片思い
糸賀 太(いとが ふとし)
片思い
下北のライブハウス、開店前のリハ。
ピアノの臼井さんが、全然違うコードを弾いた。
ハモヤンのテナーサックスが悲鳴を上げるが、まもなくそれらしいアドリブを始めてごまかした。
私も手に力を入れ直して、ウッドベースのリズムを再開する。
さっきまでの曲とは違うだけで、和音そのものは体に染み入る、心地よい響きだ。
ピアノが止まって全体が止まる。
「七尾さん、機嫌悪い?」
臼井さんが、頭をかきながら聞いてきた。
「力入れすぎたかなあとは思います」
私は目をそらして答える。
「ちょっとちょっと。そういう話じゃないでしょ」
ハモヤンが壁掛け時計に指を突きつけた。
あと二十分で開店だ。
「演奏は完璧だったじゃん」
「曲がぜんぜん違うでしょうが」
私らが会社員やめられるかどうか、臼井さんに年金以外の収入が入るかどうかの瀬戸際なのはたしかだけど、臼井さんの予想外の演奏が最高だったのもたしかだし…。
客席をうろついている支配人が、怪訝な目線を向けてくる。
「頼むよ、セブン」
ハモヤンが私に向かって頷く。リーダーの役目だと言いたげだ。
「なんで予定にない曲やるんですか?」
私が座ったまま尋ねると、臼井さんは鍵盤に目を落として答える。
「聞こえてきたんだよ。あの人の演奏が」
臼井さんが口にしたのは、ジャズ界なら誰もが知るアルトサックスの天才の名だった。あとは何も言わず、臼井さんはピアノに向き直り、天使に伴奏を捧げる。
ハモヤンは、始めこそ戸惑ったような表情をしていたが、まもなく真剣な表情になってピアノに傾聴する。
私も同じだ。
今夜のプログラムには無いが、誰もが知るスタンダードナンバー。
自然と、私はリズムセクションを担い、ハモヤンはテーマを吹き、アドリブへと遷移する。
いいじゃないか。私らトリオは、祝福されたんだ。
曲が山場に差し掛かったとき、ふっとサックスが止んだ。
「どこか悪いの?」
思わず私まで演奏を止めた。
ハモヤンは唇に指を当てて、忍び足で近づいてくる。
「いま、バードのソロだから」
なんてこった。ハモヤンまで「聞こえる」ようになったらしい。
「リズムだけお願い」
私はうなだれて、指は勝手に動いてリズムを刻む。
「二人だけずるい」
私だって天使の演奏を聞きたい。
しばらくすると、ハモヤンが復帰してワンコーラス吹いて曲が終わった。
臼井さんが、悲しげな微笑を私に向けてきた。
「私のベースが悪いなら、ちゃんと言ってください。本番までに直します」
臼井さんは首を振る。
「片思いだったんだ。僕たちはバードと共演してる。けど、バードはディズと共演してた」
ハモヤンもうなずく。
開店まであと十分。
片思い 糸賀 太(いとが ふとし) @F_Itoga
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