喰人輪舞

洞見多琴果

第1話 彼に何が起きたのか?


 一泊料金、シングル二千円。

 そう看板に書かれた簡易ホテルをターゲットにしているのは、理由がある。

 最近、マンションはオートロック、一戸建ても防犯設備をつけた家が多くなった。

 しかも、忍び込むにはターゲットの家族構成や生活サイクルを把握する、下見も必要になる。

 その点、こういった簡易ホテルは穴場だった。

 部屋の鍵は旧式で、防犯カメラは少ない。フロントの人間も、いるのかいないのか分からない。

 泊まり客は現場を渡り歩く季節労働者がほとんどで、昼間は不在。持ち金はそのまま、バッグの底に入れているのがほとんどだった。

 一度だけ、ドアの前で見咎められた事がある。

「あ、すいません、部屋を間違えた」

 その時は慌てたように振舞った。相手にワンカップの酒を二本渡した。

 それで場は収まった。


 この日狙ったのは、洋室だった。このホテルのタイプには珍しく、値段も普通のシングルの三倍だった。部屋の中では一番高い。

 それでも鍵は旧式だった。専門用具で二〇秒ともかからない。

――何もない、殺風景な部屋だった。

 男は顔をしかめた。何か臭う。蝿が数匹飛んでいる。

 ベッドの脇に、外国製の高級ブランドバックがある。成程、この部屋を選ぶわけだ。

 バッグの中は、身の回りの着替えだった。衣類に男は思った。

「結構若い奴だな」

 若い奴はこんな宿には来ない。大抵ネットカフェに行く。

 勘が働いた。大物だ。

 バックの底に四角い紙袋を見つけた。掴み出し、中身を見た瞬間、つい声を上げた。

「すっゲェ!」

 万札の帯封が八個。今までの最高金額だ。

「まじか……?」

 きっと訳ありの金だ。だが、金の出所などどうだっていい。男は札束を鷲掴んで紙袋に押し込み、即座に立ち上がった。

 もっと何かないか?

 冷蔵庫の前に、ナップサックが無造作に置いてある。

 大きく膨らんでいる中身に、男の胸は高まった。

 駆け寄って、ナップサックを大きく開ける。

「……あ……」

 瞬間、総毛立った。

 頬に蝿が止まった。だが、動けない。

「え……」

 やっと、声が出た。

「ウソだろ」

 ナップサックに、人の顔があるはずがない。

 だが、その土気色の肌に毛穴、男を見つめる白濁した目は、冗談でもつくりものでもない。

 生首だ。

「は、は……」

 男は手を震わせながら、生首の入ったナップサックを何とか閉めた。逃げだそうとし、そして気がついた。足音が近づいてくる。

 長く居過ぎた。男はベッドの下に空間がある事に気が付いた。

……ドアが開いた。

 腹這いの姿勢で顔を横にし、男は歩く足を見つめた。ベッドの下でこの体勢では、足しか見えない。

 気が付かないでくれ……男は歩き回る殺人鬼の足に祈った。

 足が止まった。部屋の異変に気が付いたらしい。周囲を見回している気配が伝わってくる。

(たのむ、下を見るな……もう一度、出て行ってくれ)

「ふぅん」

 若い声。男の目の前、冷蔵庫の前で足の持ち主がしゃがんだ。腰から下が見えた。

 思った以上に若い。まだ二十かそこらじゃないのか? 細身だ。屈強には思えない。

 空手の経験が男にはある。いざとなれば何とかなるかもしれない。

 冷蔵庫が開く。取り出されたものが、床に置かれた。

 男は悲鳴を上げかけた。

 どう見ても、人間の腕だった。太く、筋張る腕に、男はさっきの生首を思った。

 そして、赤い液体の入った二リットルのペットボトル。中身は疑いようもない。

 足と太腿、上腕、次々と取り出されてくる。タッパーもあった。中身は臓物だった。

――俺は今、何を見ている?

 自分に問いかける。だが、どう見ても目の前にあるのは、バラバラにされた人間と、その殺人鬼に間違いない。

 これらの死骸をどうするのか、男は祈る。

 頼む、外に捨てに行ってくれ。出て行ってくれ。

 どすんと下半身が落ちた。胡坐を組む。その手が切られた足を掴んだ。

……やがて、くちゃくちゃと音が響き始めた。

 赤い液体のペットボトルが持ち上がり、また床の上に置かれる。半分ほど減っていた。

 生々しい鉄の匂いと、アンモニアが混じる腐臭が、ベッドの下にゆっくりと忍び寄ってきた。

 死体を捨てに行かないのか。

 何をしているんだ。

 絶叫と悲鳴、祈りと助けの声を、男は何とか押し潰した。見たくないなら目を閉じれば良い、なのに、それが出来ない。

 若い手がナップサックに入った。

 生首が掴み上げられ、床に置かれた。その顔を腹這いになった男に向けて。

「……ぃっ」

 生首と対峙する、そのおぞましさに、男はつい声を上げかけた。

 男を見つめる白濁した目。その生首は殺された苦悶ではなく、虚無の表情を向けていた。 

 白っぽい棒が落ちて、ベッドの下に転がって来た。

 肉のない、人間の骨。

 切断された手や足が、次々と消えてゆく。そして肉の無くなった骨となり、床に落ちてくる。

 赤い液体が無くなっていく。ずるずる、ぐちゃぐちゃと音は続く。

 男は無声の絶叫を上げた。

「まさか、まさかそんな」

 死体の切断は、隠すためじゃないのか。

 タッパーの中に入っていたのは、心臓だった。続いて肝臓、肺、赤黒い臓器を手が掴んだ。

 そして消える。

 いつまでも続く咀嚼音に、身体中の細胞が凍ってゆく。それなのに心臓はドクドクと波打って、床にはりつく男の胸を押し上げた。

 ウソだ、夢だ、覚めてくれ。

 切断は、只の死体隠匿のためであってくれ。

 目の前には、肉がそぎ落とされた骨が転がっている。

 手が、生首の髪を掴んで固定した。

 金槌が、その頭頂部を叩いて位置を確認している。男の目は、今やカメラとなっていた。思考を取り戻したら、間違いなく発狂する。

 生首の頭蓋に、何度も金槌が振り下ろされた。肉が潰れ、硬いものが潰れる音。金槌で割れ目をつくり、その穴に指が入る。そして頭蓋をこじ開ける。

 吐き気を催す音だった。卵の殻のように頭蓋は割れた。

 ばきばきと音を立てて、髪の毛ごと頭蓋が持ち上げられる。

 黒い髪の中に、赤に染まる脳髄が露出した。

 手が、脳髄をすくい出す。ずるずると、粘った音が始まる。

 男は涙を流していた。今あるものは後悔ではなく、狂いたいという願望だった。

……舌打ちが聞こえた。

「しまった。目玉がもう傷んでやがる。先に喰っておけば良かった」

 足が立ち上がる。男は目を閉じた。

……男の足首に、強い力が巻きついた。

「!」腹と床が摩擦を起こす。

 ベッドの下から引きずり出されて、男は子猫のように床に投げられた。

 壁に逃げた男は、相手に目を剥いた。

 思った以上に若い。二十どころか、まだ高校生くらいの少年だ。

 普通なら腕づくで乗り切れる。だが、大の男を軽々と引きずり出し、放り投げる信じられない腕力。

 そして、少年の口元につく血糊。

 正気が壊れた。

「うわぁぁぁっ」

 少年の脇をすり抜けて逃げようとした。だが、何かにつまづきバランスを崩す。クロゼットに体を打った。その衝撃で、クロゼットが開いた。

「ひぃぃぃぃっ」

 扉から一斉に黒い点々が流出し、視界を覆う。

 顔に、目に、鼻に止まった。うんうんと耳元で羽音が唸る。

 転倒した男の頭上に、何かがバラバラと降り注ぐ。

 ウジ虫が蠢く人骨。男は絶叫した。

 見たことのない黒い虫が、腐肉を喰らっている。マニキュアの指だけが残る骨。骨は何本も、何十本もある。それは何人分になるのか。

 部屋の臭いの元凶が。男の嗅覚をえぐって脳を焼く。

 後ろ襟を掴まれて、男は部屋の隅に放り出された。

「バッグが開きっ放しだと思ったら、コソ泥かよ。ちょっとコンビニ行っている間に、油断もない」

 やはり少年だった。しかも良家の子息を思わせる空気と、整った容姿を持っている。

 左手から腕に、包帯を巻いている。怪我をしているのか。

 だが、足元に散らばる死骸の食べ残し、割れた頭蓋。それは悪魔と契約した人間が持つ、特別な狂気だった。

「たすけて」 

 もう無駄だと分かっていた。だが、神への命乞いでもあった。

「……タスケテ……」

「大抵の奴は、そう言うんだ」

 神と少年、両者は同時に男を見捨てた。

「牛や豚の方が、肝が据わってるぜ。奴ら、肉にされる直前はもう鳴かないっていうじゃねえか」

「たすけて……」

「牛や豚、食った事あるんだろ、おっさん」

 首に手がかかる。

「これは食物連鎖だ。あんたも従えよ」

 食物連鎖とは、自分は何なのだ。

 この少年に食われるのか。

 人間なのに。

 首が砕かれると同時に、男の恐怖と絶望も砕けた。執着も恐怖も、全てが無に帰された。

 その時、男は生首に浮かんでいた虚無の表情と、その気持ちを理解する事が出来た。


                   ※


 コソ泥はあっさりと息絶えたが、大量の小便を漏らしていた。

 掛井得也は顔をしかめた。

「汚ねえ……また散らかった」

 片付けにはいつも困る。クロゼットに放りこんでも、使えるスペースに限界がある。

 しかし、ここは狩りの場としては申し分ない。

 滞在しているのは、家族や職場など、連続した人間関係を持たない者ばかりだ。ふいに姿を消しても、探す人間がいない。

 それに、宿泊代金は先払いだった。客が消えても部屋の鍵さえ戻っていれば、フロントは何も疑わず、次の客に部屋を貸す。

 コソ泥のポケットの中には、この宿の鍵が入っていた。

 得也はコソ泥の荷物を処分した。そしてフロントが無人なのを見計らって、こっそり部屋の鍵を返す。

 部屋に戻った得也は、左手の包帯を解いた。

 あの時に噛まれた当初、紫色だった手は、毒々しい腐った茶色に染まっていた。

 その腐食はゆっくりと、しかし確実に広がっている。

 食う量も徐々に多くなってきた。しかし、すぐ空腹になる。

 これから、自分はどうなるのか。

 得也は独りで笑った。今のところ、外見は人間だ。

「いっそ、姿も化け物になったら面白いか」

 得也は食べ残しと死体を、改めて見回した。床の小便とウジ虫。飛んでいる蝿を眺めている内に、片付けをするのが億劫になった。

 宿を変える事にした。フロントには誰もいなかった。

 外はくすんでいた。空き店舗やシャッターが下りた店、大人も子供も姿はない。

 映画で観たスラムみたいだ。

 突然、肩を掴まれた。

「ちょっと兄ちゃん」

 ジャンバーを着た、どす黒い顔の中年だった。知らない顔だった。

「聞きたいんだけど」

「はい」

 ヤニと酒が混じっている口臭。こういう奴の肉の味は、肺と肝臓は不味い。そういえば、安宿では健康な肺と肝臓を、あまり食べられなかったと得也は思い出す。

「大堀橋ってどうやって行くか、知ってるか?」

「俺、地元じゃないから知らないよ」

「スマホ持ってないか? 道を検索してよ」

「持ってない」

「若いのに? 珍しいな」

「道なら交番へ行って聞けばいいだろ」

「警察嫌いなんだよ」

 やけにしつこい。だが視線に落ち着きがなく、何かを待っているようだ。

 車が止まる音がした。

「こっちです!」

 中年男が突然手を上げた。得也は振り向いた。目つきの悪い男が三人やって来る。

 その中の一人、スキンヘッドの顔に、得也は見覚えがあった。

「コイツでしょ、コイツ」

 中年男がスマートホンを取り出して、スキンヘッドに見せた。

「あんたが賞金かけて探している奴」

「金、払ってやれ」

 スキンヘッドが横の若い男に命令すると、一万円札が数枚宙に舞った。地面に落ちた札を這いつくばって拾い、そのまま走り去る中年男を得也は見送った。

「久しぶりだなあ、掛井」

 スキンヘッドの口が三日月形の笑いを浮かべる。

「ああ」

 確か柚木という男で、一週間前に死んだ仲間の兄だった。何の感慨もない。面倒くさいな、ただそれだけ思った。

「ちょいと付合ってくれよ。色々聞きてぇンだよ」

 得也はワゴン車に乗せられた。その寸前、得也は周囲を確かめた。

 車道を挟んで向こうに通行人が二人。得也達を一瞥もせずに通り過ぎていく。

「助けを求めるつもりか?」

 柚木の酷薄な笑顔が、得也の顔を覗きこんだ。

「いいや」

 得也は深々と後部座席に背中を預けた。

 周囲の無関心。そっちの方が好都合だった。


 商売柄、人を追う事には慣れていた。借金、横領、裏切り、逃げる理由はそれぞれあっても、隠れる場所、立ち寄りそうな場所はパターン化している。

 今は誰もが情報ツールを持ち歩いている。賞金を懸けるのも良い手だった。

 やっと見つけた。柚木は隣に座る得也を見た。

 腹違いの弟が、輸入業を営む実父の店舗の金庫から、金を盗むという計画を聞かされたのは一〇日前だった。

 税金がらみの公には出来ない金だから、盗難届を出される恐れはないと、健二はうそぶいた。

――俺、もう大学なんか行く気もねえし、じゃあ入学金とかもう必要ねえだろ。その分、もらっちまおうと思ってさ。

 それは一週間前の夜中に決行された。場所は歓楽街の外れにあり、無関心な人目しか無い。鍵も手に入れており、金の在処も分かっている。

 仲間は五人。

 健二にとっては、スリリングな小遣い稼ぎで終わるはずだった。柚木も、父に対しては同情心もない。黙っていた。

 しかし、夜中の店舗内で何が起きたのか、弟と仲間たちとの間で殺し合いが起きた。

 原因は何なのか。口論か、仲間割れか。

 店舗内の事務室は、床から天井までが血に染まっていた。すぐ隣の部屋は、ペットショップに卸すために、輸入された動物や珍獣が飼育されていたが、檻は何者かによって全て壊されていた。動物も全て死んでいた。

 そして店の中で、売り物と見られる、アルカロイド系の違法ドラッグが見つかった。

 警察は店の責任者に事情聴取を行うと共に、少年達の殺し合いは、盗んだドラッグを吸引して幻覚を起こしたものと判断した。

 死体安置所で弟と対面した柚木は、しばらく動けなかった。  

 想像の圏外だった。人間の所作ではなかった。健二の死にざまは、すでに人では無くなっていた。

 しかも、盗みの最中にドラッグ遊びなんかするものか。

 愕然とする柚木の耳に、入って来た情報があった。

 あの日、健二たちのメンバーの中で、一人逃げ出した奴がいる。

 健二が集めたはずのメンバーの中で、死体が見つかっていない奴がいる。

 それがこの掛井得也だった。

「探したぜ」

 柚木は得也の横顔へ話しかけた。

「お前だって分かってんだろ、何で自分がここにいるかって事くらいよ」

「……」

「言っておくけどな、サツは店のヤクでラリって殺し合ったとか言っているが、馬鹿かあいつらは。俺はそんな事一才信じねえ。もっと何かすげえことが起きたに違いねえと思っている。で、お前は必ずそれを知っていると確信がある」

 得也が目だけを動かした。目と目が合った。

「あの夜、お前もいたんだろ」

 無言だった。だが、否定は無い。

「健二たちに何が起きた?」

 柚木は得也のなりを改めて見回した。

 一週間逃げ回っていたはずだが、くたびれてもなく、倦怠感や疲労の色も無かった。 

 それどころか、小ざっぱりしている。

「良いシャツだな。ポール・スミスか。高かっただろ、何の金で買った?」

「どんな金だっていいだろ」

「小遣いで買ったなんて、この俺に言うつもりか。健二が奪ったはずの、親父の金が消えてんだよ。一〇〇〇万はあったはずだ」

 落ち着き過ぎる。柚木は得也の態度に苛立った。

 殺し合う仲間から大金を持って逃げ出し、一人で逃げ回っていた。そしてついに裏切り者としてこうやって拉致されている、その態度ではない。

「何であの安宿にいた?」

 柚木は疑問を口にした。

「あんな汚らしいオヤジだらけの場所。盗んだ金がありゃ、どんなホテルのスイートにでも泊まれたはずだぜ。俺ならインペリアルのスイート泊まって、女一〇人は呼ぶぜ」

 得也の目が瞬いた。口元に薄い感情らしきものが見えた。

「まあ、それはそれで結構だけどよ……残りの金は、どこにある?」

「結局、それか」

「言いたくなきゃ、そのつもりでいろ」

 柚木は口を歪めた。

「むしろ、今はそっちのほうが面白れえ。なあ、死にたがっている奴でもな、恐怖心と痛覚を無くすことは出来ねえんだよ」

「……」

「そのすましたツラがいつまで保つか、どうブっ潰れるか。ションベンと血とゲロにまみれて命乞いする、貴様の顔を考えただけで堪らねえ」

 その時だった。得也を挟んで座っている後輩が、目隠しのジェスチャーをして見せた。

「こいつにはいらねえよ」

「そうですか」 

 こいつに目隠しの必要はない。逃げないように手錠一つで十分だ。もう場所も何も、口を利けないようになる。

 それを察した後輩がちらりと得也を見た。わずかな同情が見えた。

「……こいつ、なんか変な臭いしませんか?」

 運転席の手下が、ミラー越しに顔をしかめた。

「体臭とか、汗とかそんなじゃなくて、なんかこう……」

「うるせぇな、さっさと行けよ」

 言われなくても、こっちは隣にいるのだ。柚木は顔を歪め、得也の横顔を睨みつけた。

 垢じみては見えない。据えた体臭でも、ヤニでも酒でもなく、もっと癖のある、どこか腐敗した臭い。

 しかし、車の窓を開けるわけにはいかない。柚木は憮然としながら、携帯端末を使って、仲間を集めた。


 車からの風景が、街から工業地、空き地に変わる。

 目的地の埠頭に到着したのは、日もほとんど落ちた日暮れだった。

 配送センターや保管庫、巨大な箱のような倉庫が、車道を挟んで幾つも立ち並ぶ。だが、この時間になると人気も車もほとんど無い。

 その中の一つ、古びた倉庫の前に車は止まった。

 表向きは、スタジオ兼機材置き場として使っている。

「出ろ」

 柚木は、得也を車から引きずり出し、突き飛ばした。

 倉庫の壁一面のシャッターが、大人の腰の高さほど開いている。そこから男が、間をくぐって出てきた。

「いらっしゃい、柚木さん」

 柚木たちを出迎えたのは、ここを所有している芸能プロダクションの社員だった。柚木の族時代の後輩でもあり、今でも仕事上で付合いがある。

「よお、内藤。またここ借りるぜ」 

 外に見張りを一人残し、柚木は仲間を連れ、得也の襟を掴んでシャッターをくぐった。

 中の広さは、学校の体育館ほどある。殺風景な壁には、コンテナボックスがうず高く積まれていた。元々は倒産した水産会社の冷凍倉庫だった。

 中央に、教室ほどの大きさの物置がある。この内部がスタジオになっていた。

「スタジオ、さっき撮影に使ったばっかりで、ちゃんと掃除出来てませんけど」

「かまわねえよ」

 スタジオの鉄扉を開けると、生臭い鉄と排泄物の匂いが鼻についた。

 白い床には、水を流した形跡がある。しかし、大量の髪の毛が流しきれずに、赤い水たまりの中で絡まり、生爪も浮いている。

「今日は女か」

 柚木の問いに、内藤は肩をすくめた。

「オークボの方から回されて来たんですよ。ヤク中で、腐った雑巾以下の女だから、もうソープでも使いモノにならねえ、肥料か魚のエサにしかならねえってね」

「腐った雑巾でも、売り物になるのか?」

「腐った雑巾だろうと、ヤク中だろうと女なら売れるんですよ。ウチのお得意様は、潰されるのが女ならそれでいいって、実に寛容で好き嫌いが少ない」

 天井から鉄鎖が垂れて、先端の輪っかに乾いた血がこびりついていた。

「寛容っていうより、ハラワタさえ見えりゃいいゲテモノ好きだろ」

 いつか見た撮影の光景を思い出して、柚木は閉口した。内藤がうすら笑いを浮かべ、デジタルカメラのレンズを得也へ向けて見せた。

「じゃあ、約束通りこれも撮影させてもらいますよ」

「男だぞ。商品価値はその腐った雑巾以下じゃねえのか」

「男でも、十代のガキなら喜ばれるんです。要は肌のキメと、なかなか死なないってのが肝心なんですよ」

「そいつはいい」

 柚木はわざとらしく笑った。

 手錠をかけられ、それでも平然としている得也が気に障る。しかし、この後は助けてくれと哀願して、最後には殺してくれと泣き叫ぶに決まっている。

 柚木にはその結末が見えていた。

「柚木さん、電動ノコとバーナー、使いますか? 電動のこぎりの回転数を極端に落として、手足を切るっていうのもおススメですよ。その切り口をバーナーで焼けば、止血も出来て、当分は死なないんで一石二鳥です。バーナーの火は口に突っ込んでも良いし。そうそ、こないだスーさんが自作の焼きごて作ったんで、これを試してくれって」

「適当に用意してくれ」

 ここに来る間に、メールの返信が次々とあった。ここにやってくるのは、弟の健二の死を悼み、裏切り者の処刑しようという仲間が全部で一六人。

 思った以上の人数に、柚木は満足した。

 次々と、倉庫の中のスタジオに、男たちが雪崩れ込んで来た。

「さて、これで勢揃いだ」

 見世物の猿のように取り囲まれた得也へ、柚木は笑顔を向け、スタジオの鉄扉を閉めると、携帯で外の見張りに命令した。

「シャッターを閉めろ」

 スタジオと倉庫、外部が二重に遮断された。

 スタジオで隔離された中、それでも得也の表情は動かない。

「てめえ、よくも健坊を!」

 突然飛び出した一人が、得也の腹を蹴り上げた。もんどりうって得也が転がった。

「先走るな」

 柚木は恫喝した。

「最初っから致命傷を負わせて、すぐにくたばったらどうする。こいつブっ殺したいのはお前だけじゃねえって分かってんのか、この馬鹿。何のためにここ借りたんだよ」

「す、すいません」

 柚木の一睨みで、復讐心にたぎる仲間たちが沈静化した。

「その通りだよ」

 内藤がデジタルカメラを、集まる周囲へ振って見せた。

「すぐにバラしたら、良い映像が撮れねえだろ。商品にするんだから、その辺も考えてくれよ」

「おい、俺たちの顔が映っちまうんじゃないんだろうな」

「ちゃんとモザイク入れて、編集するって」

 笑いながら、内藤が録画スイッチを押した。

 その横で、柚木の中では得也への冷たい怒りが煮えたぎっていた。この男から引きずり出すのは内臓だけではない。

「おい」

 柚木は引きずり上げた得也を、視線で刺し貫いた。

「金、どこにやった」

「金?」

「親父の店で盗んだ金だ! 知らねえとは言わさん!」

「金なら」

 得也が顔を振った「バッグの中」

 時間も経たない内に、歓声が轟いた。

「ありましたよ、柚木さん! 全部で八百万」

「貴様!」

 柚木の頭に天啓が走った。真相が閃いた。

「お前、さては親父の隠し金を見て、妙な気起こしやがったんじゃねえか? 金を横取りするために、健二を殺したのか! しかも、あんな……」

 弟には、手足がなかった。赤いダルマだった。

「いや、もしかして最初からそのつもりだったのか? お前が健二をそそのかして、親父の金を盗ませたのか? ドラッグの事といい、何か腑に落ちねえ事ばっかりだったが、誰かが裏で糸を引いていやがったんだ。それなら納得出来る。それが貴様だろう! そうでなきゃ、あんな中でのうのうと生きているはずがねえし、金を持って逃げ回っていた理由がそれだ!」

「……」

 得也の口元が歪む。

「何笑っていやがる!」

 柚木は思い切り、得也の頬を殴った。

 得也は石ころのように転がった。

「おら、立て」

 後輩の岡本が、襟首を掴んで得也を引き上げた。

 突然、得也が岡本に体当たりをくらわす。

 バランスを崩した岡本の腕に、得也が喰らいついた。

「ぎゃあぁっ」

 岡本が腕を押さえて身を折った。その腕から血があふれ流れている。

 得也のその足が、岡本の背中を蹴り上げた。

 岡本の巨体が吹っ飛んだ。

 取り囲んでいる獲物の、思いもよらない反撃だった。場が騒然となった。

「きさまあっ」

 思いもよらぬ反撃に、柚木の殺意が爆発した。再び得也を捕らえ、殴ろうとしたその時、気がついた。

 得也が何か、咀嚼している。

「ひでぇ、岡本の腕の肉を喰いちぎってますよ、この野郎!」

 後輩の腕を見た誰かが叫んだ。

 得也が咀嚼していたものを嚥下した。

 満足げな笑みが浮かんだ。その得也の笑みは、柚木の本能をざわりと撫で上げる。いいようのない嫌悪感が爆発した。

 反射的に得也を殴りつけていた。

 得也の体が、無防備に床へ叩きつけられる。

 荒い息を吐いていた。その柚木の形相に、手下たちが息を呑んだ。その中で、内藤だけが舌舐めずりの表情で、画像をビデオに納めている。

 その時だった。

「岡本ぉぉぉっ」

 獰猛な叫び声が突き抜けた。人の輪の一角が崩れる。さっき得也に噛まれた岡本だった。暴れている。

 怪我で激昂しているのか? そう思いかけた柚木の耳に悲鳴が刺さった。

「何をする、岡本!」

 皆で岡本を押さえつけた。そのすぐ傍で、耳を押さえた手下がいる。その手から血が流れていた。

「おい、どうしたってんだ!」

 柚木は怒鳴った。

「柚木さん、いきなりコイツ、暴れ出し……」

 ゴキ、と鈍い音がした。

 手下の首が、直角に折られていた。

 絶叫が反響する。

 岡本の手が、逃げようとした仲間の頭をリンゴのように掴んだ。それを壁に打ちすえる。

 鈍い音が響く。白い壁に血が花火のように飛び散った。鼻が陥没した血染めの顔に、岡本が齧りついた。

「や……岡本!」

「何しているんだ、貴様ら、おい、止めろ、何しているんだ!」

 突然もつれ合い始めた仲間達へ、柚木は叫んだ。

「河野! 何やっているんだ、やめさせろ!」

 すぐ目の前にいた手下に、柚木は命令を飛ばす。

「お、岡本、ややめろおっ、どうしちまったんだよっ」

 違う場所で、悲鳴が上がった。

「柳っっ、どうしたんだ!」

 さっき、岡本から耳を齧られた柳が、仲間の顔に喰らいつくのを柚木は見た。

 頬の肉を喰いちぎる、その表情は死人の顔だった。

 仲間を襲い始めた柳を阻止せんと、背中に飛びついた男が空に舞った。

 壁に叩きつけられた。そのまま動かなくなった。

 男たちはスタジオを逃げまどう。あちこちで機材が倒れ、人が転倒した。肉食獣に襲われ、パニックに陥った小動物のようだった。

 誰が生きて、誰が死んでいるのか、殺しているのか、殺されているのか、双方が入り乱れ、混沌の中で引き裂かれていく。

「何をしている! 貴様ら止めろ!」

 柚木は叫び続けた。

リーダーとして、威厳と統制を命令で取り戻そうとするか、怒鳴り散らした声は、悲鳴の中で無と返した。

 今まで号令一つで意のままに出来た仲間は、今や柚木を全く目に入れていなかった。

 柚木は気がついた。

 お互いを殴る蹴るではなく、噛みつきあっている。

 床に転がる部下の手足に、二人の男が文字通り齧りついていた。その部下の目が目に指を突きこまれて、目玉をえぐり出される。

「ごぼぉぉっ」

 獣の声を上げた部下の咽喉に、仲間が手を突き入れた。目玉のない目と、使えない咽喉で部下が柚木に助けを求めた。そして息絶える。

「……ぁ」

 息絶えた部下に、人間の姿をした野犬が群がった。肉を噛み千切り、毟り取る。見る見るうちに人間の形が失われていく。

「ひぃぃぃっ」

 手下が金切り声を上げながら、迫りくる仲間に向かって銃を構える。

 銃を持つ手下に向かって、影がヒュッと風を切った。

 金切り声が、咆哮となった。手下が握っていた銃ごと、両手が無くなっていた。二つの手首の先は、先の尖った骨が露出している。

 世界が一気に裏返った。

 充満する血の匂いと悲鳴、哀願に囲まれながら、柚木は愕然と立ち尽くす。

 床に、散らばった一万円札が血で貼りついていた。しかし、拾う者は誰もない。

「矢田の……弟の死にざまが知りたかったんじゃないのか」

 狂った空間の中で、笑いを含む声。

「……かけい」

 得也が少し離れた場所で、立っていた。

 全くの傍観者のその態度が、この事態の張本人だと語っている。

 ボタンが千切れたシャツが開いていた。そこから見えているのは、今まで見たことのない、腐肉のような肌だった。

「教えてやったよ、これで用事は済んだだろう?」

 得也が鼻で笑いながら、これ見よがしに手を振った。

 両手が自由になっている。手首には、鉄輪だけ残されていた。切断機がないと、切れない鎖のはずだ。

「……てじょう……」

「ああ、見たところ本物の鉄だな」

 切って外したのではない。強い力で変形した鎖を得也が見せつける。

 柚木は声が出ない。口だけが動いた。

 ――ばけもの。

「俺がその化け物になったのは、元をたどればあんたの弟のせいなんだよ」

「……ゆぎさん、た……すけ……」

 柚木は振り向いた。顔だけでは判別できなかったが、内藤の声だった。

 鼻も唇も、目蓋も無かった。頬の肉は無く、歯と頬骨が見えていた。伸ばしている右腕は、骨だけ残した鳥腿肉を思わせた。

「ああ、あと一本残っているな」

 内藤の左腕に、得也は気がついた。歩み寄り、その腕を掴む。

 絶叫がほとばしる。

 内藤の左肩の付け根から、先が消えていた。

「こいつが美味いんだよ。周りの奴らを見ろよ。分かるだろ?」

 得也が引き抜いた内藤の左腕を噛み千切った。

 内藤の肉を咀嚼する口、嚥下する咽喉。

「これで、気が済んだか?」

 三日月型の笑いを浮かべ、得也は口元の血を拭った。

「何が、なにが……」

「これが、あの夜の再現だ。あんたが見ている光景そのものだ」

「何が、何で……なぜ、そんなことが」

 突然始まった殺し合いの意味が掴めなかった。殺し合う理由が、どこに潜んでいたというのだ? 

「何で、岡本が暴れ出した! 理由は何だ、健二だってただの死に方じゃねえぞ、あんなに死体がぐちゃぐちゃに……まるで、ありゃ……あれは……」

 獣に、喰い散らかされたようだった。

 得也が、柚木に向かって指で方向を示す。柚木はその先を目で追った。

 そして、知った。

「こうの……」声は、音声にもなり損ねた。

 さっきまで自分に忠実な子分だった河野が、仲間の頭を齧りついていた。頭部の白と赤の中身を露出させ、滴らせている仲間は、明らかに絶命していた。

「う、うそだぁぁっ」

 絶叫で柚木はこの世界を否定し、逃れようとした。

「そ、そんな事あるはずがねえっ、い、いきなりそんな、人が狂って、ひと喰うなんかあってたまるか! うそだ、うそだうそだうそだぁぁっー」

 否定の言葉を重ねても、地獄の光景は消え失せない。何度瞬きしても、目をこすっても消えない幻覚だった。

「わざわざ、再現してやったのに」

 得也の声は、笑いを含んでいた。

 柚木の生存本能が、獰猛に頭を突き破った。

 弟も、金も消え失せた。仲間を見捨て、紙幣を踏みつけて柚木は走った。

 スタジオから飛び出した。

 ドアに鉄の角材が立てかけてあった。鉄の戸を閉めて、開かぬようにつっかい棒をした。

 獰猛な複数の力が、内側からドアを押し破るように叩かれる。

 仲間たちをスタジオに閉じ込め、柚木はシャッターへ走った。

「開けろ! 開けてくれ! あけろ、あけろおぉっ」

 シャッターを破る勢いで叩き、咆哮する。

「ど、どうしたんですか?」電動音がした。ゆるゆると上がっていく古いシャッターの元に、柚木はひざまずいた。

 見張りの二本の足が現れてくる。柚木はそれを掴んだ。

「早くしろ、はやくぅぅっ」

「柚木さん?」

 徐々に上がっていく三〇センチの隙間から、怪訝そうな見張りの顔が覗いた。

「早くしろぉっ」

 シャッターへ怒鳴り、背後を見た柚木は声を失った。

 スタジオの扉は破られていた。血の匂いをまとった喰人鬼の群れが、すぐ背後まで押し寄せている。

 声にならない絶叫が、咽喉からほとばしる。

 感情の消えた顔が、柚木を取り囲んだ。何本もの手が伸びる。

「ひぎゃあぁぁっ」

 倉庫の中を覗きこんだ見張りの男が、頭を掴まれて倉庫の中に引きずり込まれてきた。

 絶望に柚木は呑みこまれた。

「助けてくれ!」

 幾本もの指が、顔面に食い込んだ。頭、首、胴、腕、足、全てに強い力が絡みつく。

 激痛が頭のてっぺんから足の指先まで、あちこちで爆発した。自分の腕に喰らいつく河野と、目が合った。

 幾つもの手が目の前に押し寄せる。衣服が千切られる、露出した皮膚に鋭い歯が喰い込み、肉を千切る。

 剥き出しの痛覚が切り刻まれ、千切られる。柚木は悲鳴を上げた。許しを乞うた。言いくるめようとした。だが、仲間たちの貪欲に澱んだ目は、柚木の何も見ようとはしなかった。

千切れた柚木の腹からはみ出した腸に夢中だった。

 癒える望みのない激痛、いつ死んでもおかしくは無い。それなのに、肉体はいつまでも死を拒否し続ける。柚木は、骨と内臓を剥き出しにして死を渇望した。

 殺してくれ……それは叶うまでに、二〇分以上かかった。

 

 スタジオの壊れたドアから、悠々と得也は出た。

 倉庫の共食いは終焉を迎えていた。足元には四肢や臓物が散乱し、人の原形を留めたものは残っていない。

 漂う甘い香りと美肉は、幼い頃に読んだお菓子の家を連想させた。好物だけで固められた、魅惑的な家。

 しかし、いつまでもここにいる訳にはいかない。得也は転がる肉塊に手を伸ばした。

 腕を引き抜き、脚を折った。脳を吸い、頬肉を噛みしめた。持って入るだけ、バッグに詰めた。

 入り切らない肉を残し、得也は倉庫を出てシャッターを閉める。スタジオに散乱したままの金には全く未練は無いが、喰い残した肉は名残惜しい。金では買えない美食だ。

 得也は空を見上げた。。

 すでに夜だった。地上の光が少ないせいか、星の光は明るかった。


 息子の得也が家出をしたのは、二週間ほど前の事だった。

 その間、何をしているのかどうやって暮らしているのか、母の史恵は全く分からない。

 得也には携帯端末を持たせていた。それは親にとってのセーフティネットでもあった。

 警察に届けを出さずに済んだのは、そのおかげでもある。警察沙汰にしたら、問題が他のところに普及する恐れもあった。

「息子というのは、そんなものだろ」

 夫の誠司もそう言った。

「親の存在が疎ましい時期は、必ずあるんだ。そんな時は放っておくしかない。どうせ携帯持たせているんだから、いつでも連絡はつくだろう。警察沙汰にさえならなきゃいいんだ……学校は?」

「休学届を出したわ。父に診断書を書いてもらいました」

 第一志望ではなかった高校とはいえ、授業の出席日数の問題くらいで、退学処分にはさせたくはなかった。

「ならいい」

 誠司は肯いた。

「復学ならいつでも出来る。その気になれば、いつでもやり直せる環境を整えておくのも、親の務めだ」

――そして、得也は帰ってきた。

「今まで、心配していたのよ。何をしていたの?」

「……」

「携帯を持っているんだから、連絡くらいしなさい。あら、どうしたの、そのシャツ。お母さんが買ったものじゃないわね。自分で買ったの?」

「何だっていいだろ」

 親に向かって、鬱陶しそうなその態度に代わりはないが、史恵は安堵した。


 帰って来て数日、得也は一歩も家から出ようとしなかった。

 まるで、迷子になって、ようやく帰って来た犬だと、内心史恵は笑った。まだ子供なのだ。反抗期であれ何であれ、今はとにかく、親の手の内にいてくれれば良い。

……ただ、気になるのは得也の食欲だった。

「どうしたの?」

 夫の誠司が、家で夕食をとることはほとんどない。自然、息子の好物が食卓に並ぶのだが……料理を前にした得也の表情は浮かない。

「好きでしょ、ロースカツ」

 使う豚肉の種類もこだわっているのだ。

「だから、食べてるだろ」

 それなのに、好物を食べているとは思えない。まるで嫌いなものを無理矢理咽喉に押し込んでいるような、得也の表情だった。

「嫌なら無理して食べなくてもいいのよ」

「仕方がねえだろ」

 どうやら、空腹ではあるらしい。食べる量は以前より増えている。

「部屋から一歩も出ない割には、随分とお腹がすくのね」

 史恵は妙な事に気が付いた。

「顔色も良くないわね。気分はどう?」

「別に」

 確かに、病気なら食欲も出ないだろう。

「ところで、得也。あなたの部屋だけど、ちょっと妙な臭いがするわよ。ちゃんと部屋は掃除しているでしょうね?」

 得也の視線が微かにゆれた。

「腐ったものなんか無いでしょうね。ゴミはちゃんと出しなさい」

 得也が部屋にいる時、史恵が部屋に入ることはほとんどない。

 入ったのは、得也が風呂に入っているわずかな時、掃除のためだった。

「蝿が飛んでいたわよ」

 得也の顔が上がる。ふいに、史恵はこわばった。

「……お母さんに、入って欲しくなければ、自分で部屋は……」

「分かった」

 相手を刃で静かに切り捨てるような、目と声だった。

 史恵は感じた。以前とはどこか様子が違う。

 反抗期にしては、冷た過ぎた。

 

 得也が高校受験に失敗したのは、運が悪かったせいだと史恵は思っている。

 受験二日前に交通事故に遭ったのだ。そのせいで本命の進学校には行けず、仕方なく他の学校に入学した。得也のレベルからすれば、さぞ不甲斐なく、物足りない境遇だろうと思う。いくら大人びた子であっても、そのせいで自暴自棄になっても仕方がない。

 問題は、子供の事に、親がどれくらい構えていられるか、ということ。

 例え少々息子が人生で寄り道をしたとしても、それを補える余裕と経済力を、この家は備えている。

「だから」と史恵は得也に言い聞かせた。

「学校に行きたくなければ、気が済むまで休んでいなさい。その内どうせ、このままじゃいけないって、自分でも気が付くでしょうからね。その時は復学なり、学校を受け直すなりすればいいのよ」

 母親の懐の深さを見たはずの息子は、何も言わなかった。が、取りあえず部屋の掃除はしたらしい。

 次の日、裏口の庭にゴミ袋が置いてあった。部屋のゴミだ。史恵は黒いゴミ袋を、他のゴミ袋と一緒に持ち上げた。

「!」

 酷い臭いが鼻をぶった。

「何……これ?」

 黒いゴミ袋が破れている。その突き出されたものに、史恵は絶句した。

 骨。

「!」

 部屋のゴミ箱に入るものではない。異常なものを感じた。ゴミ袋を開いた瞬間、史恵は袋を放った。蛆にまみれた新聞紙。新聞紙から覗く骨。

 蛆が手についた。蛆がエプロンに転がった。

「ひぃっ」

 骨につく蛆。史恵は戦慄した。骨が太すぎる。食べ残しの鳥や豚骨ではない。

 袋の中は、全て新聞紙に包まれている骨。

 その内の一本には、五本の手指があった。

「……っ」

 史恵は黒いゴミ袋を家の中に戻した。

 きっと偽物の骨だ。だが、付着しているのは蛆。

 階段を駆け上がった。息子の部屋を開け放った。

「得也!」

 換気のつもりなのか、窓は開いていた。

「得也!」

 得也は机のパソコンから、史恵に視線を移した。

「あのゴミは何! 何なの、あんなものをどこで……」

「捨てといてくれりゃ良いんだよ」

「何なの、あの中身は!」

「何だっていいだろ。何だと思うんだよ」

 言われた瞬間、史恵は絶句する。

 答えの馬鹿馬鹿しさに。

「ひとの……手に見えたわ」

「だから何だよ」

「どうして、人の手がゴミ袋に入っているのよ? 誰の手なの?」

 言えば言うほど、馬鹿らしさが募る。息子の目が冷えている。

「俺も誰のか知らねえよ」

「知らない人の手が、何であんたのゴミ袋の中に入っているの!」

 会話の馬鹿馬鹿しさに気が狂いそうだ。しかし、史恵は部屋の窓を閉めた。

 近所に聞こえたらという、社会性だけはかろうじてあった。

「家出してから、何があったの? ねえ、おしえてちょうだい」

 泣き声が出た。怒らないから、と。

 得也の身に何か起きたというなら、それしかなかった。思えば、息子の違和感は、そこから始まっている。しかし、人骨の意味は大き過ぎた。

「さあね」

「さあね、じゃないでしょう!」

「どうせ言ったって無駄だよ」

 パソコンを見ながら、得也は投げやりに続けた。

「得也!」

 殴ろうと手を振り上げる。

 手首に巻きついた凄まじい力に、史恵の声は死んだ。骨が折れるのではなく、肉ごと潰されそうな力。

「黙ってろ」

 細胞が凍る声。

 得也はネットニュースを見ていた。

 ホテルの部屋で発見された大量の人骨。

 北港埠頭の倉庫で、大量の紙幣と大勢の死体が発見。

「安心しろよ。今のところ、あんたが恐れるような事態にはなってないから」

「……何が?」

「いちいちうるせえな」

 史恵の手を振り払い、得也は立ち上がった。

「自分でゴミ出せばいいんだろう」

「待ちなさい!」

 史恵は止めた。あの中身は、無造作に出してはならない。

 マスクをしたが、息を止めてゴミ袋から、もう一度中身を取り出した。

「……!」

 新聞紙の破れ目から、蛆がポロポロこぼれた。詰め込まれていた死臭が拡散し、マスクの布地を突き破った。史恵は吐きかけた。

 ゴム手袋をしても、くねる蛆の動きが目から皮膚に伝わる。

 腐った肉と血が付着している骨を、史恵は生ゴミだと自分に言い聞かせた。目をそらしながら新聞に新聞を重ねた。

 どれだけ重ねても、腐臭が漏れるような気がした。気がつくと、包の大きさは当初の倍になった。

 ゴミ袋を更に四重にした。

 食べ残しの、鳥の骨だ。

 自分に言い聞かせながら、史恵は夢遊病者のようにゴミを出した。

 ゴミ収集車が回収し、走って見えなくなるまで、史恵は家に入ることが出来なかった。


「――あなた」

 父親の誠司が帰宅したのは、日付が変わってからだった。接待と残業、休日出勤で誠司の一年は回っている。

「得也の事なんだけど」

 脱いだ背広をハンガーにかけながら、誠司はかすかに目を細めて、二階を見上げた。

「反抗的なのか?」

「いえ、それは……」

「家にはいるんだろう」

「いるけど」

 事の切り出し方が分からない。そもそも、信じてくれるのかどうか。

 現実的な男だ。真っ当過ぎる社会生活を送る誠司に、どうゴミ袋の話をすればいい?

「何を考えているのか、分からないのよ」

 結局、史恵は物事の縁しか持ち出せなかった。

「あの子、隠し事をしているみたいで……」

「だからって、その隠し事をつつき回せば、なおさら意固地になるぞ」

「そういうのじゃなくて……」語尾が消えた。

「今まで、得也は何でもそつなくこなしてきたんだ」

 誠司は言った。

「それが、あんな事故のために、志望校に受験すら出来なかったんだ。表面上はああ見えても、とんでもないショックだったんだろう。自分が悪いわけでもないのに、希望した高校に入学できなかったんじゃ、多少世をすねたくなるだろうよ。実際、性質の悪い奴と付き合って、家出までしていたんだから」

「……」

「それでも、最終的には我が家に帰って来たんだ。子供を信じてやるのも、親の役目だろう」

 正論で話が切られてしまった。

 違う、と史恵は言おうとした。だが、言葉にはならなかった。

 口に出すには、禍々しすぎる。打ち明ける事によって、事が確定してしまう。

 見てしまった恐ろしいものを、無かった事にしたい願望があった。口にしなければ、それはなかったも同然だ。

「……信じてやれ、というのね」

「しばらくは、静観かな」

 史恵は口をつぐんだ。

 このまま、何事もなければ。

 冷静な程落ち着いた、得也の様子が思い出される。

 予感が厭なざわめきを立てていた。だが、史恵はそれを無視した。

 ひたすら、希望的観測にすがりたかった。


 

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