第1号車 朝日を浴びる小さな芽
車掌は客室から聞こえる声に深呼吸をする。扉越しでも聞こえるその声に車掌は頭が痛む気がする。気のせいだ、と痛みの幻覚を振り払ってノックをする。
「入るよ」
客室から、はい、と一言応じる声がある。車掌が扉を開けると、客室から聞こえる声がさらに大きくなる。列車の駆動音に負けないぐらい大きな声だ。車掌は扉を閉めながら静かに近づく。
車掌と同じ色合いの制服を着た女性はベッドの上の声の主をただただ見つめているだけで車掌が近くに立つと無機質な瞳で見上げる。
「随分と時間がかかりましたね」
女性の言葉に車掌は小さく息をつく。どこまでも淡々とした話し方は彼女らしくもある。
「そうだね。それで、カハタレ。今のこの状況はどういうこと?」
車掌は声の主を見下ろす。泣いている乗客は何かを求めているのか、手を動かしている。
生後一ケ月ほどの赤子。彼女が今回の一号車の乗客だ。乗車時は静かに眠っていたのだが、発車と同時に泣き出した。列車の音に驚いてしまったのだろう。何とか落ち着かせてから、車掌は他の乗客の元へ向かい、カハタレは赤子の様子を見ながら乗客たちからの要望に応えていた。珍しく頻繁に連絡を取り合いながら二人は業務を行っていた。
六号車の乗客への質問が済み、最後にと思っていた一号車の乗客がまさかこんなにも泣いているとは思わなかった。
車掌は席に着く。窓から差し込む朝日は眩しい。朝の澄み渡った空から降り注ぐ光の温もりはうたた寝を促すかのようだ。しかし、赤子に差し伸べられる手のように優しい光はカーテンによって一部遮られている。
「こんなことなら手伝いを一人頼めばよかった」
車掌はため息をつく。五号車の客の件もあったため、頼んでもよかった気がする。
「夜想列車の車掌に声をかけておくべきでしたか? ちょうど、二号車のお客様のつき添いをしていましたし」
カレンが言っていたことだろう。車掌は夜空色の瞳を思い出す。心根の優しい男だ。頼めば、よほどの用事が入っていないい限り応じてくれるだろう。
しかし。
「それは駄目だ。もうあの子はこの列車の子じゃないのだから」
彼を指導するために使ったのはこの列車だ。当時は思う存分使い走ったが、今の彼はこの列車の乗務員ではない。それに、業務を終えて帰ってきたところを捕まえるのも悪い。
「で、カハタレ。その子、泣き止まないの?」
「考えられることは全てしました。空腹なのか、寒いのか、眠たいのか……。音もできる限り注意して、静かに走行するようにしているのですが、限度があります」
二人が話している間もずっと泣いている赤子は何を求めているのかわからない。
「うーん……。君がすぐに駆けつけられるようにと一号車にしたのがまずかったかな」
彼女はカハタレ列車そのものだ。安全かつ快適に乗客を送り届けることが彼女の使命であり、操縦席が彼女本来の居場所だ。だから、できるだけ先頭にいた方がいいのだが、一号車だからこそ、様々な音が聞こえてしまう。きっと、それが赤子にとってよくないのだろう。
車掌はいまだ泣き止まない赤子の顔を覗き込む。小さな身体が全身で何かを訴えているのだが、それがわからない。
「どうしましょうか、車掌」
「どうするもねえ……。まあ、当初の予定どおりでいくよ」
車掌は立ち上がると、小さな温もりを抱き上げる。その身体のどこにそのような力があるのかわからないが、抵抗される。力自体は大したことないのだが、突っぱねるように動く手足に車掌は柔らかな身体を支える。
「ちょ、ちょっと、暴れないでよ! 落ちちゃうよ!」
車掌は赤子の力に負けないようにと、抱き直す。
「車掌、その抱き方はいけません」
言葉の割にカハタレの声は落ち着いている。というか、無機質な声だからか危機感が全くない。淡々とした物言いだ。
「わかってるけど、もうちょっと大人しくしてよ」
車掌はこのままでは危険だと思い、一度ベッドに寝かせる。
「はあ……。全く、どうしてこんなことに……」
カハタレ列車に赤子が乗車したことは前代未聞。カハタレ列車の前身にもそのような記録はない。最年少で八歳の子どもだ。カハタレ列車は己について問いかける列車だ。自我が芽生え、ある程度の言葉を理解し、自分のことを表現できる年齢が乗車の最低条件となる。よって、あまりにも幼すぎる子どもは除外される。
通常であれば、乳幼児は他の魂とは違い、専門の担当がいる。生まれたばかりの命は彼らによって主の元へ送られるのだ。しかし、今回は何を血迷ったのか知らないが、カハタレ列車への乗車が決定した。主直々に言われた車掌は何も言い返せず、珍しく言葉を詰まらせた。
主は呆然とする車掌にこう言った。
『記憶という記憶のない命。その魂に対して、カハタレ列車と車掌の君はどう応えるのか。それを見せてほしい』
言い方は悪いが実験だ。記憶がほとんどないような生まれたばかりの命に対して、カハタレ列車と車掌はどのように応じ、赤子はどのような反応をするのか。場合によっては、カハタレ列車や他の乗り物の乗客の年齢を引き下げるような決断が下されるかもしれない。主からの命令もあって、カハタレ列車の関係ではない者を乗せて、しゃしゃり出られては困ると思って手伝いの手配をしなかったのだ。
重大な任務ではあるが、カハタレ列車と赤子が釣り合うのか。車掌自身も気になるのだが、如何せん慣れないことだ。赤子のことはある程度知識としてあるが、言葉が通じないということもあり対応に困ってしまう。そもそも、車掌もカハタレ列車も赤子に接触すること事態が初めてで動きが読めないのだ。
ぐずぐずと考えていてもしょうがない。車掌は意を決して柔らかな身体の彼女を抱き上げる。それでもまだ泣き止まない。
「とりあえず行ってくるよ、カハタレ。後のことは頼むよ」
「承知しました」
カハタレはいつもと同じ角度で頭を下げる。彼女には向かない仕事だぞこれは、と思いながら、車掌は泣き止まない赤子を抱いて客室を出た。
耳の悪いケイトの耳にもその声が聞こえてくる。ふにゃー、ふにゃーと泣くその声にケイトは作業の手を止める。形になったそれを置くと、ケイトを呼ぶ声がする。
「どうぞ」
扉がゆっくりと開くと、腕に小さな何かを抱えている車掌が入室する。
「あら、車掌さん。その子……赤ちゃん? どうしたの?」
「あー、この子もお客さんなの。ずっと泣き止まなくて、どうしたらいいかな?」
車掌の金色の眉がずっと下がっている。こういうときは経験者に頼った方が小さな彼女も落ち着くかもしれないし、どのように対応すればいいのか教えてもらいたい。
「まあ……。とにかく、こちらまでいらっしゃいな」
車掌はケイトに手招きされて入室する。ケイトは自分の隣に座るように、ソファをぽんぽんと叩く。裁縫道具やぬいぐるみを籠にいれてテーブルの端に置き、車掌を招く。車掌は、失礼するよ、と言ってケイトの隣に座る。
「まあ、可愛い赤ちゃんね。女の子?」
ケイトは目尻の皺を深くしながら、顔を覗き込む。柔らかそうな手が何かを求めるように伸ばされる。
「ちょっと私に任せてくれる?」
車掌はケイトに赤子を任せる。
「この子、名前は?」
「ゾーイ」
「ゾーイね。はじめまして、ゾーイ」
ケイトはゾーイをあやす。彼女の心地のいいリズムはどうかと揺らしながら探す。すると、ゾーイの泣き声が落ち着いていく。少しゆっくりなテンポで静かなリズムが彼女の好みらしい。
「おお……」
あんなに必死であやしても泣き止まなかった車掌の手と違い、ケイトの手ではゆっくりと落ち着いていく。
「すごいね、ケイト」
「これでも、子ども二人と孫五人を見てきたのよ」
久しぶりに赤子を抱いたが、身体は覚えていた。ゾーイは落ち着いてきたのか、ゆっくりと瞬きをする。
「何かコツでもあるの?」
「そうねえ。リズムね。赤ちゃんによって好きなリズムが違うから、その子に合ったリズムで、優しくあやしてあげるといいんじゃないかしら」
「リズムねえ……」
「気分にもよるけどね。今のゾーイはゆっくりなテンポがお好みみたいよ」
ね、とケイトが尋ねるとそれに応じたのかわからないが、あー、とゾーイは声を発する。
「ありがとう、ケイト。私ももう一人の乗務員も赤ちゃんに触るのが初めてで、どう接してあげればいいのかわからなくて……。一応、こういうときはこうすればいいってことは頭に入れたのだけど、上手くいかなくてさ」
「そうね。当たり前だけど、マニュアルどおりにいくとは限らない」
これでも七人の赤子の世話をした。皆違うので、先に生まれた子と同じようにやろうと思っても、どこか違うのだ。よく泣く子もいれば、あまり泣かない子もいた。ぐずってしまう子もいれば、マイペースに自分の思うがままに動く子もいた。成長の度合いも皆違った。
それぞれが違う子なのだから、当たり前と言えば当たり前。ケイトは目を細める。
「あくまで目安ってこともあるからね」
「なるほど……」
ケイトはゾーイの腹の辺りを優しく撫でながら語る。
「落ち着いたかな?」
「うーん、もう少し」
何となく。ケイトの直感がそう告げる。経験が物を言っている。
ケイトは車掌にタオルを頼むと、すぐにタオルが現れる。ふわふわのタオルでゾーイの目元を拭う。
「ねえ、ケイト。その子が好きなリズムとかテンポってどんな感じ?」
車掌から見ると、あまり振動を与えていないように見える。触れるぐらいの手の動きだ。
「言葉での説明となると難しいね……。思っているよりも揺らしたりしなくていいのかもしれないわ。と言うか揺らしすぎはよくないし」
そのときの気分によって変わるかもしれないが、今のところはゆっくりとしたテンポがいいらしい。
「後は、リラックスして。身体がカチカチだと赤ちゃんの方にも伝わってしまうから」
「リラックスか……」
車掌にしては珍しく混乱したのだ。勉強したとおりにやっても一向に泣き止む気配はなく、余計に焦りが出てしまった。正直、このふにゃふにゃとした頼りない存在にどう接しろと言うのだと主を恨んだぐらいだ。カハタレはあんな感じなので、自分がどうにかするしかなかった。乗客を頼るのもどうかと思うが、ゾーイのことを思えば協力を仰いだ方がいい。
それに、車掌にも考えがある。アイオライトの目に影を覗かせた車掌は軽く頭を振る。今はゾーイを落ち着かせることが第一だ。
「泣き止まなくて慌てることもあると思うけど、まずは自分が落ち着くことが大切よ」
「基本中の基本なわけか」
日頃の仕事でもそうだ。記憶の欠落が激しい者や、暴れるような者がいても冷静に振る舞っていたのだが、ゾーイのこととなると全て狂ってしまう。
感情が読めない。生まれたばかりの赤子にどれだけの感情が備わっているのか。そこから疑問に思うのだが、何より、彼らが持つ意思伝達の術が少ないのだ。同じ泣くと言っても、それが一体何を訴えているのかわからない。だから振り回されるのだ。
「子育てって大変だなあ……」
「親御さんの苦労があって、あなたも育ったはずよ」
ケイトの言葉に車掌は苦笑する。
車掌には親というものは存在しない。強いて言えば、主が生みの親にあたるのか、といった具合だ。確かに、主によって生み出された。だが、生まれてすぐの状態は人の子のように赤子ではない。すぐに動ける存在だった。知能もあった。指導されることはあっても、それは育てられたと違う。あくまで機械的なやり取りのもと、車掌は淡々と職務をこなしていたのだ。
「……そうだね」
車掌からはこれ以上何も言えない。言えることなどないのだ。
「ねえ、ケイト。もしよかったらなんだけど、そのぬいぐるみをゾーイにくれない?」
「え?」
ケイトは作りかけのぬいぐるみを見やる。車掌の瞳を思わせる深い青の目がじっとこちらを見つめている。
「駄目かな?」
「私は構わないけど……」
ぬいぐるみの服も作ろうと考えていたが、これは変にごちゃごちゃとつけない方がよさそうだ。口にしてしまうことを考えると、シンプルなものを作るのがベストだ。
「もう少しでできあがるから、ちょっと待っててもらえる?」
「うん、お願い。じゃあ、ゾーイをこちらへ」
車掌はひと呼吸してから手を伸ばす。ケイトから慎重にゾーイを受け取った車掌は彼女を見つめる。ケイトから車掌に変わったことで落ち着かないのか、また泣き出しそうな顔になる。
「ほら、肩に力が入っているわよ、車掌さん」
ケイトにからかうように指摘された車掌は深い呼吸をする。力を抜いて、ゾーイが不安にならないように、と車掌は意識して深い呼吸をする。
「……う、あー」
ゾーイの声に車掌の身体が震える。大丈夫だと自分に言い聞かせ、柔らかい身体を優しく撫でる。ケイトがそうしたように、ゾーイにとって落ち着くテンポを探す。
「車掌さん、申し訳ないけど席を移動してもらえるかしら? 安全第一にね」
針や糸、ハサミがある。いつ何時、道具箱をひっくり返してしまうかわからない。そのときにゾーイの身体に何かあっては大変だ。
車掌は、わかった、と応じると慎重に立ち上がり、向かい側の席に座る。ケイトは慣れない様子の車掌を余所目に作業を始める。あとは足を縫いつければ完成だ。
このぬいぐるみは無意識の内に車掌を意識して作った。黄色のリボンはキラキラと輝く髪の色、そして、青い目は角度によって色を変えるアイオライトの瞳。あとは彼女のショルダーバッグや淡い空色のベストも作ろうかと思ったのだが、あまり色々とつけるとゾーイが誤飲してしまう恐れもあるので、このままがいいだろう。
ケイトが急いで作業をしている向かい側の席で車掌はゾーイの様子を観察する。もちもちとした触り心地で温かい小さな身体。手も足もすべて小さく、大切にしないと簡単に壊れてしまいそう。何を考えているのか、いや、もしかしたら何も考えていないのかもしれないがじーっと車掌の額の辺りを見つめている。
「何か話しかけてあげたらどう?喜ぶと思うわ」
「話しかける?」
「ええ。何でもいいのよ。お天気のこととか、ご飯のこととか。後は何か手遊びをしてみるのもいいんじゃない? あとは、遊んであげるとか」
「え、あ、うん……」
ゾーイは生後一ケ月。それぐらいになると、物を目で追ったりするらしい。
車掌は手でも振ろうかと思ったが両手が塞がっている。これは手を動かすのが怖い。どうしようかと迷った結果、首を傾げる。すると、ゾーイは車掌な頭の動きを追うように視線が動く。反対側に首を傾げれば、またゾーイの視線が動く。そんなことを二、三度繰り返すとゾーイは笑みを浮かべる。こんなことの何が楽しいのか、それとも生理的な反応か。
わけがわからない。よくわからないが、ゾーイが落ち着いてきたのであればいいかと思いながら可愛らしく笑うゾーイに車掌は微笑みかける。穢れのない無垢な瞳が車掌を見つめている。
「仲良くなれたんじゃない?」
ケイトは糸の始末をしながら車掌とゾーイの様子をちらっと見る。ゾーイの声が不思議と楽しそうに聞こえる。
「なれたのかな?」
「そうじゃないかしら」
車掌は小さな手がこちらに伸ばされるのを不思議そうに見つめる。本当にわからない。
「さ、できた」
ケイトは出来上がったぬいぐるみを車掌に見せる。ぴんと耳の立った青の瞳の白兎。黄色のリボンがワンポイントだ。
「ありがとう、ケイト」
「どういたしまして。よいしょ」
ケイトはゆっくり立ち上がるとぬいぐるみをゾーイの顔に近づける。
「ゾーイ、兎ちゃんと仲良くしてね」
そう言ってケイトはゾーイの腹の上にぬいぐるみを置く。
「気に入ってくれるといいのだけど」
「そうだね。ゾーイ、大事にするんだよ」
当の本人は何もわかっていない様子で宙を見つめていた。
「カレン。カーレーン」
おーい、と呼ぶその声にカレンは今度は何だと思いながら応じるも、両手がふさがっているから扉を開けてほしい、と頼まれる。しょうがないと思いながらカレンは扉を開けるために立ち上がる。客を使うとは一体何を考えているのかと呆れる。
「今度は何かしら?」
カレンは平静を装いながら扉を開けると、車掌の腕の中の小さな身体に息を呑む。赤子だ。眠いのか、ゆっくりと瞬きを繰り返している。
「ちょろっといいかい?」
「いいけど、その子は?」
「一号車のお客さん」
邪魔するよ、と車掌は客室に入る。そう言えば、一号車の客は眠っているから話をできていないようなことを言っていた。寝ているからという理由以前に話ができないではないかと思いながら、カレンは扉を閉める。
ちゃっかり席に着いた車掌の傍に歩み寄り、スヤスヤと眠る赤子の顔を覗き見る。兎のぬいぐるみの耳を掴んだ手の小ささに眉間に皺を寄せる。
「……この子、生後どれぐらい?」
「一ケ月ぐらいかな」
「一ケ月……」
カレンはぽつりと呟く。
「……」
カレンの胸の奥が痛む。何かで刺されたようなその痛みに胸を押さえる。大した痛みではないため、表情に出さず、車掌に質問を投げかける。
「ねえ、この子はどうしてこの列車に?」
「どうして、というのは?」
「……何が原因でこの子は亡くなったの?」
たったひと月の命。まだこれから長い人生があるはずの命はなぜ、そんなに短い時間で終わってしまったのか。
「病気だよ」
乗客名簿には彼らの死因も書いてある。いつ、何が原因で亡くなったのか。それは魂が命の輪を巡り、新たな生を受けるときに決められる。この小さな命が短い生を終えることは決められたことなのだ。
なぜそのようなことをするのか。何を基準に決められるのか。
車掌は唇を噛む。知っている。この身は知っているのだ。決めるのは主であり、詳しいことは主しか知り得ないことだ。
「これでも、少し長く生きられたんだ」
当初の予定よりも三日長く生きた。弱々しい生命は寿命に抗い、ほんの少しでも長く生きたのだ。長いこと生きてきた車掌からすると、三日なんて短い時間なのだが、ゾーイからすると長い時間だ。
「……ご両親は、さぞ悲しんだことでしょうね」
生まれたばかりの大切な命。新しい生命の誕生を喜んだであろう二人に襲い掛かったのは永遠の別れ。両親のことを思うと胸が痛む。
「この子の名前、ゾーイって言うんだ」
「ゾーイ……」
その名前に込められた意味。カレンは嫌でも頭に浮かぶ。
「ご両親はゾーイが長くないことを知っていたの?」
「生まれて少し経ってから医師から一ケ月もたないかもしれないとは言われたよ」
ゾーイの両親は娘の命が残りわずかであることを知っていながら、それでもどうかと希望を抱かずにはいられなかったのだろう。
ゾーイ。生命、生きる者という意味だ。少しでも長く、どうか生きてほしいという願いだったのか。
「こんなに幼い命が失われるなんて……」
カレンの視界が滲む。自分とは何も縁のない、初めて会う無垢な存在。だが、悲しくて仕方ない。
「残酷ね」
カレンは薄っすらと浮かんだ涙を拭う。赤の他人である自分でも自然と涙が零れそうになったのに、両親たちはもっと辛いだろう。
カレンの言葉に車掌は何も言い返せない。車掌は彼らの命を管理する側の立場だ。知っていながらも、彼らを見届けるしかない。車掌ができることは、命の輪に戻る彼らを無事に送り届けることであり、その道中が快適になるようにしてやれるぐらいだ。
「……君も若くして亡くなったね、カレン」
彼女が幼いときに亡くなった母親よりも若くしてカレンは亡くなった。彼女を苦しめたのは母と同じ胸の病だった。
「……」
そうだ、自分も死んだのだ。きちんと認識しているつもりだったが、改めて言われると死という存在が重くのしかかる。
胸が痛んだような気がして、でも大丈夫だろうと放っておいた。業務の方が大事だから、と働いた。使用人たちに何を言われようと問題ないと働いた結果、倒れてしまった。せっかく、父が任せてくれた大きな仕事を志半ばで終わってしまった。やり遂げることができなかった。
悔しい。もっと生きたかった。まだやりたいことがあったのに。
胸がずきりと痛む。母と同じ胸の病に蝕まれ、鈍い痛みが引かないあの日々を思い出す。
「…………う、」
ゾーイの目がゆっくりと開く。眠っていたはずなのに、目が覚めてしまったようだ。浅い眠りで何かを感じ取ってしまったのかもしれない。
ゾーイの声にカレンは顔を上げる。いつの間にか俯いていた。
「ゾーイ? どうしたの?」
車掌は澄んだ瞳を覗き込む。ゾーイはとくに何も応じず、天井を見ている。とくに機嫌が悪いと言った様子はなさそうだ。
「……大丈夫?」
意識を完全に引き戻されたカレンもゾーイの顔を覗き込む。ふくふくとした頬は触りたくなるような柔らかさだろう。カレンの髪がさらりとこぼれると、ゾーイはその髪に触れようと手を伸ばす。
「大丈夫そう。カレンもだっこしてみる?」
「え」
カレンは思わず、車掌を見やる。真剣な眼差しの菫色はカレンをじっと見つめる。
「あのね、お願いなんだ。この子にはあなたは誰ですかって尋ねても答える術どころか、答えられるほどの記憶も圧倒的に少ない。だから、ゾーイには人ふれあって愛されることを知ってほしいんだ」
ほとんど記憶のないゾーイにしてやれること。それは、愛されたという確かな記憶を贈ることだと車掌は考えた。もっと愛されるはずだったゾーイに、わずかな時間だが感じてほしい。それが車掌の出したゾーイとは何者なのかということを確立する少ない手立てだと考えた。
ケイトにはとくに言わなかった。言う前に、彼女はゾーイに触れてあやしてくれた。さらにはぬいぐるみもくれたのだ。ケイトの本能だったのかもしれない。慣れた手つきでゾーイを落ち着かせてくれた。ゾーイに向けられる目や、抱きかかえる手、話しかける声から愛しい気持ちがあふれていた。
「だっこじゃなくてもいい。話しかけてくれるだけでもいいから」
「……」
カレンは下手くそな笑みを浮かべる。
そうだ。ゾーイにはほとんど記憶がない。大半を寝て過ごしていたであろう生前を思えば、何かを見て、聞いて、触ったことをどこまで覚えているのか。カレンたちよりも思い出が少ない彼女が車掌の問いかけに答えることは困難だ。
本来、両親や祖父母、周りの人に愛されて育つはずだった命は生きていく中で知るはずだった多くのものを知らずにこちらに来てしまった。
自分がしてやれることなら。
「ええ。隣に座ってもいい?」
「うん」
カレンは車掌の隣に座るとゾーイを腕に抱く。小さな身体は思っていたよりも重い。ヘーゼル色の目を細めたカレンは優しくゾーイを見つめる。
「ゾーイ。短い間でもあなたはご両親に愛されたのでしょうね」
ゾーイは何を見ているのかわからないが、テーブルの方を向いている。
「今度生まれるときは、もっと長生きするのよ。ご両親を悲しませないようにね」
カレンは亡くなってすぐのことを思い出す。ベッドで静かに眠る自分を上から見つめていた。その傍で必死に名前を呼ぶ父と、泣き崩れた姉と姉を支える義兄、そして、周りには使用人たちが声を押し殺して涙を流しているという様子を見た。
『カレン、どうして……。どうして、カレンも早くにそちらへ行ってしまうのだ』
父の悲痛な声が耳から離れない。きっと、ゾーイの両親もどうしてこんなに早くに逝ってしまうのだと思っただろう。生まれて間もない可愛い自分の子どもがこんなにも早くに亡くなるとは思わなかっただろう。
「ゾーイ。あなたは生命という名前を頂いたこと、ご両親に感謝しなさいね」
そのようなことを言っても生後一ケ月の赤子にわかるわけないか。そう思っているカレンの目とゾーイの目が合う。まだ何も知らない純粋な目がカレンを見上げた。
「あー」
小さな手がカレンにぬいぐるみを差し出す。と思いきや、ぱっと手を離し、ぬいぐるみはゾーイの腹の上に落ちる。
「そのぬいぐるみ、大事なものでしょ?」
まだ真新しいぬいぐるみの瞳の色をどこかで見た気がする。無意識に隣を見たカレンはぬいぐるみの目と同じ色の車掌の目と視線が交わる。
「ん?」
車掌は首を傾げる。こちらの目は角度によって色を変える不思議な目をしている。
「このぬいぐるみ、ゾーイのもの?」
「さっき、二号車の客人からもらったんだ」
「そうなの?」
ゾーイは何やらカレンの腕の中でもぞもぞと動いている。一ケ月ぐらいになると力がついてきて、手足を活発に動かす子もいるとかいないとか言うらしい。カレンの髪に興味があるのか、手に取ろうとしている。
「私も何かあげようかしら」
と言ってもすぐにあげられるようなものは、と思い浮かべる。それも、赤子にあげられるようなものだ。
「……」
ない。何も持っていない。それならば。
「ぬいぐるみ、作ろうかな……」
願えば忽然と現れるこの列車。たとえば、熊のぬいぐるみが欲しいと念じれば出てくるだろう。そうやってゾーイに与えれば解決することなのだが、ケイトが贈ったという兎のぬいぐるみを見ると、自分はそれでいいのかと思ってしまう。出会って間もない可愛い命にそんなに簡単に、ぽん、と渡してしまっていいのかと問う自分がいる。既製品を渡すというのももちろん愛の形だと思うのだが、時間もあることだしせっかくなら手作りのものをプレゼントしたい。
「カレン、お裁縫するの?」
「できます。私を誰だと思っているの?」
裁縫も教養だ。さすがに母のように立派なドレスを縫えるほどの才能はないが、この兎のぬいぐるみのような小さなものぐらいならできる。
「決めた。そうするわ。裁縫道具の用意をお願いできる?」
「別にいいけど……。カレンの都合がよければ、二号車でお裁縫しない? 話し相手の一人でもいた方が彼女も喜ぶと思うんだ」
カレンはケイトの孫とも歳が近い。ケイトのことだ、喜んで迎えてくれるだろう。
「お相手がいいならそうする」
二人の会話を聞いているのか、それとも、列車の音を聞いているのかわからないゾーイが返事をするように、あう、と声を漏らした。
「君たち、いつの間にそんなに仲良しになったの?」
扉を開けてもらった車掌は客室内の散らかりように目を瞬かせる。部屋の主であるハジメは首を傾げながら後ろを振り向く。
「いつの間にって言ってもさっきだよな、お二人さん」
ハジメの視線の先、ソファに座る女性とシュリットはその言葉に頷く。
シュリットはまだわかる。ハジメと線香花火の約束をしたのだから。その証拠なのだろう、かすかに焦げたような臭いがまだ残っている。換気のためか、窓が開け放たれている。花火をきっかけに、二人は友人になれるだろうと車掌は思っていた。様子を見るに、そりが合わないといった感じではないようだ。
「もしかして、駄目でした?」
シュリットが雨に濡れた子犬のような目で見つめる。
「駄目じゃないけど……。■ナータがいるのが意外で」
ゾーイを除いた乗客の行き来の許可をカハタレに連絡してもらうように頼んだ。全員、暴れるようなこともなく、安全が確認されたためだ。そのため、女性も五号車を出ることは許されているのだが、まさか四号車にいるとは思わなかった。
女性は小さく笑うと手元の不格好なそれをつつく。それは車掌とハジメが話をしたときに、彼が手慰みに折っていたものと形は似ているが、どうもバランスが悪く見える。頭でっかちなのと、翼が不揃いなせいだろう。
「シュリットさんに誘っていただいたのです。何か思い出すきっかけになるかもしれないって」
「思い出せても、そうじゃなくても、思い出にはなるでしょ、嬢ちゃん」
ハジメはニッコリと笑う。シュリットを受け入れた彼なら記憶のない彼女もあっさりと受け入れそうだ。実際に受け入れている様子に車掌は安堵の息をつく。
「三人が楽しいならいいけど」
喧嘩となれば話は別だが、三人ともリラックスしている。すでに打ち解けて随分仲良くなった。ハジメと女性を引き合わせたのはシュリットで、場の空気を作ったのはハジメだろう。女性の表情が会ったときよりも随分と柔らかくなっている。彼女本来の表情だろう。
「で、その子どうしたの? この中の誰かの隠し子?」
ハジメは冗談めかしながら、身を屈めてゾーイの顔を覗き込む。ゾーイは反射的になのか、ハジメの眼鏡に触れる。
「あ」
ペタペタとレンズを触るゾーイにハジメは苦笑する。女性とシュリットも車掌の腕の中で眠るゾーイが気になったのか、席を立って車掌を囲むように覗き込む。
「可愛らしい赤ちゃんですね」
「ええ。あ、笑った」
ニコニコと笑うゾーイに女性は笑みをたたえる。自分の息子もこうやって笑っていた気がする。
女性とシュリットがほのぼのとしている真ん中でハジメは困ったように笑っている。
「あー、可愛いばぶちゃん? おじさんの眼鏡が気に入ったのかな?」
容赦なくレンズを触る小さな手に苦笑しながらも、ハジメはされるがままだ。自分の子どもにもされたことだ。二十年ほど前のことに懐かしさが溢れる。物心がついた子どもに眼鏡を隠されたこともあった。
「お名前は何と言うのですか?」
「この子はゾーイ」
「女の子?」
「うん」
シュリットと女性に車掌が答えると、ハジメの眼鏡に興味をなくしたのか、今度は車掌のリボンを掴んで引っ張る。
「ちょっと、今度はこっち?」
「おじさんに興味なくしちゃった?」
「正確に言えば眼鏡の方のような……」
女性はぼそりと呟く。ハジメに興味があるという言い方は誤解を与える気がする。
「今までこれっぽっちも興味を示さなかったのに」
ゾーイがリボンを引っ張ると解けてしまう。口に入れようとするその手をハジメが止める。
「ゾーイちゃん、それは美味しくないぞー? そーら、リボンよりもおじさんと遊ぼう」
ハジメはひょい、とゾーイを車掌の腕から取り上げる。
「あ、ちょっと、ハジメ」
泣き出す、と思った車掌の予想は的中。今まで抱いてくれていた腕が変わり、安定しないのか、ゾーイの表情が曇り、ぐずり出す。
「嬢ちゃんはリボンしまっておきな。口にいれていいようなものじゃないし、この子も気になってロックオンすると思うぞ」
「いや、それは確かにそうなんだけど……」
びゃー、とゾーイが泣き出す。これぐらいの月齢ではまだ人見知りをしないそうだが、今までゾーイとふれあったケイトとカレンがわりと物静かに接してくれていたこもあってハジメの少しうるさい感じが慣れないのかもしれない。
「よーしよし。大丈夫だぞー。おじさんは怖くないよー」
「不審者の言う言葉ですよ、それ」
シュリットの指摘どおりだ。定型文のそれで、いたいけな子どもたちに近寄る不審者の手口かと思わせるほどだ。
「ほーら、ばあ!」
ハジメはあやしているつもりなのだろう。車掌からすると何の面白みもないのだが、不思議とゾーイの泣き声は収まっていく。
「ほらな?」
どうよ、褒めてくれてもいいんだぞ、と言わんばかりの自慢げな表情だ。
馬鹿。客に対して言っていいことと駄目なことはさすがの車掌でもわかっている。だが、ハジメのこの様子を見ているとそうとしか言えない。喉まで出かかったその言葉を無理やり飲み込む。
車掌は解けたリボンをバッグにしまう。腕が疲れたのか重い気がする。久しぶりに気を張っているせいかもしれないが。
「二人もだっこする?」
「でも、あまりころころと人が代わってもよくないんじゃ……」
女性は遠慮気味に言う。自分の子がそうだったのかもしれない。
「それもそうか……。でも、■ナータさん。だっこすると、お子さんのこととか思い出せるかもよ?」
ハジメは久しぶりに赤子を抱いた。意外にも身体は覚えていて、すんなりと抱くことができた。ふにゃふにゃとしていてまだ首のすわっていない小さな命。彼女の子どものことだけでなく、他の家族のことも思い出せるかもしれない。
「……いいの?」
女性は形のいい眉を下げて車掌を見下ろす。深い湖のような目は女性をじっと見つめた後、ハジメとシュリットを見渡す。
「私がゾーイを連れてきた理由は色々な人と関わってほしいと思ったから。三人は子育ての経験があるし、あやしたり、遊ぶのが上手かなって思ったんだ」
ケイトも経験者なのだが、魂とは言え老体。あまり無理をさせられない。ケイトよりも若いこの三人なら安心して任せられる。
「■ナータの記憶云々も大事だけど、ゾーイを可愛がってあげてほしい。……本当はもっとたくさん、愛されるはずだったその命を、この短い時間だけでも愛してあげてほしい」
車掌の言葉に三人の表情が引き締まる。三人とも子どもがいる。遺してきた子と先に輪へ戻った子と。親という立場の三人からすると、この生まれたばかりの命がこの列車に乗っていることの意味がひしひしと突き刺さるように感じる。
自分の子どもがそうだったら。胸が張り裂けそうなほど痛むし、自分が代わってやれるなら代わると思うだろう。
「……そうですか。僕たちでよければ」
シュリットはハジメの腕の中でまだぐずっているゾーイに微笑みかける。
「おはよう、ゾーイ。僕はシュリット。よろしく」
シュリットはゾーイの手に触れる。もちっとしたその手がシュリットの手を握る。失われてしまった命だが、その手は力強い。
「落ち着いたかな?」
「……あー」
ゾーイはシュリットを見上げる。パチパチと瞬く綺麗な瞳に微笑む自分の顔が映る。自分の娘と息子もこうして見つめてくれていただろうか。
「ほら、■ナータさんも。こっちに来てください」
シュリットは女性を手招きする。おずおずと足を運んだ女性にシュリットは場所を譲る。
「だっこしてみる?」
ハジメが問いかけると、女性は戸惑いながらも小さく頷く。
「あ、でも、ちょっと不安だから、座ってからでもいい?」
「もちろん。互いにリラックスできるのが一番だと俺は思うな」
ハジメは安心させるように笑うと、女性もぎこちなく笑う。
女性はソファに深く腰掛け、シュリットから抱き方の説明を受けている。
「なあなあ、嬢ちゃん」
ハジメは身を屈めて車掌に話しかける。声を潜めたハジメの声に車掌は集中する。
「彼女、そんなに思い出さないといけないのか?」
「全部じゃなくていい。だけど、せめて名前だけはきちんと認識してほしい」
「そうか」
ハジメはそれだけ言うと姿勢を正す。
シュリットが彼女を連れてきたときに女性自ら話をしてくれた。心配そうに話す女性をハジメもシュリットも静かに聴いた。震える彼女の手を見れば初対面の男に話すのに勇気を出して話してくれたことがよくわかった。
記憶がなかろうが、目のことを心配していようが、ハジメは受け入れるだけだ。自分のことを受け入れてくれた叔父のように、不安に寄り添ってやりたい。ただそれだけだ。
「なあ、嬢ちゃん。俺さ、勝手にここを童心に帰る会会場にしているんだけどさ」
「童心に帰る会?それでこんなに散らかってるの?」
散らかっているとは言ってもまだ綺麗な方だが、本やら画用紙やら鉛筆やら玩具やらが転がっている。普段、テーブルとソファぐらいしかない客室にしては物が多く見える。ハジメの模型はというと、備えつけのテーブルの上の中央に何やら紙で折ったあれこれに囲まれて鎮座している。
「ちゃーんと片付けるって」
「はいはい。君はそういう奴だったよ」
シュリットを連れて来たときのあの箱を思い出す。整頓の仕方はともかくとして、一応片付けようと思えば片付けられるらしい。
「さて、と。ゾーイちゃん、綺麗なお姉さんにだっこしてもらえていいねえ」
「言い方が変態」
「いやあ、■ナータさん、綺麗な子じゃない?」
弱々しい雰囲気もまたその整った顔立ちを際立たせる。晴れ渡る青空のような瞳なんて素敵だと思う。
「あれでも君より年上だからね」
「え?」
正確に言うのであれば、生まれは彼女の方が先で享年はハジメよりも若い。よって、見た目はハジメよりも若いのだが、実際に生きた年と魂の状態の年を足すとハジメよりも年上になる。魂のみの状態の年数だけでもハジメの享年をはるかに上回る。
「シュリットさんは?」
「君よりも上」
「歳近いだろうなーって思ってたけど、そうか。俺が三人の中で一番若いってことか」
享年で並べると年長がシュリットで、ハジメ、女性となるのだが、女性の魂のみの状態の年数を足すと、女性、シュリット、ハジメの順になる。
「さてさて。■ナータさん、準備はできたかね?」
ハジメはゾーイを抱き直す。ゾーイは機嫌がいいのか、あうあうと何やら話している。
「は、はい!」
「そんなに緊張しないでよ。泣いちゃっても大丈夫ぐらいのつもりでいればいいよ。俺も泣かせちゃったし」
子どもは泣く。それは当然のことで、子どもの声に振り回されるのが周りの大人だ。なぜ泣いているのか、どうしてやればいいのか、と気をもむ。時には叱り、時には慰めと子どもたちに寄り添えることが一番だ。ハジメはあまりしてもらえなかったから、自分の子どもはもちろん、周りの子どもたちには意識して接していた。
「そんじゃ、シュリット先生に教えてもらったとおりにね」
「先生だなんて、そんな……」
シュリットは照れたように言うが、嬉しそうだ。
ハジメはゾーイを女性に預ける。ゆっくりと、壊れ物のように移されたゾーイは女性の腕の中で不思議そうに大人たちを見上げている。
「うー……」
手足を伸ばすようにしてゾーイは女性の腕の中で動く。もぞもぞと動くゾーイを見つめながら女性はほっと息をつく。すぐに泣かれなくてよかった。
チカッ。脳内に子どもの泣く声が響く。耳をつんざくようなその声と、産まれたぞ、という男の声がする。夫が涙をこぼしながらこちらを見つめる光景や両親、兄弟の顔が浮かぶ。
「……」
女性の頬を涙が伝う。自分とデニスの間に生まれたジョンと出会った日の記憶だ。生まれて間もない自分の子どもをこの腕に抱いた日の記憶だ。
涙を流す女性にハジメとシュリットはぎょっとする。ただ静かに涙を流すその横顔に何かを思い出したのだろうと推測するも何と声をかけるべきかわからない。まだ互いの過去についてよく知らない。その思い出した記憶というのが幸福なときのものなのか、不幸なときのものなのかわからない。虚空を見つめる彼女にどうしたら、と互いに顔を合わせたときだった。
空色から太陽が覗く。脱いだ帽子をテーブルの上に置いた車掌は女性の肩にぽん、と手を置く。
「■ナータ」
そっと車掌は呼ぶ。耳元で囁くようなその声音は大切なものを取り出すときのような慎重さを帯びている。
「……私、」
「うん」
「……私は」
女性の中で何かが溢れ出る。車掌がシュリットに視線をやると、車掌の意図を察し、ゾーイを女性の腕から自分の腕へと移す。ゾーイは少し不機嫌そうに何かを訴えているが、今はそれどころではない。
女性の白のワンピースの色が移り変わっていく。まるで、夜から朝に変わっていく空のように。ぼんやりとした色合いだが、白っぽいその空色のワンピースの裾にミント色の唐草模様が散りばめられていく。
「わた、し、は」
「ああ。また尋ねよう。あなたは誰ですか? 君の幸せって何だっただろうか?」
車掌は穏やかな声音で尋ねる。
あなたは誰。自分は誰。女性がずっと考えていたことだ。他人のことどころか、自分のこともわからず思い悩んでいた。自分のことなのに、わからない、覚えていない、とずっとそればかりだ、車掌の方が詳しいと知ったときは胸が痛んだ。
自分はどこの誰なのか。名前すらもわからない。そんな女性に一筋の光が射し込んだのは車掌との会話だった。
夫と息子のことを思い出せた。
朝が好きだったようなことを思い出せた。
ハジメとシュリットとの会話で自分がいかに狭い世界で一三〇年ものときを過ごしていたのかを思い知らされた。
ゾーイを抱いて小さな温もりの感覚と家族の顔を思い出した。
誰かと話すことで射し込んだ一筋の光が段々と強くなっていった。
ピシッ、と卵の殻にひびが入ったような音がした。カチッ、と何かをはめ込んだような音がした。
自分を呼ぶ声がした。
「私は……私の名前はレナータ」
土が水を吸うように身体に馴染むその響き。ずっと忘れていた自分の存在だ。
「私の幸せは、いつもどおりの生活。至って普通の家庭だと思うけど、家族と一緒に一日を過ごして、また次の日が来ることが当たり前って思う日々。それが私にとっての幸せ」
女性、レナータは背後の車掌の方を振り向く。眩い太陽のような髪がキラキラと光をこぼし、そのいくつかが瞳に吸い込まれて夜明け前の空に金色の煌めきを与える。
「ねえ、私が言っていること、正しい?」
夜明け前の瞳がわずかに揺れると、車掌は淡く微笑む。
「正しいかそうでないかは私の口からは答えない。レナータの答えがそれだと言うなら、忘れないで」
もう二度と忘れないでほしい。車掌はそう願う。
「ほら、せっかくの綺麗な顔が台無しだよ。涙を拭いて」
「ええ、そうね……。あ、」
ぐらりとレナータの視界が大きく揺れる。その流れに抗えず、レナータは倒れてしまう。
「うおーい、レナータさん!? 嘘でしょ!?」
ハジメは慌ててレナータに駆け寄る。ハジメのその声にゾーイが泣き出す。そのゾーイをあやそうとシュリットが慌てふためく。
「……ありゃりゃ」
車掌は視線を泳がせる。これはまた、やらかしてしまったようだ。
ひとつの客室に乗客は一人。一人で過ごすには広い。三人でも少し広い。だが、乗客全員と車掌が集まると手狭だ。中でも、ゾーイのベッドとテーブル一台と椅子が三脚加わるとかなり狭く感じる。備えつけのソファではケイト、カレン、レナータがおしゃべりに花を咲かせ、追加したテーブルと椅子の方ではハジメとシュリットがハジメの秘密基地計画について話し合っている。その様子をゾーイのベッドの隣で椅子に腰かけた車掌が眺める。
車掌は一息つく。今日は何だかどっと疲れた。
レナータが四号車で倒れてしまった。それは一度に記憶が流れ込み、レナータ自身が受け止められなかったことによる反動だ。車掌がそれに気がつくも、一歩遅く、止めてやることができなかったため、意識を失ってしまった。しばらく眠っていれば目を覚ますはず、と車掌が言うとハジメとシュリットはほっとしたのか笑みをこぼした。レナータをカハタレに任せて、車掌たちは二号車を訪れた。この際、全員顔見知りにしてもいいだろうと思い、ケイトとカレンの元へ向かった。シュリットが架け橋となり、互いに挨拶を済ませた。そして、車掌が事情を説明すると、いざという時に車掌もレナータの近くにいた方がいいのではないかとカレンが指摘し、ケイトがそれなら三号車に皆で集まってゾーイとふれあうのはどうかと提案した。三号車の主であるカレンは快諾し、一行は三号車に移った。
レナータが目覚めるまで、ケイトとカレンは熊のぬいぐるみを、ハジメとシュリットはモビールをゾーイに贈ろうと作成に取り掛かった。途中、カレンとハジメが喧嘩を始めたが、車掌がゾーイの顔をちらつかせて無理やり収めた。ゾーイのきょとんとした顔だけで喧嘩が収まるとはちょろい、と思いながら車掌は四人の様子を見つめていた。
それからしばらくして、レナータが目覚めたとカハタレが連れてきた。レナータの体調はとくに問題なかった。残念ながら、記憶は全て戻らなかったものの、彼女にとって懐かしい記憶がいくつか戻ることができてよかったと車掌は思う。その後、レナータはモビール製作の方に加わった。先にモビールが完成した。それから間もなくして熊のぬいぐるみも完成して、ゾーイに贈られた。
現在、兎と熊のぬいぐるみはゾーイと一緒にベッドで横になっていて、モビールも彼女の頭上で揺れている。車掌がモビールの鳥をつつくと、ぐらぐらと揺れる。ゾーイは揺れるモビールをじっと見つめている。車掌がつついた少し不格好な鳥はレナータが折ったものだ。ハジメの指導の元、レナータとシュリットが折り紙をしていたのだが、何だか微妙に不格好になる。ハジメ曰く、端と端をきちんと合わせていないから、とのことだが、本人たちはきちんと合わせているつもりなのだ。まだまだ甘い、と言いながらハジメは怪獣を作り出してカレンと喧嘩になった。もっと可愛らしいものにしてくださいよ、カッコイイのがあってもいいでしょ、と言い合いする二人に挟まれたシュリットが気の毒だった。
「あー」
「ん? まったく、君の目にはこれはどう見えているんだろうね」
鳥や蝶、兎、花、星など、ハジメたちが折ってくれたものが揺れている。こうしてみると、誰がどれを折ったのかすぐにわかる。意外にも一番綺麗に折っているものがハジメ、紙の裏が覗いてしまってちょっと不格好なものがレナータ、そして、謎の独特なアレンジが加わっているものがシュリットのものだ。鳥の尾に花をつけよう、と言って実際にシュリットが作った尾に花のついた鳥はモビールの一番上を飾っている。
「プレゼントもらえてよかったね、ゾーイ」
車掌はゾーイの頭を優しく撫でる。手袋越しでもその温もりを感じる。
「気に入ってもらえたかしらね」
カレンもゾーイの顔を覗き見る。モビールは何とも言えない個性的な芸術品になったが、ぬいぐるみ二体は可愛らしい出来だ。白兎と茶色の熊のぬいぐるみだ。くるりとした丸い瞳のぬいぐるみであやしてやるとゾーイはニコニコと笑ってくれるのだ。
「そうだと思うよ」
「なあ、嬢ちゃん。ちょっと俺たちの秘密基地見てくれよ。シュリットさんの意見も取り入れてみたんだ」
ね、とハジメはシュリットに同意を求めると、シュリットは照れ臭そうに笑う。随分と仲良くなったようだ。
「へえ。じゃあ、後で見せてもらおうかな」
「私も見たい」
「私にも見せてくれるかしら」
レナータとケイトも興味津々だ。
「先にお披露目会していてよ。私はちょっと、ゾーイとお話するからさ」
「そうか。じゃあ、お披露目会しようかな。でも、最初にゾーイちゃんに見せちゃう」
そう言ってハジメは慎重に模型を運ぶと、ゾーイに見せる。
「どうよ、ゾーイちゃん。ちなみに、ゾーイちゃんのお昼寝スペースもご用意してありますよー。如何です? うちの物件、いいでしょ?」
「不審者」
「ちょっと、カレンさん。またそういうこと言う!」
「事実じゃないですか!」
「まあまあ、お二人とも落ち着いて」
またも間に挟まれてしまったシュリットが気の毒だ。車掌は軽く手を叩き、二人の注意をこちらに向ける。
「今からゾーイと大切なお話するから」
当の本人は不思議そうに天井を見上げている。どうやら、秘密基地には興味がないらしい。
いったいった、と車掌はカレンとハジメを追い払う。二人は納得のいっていない様子でケイトとレナータの元へ行く。
「あの、お話というのは例のあれですか?」
「そう、あれ」
シュリットの問いかけに車掌は答える。この列車の乗客なら、赤子であろうとも何か答えてもらう。
「そうですか。ごめんなさい、お邪魔して」
「いいよ、別に。シュリットも向こうに行っておいで」
「はい。行ってきます。僕も秘密基地のこと、車掌さんにお話したいところがあるので、終わったらでいいので、聞いてくれますか?」
「もちろん」
シュリットは表情を明るくして、待っていますと言って輪に入っていく。
ハジメとシュリットはよき友人になれると思っていたが、車掌の予想よりも仲良くなれたみたいだ。ケイトたちも、ケイトたちで仲を深めているようだ。ケイトとカレンは祖母と孫のように、ケイトとレナータは母と娘のように、カレンとレナータは姉妹のように中を深めていっている。なぜだか、カレンとハジメの組み合わせは反抗期の娘と娘に構ってほしい父親のような構図になる。ハジメと歳の近いシュリットとカレンという組み合わせになると、近所のおじさんとお嬢さんといったような雰囲気になるのにだ。ハジメには息子が三人いて、娘がいなかったから新鮮に感じているのかもしれないが、カレンからしてみるとおちゃらけた親父に見えるのかもしれない。それで謎の対立が生まれているのか。
全体で見れば、皆仲良しだからいいか。喧嘩するほど何とやらと言うし、と思いながら車掌はゾーイを抱き上げる。ふにゃふにゃとしていて扱い方を間違えれば壊れてしまいそうな小さな生命は車掌の顔をじっと見つめている。澄んだゾーイの目には眉を下げている自分の顔が映っている。
どうして赤子を、と思った。上手くやれるのかと不安があった。それでも、乗客たちの力を借りて何とかなった。ある意味、ゾーイが架け橋となって乗客たちを三号車に集めたと言えるだろう。
「さあ、ゾーイ。答えておくれ。あなたは誰ですか? 君はその身にたくさんの愛を受けてくれただろうか?」
車掌は囁くような声で尋ねる。
乗客たちはゾーイのことを気にかけ、ふれあい、そして、愛した。ゾーイへのプレゼントも、声掛けも、触れる手も、見つめる眼差しも、ゾーイへ注がれたそれらを愛と受け止めたのだろうか。ぬいぐるみやモビール製作の途中や、話の途中でも時々ゾーイの様子を見に来てくれた彼ら。ゾーイはその時々で応じたり、応じなかったりと反応は様々だった。
「今日、一緒に旅をしてくれた彼らの愛はもちろん、ご両親の愛もだよ。どこまでわかっているのかわからないけど、君を愛してくれる人がいる。それをわかっているかな?」
車掌はゾーイの顔に自分の顔を近づける。すると、小さな手がペチンと車掌の頬を叩く。
「それは、わかっているという意味かな?」
ペチペチと楓のような手で何度も叩く。
「わかってなさそうだな……」
「あう」
「わかってるの?」
「うー、う、あっ」
「どっち?」
車掌は困ったように笑うも、ゾーイは元気よくペチペチとその可愛らしい手で頬を叩くだけだ。
「まあ、いいや。ただ、私と約束してほしいことがあるの」
車掌はゾーイから顔を離して抱き直す。
「ひとつ。君は愛された子だということをちゃーんと理解すること。とくに君のパパとママね」
車掌は器用にバッグから鏡を取り出し、ゾーイに見せる。ぐにゃりと歪んだ先に現れた光景は、ゾーイの両親が横になっている愛娘をあやしている様子だ。
『ゾーイ。可愛いゾーイ』
『あ、今笑った』
『本当だ。ふふ』
『ほら、ゾーイ。パパだぞ』
男性の手がゾーイの腹を優しく撫でる。
『それにしても、今日の服も似合っているな』
『ね、可愛いでしょ? 本当に何を着ても似合うわね』
その後も微笑ましい夫婦のやり取りが続く。親馬鹿、と人は言うかもしれない。
乗客たちと過ごした時間はゾーイの短い人生の中でもほんの一瞬。大部分は両親とのふれあいだ。もちろん、乗客たちはゾーイを愛してくれた。だが、彼らよりももっとゾーイを愛したのは両親だ。
ゾーイの死後の両親の様子を車掌は知っている。鏡が教えてくれたのだ。両親は夜も眠れず、すぐに目が覚めてしまう。夜泣きのことが頭に浮かぶのか、二人の間にゾーイがいないとわかると、涙をこぼす。ゾーイのためにと買った服がまだ綺麗なまま仕舞われるのを見て悲しむ。ゾーイが生きた痕跡を見るだけだ、二人は悲しいと嘆くのだ。
「それと、もうひとつ約束。今度はこんなに早くこっちに来ちゃ駄目だよ」
これから先、何度も生と死を繰り返す。ゾーイの両親が短い命を深く悲しんだのだから、もっと長生きしてほしい。それはゾーイの両親の願いだ。
鏡の映像が霧散するように消える。きょとんとした顔のゾーイが映るだけだ。車掌は鏡をベッドに置くと、ゾーイと向き直る。
「……て、言ってもこっちが管理しているのだけどね」
それを決めるのは車掌の主だ。ゾーイのこれからがどうなるかは車掌にもわからない。
だが、その魂の奥深くに刻んでおいてほしい。たった一ケ月という車掌からすると本当に短い一生。瞬き一回よりも短いその時間がゾーイが生きた時間なのだ。小さな命を失ったことを悔いて、ひどく悲しむ人がいたことを魂には覚えていてほしいのだ。
「約束だ、ゾーイ。君は愛された子なんだ。わかった?」
車掌がそう尋ねると、ゾーイは手を伸ばす。そして、車掌の口をペチンと叩く。
「……ゾーイ」
「うー」
「もう。……理解しているのかな?」
正直、期待していない。わかっているのか、いないのか、それはゾーイしか知らない。
車掌はゾーイの手をつつく。すると、ゾーイは車掌の指を握る。小さくて細いその指はしっかりと車掌の指を握っている。
「……わかった。ゾーイは理解したってことにしとくよ」
「あう!」
車掌に対しての返事か、それとも、ゾーイの気まぐれか。それもわからないが、車掌は笑みをこぼす。
ラベンダー色に染まっていた空が白み始めている。優しい太陽の光が車内に射し込む。まるで包み込むようなその光はゾーイを抱く両親の腕のように思える。あれやこれやと言い合いをする大人たちの輪へと車掌とゾーイも加わった。
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