第2話 隣の家の少女
「お隣の掛井さんの息子さん、帰ってきたみたいね」
夕食のダイニングルーム。サラダにかけるドレッシングを出しながら、母が言った。
「本当?」
菅田梨恵は、思わず食事の手を止めた。
「あの子、今までどこにいたの? ちょっと、お母さん聞いたの?」
「そんなこと、聞けるはずないでしょ」
母が眉間に皺を寄せた。
「人様の家庭の事情なんか、我が家には関係ないだろう」
父も母に同調しながら、缶ビールを開けた。
梨恵は腹を立てた。
幼馴染のことが心配だった自分に対して、両親とも口調はそっけない。
それは隣人への配慮や距離感ではなくて、それ以上は関わり合いになりたくない風の口ぶりだった。
薄情だ。
「その言い方、冷たくない?」
「そう?」
「お隣でしょ。得也とは小学校の時からの付き合いじゃないの。子供の頃から顔を知っている子が、家出していたのよ?」
「……」
「その前からだって、隣から喧嘩する声とか聞こえてきても、お父さんもお母さんも聞こえないふりして、いいから私に早く寝なさいって言うだけだったでしょ。すぐ隣なのに、薄情過ぎない? 仲裁に行くとか、心配してあげるとか、そんなこと考えなかった?」
父が眉間に皺を寄せ、梨恵をちらりと一瞥した。
「他人の家庭に、あまり踏み込むんじゃない。大人と子供の付き合い方は違う」
「こういう時はね、他人からあまり構ってほしくないって思うものなの」
母が一息吐いた。
「特に一人息子の事となるとね、あちらも複雑でしょうから」
梨恵は憮然として夕食を終えた。
一番身近で、異質な存在。
梨恵にとって、隣の掛井家の一人息子、得也を表すとそんな表現になる。
市内の新興住宅地の一角。梨恵が小学校の時に、菅田家はこの建売の一戸建てを購入して引っ越して来た。隣にはすでに掛井家があった。得也とは、小学生から中学校まで同じ学校に通っていた。
得也は成績も良く、大人びて見えたが、人の輪に入ろうとはせず、いつも他人を冷ややかに見ている節があった。
男子生徒からは敬遠されていて、友達らしい友達もいない。
得也に話しかけたがる女子は多かったが、得也はそれも相手にはしなかった。
相手にされずに、泣き顔になる女子を、梨恵はどれだけ見てきたことか。
隣の家で幼馴染。自分が一番、得也に近い存在だ。
当然、そんな得也の態度を諫めたり、説教するのが自分の役目であると、梨恵は信じていた。
『勘違い女』だの『ずうずうしい』だのと、他の女子から散々やっかまれたが、そんな嫉妬をいちいち受け止めていては、この得也の幼馴染はやっていけない。
しかし、幼馴染であるにもかかわらず、得也は梨恵にも冷淡だった。いやむしろ、必要以上に冷たいといって良かった。
何を言ってもそっけない。心配しても、忠告しても、梨恵の言葉を聞こうともしない。
そんな得也の態度には、梨恵は何度も腹を立てた。絶交しようかとも思った。
しかし、得也はそんな態度をとることで、梨恵に甘えているのではと、そう思えるふしもあり、そうなると、梨恵はやはり得也をほっとけない。
高校の進学先は別れたが、これからも、得也との関係は今までと変わらないと、梨恵は思っていた。
だが得也が事故に遭い、志望校に受験出来ずに、二次募集のある高校へ入学したそのあたりから、隣の家の様子がおかしくなった。
夜になると、親子の激しい口論が聞こえてくるようになった。得也の乱暴な声を聞いたのは、そこからが初めてだった。
隣から聞こえてくる、言い争う声と物音を、梨恵の両親はあからさまに無視していた。
「ああ良かった。男の子じゃなくて」母はそう言った。
やがて、得也の姿をほとんど見かけなくなり、得也が学校をさぼり、性質の悪いグループと付合いがあるらしいという悪い噂を聞いた。
距離の問題ではない、得也の変化に、梨恵は心配になった。
得也が事故に遭った時、両親は彼にひどく同情していたものだ。
しかし、今では両親とも隣人に対する同情はなく、こじれている隣人の家庭問題から、どう我が家を切り離すかという態度になっていた。
夕食を終えて、梨恵は二階の自室に上がった。
部屋の窓からは、掛井家の二階の窓が見える。もう少し家と家が近ければ、屋根を伝って遊びに行けるのにと、子供のころ残念に思っていた。
隣の庭木も家も、黒いシルエットとなって月明かりに浮かび上がる。音もなく、家の明かりだけが、家族の在宅を示す静かな夜だった。
隣家の窓に向かって、梨恵は得也に話しかけた。
「家出するほど家が嫌なら、何で私に話してくれないのよ」
家出したらしいと聞いた時、ショックで口がきけなかった。
大体、得也はいつもそうだった。肝心なことは何も話してくれない。
また今回も、自分の心を無視されて、梨恵は心配より先に腹が立った。
滑り止めどころか、二次募集があったという、それだけの理由で入った高校だ。
得也にとって、きっと不甲斐ない気持ちで一杯だったに違いない。
掛井家の母親を思い出す。
正直、苦手なタイプだ。優等生製造ママで、他人に対して付き合うか、見下すかで分別する、姑になったら一番イヤなタイプ。
不運な事故のせいとはいえ、偏差値の低い学校に入った得也に、辛く当たったに違いない。
だから、得也がこうなったんだと梨恵は思う。
「いつも言っていたでしょ」
隣家の窓から、得也が顔を出す期待をする。そうすれば、面と向かって言ってやるのに。
「悩んでいる事とか、言いたい事があったら、ちゃんと話して欲しいって……私たち、幼馴染なんだよ」
大人びて、頭も良いし運動神経も良い。それなのに、人を寄せ付けず、危なっかしいものを持っていた。本心が見えない。梨恵はそれが心配で、付き合いの長い幼馴染という義務感もあって、何度も説教したが、結局聞いてくれなかった。
今はもう、得也とつながらなくなった携帯を見つめた。
――得也にとって、自分は何なんだろう。
結局その夜、得也の姿が窓から見える事はなかった。
良い天気だった。朝に家の門を出た梨恵は、振り返りざま掛井家を見上げた。
二階の窓は閉まっていた。かかっているのはレースのカーテンなので、いるともいないとも取れる。
しばらく、梨恵は玄関口で窓を見上げていた。母の声がした。
「何しているの? 早く行きなさい! 電車に乗り遅れるわよ」
梨恵はきびすを返した。
――梨恵の通っている瀬川高等学校は、共学の公立高だった。偏差値は中の上くらいで、濃紺のブレザーに白いブラウス、胸元にある臙脂のリボンの制服も、公立のデザインにしては悪くはないと梨恵は思う。
授業の合間の休み時間、教室で一緒におしゃべりをする友達もいる。今のところ、成績の心配もない。
あと、足りないものがあるとすれば……。
「まだこだわっているの?」
クラスメイトの安野真由の眉間にしわが寄った。
「梨恵の幼馴染、写真で見たら確かにカオは良いけど、まあ、気になるのは分かるよ? でも、話を聞いていると、隣だっていうだけで、梨恵にも冷たいじゃないの……矢野君にしなさいよ、それが一番」
「と、いうか、どうしてそう矢野君を粗末にするのよ」
もう一人のクラスメイト、栗山沙代子が非難がましい目を梨恵に向けた。
「聞いたよ。この間の日曜日、矢野君と一緒に映画へ行く約束しといて、待ち合わせに二時間以上待たせたって。しかも矢野君が梨恵に連絡しようにも、携帯切ってたんだって?」
サイアク、と沙代子の口が動く。キッツーと真由が呻いた。二人の白い目に、梨恵は憮然と抗議した。
「元から行きたくなかったの! 何度も断ったんだから。それでもしつこくって、帰り道にまで待ち伏せされて、こっちはほんっとうに嫌々だったんだから! 二人とも知っているくせに!」
隣のクラスの男子、矢野の強引さを思い出し、梨恵は気分が悪くなった。
最初は、公開前から話題の映画の招待券が二枚あるから、よければ一緒に行かないかという軽い誘いだった。顔は知っていても、隣のクラスというだけの男子と一緒に映画を見る気は無く、梨恵は断った。そうすると、最初の軽い誘いぶりは急変した。
断るごとに強引さを増し『何で?』『いいじゃないか』『行こうよ』しつこく食いついてきた。
最後には下校中に道中で通せんぼされ『お願いします!』なんて大声で叫ばれたのだ。
人目があったから、つい言いなりになった。限りなく脅迫に近い。
「元々、人が多いところは苦手なのよ。休日は、家で本を読んだりしている方が好きなの」
通学電車でも、じろじろ見られるのだ。
自分の容姿が人目を惹いていることに気がついたのは、いつからだったのか。
人から向けられる無遠慮な視線を思い出しながら、梨恵は溜息をついた。
「でも、嫌々でも約束は守らないとっていう義務感と、行きたくないって本音で、家から出られなかったのよ。せっかくの日曜日が台無し」
「矢野君をそんな風に扱うなんて」
沙代子がため息をついた。
「矢野君、どれだけ梨恵に対して勇気を出したと思っているのよ。後で他の男子に、ものすごくからかわれていたのよ」
「結局は映画、ちゃんと行ったよ」
「付き合ってみたら? 矢野君、性格も良い奴だし、梨恵に必死じゃないの。その内に好きになるかもよ」
『告白された時、実はタイプじゃなかったんだけど、まあいいかって付き合ってみたら、結構良いかなって思うようになった』
今、男子校の生徒と付き合っている真由がそう述べた。
「私はね、相手に好かれたから、好きになるっていうのとは違うの」
矢野に味方する二人に、梨恵は言い放った。
真由と沙代子が口をあんぐりと開けて、梨恵を見る。
真由は自分の経験から助言をしているつもりなのだろうけれど、梨恵には全然響かない。
そんな事ばかりじゃなくて、もっと複雑なのだ。そんな風に、簡単に言ってしまえる真由の考えは、子供っぽくすら思えて仕方が無かった。
授業が始まり、二時限目になった。次は美術。スケッチブックを持って、隣の校舎にある美術室に移動する。
梨恵はスケッチブックを抱えて立ち上がった。教室を出る移動教室は、気が重い。
外に出れば、隣のクラスの矢野光基と、廊下で顔を合わせるかもしれない。
日曜日の待ち合わせに二時間遅れて待たせたが、結局映画には付き合った。
話題だという映画はつまらなかった。これだから、最初から乗り気じゃなかったのだと梨恵は腹が立った。
その後にお茶に誘われ、おごるというから、まあいいかと付き合ってはみたものの……
できるだけ、のろのろと動いたつもりだったが、真由と沙代子にせかされて梨恵は廊下に押し出された。
顔が引き攣った。
「――あ」
出入口の前に、ひょろりと矢野がいた。
休み時間の廊下には、生徒たちがたむろしている。隣のクラスもこのクラスも。
囁き声に意味深な目配せ。蜘蛛の糸のようにまとわりつく好奇の視線。この意味のある空気に、梨恵は脳味噌の隅が腐る気がした。
息を一つ。美術室の方向へ目を転じる。
「ちょっと、菅田! 待って待って!」
「約束に遅れたことは、あの時ちゃんと謝ったじゃない」
慌てふためく矢野への牽制のつもりで、梨恵は腕時計を見た。休み時間終了まで、あと……
「謝るとか、そんなの違うって。あの時、菅田は怒っているっぽかったし、確かに映画はつまらなかったかもしれないし、そんなの誘った俺もイヤだし、次のは多分じゃなくてきっと気に入ると思うからええと……」
がんばれーと声がした。矢野の顔が膨張した。
梨恵は羞恥と怒りに歯を食いしばった。
――そんな顔で、誘って来るのはもう止めて欲しい。
行きたくて行ったんじゃない。しつこかったのも理由だけど、底にあったのは、得也に対する当てつけだった。
復讐心だった。あんたが粗雑に扱う私は、実は他の男子にとって価値があるんだと、得也に見せつけたかった。矢野はその道具だ。
梨恵は、矢野を睨んだ。
何であなたは私に謝るんだと、矢野へ苛立つ。
「ま、またケーキおごるから!」
矢野が叫んだ。
「いくらでも食べてくれて構わないし、それに俺は菅田につまらないとかケチとかそういうのはええと……」
周囲が笑いに震えているのが分かる。
それに気がつかない矢田の、その羽のような人の良さが、梨恵の気分を逆なでする。
ふう、と背後からため息が聞こえた。肩に手がおかれた。
「梨恵、何か言ってあげなよ」
沙代子が隣に立っていた。同情あふれる目と、非難がましい目が矢野と梨恵を交互した。
「ここまで言ってくれたのよ? だんまりなんて冷た過ぎ。せめて、何がどう気に入らないのか、矢野君にちゃんと言ってあげれば?」
「何がって……」
得也が浮かぶ。
矢野は得也じゃないから。
それしか言いようがない。この曖昧模糊とした感情を、どう説明すればいいんだ。
得也の持っている欠落感。見えない場所の、どこかのパーツが欠けている。梨恵は、それが何なのか、どうしても気になってしまう。
でも、矢野にはそれがない。欠落感も、探したい気持ちも。
「あの、噂で聞いたんだけど」
矢野の気弱に強張った顔が、真っすぐに梨恵を向いた。
「中学の時、菅田、追いかけ回していた相手がいたって?」
「……」
「でも、結局付き合っていないんだろ? じゃあ、そいつはもう菅田のこと……」
頭の中に、火花が散った。
矢野は、恐らく、誰かに聞いたのか聞かされたのか。
しかし、梨恵にとって矢野は、得也のことを見せる必要も、知らせる必要もない。
その矢野が、勝手に梨恵の中の得也を覗きこんでいた不快感。そして羞恥心。
梨恵に言葉はなかった。発する必要もなかった。
矢野の頭に、梨恵はスケッチブックを振り下ろした。
結局、その日は最悪と凶悪で煮詰まった。
衆人監視の中、頭でスケッチブックを受けとめた矢野は、男子生徒には薄い笑いと同情の的に。女子には完全同情一色に。
しかし、梨恵は男女両方から非難の的だった。酷過ぎる、相手の気持ちも分かってやれ、何を女王サマぶっているのよと。
「謝ってあげなよ。矢野君、スケッチブックで殴られるほど悪いことはしていないよ」
「というか、矢野君は梨恵にとって、運命の相手かもしれないじゃない。そこまで意固地になる必要はどこにあるの?」
真由と沙代子にまで、糾弾される始末だった。
矢野は、梨恵の事を好きなんだから、一生懸命なんだから、分かってあげなさいよと。
梨恵は激昂した。
「運命の相手かどうかなんて、私が決めることでしょ!」
『好きなんだから』それは、全てを許してもらえる免罪符になるのか。それは相手の勝手な心の通貨じゃないか。梨恵にとって、何の価値もない紙幣だ。それを有難がれとでも言うのか。そんな紙屑同然のもので、恋心を売ってやれというのか。
得也が浮かんだ。
――なんでお隣なのに、梨恵と幼馴染という運命を、どう思っているんだろう。
……家に帰った後、梨恵は夕食後に部屋にこもった。
携帯に幾つかメールが入っていたが、読む気にもならない。
窓の外を見た。
「……あ」
隣家の門が開いた。外灯の反射で、それは黒い影にすぎない。
それでも分かった。心臓が突き飛ばされた。
「得也!」
部屋から飛び出し、階段を駆け降りた。
「梨恵! こんな時間にどこへ……」
「コンビニ!」
門から飛び出し、左右を見る。右手の向こうに、黒い影が歩き去っていく。
その背中、歩き方に、梨恵は呼吸が止まった。走った。
「得也!」
黒い影は、歩みを止めない。
「得也!」
梨恵は走り、相手の前に立塞がった。
やっぱり、得也だった。
「何だよ」
ひりつく再会の幸福感が、寂寥感で冷えた。
名前さえ、呼んでくれない。
「……何だよって、それは……」
たくさん、想って考えていた。
顔を見たら、得也にどう話しかけようか。拗ねた風にか、怒った風にか。それとも、明るく? そして、得也は自分にどう話しかけてくれるのか。
「ひどいじゃない。なんだよって、それは何?」
再会した時にと、準備していたセリフではなかった。
「今まで、どこにいたの? すごく心配したのよ。携帯も通じないし、得也に何が起きているのか全然分からなくって、色んな悪い想像して、本当に心配したのに」
「……」
「家出するくらい、学校で厭なことがあったの?」
梨恵は躍起になった。
「悪い噂は色々聞いているけど、だからって、私は得也を変な目で見ないよ。だって、本当に運が悪いとしか言えない目に遭ったんだもん。そのせいで、今の高校が面白くなくても仕方が無いけど、それはそうとして、私が得也をずっと心配している事くらい、分かってるでしょ? じゃあ何で何も話してくれないし、相談もしてくれなかったの?」
得也に向かい、梨恵は感じた。
空気感が違う。
訴える梨恵に、得也が口をつぐむ事は以前からのことだ。しかし、その無言には、苛立ちであれ何であれ、得也の感情が含まれていた。
何かが違う。自分を見る視線もおかしい。本能に突き刺さる目。だが、それはエッチだとかいうオスの目ではない。
もっと値踏みするような……このざわつく皮膚感覚は、夜の風のせいじゃない。
「……携帯の番号、教えなさいよ」
梨恵は言葉を押し出した。
「つながらないの。番号、変えた?」
「もう持ってない」
「じゃあ、私の番号憶えてる? 忘れているなら、教えてあげる」
「必要ない」
「何が必要ないのよ!」
大声が夜の空気を震わせた。
分かってくれないもどかしさに、怒鳴りながら梨恵は懇願した。
「別に、私は得也だけじゃないんだから! 他にもいるのよ、私、得也以外の男の人好きになるよ、それでも良いの!」
思わず、足を踏み鳴らした。アスファルトが響いた。
「分かっているの? 私に見捨てられたら、もう得也には、誰もいないんだよ?」
得也に手を伸ばしたその時、上半身が揺れた。突き飛ばされたのだと分かったのは、アスファルトの上に転倒してからだった。
硬い地面で、梨恵は呆然と転がっていた。
「……え? もしかして、得也怒った? まさか……」
得也が、怒って私を突き飛ばすなんて。
今まで、冷たいだけだった得也が初めて振るった暴力。
違う男の影をちらつかせた梨恵に対する、明らかな制裁。
その力強さは、心変わりしようとする梨恵への怒り、そして想いとも見ていいのか。痛みよりも、その意味に心を奪われた梨恵は、しばらく黒い地面を見つめていた。
はっと顔を上げる。
「得也!」
もう、すでに姿は消えていた。
道の向こうは、全てが溶け込む闇だった。
「……そんな、得也が傷つくなんて……」
梨恵は甘く嘆いた。
そのケーキ店は、駅前から少し外れた、住宅地にある。
いつもはファーストフードに寄っていたが、たまにはケーキが食べたい。
第一、学校の最寄り駅前のファーストフード店はいつも混雑していて、同じ学校の生徒と顔を合わせることが多い。しかし、このケーキ屋の客層は場所柄、近辺の住人ばかりだった。
価格設定もやや高いので、学生も少ない。
安野真由と栗山沙代子は、放課後、向かい合ってケーキセットを食べていた。ケーキの味は、ファーストフードのジャンク味とは大違いで、店の雰囲気も高級だった。
梨恵は、今日は学校を休んでいる。
非常に大事な事が起きたので、勉強どころではないとメールが来た。
真由は仰天した。何が起きたのか、まさか家庭で何かあったのか?
「……で、詳しく聞いてみたら、その幼馴染の『トクヤ』は、矢野君の名前を出した途端、梨恵に暴力を振るったらしいのね。梨恵の言い分によると、彼との長い付き合いの中で、彼に暴力を振るわれたのは、あれが初めてだと……ねえ、沙代子。このイチジクのタルト美味しい」
「こっちのショートケーキ、真由に少し上げるからそれ、一口」
二人はケーキの皿を交換した。
ケーキのスポンジが、瑞々しいイチゴの酸味と混ざり合い、口の中で優しく溶ける。
アンティーク調の大人びた店の中で、真由は深々とため息をついた。
「ここのお店、梨恵がいたら『高いし小さい! 気取ってる』って怒るから、こんな時でないと来られないもんね。あの子ってば、ケーキなんか食べたって、腹は膨れない。ファーストフードじゃないとイヤだって、だだこねるし。いや、そういう問題じゃないでしょう」
「梨恵は美味しいものが食べたいんじゃなくて、満腹になりたいのよ。そもそも、食事の概念と目的が常人とは違うの。あの子見ていて分からない? あるとすれば質より量でしょ」
確かにそうだと、小さな工芸品のようなケーキを見ながら真由は納得した。
ねえ、と真由は沙代子を見た。
「沙代子は、その話をどう思う?」
「何が」
「……梨恵は、そのトクヤがついに自分への恋心を自覚したと、そう思っているのね。彼の暴力の理由は、自分から離れようとした梨恵に対する焦りと独占欲で、矢野君が出てきたことによって、初めて梨恵への想いを自覚したんだと」
「うーん」
「過去、学校中の女子の憧れの的であり、しかし、県下の名門高校を受験するほどの成績優秀な男。それが事故に遭い、受験に失敗したせいで三流高へ進学。しかし悪い仲間と付き合い、道を踏み外した結果、そんな学校ですら退学」
「絵に描いたような転落っぷりね」
「昔から誰とも打ち解けられない、そんな彼が冷たい素振りを見せながらも、唯一甘えていたのは自分だ。今の彼は、中退で友達も無い偏屈ニート。でも、彼は私だけが残っていると思っていたと。そしてそんな落ちぶれた彼に寄り添えるのは、こんな馬鹿な女しかいないのよって梨恵が」
「トクヤも随分な言われようだけど、気のせいじゃないの。写真でしか知らないけど、顔は良いじゃない。梨恵がいなくても多分フツ―にモテるよ」
「それ、梨恵に言える?」
「言えない」
沙代子がため息をついた。
「梨恵がそんなこと言っている間に、E組の西田さん、この間矢野君に告ったらしいよ」
「え?」
真由は絶句した。まずい、それは非常にまずい。梨恵のチャンスが奪われる。
西田希美の体格を思い浮かべる。梨恵にタイプは非常に似ている。矢野の好みに合うではないか。
「安心して。矢野君、西田さんをフッたって」
「ああ、それなら良かった……って、え、そうなの、何でよ?」
真由は頭を傾げた。希美は梨恵と見た目のタイプが同じでも、性格は穏やかで、段違いに良い子なのだ。自分が矢野の立場なら、スケッチブックで人を殴る梨恵よりも、希美を選ぶだろう。
沙代子は頭を振った。
「矢野君、体重八五キロ以下はお断りだって」
※
頭が痛い、お腹が痛い、体がだるいと言い訳を駆使して、梨恵は仮病で学校を三日間休んでいる。
「まさか、登校拒否!」と母は娘を心配するが、パート先の職場は人手不足で休めず、しぶしぶ仕事に出ている。
おかげで、邪魔は入らない。梨恵は朝からずっと、自宅の部屋で掛井家を見守っていた。
動きはない。カーテンも動かない。
「典型的、引きこもりだわ」
『午後の紅茶・クリームたっぷりミルクティー』を片手に、梨恵は嘆いた。
「得也ってば、全然家から出ないじゃない。学校行かずにどうせ暇なんだから、図書館なり映画なり、行けばいいのに」
以前から、たまに掛井家の郵便受けをチェックしている。特に最近は、父親宛のダイレクトメールとチラシだけだった。息子宛は全くない。
「これからどうするのかしら。学校のパンフレットとか、全然取り寄せてもいないし」
今日は燃えるゴミの日だった。ゴミは家庭生活の断片だ。これを調べれば、得也の日々がさかのぼって知ることが出来るのに……梨恵は歯噛みした。
「何なのあのオバはん」
ゴミを出せば、さっさと帰ればいいものを、その場を動かないのだ。
得也の母は、ゴミを片手にずっとゴミ収集車を待っていた。まるで、ゴミの最後を見届けるかのように。
かなり厳重に縛られている、その真っ黒なゴミ袋の中には、得也の日々と心の手掛かりが詰め込まれているように思えた。
梨恵は思い出す。中学一年の頃、思い余って得也に書いた手紙。恋心を切々と、ボードレールやリルケの文章を引用して書いた。しかし、ついに渡すことが出来ずに、細かく破り、厳重に封をしてゴミに出したことを。
あの手紙が一文字でも人に見られることを恐れて、梨恵もあの母親と同じように、やはりごみ収集車が来る直前に持って行った事。
しかしあの得也の母親、彫像のように微動だにしなかったオバはんを押しのけて、掛井家のゴミを手に入れる事が出来るかといえば……難しい。
梨恵は嘆息した。
夕食は、鶏のから揚げとエビフライにしてもらった。
「梨恵、大丈夫なの? 身体の調子が悪くて休んだのに、そんな脂っこいの食べられるの? 昨日は、熱っぽいって言って、オムライスとビーフシチューだったでしょ」
「身体の調子が悪いから、食べて整えるのよ」
梨恵は言い切った。
「ポテトサラダもつけてね」
昼間は一歩も出ない得也、そして先日の再会に、ある予感があった。こうなると、場合によっては夜中まで起きている必要がある。
睡眠不足は居眠りで補えるが、エネルギーは物理的に補う必要があるではないか。
夕食を終え、すぐさま梨恵は自室に上がった。夜食代わりのスナックは、部屋にちゃんと補充が置いてある。
ジャージに着替えてベッドに座りこみ、窓の前に待機する。気を抜く訳にはいかない。
待った。窓の外、隣家の門だけを見つめ、得也の姿を思い描いた。
……梨恵の心臓は歓喜と緊張ではじけたのは、その三時間三二分後だった。
これからが本番だった。今回は得也だけではなく、家族にも外出を知られてはいけない。
時間を見る。父は接待らしい。まだ帰ってきていない。母は風呂だ。
外に出た。
先日、得也が消えた方向を見ると、得也の後ろ姿が闇に溶け込もうとしていた。
梨恵は後を追う。
「得也ってば、もう、カンペキにニートの定番じゃん」
悲しさに、涙が出かけた。
得也の今は、引きこもりの典型的行動だった。仕事もなく、学生でもない自分の立場に気が引けて、人目を気にして昼間は出歩くことが出来ない。
そして夜になって、ようやく外を徘徊するのだ。
どこに行くのか、行く場所はあるのか。
梨恵は得也を追った。住宅地を抜けて次の住宅地へ入り、川を渡って……
「コンビニじゃないんだ」
得也の向かう先に、梨恵はちょっと怪訝に思った。夜中にニートが向かう場所はコンビニで、目的は雑誌の立ち読みと相場が決まっている。
ネットで社会情勢をチェックし、生身の触れ合いはコンビニの店員や夜中客というのが、ニートというものなのだが。
川を渡ると、小さな工業地域だった。民家よりも、家庭で経営しているような小さな作業場と、空き地やトラック置き場が目につく。
工場のシャッターは閉まっている。ぽつん、ぽつんと外灯が、静かな歩道を照らす。
身を隠す場所は電柱しかない。振り向かれたらどうしようかと梨恵は焦ったが、得也は一度も振り返ることなく、暗い夜道を歩み続ける。
小さな家がポツンとあった。その前で、得也の姿が突然消えた。
「あれ!」
梨恵は焦った。見失った?
得也が消えた家の前に駆け寄った。ここに入った? 表札を確かめた梨恵は、首を傾げた。『鎌田』と表札はある。
しかし、人を招き入れるにしては荒んだ家だった。門柱の明かりはなく、木製の煤けたドアは固く閉じられている。何より、ゴミ屋敷だった。門の前には壊れた自転車とゴミ袋、壊れたトタンが放置されている。鍵はかかっていた。
家は荒んでいる、というより、死んでいた。
梨恵は、そっと裏手に回った。家の裏は壁とブロック塀だ。タンスなどの家財道具や、洗濯機、扇風機が打ち捨てられて、ゴミが狭い地面から壁を埋め尽くしていた。ガラクタを踏み、蹴りながら梨恵は進む。
通るのが精いっぱいだ。ゴミに囲まれたこんな家に、人は住めるのか。
「あれ? 明かり点いてる」
ゴミにほとんど隠れていた窓から、小さく明かりが漏れていた。住人がいるらしい。
しかし、どうやって入ろうかと梨恵は思い悩んだ。玄関から普通に入る事を、この家の空気は拒否しているように思えたのだ。しかし、この家の前で得也を見失ったのだ。
ここから得也の気配がプンプン匂う。
足首に風を感じて、梨恵は下を見た。壁に大きな穴が開いている。
予感を感じて、梨恵は穴に潜り込んだ。
「ぶはっ」
入った瞬間、カビと腐敗と鉄臭さに、梨恵は鼻を押さえた。
穴は、台所に通じていた。しかし、もう台所ではなくて腐りはてた場所だった。
穴をくぐりぬけて立ち上がると、足元に黒い虫が何匹も走った。
一足ごとに、みしっと床が抜けそうな音がする。床には紙、布、段ボール、紐、配線。全ての種類のゴミが層を作り、山を作っている。
テーブルの上には砂と土にまみれた皿と曇ったコップ、干からびた何かと、開き缶が散らばっていた。
「何よ、この家」
人の家だが、土足のまま梨恵は部屋を見回した。
明かりはついていて、生活の跡はあるが、人が住んでいるとは思えない。生活感の亡霊だけがそこにある。
見回すと、廊下があった。獣道のように、誰かが通った跡がある。
梨恵は台所を出た。すぐ隣に部屋があった。
「あれ?」
入った梨恵は呟いた。
台所と打って変わって、この和室は畳がふやけ、毛羽だっているものの、足元も空間にもスペースが作られていた。蛍光灯の明かりが点いている。この部屋は使用している。天井にロープが張られ、飴色の塊がいくつもぶら下がっていた。
その中の、ひときわ大きな塊に梨恵は近寄った。
「……なんの動物?」
巨大な肉の塊、それは分かった。骨がついている。食肉工場の映像で見た、牛の肉を連想させたが、色は赤ではなく、すでに飴色に変色している。
匂いを嗅いだ。
どこの部位なのか、皆目見当はつかないが、細長い肉塊も数本。豚でもなく、鳥でもない、不思議な色の肉だった。部屋は肉の匂いに満ちていた。かすかな血の匂いが混じっているが、獣臭さはない。
洗濯物のように干された肉塊の下で、記憶や知識を総動員したが、肉の正体は何なのか、答えは出ない。それよりも、梨恵は周りを見回した。
「そうだ、得也……」
この家。梨恵の直感は、得也にいると示している。
床が軋む音。
勘が当たった。この部屋の、さらに奥の部屋。そこから現れた姿に、梨恵は歓喜の悲鳴を上げかけた。しかし、嬉しすぎて息を吸い込むだけに留まった。
「何で、ここに、お前が……?」
前に、得也が立っていた。
いつもクールな得也から、見たことも無い表情。
梨恵は、今までにない得也の素顔を見た気がした。梨恵は、息を吸い込み、得也に歩み寄って顔を見上げた。
「追ってきたの。だって、この間の事もあったし」
「……この間?」
「矢野君の事を話したら、得也は私を突き飛ばしたじゃないの。あれではっきり分かったの。得也の本当の気持ち」
得也が足元に目を落とした。そして、考え込んでいる。
やっぱりそのまま口にしたら、得也だって恥ずかしいよね、と梨恵はちょっと反省した。
得也が顔を上げた。口調は固かった。
「あれは、もう俺を追ってくるな、という意味だ」
「分かっているわよ、もう自分には何も価値はないって、そう思っているんでしょ? 高校中退して、今じゃ単なるニートだし、得也って偏屈で人間嫌いだから、バイトしたって人間関係上手くいきっこないし、だからって自棄起こして、ニートなら絶対やらかす通り魔なんか起こして、社会に己の不遇を訴えようにも、新聞には掛井得也でも誰でもない、無職少年A(一六)だし」
「……」
「高校中退じゃ、この後は就職先だって苦労するよね。せめて二〇代ならいざ知らず、中学卒業したてで社会の本流から外れたら、もう行きつく先は底辺しかないじゃん。得也が私に言いたいことくらい、分かるわよ」
懸命だった。得也が己の状況を、梨恵に悟らせる必要はない。梨恵は全て承知の上だと、得也に訴える。
「何のために来た?」
その声に混じる疲労に、梨恵は同情した。やはり、思った通りだ。こんな生活に得也は疲れていたのか。いつになく弱っている得也に、愛おしさを込めた。
「あの夜に、矢野君の事を持ち出して、得也を傷つけたんだもの。私だって後悔したのよ。考えてみたら、得也が冷たいのは今に始まったことじゃないのに、あなたを試すようなことを言っちゃったから」
「………………で?」
「反省したから、改めて得也をちゃんと見つめ直すことにしたの。得也が何を考えているのか、今どんな生活を送っているのかとか。だって、アドバイスや力づけてあげるにしても、この目で得也の状態を、ちゃんと見る必要があるでしょ? だって、結果的に二人の将来だもの。ここでちゃんと立て直さないと」
もともと、得也は表情が豊かではない。そういう人間は、歓喜でも何でも、感情のリミッターが振りきれると、泣くか笑うかではなく、完全な無表情になるらしいと梨恵は思った。
「絶対、こいつマズイよな……」
ぽつんと得也は呟いた。どうするかな、と。
「まずいって、何も、私の将来を心配してくれなくても大丈夫よ……あ、ところで得也」
梨恵は、天井から吊るされている肉塊を指した。
「これ、何の肉? 駄目じゃない、こんなところで」
梨恵の指摘に、得也の目が一気に緊張した。梨恵は顔の前を飛ぶ蠅を追い払った。
「こんなとこで食べ物置いとくなんて、食品衛生上、もの凄く問題あるよ。さっきからゴキブリ何回も見たわよ。部屋にゴキブリだなんて、慣れている私じゃなきゃ、大騒ぎよ」
「……ここに来ること、誰かに言ったか?」
「言わない。だって、うちの親、うるさいし」
得也が絡んでいると知れば、絶対に怒る。隣の与太者に恋する年頃の娘を、両親は酷く心配しているのは梨恵でも分かる。
得也が梨恵を直視した。その真っすぐな目に、梨恵はある前兆に怯え、そして期待した。
「ここ、私たち以外に他に誰かいるの?」
「いない」
得也は一歩、踏み出した。
その目に荒々しい獣性が浮かび、梨恵を見ている。
思わず、声を出しかけて梨恵は気が付く。今まで歩いてきた風景を思い出した。シャッターが閉まった作業場と、無人の駐車場、空き地。この近辺は、無人に等しい。
そして夜も真夜中に近い。明かりのついている家は、まばらだった。
その瞬間、梨恵は今の姿をひどく後悔した。
ジャージ姿だった。
しかも、中学時代、体育の授業に使っていたものだった。
しかし、お風呂には入って来たから、下着は変えたばかりだ。いや、清潔なら良いというものではない。フリルでもレースでもない、青と黄色の縞模様プリントなんて、色気も無い事甚だしい。
いや、こんな目をしている得也が求めているのは、梨恵自身なのであって、下着どうこうは、この際問題にしなくても良いのではないか。それよりも、問題は……
「こ、こんなところじゃあ!」
近づく得也の肩をがしりと掴み、梨恵は得也を押し返した。そのままぐいぐいと前進し、得也の背中を砂壁に押し付ける。ドンと鈍い音が響き、砂壁がばらばらと落ちた。
もしかして、と天啓が閃く。自分は得也に誘い出されていたのではないか。
「も、もしかして得也、分かっていて私をここにおびき寄せた? そうよね、私の行動パターンなんか、知り尽くしているもんね、中学の頃にも、よく私、放課後に得也の帰りを尾けていたもん、何度も得也に怒られたじゃない! もしかして、今回も見抜いてた?」
「え?」
得也の顔が、はっきりと引き攣った。これは核心をついたと、図星だと梨恵は確信する。
どこか怯える得也の顔。そりゃそうよねと、梨恵は悟った。
いくら策略を巡らし、梨恵をここに誘い込んだとしても……結果的には、双方合意であるにせよ、怖いに決まっている。
二人とも『初めて』だし。
勇気を出すのよ梨恵と、梨恵は自分自身を叱咤した。
得也の迷いと躊躇が、鷲掴んだ肩から伝わってくる。それはそうだ、昔はどうであれ、今の自分は梨恵に相応しくないと、彼は思い込んでいるのだ。
それを何とか解放するのが、他でもない、梨恵の役目ではないか。
「言っておくけど、私だって恥ずかしいんだからね! こういうことするの!」
「こういうことって、なんだよそれは! いやなら別にしなきゃいいじゃねえか!」
「また、得也ってば自暴自棄になるし! 分かったわよ、ああもう得也のバカ!」
……ファーストキスとは、グニャ、て感じだったという、真由の言葉は本当だった。
『普通にチュ、なら良いけど、舌入れられるのはあんまりなあ……大人のキスとは、そういうものらしいけど』
その時だった。
思い切り突き飛ばされた梨恵は、大音響を立てて畳のうえに転倒した。
のしかかる得也。期待する理恵。
「やだぁ、得也、乱暴はやめ……」
梨恵の首筋に、鋭い激痛が走った。
「ぎゃああああああ」
廃屋が揺れた。
得也が、仰け反って梨恵の腹から転がり落ち、げえげえと咽喉に手をやった。
「……クソまずっ……」
「あー、血が出てる、得也のバカ! 首筋噛まないでよ! キスの仕方も知らないの! 痛いじゃないの!」
上体を起こして抗議する梨恵へ、得也が忌々し気に吐き捨てた。
「脂臭え、何食って生きているんだ。こんな不味い肉もあったのか……」
「何わけの分かんない……」
その時だった。梨恵の脳天に稲妻が走った。視界が真っ赤になり、風景が転倒する。
「……っ?」
梨恵は、再び上体をどぉんと床に落とした。筋肉が痙攣する。真っ赤に染まった視界が、次は灰色に変化した。脳みそがブルブルと震え、本能以外の思考を振り落としていく。
倒れた瞬間に、夕食に食べたエネルギーが一瞬にして蒸発した。
得也が立ちあがろうとしている。
「……とくや」
こんな横になったままのアングルで、彼を見つめるなんて初めてだわ、と梨恵は思った。
畳の上で身体を支える、あの逞しい腕の筋肉。ピンと張った肌、艶やかな肉の色、そして形の良い顎なんて、齧ってしまいたいくらい……筋肉のついた体の中で、あの唇だけが柔らかそうだわ。すぐ食い千切れそう。
食欲が、梨恵の頭を殴りつけた。
呻いた。
「おいしそう」
得也の心だけではなく、その肉体そのものが、梨恵の本能への甘美な刺激になっていた。
得也という愛でるべき肉を、恋の炎でバーベキューにし、その血を飲み干すことで、自分の血と同化させ、骨の髄まで喰らい尽くしたい欲望が臓腑を駆け巡る。
「とくやあああ」
梨恵は飛び起きた。得也に突進した。得也がぎょっとした顔をこちらに向けた。
得也の拳が梨恵の腹に食い込んだ。
猛烈な一撃。梨恵は吹っ飛び、壁に激突した。
そのままずるずると畳に落ちるが、やがて立ち上がった。
得也に猛進し、胴にタックルして押し倒す。床が抜けるほどに軋んだ。
目の下に、よだれが出るほど愛する得也の顔がある。頬、唇、どちらからでもイイと、梨恵は大口を開けて齧り付こうとした。その瞬間、体がふわりと浮いた。
巴投げだった。
地響きを立てて、梨恵は落下した。
「ぐぬぬぬぬ」
呻き声を上げて、梨恵は飛び起きた。頭にアドレナリンが渦を巻き、怒りと食欲が恋心に混じって燃え上がる。
「どぐやあぁぁっ」
背中を向けて逃げ出そうとしていた得也が、ぎょっとした顔で振り向いた。そのわずかな怯えの表情に、梨恵の食欲に嗜虐心というスパイスが付け足される。
「ちっ」
天井から吊るしている巨大な干し肉の塊を、得也は引きはがした。それを両手で構え持ち、突進してくる梨恵に身構える。
オオカミのように梨恵は飛んだ。落下地点の得也めがけて襲い掛かる。
飛んでくる梨恵を、得也は巨大肉で叩き落した。干し肉中心に梨恵の顔面がめり込んだ。ぐぶう、と梨恵は呻き、顔面を埋める肉に、呼吸の邪魔とばかりに食らいつく。
「!」
梨恵は、その瞬間すべてを忘れた。
口に入り、咀嚼した瞬間に広がる芳香と、舌の上で蕩け散る濃厚な甘み。
忘却の味だ。
梨恵は、顔面に広がる痛みを忘れ、さっき自分を攻撃した得也の武器を見つめた。
「なにこれ、とくや! すっごくおいしい」
麻薬だ。得体のしれない肉の形だったが、悪魔の食べ物でもあるそれを、がつがつと梨恵は歯で肉を毟り、食べて飲み込んだ。その動作だけが悦楽に変わる。
目の端で、じりじりと自分を伺っている得也を見張りながら、梨恵は口と咽喉を動かし続けた。
突然、得也が動いた。和室の隅に転がっていたブラウン管のテレビを両手に抱えると、肉を夢中に喰らう梨恵の頭を狙い、投げつける。
「ぎゃあっ」
間一髪で梨恵はテレビから避けた。梨恵を殺しそこなったテレビは、壁に当たって、大穴を開けて落下した。
「なによおっ! 得也ってば、この肉を独り占めするつもりね!」
幸福を独占される口惜しさと怒りで、梨恵の頭は沸騰した。いくら好きな男でも、食べ物を独り占めするそれは許せなかった。いや、得也が見せたその器の小ささに、愕然とする思いだった。クールに見せながら、まさかそこまで食い意地が張っていたなんてと。
地べたに置いて、肉が汚れるのもイヤなので、梨恵は肉を掴んだまま得也へ向かう。
壁がドスドスと振動で揺れ、床板が重量に軋みを上げた。
「!」
突如、梨恵の目の前から得也が消えた。下半身に衝撃が走り、手に持っていた肉を取り落とした。床板を踏み抜いたのだ、そう気が付いたのは、一気に下がった視点の位置だった。視線が床の上を這っている。
「とくやああ、たすけてええ」
両手を上げて、梨恵は叫んだ。
「上がれないよお、何とかしてええ」
ぴょんぴょんとジャンプし、床から頭を飛び出させた。得也はいなかった。吊り下げられていた肉もいつの間にか、全て無くなっている。
「どろぼー!」
梨恵は怒鳴った。
早朝四時。
コンビニの夜勤にとっては、一番眠く、仕事のない時間帯だった。客はいないし、商品補充のトラックもまだ来ないので、店員の二人は雑談かラジオ体操で眠気を誤魔化す。
「……俺、寝てきていい? やっぱり駄目だ、眠い」
どうでも良い話題と、下ネタと野球とお笑いを、コウスケと一緒にあれこれと喋っていたが、ついにツヨシが切り出した。
ツヨシは夕べ、大学の課題レポート書くのに徹夜だったという。それはきついとコウスケは頷いた。
「いいよ。一人で適当にしてるわ。商品の補充する時は起こすよ」
「悪い……恩に着るわ……」
ゆらりとツヨシがバックヤードへ歩いて行こうとした時、自動ドアのチャイムが鳴った。
「いらっしゃいま……」
コウスケは機械的に声を張り上げた。早朝の声掛けは、コンビニ強盗防止策でもある。
マニュアルに従ったコウスケは、その客の姿を目にした途端、バックヤードへ行こうとしているツヨシの青い制服を思わず掴んだ。
眠そうな顔で、ツヨシが「あん?」と言いかけ、顔を強張らせた。
……コンビニ強盗には見えない。
しかし、コンビニ強盗より底知れない不気味さを漂わせていた。思わずコウスケはレジの下に一一〇番通報用ボタンを押しかけて、思い止まった。
まだ少女ではないか。
世間一般で言う、未成年の女の子は少女だ。
しかし、これも少女というカテゴリに入れて良いのかと、それは間違いというよりも、冒涜ではないのかとも、コウスケは考えた。世間で言われる少女のイメージとは、世の汚濁を知らず、家庭と学校という狭い世界の花園で、己の夢と理想と幻想を糧にして、そっと咲こうとしている可憐な花ではないのか。
しかしこれは、花といっても……
ラフレシアだ。コウスケは熱帯に咲く巨大な花を思い出した。世界で最大の花として知られ、直径は一メートル程。
死肉に似た赤黒い色、分厚い肉質で便所の匂いを発して、クロ蠅をおびき寄せる。
「ツヨシ、なあ」
コウスケは、そっとツヨシの制服の裾を引っ張った。
「アレが怖い。やっぱり、ここにいてくれ」
あのなあ、とツヨシが呻いたが、それだけだった。
デブが夜中に腹を空かせ、おやつを買いに来た、それだけなら良い。しかし、おやつという呑気な風体ではなかった。
髪の毛は、ゴミを掃いたあとのホウキのように、あちこちにホコリとゴミをくっつけて広がっていた。着ているものは、まるで雑巾に古びた生地の、サイズもはち切れそうなジャージ。ゼッケンが縫い付けられていて、『三―Ⅱ』とまでは見えるが、マジックで書かれは文字の色がかすれて、灰色の汚れで名前までは読み取れない。
しかも、その顔は土気色だった。ぜえぜえと荒い呼吸をくり返して、まるで人を食い殺しそうな目をしている。ゆらゆらと動く足取りは、以前に観た映画「ナイト・オブザ・リビングデッド」ゾンビそのものだった。
デブ……いや、少女はゆっくりと店内を徘徊した。彼女の口の端で光るそれに、コウスケは愕然となった。
女の子がよだれ垂らしながら歩いていいのか。
早く出て行ってくれと、レジの下で手を組み合わせてコウスケは全霊を込めて祈る。
こっちは大の男二人で、向こうはただの肥満児。しかし、こんな相手とは争いたくはない。
底知れない不気味と息詰まる空気が、店内を侵食しつつある。まるで深夜徘徊している怪物のようだ。
……少女は森をさ迷う怪物のように、ぐらりぐらりと雑誌コーナーから弁当、弁当からパン、菓子。そして、ついにレジに来た。
レジ前に立つ。食い入るように見つめているのは、湯気を立てているおでんの鍋。
コイツのよだれが鍋の中へ垂れませんようにと、おでん種の心配するコウスケの横で、ツヨシがぶっきらぼうに言い放った。
「注文は?」
少女が突然呻いた。その手が真っすぐ伸びた。おでん用の容器を取らず、そのまま手を鍋の中へ。
「あーっ」
コウスケは悲鳴を上げた。熱い出汁の中に、素手を突っ込むとは、まさかの想像を超えた。
ツヨシが悲鳴混じりに怒鳴った。
「なにすんだ、きさまぁっ」
熱さを感じていないかのように、少女は大根と卵、ロールキャベツを一気に掴むと、ぐわっと大きく口を開けて食べ物を突っ込んだ。ぐちゃぐちゃと黄身が口からはみ出た。
「まじいっ」
咆哮した。そしてまた手を突っ込む。ちくわや厚揚げ、がんもどきと全てを口に押し込み、咀嚼する。口に収まり切れないおでんの具が、だらだらと口の脇からあふれ出た。
「き、貴様ぁっ」
堂々過ぎる盗み食いに、ツヨシがレジから躍り出た。少女がおでんの鍋を突然つかみ上げた。おでん鍋がツヨシの頭の上にぶちまけられた。
「あじじいいいいっ」
転がる鍋と共に、おでん種の上を転がるツヨシへ、仰天したコウスケは通報も忘れて走り寄った。レジの横に設置してある肉まん保温庫を、少女が両手でつかみあげた。
カウンターの角でガラスをたたき壊し、肉まんとアンマンを掴むと、一気に口に詰め込む。
「ツヨシ、しっかりしろ、おい!」
「コ、コウスケ、あれ!」
頭に糸こんにゃくを乗せたツヨシが、レジを指さして叫んだ。
「次はからあげくんとホットドック!」
コウスケは戦慄した。蒸し饅頭がはみ出る口から、次はからあげくんとホットドックを手に掴んでいる。
「まずぅい!」
お気に召さなかったらしい。ガラスケースを横殴りに叩き落した。そればかりか、レジ前に募金箱やライター、備品をあれこれ投げつける。精算台によじ登り、レジを構えた化け物に、ツヨシが悲鳴を上げた。ツヨシの頭を押さえつけ、コウスケは頭を抱えて伏せた。
さっきまで頭のあった場所に、レジが、熱を持った保温庫が空を切り裂いた。棚が倒れて商品がぶちまけられる。潰れた箱とスナック菓子の中で、コウスケとツヨシは、抱き合って震えあがった。
レジの台に乗って暴れ狂うそれは、少女でもデブでもない。正に怪物だった。ガラスケースに入ったドーナツを、不味いと咆哮しながら食い荒らし、腹立ちまぎれなのか、コピー機をぶん投げた。電子レンジを投げつけた。食べながら破壊し、破壊しながら貪り食う。
通報用のボタンは台の下にある。押そうにも、精算台には近づけない。スマホはどこかに落としてしまった。コウスケは防犯カメラを見た。そして絶望に落ちる。
店内の天井に設置していた防犯カメラが、投げつけられた電子レンジと共に、床に砕け落ちていた。レジの傍にある防犯カメラも同様だった。
頭上を小包が飛ぶ。ガラスケースが叩き割られ、お中元のサンプルケースがぶちまけられる。床にはおでん種と新聞が散乱している。
さっきまで安穏としていたバイトのコンビニが、突如乱入してきた怪獣によって、破壊と暴虐の限りを尽くされている。
予期もしない事態に、死の予感がコウスケの頭に突き刺さる。
こんな場所で、こんな奴に殺されたくはない。
震えながら、コウスケはツヨシを見た。ツヨシはコウスケを見ていた。そして、二人は暴れ狂う化け物を見た。
化物は破壊と盗み食いに夢中だった。レジ横の冷蔵庫からアイスクリーム取り出しては喰い、喰っては取り出しをくり返していた。二人は頷き合った。そしてほふく前進でドアへと向かい、ドア付近でばねのように立ち上がると、そのまま夜明けの外へ飛び出した。
※
真由は、朝の学校の教室に入ると、真っ先に梨恵の机を見た。
今日も休みか。
席に着く。教科書を机の中に入れていると、沙代子がお早うと言って近づいてきた。
「梨恵から連絡は? メールとか」
「無い」
携帯で話をした。幼馴染から、愛の証である暴力を振るわれたと、話を延々と聞かされたそれ以降、連絡は途絶えている。
メールを送っても返事はない。
「何か……梨恵ってば、トクヤの本心を確かめるとか、二人の将来のために、彼を真っ当な道に戻さなければとか言っていたけど、結局どうなったのかな」
「どうなるもこうなるも」
二人で、ううむと机の前で立ち尽くす。恐らくお互いに同じことを考えているのだろう、それは分かっているが、口に出したらお終いだとか、トドメだとか、言わないのが優しさであるとか、複雑な思いが交差していた。
すぐ後ろで、男子生徒が興奮してしゃべっている。近所のコンビニに、強盗が入ったというのだ。朝からパトカーや野次馬が押し寄せていたらしい。
「ホラこれ、この事件。もう朝のニュースになってるぜ」
「店内は激しく荒らされ、レジも破壊されてたが、売上金には一切手を付けられておらず……しかし、店内売り場の食品のほとんどが食い荒らされていた。警察はバイトの青年二人の目撃情報を元に、防犯カメラの映像確認も行っているが、二人の証言の内容が支離滅裂であり、防犯カメラも破壊されて映像は不明瞭。捜査は難航している……か」
ちらっと真由と沙代子は背後を見た。
「物騒ねえ」
そして、再び話を戻しかけたその時、クラスメイトが話しかけてきた。
「菅田さんなら、朝練で見かけたけど?」
「朝練で?」
「うん、ジャージ来てたから、運動部に入部したかなと思ったんだけど……」
登校はしているのか。
しかし、あの梨恵が運動部に入るはずはない。入ったという話も聞かない。そして、それならば教室になぜ来ない。乱立する疑問符に、真由と沙代子は頭をひねった。クラスメイトがぶるっと身を震わせた。
「それがさあ、物凄く様子が怖くてね」
「怖い?」
「ゴミの山から脱出してきたような格好でね、しかもジャージは学校のと、色が違うし…・…あれ、中学の時のじゃないかな。おまけに顔がぐしゃぐしゃ。口の周りは食べ物とかついたままだし、よく見たらジャージは染みだらけで、おでんみたいな匂いがするし」
「………」
「矢野君がバスケットボール持ったまま、菅田さん見て愕然としていたよ」
そのあとすぐに朝の授業が始まったが、梨恵は来なかった。
休み時間の度に、隣のクラスの矢野の顔が覗いた。そして、梨恵の不在の席に肩を落として去っていく。
もうすぐ昼休みも終わろうとしているのに、梨恵はまだ教室には来ない。
「保健室でもいないって、あの子どこよ?」
「フラれたショックで、学校のどこかで閉じこもってるのよ」
それなら家に閉じこもればいいのに、とも思ったが、色々あるのだろう。かといって、教室に傷心の顔を出せない。恐らく行き場が無いのだ。どうせフラれるとは分かっていたが、少々哀れである。
「失恋の痛みってさ、新しい恋で癒すのが一番っていうよね」
「それはやっぱり矢野君よねえ」
さっきまで教室を伺っていた、ひょろりとした矢野の姿を、二人は思い浮かべる。
梨恵を癒せるとすれば、相手は彼しかいないと真由は思う。
矢野。体重さえあれば、どんな女でも受け入れてくれる包容力の持ち主。
バスケ部の朝練で、梨恵の出現を目撃したらしい矢野は、彼女が気になるのだろう。授業が終わるたびに教室を覗きに来ていた。
それなのに、梨恵はどこに行ったのか。保健室にもいないし、メールの返信もない。
授業も受けずに、しかも中学時代のジャージ、薄汚れた姿で、どこで何をしているのか。
梨恵に会えると期待し、そして裏切られて隣の教室へ戻っていく、あの切なげな矢野の瞳は、悲しい一途な恋心そのものだった。
どう考えても、どの角度から見ても、梨恵を受け入れてくれるのは彼以外にいないのではないかと真由は梨恵に言いたい。
顔は良いが、態度の冷たいあの幼馴染トクヤに、梨恵はどんな手ひどいフラれ方をしたのかは、真由は知らない。しかし、これで梨恵も分かっただろう。ツンデレではない……本当に嫌われているのだと。
彼と梨恵は隣同士の家に住んでいたとしても、心は地球と冥王星以上に距離があり、温度差は溶岩と北極の氷なのだと。
幼馴染というだけで、恋は生まれないのだ。大体、お前の鏡は何が映っているのだ。
魔法の鏡というより、呪いの鏡ではないのか。お前の体重計は不良品というよりも、大噓つきの太鼓持ちか? 数字は入っているのか? 一体何を鏡に映し、体重計の表示をどう見れば、己の姿をグラマーな美少女と思い込める?
デブとグラマー、辞書で引いてみろ。肥満と豊満を一緒に混ぜるな。美的基準を自分に合わせるんじゃない。他人から向けられる憐みと嘲笑の視線を、己への賛嘆と憧憬に生まれ変わらせるその胆力、すでに発狂レベルに差し掛かっているぞ。
そこまで自分を世間の枠に納められないのなら、ありのままの自分を愛してくれる男に目を向けた方が、梨恵の幸せというものではないか。
「……かといって、矢野君と梨恵をどうやってくっつけるのよ?」
首をかしげる沙代子に、真由は述べた。
「ここまで行けば、もう正攻法で行こうよ。二人を屋上に呼び出して、話をさせるの。梨恵にはなんだかんだ言って、屋上に呼び出すなり連れて行くなりして、そして矢野君には、梨恵は今傷心だから、アタックするなら今だとメールなりラインなりしてさ、屋上に来させるの。なんだかんだ言っても、弱っている時に口説かれたら、いくらあの梨恵でもクラッといくでしょ」
気が付くと、好奇心に染まった表情が、真由と沙代子の周囲に集まっていた。
※
あああああ、腹減った。
目が覚めた途端、感じたのは空腹だった。
梨恵はごそごそと起きた。湿気がひどいことから、もう使われなくなった裏庭の倉庫。カビ臭い匂いが下のマットレスから立ち昇る。
まだ頭がぼうっとする。廃屋の床下から脱出するのに四時間かかったのだ。疲れと眠気と空腹で闇に包まれた頭で、ようやく外に出て、暗い中に浮かぶ明かりを見つけ、そこへと向かったのは覚えている。腹がブラックホールとになったような飢餓に突き動かされ、必死で死に物狂いで、しかし不味いものをひたすら食べたような気がする。
あとは記憶にない。
どうやら、いつもの習性で学校に来たらしい。
そしてここで、疲れのあまり寝ていたらしい。
「とくや」
梨恵は呻いた。想い続けてきた恋の炎はまだくすぶっているが、あの廃屋に置き去りにされた悲しみの縦糸と、美肉を独り占めされた恨みの横糸で、心は複雑な織物になっていた。
だが、あの得也の肉体。
「とくや……」
心の底から、梨恵は得也を呼んだ。
あの夜に見た、得也の身体。骨格に付いている筋肉の形といい、血管の色といい、どんな味がするんだろう。
いや、あの吊るされていた肉の正体は何なのか。しかし、得也の肉ならあの味に負けないどころか、もっと美味に違いないと梨恵は確信する。口に入れることが出来たら、骨の一本まで髄までしゃぶりつくすだろう。髪の毛一本、血管の一本まで、残さずに食べ切る。
梨恵の胃袋が欲しているのは、生命そのもの、得也そのものだった。
例え毒でも良い。それが得也の肉ならば消化してみせよう。
梨恵は感じる。自分の中で、食という欲望が肥大し、血液と共に身体を駆け巡り、細胞を乗っ取って大騒ぎしている。食欲が革命を起こして、自分そのものを乗っ取ろうとしている。
しかし、今はとりあえず空腹だった。空腹は徐々に飢餓へと変わり、梨恵の欲望をゆっくり締め上げる。
「……とくや……」
でも、一番食べたい得也は、ここにはいない。
食べたい、もっと食べたい。この空っぽの胃袋を何とかしないと、このままでは気が狂う。
その時だった。端末にメールの着信を告げるメロディが鳴った。
真由からのメールだった。
『学校にいるのなら、放課後、第三校舎の屋上に来て。友達として、梨恵と話したいことがあるの』
半分は食欲に占領された頭で、梨恵は頷いた。
あの校舎は、人気が少ない場所だった。
※
第三校舎は、主に一年から二年の教室に使用されている校舎だった。
授業が終われば、生徒たちは放課後の課外活動や、帰宅で校舎から出て行ってしまうので、ほとんど人気が無くなる。屋上は本来、昼休み以降は立ち入り禁止で施錠されていたが、職員室の壁に掛けてある鍵を、教師の目を盗んで持ってくれば済む話だった。
例えばれても、これは喫煙や悪戯目的じゃない。せいぜいお小言だろう。
屋上に顔を出した瞬間、目の前のギャラリーの数に、真由は思わず笑い声をあげた。
「えー、何でこんなに人がいるの? すっごく集まってるじゃないの」
屋上のドアから、まだ次々と生徒が上がってくる。
「ちょっと待ってよ、あんたたち、何でここにいるのよ」
クラスメイトに声をかけた真由の横で、沙代子が苦笑して端末を出した。
「SNSじゃないの?」
真由も、自分の端末を確かめた。
「ほんとだ、なにこれ、ものすごく拡散してる」
『丸太とマッチ棒、ついに恋の炎は燃え上がるのか? 第三校舎の屋上にて決着つく』
『実況希望!』
『体重差四〇キロのロイヤルカップル誕生か?』
それで、同じクラスの生徒だけじゃなくて、隣のクラスや他のクラスの生徒もいるのか。
屋上は、うじゃうじゃと生徒がいた。ざっと三〇人が、屋上で梨恵と矢野の恋模様を覗きにやってきている-。
「動画撮るぞ。バッテリーあるかな」
「部活抜けられないからって、加藤の奴、俺に実況頼んできたんだよ」
それぞれが端末を片手に期待に目を輝かせ、今か今かと二人の到来を待ちわびている。
「完全、面白がってるじゃん」
あきれ果てながらも、真由は爆笑した。
「ひっどい。完全、恋愛バラエティのノリじゃん」
「いや、フツ―のバラエティよりも面白すぎる。だってさあ、菅田と矢野だよ? ほとんど異類婚じゃない」
「でもさあ、こんなにギャラリーいて、矢野、来るかなあ。俺なら逃げる」
「あいつ、そんなこと構やしないって。矢野、以前スケッチブックで殴られた時も、周囲はこんな感じじゃんか」
しかし、二人とも遅い。
「ねえ、沙代子。矢野君にメールはしたよね?」
「したした。ほら」
沙代子がメール本文を突きつけた。確かに、梨恵が矢野君と話をしたいらしいから、屋上へ来てくれと送信している。
真由は、不安になった。自分も梨恵にメールはしている。メールは既読になっている。しかし、梨恵が家に帰っていたら? すっぽかしたら?
矢野は来る。差出人が梨恵本人ではなく、その代理人というところが、いかにも裏で画策されている感があるが、矢野の人の良さなら、そして要件が梨恵がらみなら、簡単に乗ってくるだろう。しかし、問題は梨恵だった。
梨恵が来てくれないと、困る。
「隣の幼馴染」との身の程知らずな恋に身を焦がす梨恵から、自己陶酔と妄想にあふれた恋語りを散々聞かされるのも、これで終わりにしたい。
ようやく、失恋してくれたのだ。せっかく特殊な趣味の矢野がいるのだから、この恋に手を貸してあげようと思う。そして、身の程をわきまえた幸せをつかんで欲しい。散々毒つき、面白がっているが、一応善意も含まれているのだ。酌みとってくれなきゃ困る。
「音がする」
沙代子がドアを見て言った。
ドスドスと、重々しい足音が近づいてくる。良かったと、一番この場を心配する真由はほっとした。つい、声が軽くなった。
「意外だ。梨恵が先に来るなんてね」
「私も。てっきり矢野君がすっ飛んでくるって思ったのに」
「きた、きたきた!」
誰かの叫びが合図になった。皆の手に握りしめられた端末が、一斉に屋上のドアに向けられた。
食べたい、食べる、食べたい、食べる。
梨恵の思考回路は「食」これだけが渦巻いていた。腹は痛いほど空腹に泣き喚き、咽喉は乾いてひび割れていた。
指定された場所へ、梨恵はたどり着いた。屋上の向こうには、自分を待ち構える大勢の人間の気配が蠢いていた。
ドアを開けて屋上に出た瞬間、風が梨恵の髪をなびかせた。 人の体臭が、風に乗って梨恵に運ばれてくる。その匂いは、あの廃屋の肉の味を思い出した。
目の向こうに、大勢の人間がいた。梨恵を指してどよめいた。口々に喚いている。
梨恵を風体に、見てドン引きしている生徒もいる。
「おい、何だよその恰好! そのジャージ、どこのだよ!」
「えー、もしかして今まで、そんなカッコでいたの? それ、先生に何か言われなかった? どこにいたのよ?」
「菅田、おっそいぞぉ!」
「待ってたんだよー」
梨恵に向かい、大勢の生徒たちが群がった。
「菅田さん、今のお気持ちを是非! 矢野君の愛を受け入れるのかどうか、お聞かせください! あなたの恋の行き先に、大勢の人間が今月の小遣いを賭けているのです!」
「どーすんの! 矢野を好きになれるのか?」
「矢野は菅田にとって、最後の恋愛運だぜ、そこ分かってるよな!」
突き刺さってくる、好奇心と笑いの視線。梨恵を撮影する端末のカメラ。好奇心と野次馬根性だけがここにある。
だが梨恵の感情は、食欲によって全てを覆いつくされていた。梨恵の目に映る、嘲笑と好奇心で騒ぎ立てる生徒たちの姿は、違う姿となって脳内で処理された。
動く肉。
生きている食物。
「おいしそう」
首の筋肉は、たっぷりと硬くついている。血管が浮いた咽喉。齧れば芳醇な血があふれ、咽喉を潤してくれるだろう。滴る血にまぶされた肉は、どんな味かしら。
梨恵は、一番前で携帯のカメラを構える男子生徒に手を伸ばした。
校庭で球拾いをしていた野球部員の一年生が、突然悲鳴を上げた。
「どうした!」
顧問が、ノックを打つのを止めて、バットを地面に下して怒鳴った。
「練習中によそ見するな、キタジマ!」
「せんせぇっヒトが落ちましたぁ!」
「はぁ?」
慌てふためく一年生が、守備の練習を中断してバッターボックスに走ってきた。その周囲に部員が集まり、一年生が指さす方向を一斉に見た。
「第三校舎です! さっき、あの植え込みに落ちたの見えたんです!」
「ホントか……?」
顧問は、グランドの向かいにある第三校舎を見やった。その時だった。
「うわぁぁぁっ」
顧問、続いて部員の数人が悲鳴を上げた。
校舎の屋上から、二人の生徒が飛び降りるのを、はっきりと見た。
その二人も、植え込みに落下した。
野球部員全員が、校舎に向かって走り出す。何事かと、他の運動部員がどよめき、幾人かがその後を追う。
「ひぃぃっ」
植え込みを覗いた顧問は、裏返った悲鳴を上げた。
飛び降りた生徒の死骸が、三体あった。
「何でコイツら、腕とか足が無いんだよ……?」
飛び降りにしては、妙だ。
離れた場所で絶叫が起きた。
花壇の中に、女子生徒の生首が転がっていた。割れた携帯端末が、周囲にいくつか落ちていた。
屋上から、棒が落下してきた。男子の制服の袖ごと、腕が入っていた。
携帯端末がそれを追うように落下し、地面にバウンドして割れた。
「警察だ、職員室へ知らせろ!」
顧問は悲鳴で命令した。
梨恵が目の前にいる男子生徒の坊主頭に噛り付いた時、梨恵がキレた、と真由は思った。
「うっわー」
悪乗りし過ぎたと、思わず頭を抱えてしまった。
確かに、ここまで来たら見世物だった。いくらマイペースでナルシストで自己中心的で、事象すべてを己の物差しで図り、ハンマーでぶち壊して自分の世界に作りかえる梨恵でも、これは流石に、馬鹿にされていると分かったに違いなかった。
いや、真由と沙代子には多少なりとも親切心もあり、友達の幸せのためだとか、そういう善意もある。しかし、その他大勢、野次馬たちは、完全に意地悪な好奇心だ。
梨恵と矢野の恋物語という娯楽のために、滑稽さを笑いたい為に、わざわざ屋上まで昇って来たのだ。
善意なんてこれっぽちもない
「おい! 何すんだよ!」
「血ぃ出てるじゃねえか!」
数人が慌てふためき、坊主頭を梨恵から引きはがした。しかし、この期に及んでもまだ「ひでぇなオイ」「食われかけたぜ」笑っている生徒もいた。
「真由、どうしよう」
沙代子が真由を見た。
「……怪我させちゃった」
沙代子が言わずもがなだった。その時、真由はこう思っていたのだ……これは、絶対に生徒指導室行きだと。
……その後にあるのは、坊主頭の男子は保健室に連れて行かれて、頭に包帯。全治十日ほど。そして梨恵は職員室へ連れて行かれて、学年主任と生活指導と担任教師から説教を喰らい、反省文三〇枚。
きっと、自分と沙代子も、この事態の首謀者とみなされて無事では済まない。下手したら、梨恵と同罪、反省文三〇枚だ。
その他のギャラリーたちは、先生たちによって屋上から追い出され、解散させられた後、悪ふざけが過ぎた悪いケースの見本として、学校朝礼なり学年集会なりの訓話にされてしまうんだろう。
真由の目の前は薄暗くなった。ああ、こんな事、彼氏のコウジに言えやしない。真由は、付き合っている男子校の生徒を思い浮かべた。実は、この屋上で事が上手く運んだら、コウジに話してやろうと意気込んでいたのに。だけどこうなれば、コウジは呆れるどころか、こう言うに違いない『だから、あのデブとは手を切れって言ってんだろ』
梨恵は、男子生徒四人がかりで押さえつけられていた。暴れる姿は、まるで猟師に捕らえられた巨大イノシシだった。
坊主頭が、他の男子生徒に支えられて屋上の出入り口へ向かった、その時。
突然、坊主頭がクラスメイトを振り払った。転倒したクラスメイトに覆いかぶさる。
「おい! スガ……」坊主頭にのしかかられた男子が、声を上げた。
悲鳴が上がった。
「何やってんだ! スガヤああ」
「おい、離れろ、何するつもりだ、スガ!」
梨恵に怪我させられた坊主頭が、どういった事か、手を貸してくれているクラスメイトを押し倒し、暴力を振るっているかに真由には見えた。
「ぎゃああああっ」
続いて、梨恵の方向に、尋常ではない声が走る。
横で沙代子が悲鳴を上げた。
「りぇぇっ」
「!」
梨恵を見た真由は、呼吸が凍りついた。
さっきまで、男子生徒四人で押さえ込まれていた梨恵が立ち上がっていた。
その両手が、それぞれ男子生徒の首を掴んでいた。そして、二人の顔をバンバンとタンバリンのように打ちすえていた。
それを取り押さえんと、梨恵へと男子が数名殺到した。しかし、梨恵は蠅でも追い払うかのように、手に持った男子生徒の体をこん棒にして、向かってくる相手を叩き飛ばす。
肉と肉が潰れる音がした。
二か所同時に起こっている事態に、生徒たちはあっけにとられていたが、やがてそれぞれが気付いたように、おろおろとし始める。
恐怖の絶叫が聞こえた。
一気に遠ざかる人の輪から、坊主頭の姿が見えた。
女子の叫びが鳴り響く。
坊主頭の口は、クラスメイトの首筋に噛り付いていた。噴水のようにほとばしる血、痙攣するクラスメイト。
坊主頭に何が起きたのか、真由は目の前に起きている風景を捉えることが出来なかった。
突然狂った?
血を啜る音。坊主頭から逃れようと痙攣の手を伸ばすクラスメイト。
視線は集まっても、彼を救助しようとする生徒は無い。携帯端末を握りしめて立ちすくむだけだ。
クラスメイトの首から、肉を喰いちぎる坊主頭の目に、陶然とした色が浮かんだ。さっきまであった人間の感情は無かった。人以外のモノに憑かれたように。
そういえば、彼を齧った梨恵もおかしかった。真由の足はじりじりと後退した。ここに来た時から、すでに様子はおかしい気はした。
さっきまであった、生徒指導室の心配が裏返った。もっととんでもない事に飲み込まれようとしている。
悲鳴が乱れ始めた。生徒たちが一気に雪崩のように屋上から逃げ出そうと走り出す。
群れが屋上のドアへ殺到した。その時、梨恵が手にしていた男子生徒を投げつけた。
「ひぃぃっ」
群れの中に、生身の壊れたマリオネットが落下した。群れは狂乱に陥った。生徒たちは秩序も律もなく、頭の悪いネズミのように、出たらめに逃げ惑う。
「いやぁぁっ」
足元に転がってきたそれに、真由は咽喉が裂けるほどの声を上げた。
顔は、背中の上にあった。死相の浮いた男子生徒に、真由はつまづいた。
真由だけではなく、生徒同士の衝突や転倒があちこちに起きて、収拾がつかない状態になっている。
「タスケテっ」
「何するんだよ、ホリ……っ」
梨恵が逃げ出そうとした女子生徒に向かってジャンプした。落下した巨体に潰された女子生徒は「ぐげええ」と声まで踏みつぶされ、動かなくなった。
「なに、なに? 何なのよぉ!」
地獄が屋上に出現した。理由のない殺戮が広がり始める。
さっきまで仲間であり、一緒にふざけていたクラスメイト達が、殺し、殺されている。
真由は転がったままで、混乱の泣き声を上げた。
何で、ヨシダとキノシタがお互いの首を締め上げているんだ。いつも仲良しだったカマタさんの腕を、オオムロさんがねじ切っている。隣のクラスのあの子たちが、犬のように群がって喰いちぎっているのはカケギシだ。
現実じゃない。真由は自分の目の前を否定した。
悪戯だ、もしかしたら、梨恵を誘いだした私こそが、皆からからかわれていたんだ。
酷すぎる冗談だ。
そう思い込もうとしたが、嗅覚を染める血の匂いと、耳に押し寄せる悲鳴と呻き声は、生々しく真由を現実に縛り付ける。
悲鳴や絶叫が、屋上を交差する。
「じょーだんやめろよ、オイ、やめろってば!」
その後に続く悲鳴。
あちこち逃げ惑う足。
真由は、逃げ回る生徒たち数人に蹴り飛ばされ、踏まれる痛みに耐えた。心は逃げ出したいのに、身体が泣きながら、動くのを拒否している。立ち上がったら、恐ろしいものを見てしまうと本能が拒否しているのだ。
見たくない。真由は目をぎゅっとつぶった。
それでも、悲鳴は容赦なく流れ込む。
「いやああ、いたいいたいいたいやめてぇええっ」
誰のものなのか、小さい呪詛が聞こえた。
「なによお、みんな、どうしてよ? これなによ……」
何で誰も助けに来ないんだ。しかし、答えはコンクリートの上に散乱していた。
踏まれ、壊れた携帯端末。持ち主は死んでいる。しかし、今は無事であっても、助けを呼ぶ余裕は無い。
コンクリートの床に身を投げ出したまま、震える真由の目の前に球体が転がって来た。
クラスの男子だった。
お調子者だった少年の顔は、恐怖で歪んでいた。梨恵と矢野のカップル成立を、一番面白がっていた男子だったが、そのせいで胴と首が離れる羽目になった。
他の生徒の群れが、屋上の狭い出入り口に殺到して塊りになっている。
「やめろ、押すなぁぁっ」
ドアの前の生徒が絶叫する。ドアは開き戸だった。殺到する生徒の圧力で、ドアは封じられている。将棋倒しで挟まれたまま、動けない生徒もいる。
その重なりを引き剝がすように、喰人鬼に連れ去られる生徒の姿があった。背後から襲われて、引きずられていく。
「たすけて、たすけてええ」
引き剥がされまいと、前の生徒の胴に捕まって抵抗しようとしたが、前の生徒は巻き添えを恐れて、背後の生徒を足で蹴り払う。
怨嗟の雄叫びを上げて、制服姿の喰人鬼に連れ去られる生徒。
同じ制服を着た生徒たちの立場は、喰人鬼と肉塊に分かれていた。
「やめて、来ないでっっ」
隣のクラスの娘が、二人の生徒に追い詰められて、屋上の柵を乗り越えた。
そして、消える。
真由は生存本能だけを抱えて、殺戮の嵐が止むのをじっと待っていた。
向こうに、梨恵がいる。
男子生徒の頭のてっぺんを、文字通り齧っていた。ずるずると啜る音。髪の毛が邪魔なのか、ときおり毟っては捨てている。そして、鶏の丸焼きを食べるように腕を折り取った。
肉と骨が離れる、厭な音がした。
『やっパ、トクヤじゃないト』かろうじて、人の音を残した梨恵の言葉が聞こえた。
「……」すでに、咽喉の機能は壊れていた。真由は、梨恵ではない梨恵から、少しでも遠ざかろうと身じろぎした。思えば、梨恵が禍の発端だ。
しかし、今はどうでもいい。 死にたくない。
突然、腕を後ろ手に引き上げられた。一瞬仮死状態に陥った真由は、その相手を見て大きく安堵した。
「さよこぉ」
立って自分を見下ろしているのは、沙代子だった。一緒に逃げよう、捕らえられた腕の意味を真由はそう解釈しかけ、急停止した。
沙代子の顔は、血にまみれていた。そして制服も。
そして、自分を見る目は、友達の目じゃない。サメが餌を見つけた暗い目。
反射的に、真由は思い切り腕を引いた。沙代子がバランスを崩して、前のめりに倒れこんできた。
「さよこっ」
もう、無理だと分かっていても、真由は馴染んだ友達の名を叫んだ。しかし、沙代子そのものはすでに死んでいた。
襲い掛かる真っ赤に染まった歯と舌を、真由は押し戻した。のしかかり、首を絞めてくる沙代子を、下から何度も蹴り上げる。
友達に食い殺される恐怖、生きるために友達を殺す狂気に突き動かされ、真由はがむしゃらに暴れた。
膝が、沙代子のみぞおちに食い込んだ。沙代子はひしゃげた声を上げて、真由の上から転がり落ち、腹を押さえてげえげえと吐しゃする。
ふらふらと真由は立ち上がった。動けなくなった沙代子に、男子生徒と女子生徒が襲い掛かる。
沙代子の奇声が響き渡った。真由は耳を押さえた。
沙代子が喰われている。赤いダルマになっていく友達を見つめながら、もう厭だと呻いた時だった。
ドンドンと、ドアを叩く音。
おい、お前ら何やってんだぁっ かすかな声。
助けだ。
屋上の異変に誰かが気が付いてくれた。生きる望みが一気に胸を浸し、真由は声を上げて泣きそうになった。何でもいい、とにかく助けて。
しかし、ドアを見た真由は、最後の絶望に塗り固められた。
ドアの前に、死体の山があった。そして、その上に巨大なストッパーとなった梨恵が鎮座している。
梨恵は、内臓にまみれていた。肉の縄、赤黒い固形を一心不乱に食べていた。食料の山の上にいるその顔は、幸せそうだったが、どこか不服そうにも見えた。
「開けなさい! 何をしているんだ!」
「どうしたんだよ、みんなで何やっているんだよぉ!」
悲痛な矢野の声。
ガンガンとドアが鳴る。しかし、ドアはびくともしない。
もう、真由には梨恵に向かう気力はなかった。死骸の山を押しのける勇気も、術も持たなかった。そして、真由は気が付く。
あれだけいた人数は、たったの五人に減っていた。男子が四人と女子が一人。その五人の円陣に、真由は取り囲まれていた。
全身から血が滴っている。血の池を泳いできたような五人。その目を見た瞬間、真由は悟った。
自分が最後の生き餌だ。
「おい、開けなさいっ」
救助の声は、空しく響き渡る。ドアから脱出できる可能性は無い。助けを目の前にしながら、死神の強い手を振り払えない。真由は痛切に願い祈る。逃げたい、この場から逃げられるなら、どうなってもいい。
「ぐふぅっ」
突然、死骸山の頂上で梨恵が立ち上がった。梨恵と真由の目と目が合う。
気付かれた。
じり、と円が狭まった。
人間ではなくなった五人の目には、憎しみも怒りもない。ただの獰猛な食欲だけだった。真由は生きたまま引き裂かれた生徒たちを思い出した。
その時だった。向こうに見える屋上の柵が、真由へ天啓を与えた。
――あ、そうか。
真由の頭に、突然光が差し込んだ。五階だ。怪我はするかもしれないが、生きてここから出られるのなら、構わない。
生きたまま、食い殺されるよりは、いい。
真由は駆け出した。次々と伸びてくる手を振り払い、ひたすら走った。柵を越えた。目の前にグラウンドの風景が一気に広がる。
真由は飛んだ。
どこのチャンネルも、同じ学校の校舎が映っていた。
『いったいこの屋上で何があったのでしょうか?』
レポーターが叫ぶ。
『謎と怪奇、血に満ちた大量虐殺・集団飛び降り事件。校舎から数人の生徒が飛び降りたと通報を受け、駆けつけた警察と教師が屋上で見たものは、正に地獄絵図そのものでした……残された遺体の状態も異常な……』
チャンネルを変えた。
また、同じ風景が画面にあった。
ニュースを読み上げるレポーターの表情まで同じだった。
『……には、全て何らかの部分が欠損したものばかりで、正常な形を留めたものは殆どなく、しかも、検死の結果、半数以上の生徒の遺体の胃の中から、消化されていない人体の一部や内臓などが……』
『出入り口をふさぐ形で、ドアの前で意識を失っていた少女の手当てをするとともに、警察は事件の目撃した生徒たちから事情聴取を行い、真相究明に全力を……』
何があったのか、分からないんですと、インタビューされている男子生徒の泣き声。
『放課後、屋上に来いって呼び出されて……それなのに、僕、彼女がこの僕を待っていてくれていると思った途端、緊張でお腹が痛くなってずっとトイレに……』
緊急特番のスタジオで、この事件に関する見解を求められる、高名なホラー映画監督二人のコメント。
『あのなあ、これのどこがゾンビなんだって? 俺のせいにするな! 俺は確かにゾンビ映画を撮ったけどよお、大体、ゾンビっていうのはな、ブードゥ教のルーツから来ていて『生ける死体』という意味だ! こいつら生きて人喰っているんじぇねえか! 共食いを全てゾンビにするんじゃねえよ、こっちはなあ、一応設定に気を使って調べて作っているんだよ、安直にラベリングするんじゃねえ! ちゃんと勉強してからモノ言えよ! 大体ヘンなものは全部ホラーの影響だなんて、その風潮はどうにかならんのか! そこまで言うのなら、貴様らもっと映画観に来いよ! なあ、オマエもそう思わねえか? ミスターヒミズ』
『その通り! それにね、俺が撮った映画の「怨呪」のどこにゾンビが出てくるんですか? あのねえ、ゾンビも呪いも幽霊も、ミソクソにして論じるっていうその風潮が、僕は気に入らんのですよ。僕の撮る作品は、人間の内面的な怖さを重視した、間接的な恐怖であって、ゾンビの持つ直接的な恐怖とは別物なんです! その辺り、皆さんはちゃんと分かってくれているんでしょうか? ねえ、呂目炉監督?』
――ノックの音がした。
「得也……明日は燃えるゴミの日なんだけど」
母の史恵の、強張った顔が覗いた。まるで油切れのロボットのような動きだった。
「何か、捨てておくものある?」
皮膚の下には怯えがあった。それを平静という仮面で隠しているのはありありと見える。
何気ないように、息子の部屋を見回しているが、五感全てを逆立てているのは、はっきりと見て取れた。
「ほらよ」
得也は、ボストンバックを放り投げた。
「まるごと捨てておいてくれ」
中には、廃屋で回収した干し肉の食べ残しが入っていた。
思い出すと虫唾と怒りで脳が焼ける。得也は思わず、窓の外から見える隣の家を睨みつけた。
「殺しておけばよかった」
「え?」
史恵が得也の視線を追った。
「何が?」
「何だっていいだろ」
「……お隣の梨恵ちゃん、大変な事に巻き込まれたわね」
史恵が言った。息子との会話というよりも、プログラムに従う、機械の音声だった。
「あの高校も、大変みたいね。マスコミがたくさん来ていて……」
史恵は中身を見ることもなく、のろのろとバッグを持って部屋から出て行った。
得也は息を吐いた。
歯応えのないぶよぶよした梨恵の肉と、重油の匂いがする、ベトついた血の味を思い出す。
不味くて食えないなら、ちゃんと殺しておけばよかった。
あの廃屋が、使えなくなった。
床下に落ちた梨恵が、這い上ってくる際にあちこち床下を踏み抜き、柱を破壊して廃屋を出て行ったのだ。家は屋根が落ちて崩壊した。
あの家には、独り暮らしの老人が住んでいた。手ごろな隠れ場所、隠し場所を探していた時に見つけた家だ。
近所の人間どころか、民生委員も来ないゴミ屋敷だった。光熱費は口座引き落としで、まだ残高があるらしい。家に入り込んで、電気も水も使えた。
すでに干からびて死んでいた老人に代わって、得也はあの家を、食糧保管庫として有効利用していたのだか。
得也は、机の上のPCに向かった。
やはりネット住民たちは瀬川高校の大量殺戮事件と、ふ頭の倉庫で起きた仲間同士の殺し合いを関連付けている。
『あの倉庫の事件も、人間の喰い合いしたんだろ? でもあれ、原因は薬でラリッて幻覚起こして、ヤクザ皆ヘンになったんだよね?』
『最近の高校生は集団でヤクやってんのか』
『呪いじゃね? だからヒミズ、コメント出したんだろ?』
『宇宙からの放射能だったりしてな』
ネット住人の憶測は、真相にかすりもしていない、チェックするのを得也は止めた。
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