人連中には期待はしていた。
事件の渦中にある家庭に、見舞金を届ける。イヤな役回りだが、それでも、地元の病院へ封筒を届けに行くだけだ。
『顔を見せる必要はない。届けるだけ』と平田は言った。それなら、その役目を変わってくれてもいいだろう。
すでに社会的な役目を持たぬ立場の者が、多忙な現役世代の足手まといになってはならないと、そう思い直してくれるのではないだろうか。
しかし、次の朝のポストには白い封筒が入っていた。
文字には『見舞金』と不吉に書かれていた。メモはない。
広志は、完全に老人たちへの期待を捨てた。ついでに同じ自治会員としての連帯感も、怒りの火にくべた。
「私が行こうか?」
真理と秀が家から登校していったのを見計らって、里美が口を出してきた。
「その病院って、そこの龍和会セントラル病院でしょ? 私がそのお見舞金を菅田さんへ持って行けばいいじゃないの」
「いいや、必要ない」
広志は頭を振った。
「子供達には、俺が行くと言ったんだ。母さんを代わりに行かせたら、俺はあの古ぼけたクズどもとする事は同じだ」
「子供達には黙っていればいいじゃないの」
「子供たちに、知られなければ良いというもんじゃない」
しつけの問題だ。家庭には裏表があってはならない。それだけではなく、こうなると意地、そして老人どもに対する当てつけもあった。
広志は、家の家長として宣言した。
「だが、我が家では敬老の日は廃止だ。九月の第三月曜日は、祝日でも何でもない、ただの『平日の休み』とする」
広志はスーツを着て、見舞金の封筒を鞄に入れた。
近いうちに、病院へ行かなくては。
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