第2号車 有明の星は二人を繋ぐ

 まだ暗い窓の外。星がぽつりとひとつ輝いている。寂しそうに星がひとつ浮かぶ夜明けの空をケイトはじっと見つめる。

 地平線に近い空は白っぽくなり、少し赤みを帯びている。列車に揺られてしばらく経つが、空の様子は変わらない。

 少しつまらない、と思っていると、扉を叩く音が響く。


「はい」


 失礼します、と元気な声が返ってくる。ケイトがゆっくりと立ち上がろうとする前に扉が開く。帽子を脱いで一礼した人物の瞳と視線がかち合う。

 夜と朝の間の空を思わせる瞳。青の瞳は明け方の空の色だ。キラキラと灯を弾く金色の髪は癖が強く、ふわふわの髪があっちこっちとはねている。明朗快活な印象を受ける少女だ。

 十代半ばほどの少女の姿。随分と幼い姿の少女がまとうのは制服か。白み始めた朝の空を思わせる淡い空色のベストに、同じ色の膝上丈のパンツ、黒のブーツを履いている。金色の髪の上にのっている帽子には太陽を模した金の飾りがついている。斜め掛けにした白のショルダーバッグには帽子と同じ、太陽を模した金の留め具がついている。

 少女は跳ねるようにケイトに歩み寄ると、ニコリと笑う。


「おはようございます。早速ですが、切符を見せていただけませんか?」


 身を屈めた少女の首元の青いリボンが揺れる。


「切符?」


「うん。これっくらいの紙切れ。駅でもらわなかった?」


 少女は白の手袋をした手で長方形を宙に描く。ケイトは服のポケットに手を入れると、乾いた感触が指先をくすぐる。取り出せば、少女が宙に描いた長方形と同じ大きさの紙切れが顔を覗かせる。彼女の制服と揃いの朝の空色の切符だ。金の文字が少女の髪と同じようにキラリと光る。

 それ頂戴、と手を差し出した少女にケイトは紙切れ、もとい、切符を差し出す。少女は切符に穴を開けるとケイトに返す。


「はい、ありがとう。これ、大事なものだからちゃんと持っててね」


「ええ。……ところで、あなたは?」


 少女は瞬きをすると、無邪気に笑う。


「私はこのカハタレ列車の車掌だよ」


「車掌さん?」


 車掌は帽子の位置を直す。

 ケイトはしげしげと車掌の姿を見つめる。まだまだ幼さの残る面立ちだ。この歳で列車の車掌を任されるとは。


「何とも可愛い車掌さんね。私と同じ歳ぐらいかしら」


 ケイトは目尻の皺を深く刻む。車掌は嬉しそうに笑う。


「あなたはいくつ?」


「確か、十三歳……いいえ、十四歳かしら?」


 車掌は目をすがめる。

 ケイトはどうだったかしら、と首を傾げている。

 これはまた、と思いつつ、車掌はケイトの様子を見守る。


「ああ、そうだ。今度十四歳になるの」


「そうなんだね。私とほとんど一緒だ」


 車掌はニコリと微笑む。


「やっぱりそうなのね」


 ケイトも穏やかに笑う。そんな温かな笑みを浮かべるケイトの左手を車掌は取る。


「……」


 車掌はケイトの手を優しく撫でる。車掌の様子を不思議そうに見上げるケイトに車掌は微笑みかける。十代半ばほどの少女がするには随分と大人びている。まるで、母親が子どもにそうするような笑顔だ。


「あ、そうそう。車内アナウンスで課題を出したんだけど、考えた?」


「車内アナウンス?」


「切符と質問の答えを用意してねってアナウンス」


「あら……」


 聞き覚えがない。ケイトはそのようなアナウンスがあっただろうかと記憶の糸を手繰るも思い出せない。


「ごめんなさい。もしかしたら、寝ていたかもしれなくて……。聞き覚えがないの」


「そっか。朝早いから、寝ちゃうよね」


 車掌はケイトの細い手をテーブルの上にそっと置く。


「あのね、質問は、あなたは誰ですか、なんだ。その答えを私に教えて」


「あなたは誰ですか、ね」


 ケイトは瞬きをする。


「私はケイトよ」


「うん。名前じゃなくてね、あなたのことを教えてほしいの」


 車掌はケイトの向かい側の席に座ると、ショルダーバッグを開ける。ペンやメモ帳など、仕事道具が入っているショルダーバッグの中で一番場所を占めているそれを取り出す。

 夜明けの空を思わせる色濃い青から白のグラデーションの板。車掌はその板を開き、ケイトに内側を見せる。

 そこには不思議そうな顔をするケイトが映る。曇りのない鏡だ。ケイトは鏡の中を覗き込むと鏡の中のケイトも顔を寄せる。


「鏡ね……」


「うん。そうだよ。その鏡はケイトのことを映すの」


 車掌はそう言って立ち上がると、ケイトの背後に回る。しかし、鏡には車掌のふわふわの金色の髪も、夜明け前の空を思わせる瞳も映らない。驚いたケイトは後ろを振り向く。そこに車掌は確かにいるのだが、鏡には映らない。車掌の姿がそこにないかのように、客室とケイトだけを映す。


「前を向いて、鏡を見つめて」


 車掌はケイトの肩に手を置く。ケイトはゆっくりと鏡に向き直る。不安そうに鏡を見つめる自分と見つめ合う。


「力を抜いて。ゆっくり呼吸をして」


 車掌の声はひどく穏やかだ。優しく頬を撫でる温かな風のような声音だ。

 ケイトはゆっくりと呼吸をする。


「うん、その調子」


 車掌は手袋越しにケイトの肩が上下するのを感じながら、ゆっくりと手を離す。そして、ケイトの隣に座る。


「さあ、あなたのことを教えて、ケイト」


「教えてと言われても……」


 相変わらず隣に座った車掌の姿は鏡に映らない。戸惑った様子のケイトしかいないのだ。


「ありゃりゃ。まだ力が抜けないか」


 うーん、と車掌は宙を見上げて何か考え始める。光の加減のせいか、車掌の瞳が青みがかった菫色に見える。


「そうだ。何か飲む? お酒じゃなければ何でも用意するよ」


「え?」


「いいから。温かいものでも、冷たいものでも。何飲みたい?」


「それじゃあ……ホットミルクを」


「わかった」


 車掌はピューと口笛を吹く。すると、忽然とマグカップがふたつ現れる。その内のひとつのマグカップはケイトのよく知るマグカップだ。それはケイトが愛用している犬のイラストが描かれたものだ。家で一緒に暮らしているダックスフンドを思わせる犬が気持ちよさそうに眠っているイラストだ。もうひとつのマグカップは無地の空色のものだ。ふたつのマグカップには温かいミルクが注がれている。

 ケイトは、まあ、とテーブルの下を覗く。どこからともなく現れたマグカップ。手品でもなければ突然マグカップがテーブルの上に並ぶなんてことあるだろうか。しかし、テーブルの下には何もない。


「一体どこから?」


 ケイトは顔を上げ、車掌を見つめる。車掌は悪戯が成功した子どものように笑っている。


「えへへ。車掌の特権だよ」


 ほら、と車掌はマグカップをケイトの前に寄せる。


「大丈夫、毒とかは入ってないよ」


 そう言って車掌はマグカップを口にあて、傾ける。ごくごくとホットミルクを飲んだ車掌は白い髭をつけてにいっと笑う。


「美味しいよ。温かくて、身体の芯からぽかぽかする感じ」


 ケイトはマグカップを手に取る。陶器のマグカップ越しにちょうどいい温もりがケイトの指先を温める。いつの間にか緊張して固まっていた指先が徐々に解けていくような感覚だ。

 ケイトはホットミルクに口をつける。ほどよく甘いミルクの味が口の中に広がる。車掌の言うとおり、身体の芯からぽかぽかと温まっていく。

 ほお、と一息ついたケイトは鏡を見る。そこには車掌と同じく、ミルクの髭を生やしている自分の姿が映っている。

 ケイトは車掌と顔を見合わせる。そして、どちらからともなく笑う。


「おそろいだね、ケイト」


「ええ、そうね」


 すると、視界の端の鏡がぐにゃりと歪む。それに気がついた車掌はショルダーバッグからハンカチを取り出して口元を拭いつつ、鏡を覗き込む。


「おや、ちょっと緊張が解れたかな?」


 はい、とどこから現れたのかわからないナプキンが現れてそれで車掌はケイトの口元を拭う。


「ありがとう、車掌さん」


 丁寧に拭われたケイトはぐらりと頭の中が揺れた気がする。車掌が力強く拭ったわけではないのに、優しく触れる程度の感覚だったはずなのに。一瞬、目の前の車掌がわずかに霞んで見える。隣に座っていて、手を伸ばせばすぐそこにいるはずなのに、ずっと遠くにいるように見える。

 だが、それはほんの瞬き一回分。ナプキンを雑に畳んでテーブルに置く車掌はすぐ傍にいる。


「あれ?」


 今のは一体何だったのか。


「どうしたの?」


「……ううん。何でもない」


 ほんの一瞬の話だ。大したことではないと決め、ケイトは鏡を指さす。ゆらゆらと揺れる水面のように鏡に映るケイトが歪んでいる。


「これ、大丈夫なの?」


「大丈夫。準備ができたみたい」


 車掌は鏡を覗き込むも相変わらず車掌の姿はそこにない。


「じゃあ、本題に戻るよ。わたしの質問に答えてほしいの」


 車掌の声が低くなると同時に鏡の表面がぐにゃりと歪む。


「あなたは誰ですか、という問いかけについてね」


 車掌の青色の瞳がじっとケイトを見つめる。逃げ出すことのできないほどの力強い目だ。


「大丈夫。私と一緒に考えよう。鏡も手伝ってくれる」


「鏡が?」


 明らかに普通ではない鏡。車掌の姿を映さず、ぐにゃりと歪む鏡面は特殊な鏡としか言えない。

 水面をかき混ぜるように鏡面が歪む。色が混ざり合い、徐々に歪みが消えていく。

 映しだされたのは天井か。見慣れない木目の天井を見上げているような形だ。

 まるで自分がそうしているかのように視線が動く。右手には窓があり、青々と茂る樹が枝を揺らしている。射しこむ日差しに柔らかな緑が影を作り、床にその姿を映す。


「この鏡は何なの?」


「この鏡はケイトのことを映してくれる鏡だよ。君が見てきた景色や君自身のこと、君の内面をこうやって目に見える形で映してくれるんだ」


 車掌もじっと鏡の中を見つめている。


「今、部屋の中を見渡しているのは私なの?」


「そうだよ」


 車掌の言葉を信じるのであれば、この景色はケイト視点なのだろう。しかし、ケイトにはこの部屋の記憶はない。見慣れない部屋なのだ。

 鏡の中のケイトはゆっくりと身体を起こす。部屋を見渡しているのか、視界がゆっくりと動く。どことなく自室に似ているのだが、違う。物の配置はほぼ自室と同じなのだが、家具が違う。机も椅子も、本棚もタンスも似たものではあるが違う。

 本当にこの鏡の中の人物は自分なのか。そう疑うほど、ケイトの知っている自室ではないのだ。

 鏡の中のケイトが立ち上がり、視線が高くなる。覚束ない足で歩いているのか、ひどくゆっくりとした歩みだ。壁に手を添えて歩いている様子からして体調が悪いのかもしれない。


「……」


 車掌は隣に座るケイトを一瞥する。ケイトは緊張した面持ちで鏡の中を見つめている。

 ケイトはまだ何も気がついていない様子だ。

 車掌は帽子を脱いで膝の上に置く。これは長丁場になるかもしれないと腹を括る。


「ねえ、本当にこの人は私なの?」


「そうだよ」


「じゃあ、鏡の中の私がいる場所がどこかわかる?」


「君の家だよ」


「私の家?」


 違う。ここは自分の家ではない。部屋の雰囲気も外から見える景色も違う。何より、外があまりにも静かすぎるのだ。商人たちの声が飛び交い、もっと賑やかなはずなのだ。だが、鏡の中の世界からは小鳥の囀りと風の音ぐらいしかしない。

 鏡の中のケイトはゆっくりと扉を開ける。廊下だ。その廊下もやはり知らない景色だ。綺麗な廊下をケイトは進んで行く。ケイトの知る廊下は年季の入った飴色のはずなのだが、ここの廊下は比較的新しい床板に見える。

 間取りも違う。ケイトの記憶にある家はケイトの部屋の前に階段があるのだが、それがない。見える範囲に階段はなく、部屋から見えた樹の様子からすると、ここは一階ではないだろうか。

 鏡の中のケイトは真っ直ぐ廊下を進む。その先にある扉は玄関だろうか。美しいステンドグラスの扉はやはり自宅のものではない。自宅の扉にオシャレなステンドグラスなどなく、普通の木でできた扉だ。

 鏡の中のケイトは玄関に着くと、靴も履かずに扉に手をかける。鍵を開けて、扉を開く。

 そこに広がる景色は街を見下ろしている光景だ。色とりどりの屋根が広がる眼下。それもケイトは知らない。ケイトが知る家の外の景色は人々が行き交い、和気藹々とした明るい街並みなのだが、鏡の中に広がる景色はその逆。人の姿のない、静かな景色だ。庭に植えられた綺麗な花がケイトを迎え入れるも、鏡の中のケイトは見向きもせずにゆっくりと歩いている。


「……本当に、これは私なの?」


「うん」


 ケイトは車掌を真っ直ぐ見つめる。少し紫がかった車掌の瞳は鏡を静かに見つめている。真剣なその眼差しは嘘をついている様子はない。


「でも、私はこの家や景色を知らない」


「知っているよ。……むしろ、ケイトにとって、この景色と家についての思い出の方が多いはずなんだ」


「え……」


 知らない家。知らない景色。ケイトの家族は年に一度、旅行に行くが、その旅先で見た景色とも違う。


「わからない。私、知らない」


「……そう。もう少し見ていたら何かわかるかもしれないね」


 ほら、と車掌は鏡を見るように促す。鏡の中から扉の開く音がして、急いで走ってくる音がする。


『ケイト!』


 男の声だ。後ろからかけられた声に鏡の中のケイトは振り返ることはなく、声の主らしき人物に手を引かれたのか視界が揺れる。


『ケイト。どこへ行くつもりだい?』


 声の主は老人だった。やつれた男の眼鏡の奥の瞳は心配そうにこちらを見つめている。紳士然とした老人に対して、鏡の中のケイトはその手を振り払おうと抵抗する。


『離して』


『離さないよ、ケイト。君の家はここなんだ』


『パパとママは? ディエゴもどこに行ったの? アールもいない』


 ディエゴは弟、アールは一緒に暮らすダックスフンドの名前だ。

 男性は悲しそうに目を逸らすと、ケイトの肩を抱く。


『……ケイト。お父さんとお母さんとアールはここにはいない。ディエゴ君も今は遠くに住んでいるんだ』


『嘘よ。今日もディエゴとアールと遊んで、夕飯のお手伝いをするの』


『もう、いないんだ、ケイト』


 男性の声は震えている。


『離して。あなたは誰なの?』


『私はアレク。君と一緒にここで暮らしているんだよ』


「アレク……?」


 ケイトは鏡の中の男性の名前を繰り返す。アレクと言う名前は聞いたことがある気がする。だが、この老人のことは知らない。自分の祖父でもなければ、知り合いにもいない。

 鏡の中のケイトも同じように名前を繰り返す。鏡の中のケイトも知らないのか、男性を突き放そうとする。


『私、あなたのこと知らない』


『……そうか。とにかく、ケイト。その格好で外を出歩くと風邪をひいてしまうよ。一度、家に戻って着替えよう。お腹も空いただろう? ご飯を用意するから、待っていてくれるかい?』


 男性はどこか悲しそうに笑いながら、鏡の中のケイトの手を引く。

 そこで鏡面がぐにゃりと歪む。美しい庭も、こじんまりとした木造の家もぐちゃぐちゃに混ざり合い、普通の鏡のようにケイトの姿を映すも、相変わらず、車掌の姿はない。


「さあ、ケイト。今の鏡に映る光景を見てどう思った?」


「どうって……。本当に私なのかなって思った」


 男性は確かにケイトと呼んでいた。しかし、家の様子や男性を見る限り、同名の別人が見ている光景なのではないかと思うほどケイトの知らないことばかりだ。

 車掌は目をすがめる。この鏡が偽りを映すことなどないのだ。乗客のことをありのままに映す鏡。乗客に答えてもらうために必要であったり、重要な場面を映すことがこの鏡の役目だ。

 だから、今の光景は全てケイトが見たり、聞いたり、実際に体験したことなのだが。

 列車の外の景色は変わらず、夜と朝の狭間の空だ。星がたったひとつ寂しそうに輝いている。


「どうしてそう思ったの?」


「私の家じゃなかった。造りも違うの。それに、あのおじいさんのことも見たことがない」


「そう。ちなみに、おじいさんのこと、どんな人に見えた? 怖いとか、優しそうとか」


「優しそうな人だと思った」


 鏡の中でケイトと呼ぶその声は愛しそうだった。大切な人を呼ぶような声音にケイトの胸が締めつけられる。こんなにも優しく呼ぶ人のことを知らないなんて申し訳なくなるぐらいだ。


「でも、知らない人」


「じゃあ、別のことを訊くね。鏡の中のケイトについて、何か気になるところはあった?」


「鏡の中の私?」


 家のことや男性のことは気になったが、鏡の中のケイトの動きについてはあまり見ていなかった。思い出そうと記憶の糸を辿る。


「……声が違った気がする」


 確かに自分の声だと断言できるのだが、何かが違う。


「どこが違うと思った? 声の高さ? 話し方?」


「声の高さは少し低いかも。車掌さんに言われて気がついたけど、話し方が幼かったかも」


 声音は大人びているのだが、話し方は七歳か八歳ぐらいの子どもが話しそうな感じだ。声音は大人、話し方は子どもとちぐはぐしている気がする。嚙み合っていない。


「車掌さんはどう思う? 聞き比べてみると違いがあった?」


「そうだね。ケイトが言ったことと同じかな。声は少し低め、話し方が小さい子みたい。他に気になったところはある?」


「うーん……」


 気になったところ、気になったところ、と記憶の糸を手繰るのももう朧げになってきた。それこそ、家や男性のことしか見ていなかったため、鏡の中のケイトがどうであったのかよくわからない。


「じゃあ、私が思ったことについてどう思うか教えて」


 困った様子のケイトに助け船を出すように車掌が申し出る。

 そうだ。車掌は別の目で見てくれる。そこから何か気になることを探っていくのもありだ。


「教えて。車掌さんが気になったところ」


 ケイトが促すと、車掌の瞳に金色の輝きが宿る。


「いいよ。うーんとね、まず、鏡の中のケイトは何歳だろうか」


「え?」


 言われてみればいくつなのだろうか。てっきり、今の自分と同じ歳だとばかり思っていた。


「いくつぐらいかな?」


「私、今の自分と同じだと思ったのだけど……」


「十三歳?」


「ええ……。あれ? 十三歳?」


 ケイトは首を傾げる。


「さっき、今度十四歳になるって言っていたよね」


「そうだわ。今度十四歳になるのだから、今十三歳よね」


 本当に?

 そう問う自分がいる。それを表すかのように、鏡にはすっきりしない表情のケイトが映っている。


「……あれ? 私、本当に今十三歳?」


「さあ、どうだろう」


 隣に座る車掌と同じ年頃。そうであるならば十代半ばであることに変わりはない。

 本当に?

 またそう問いかけるケイトがいる。


「車掌さんは、私がいくつに見える?」


 車掌の眉がピクリと動く。アイオライトの瞳はケイトを上から下まで見ると小さく笑う。


「……十三歳には見えないかな。十三歳よりも上に見える」


 そうなのか。言われてみれば、今鏡に映るケイトは隣に座る車掌よりも大人びて見えるかもしれない。


「十五、六とかかな?」


「さあ、どうだろう」


 車掌は答えない。


「まあ、仮にだ。君が十代半ばぐらいとしよう。鏡の中のケイトは十代半ばの人間の動きだろうか?」


 車掌は立ち上がると、軽やかに跳ねる。ブーツの音が心地のいいリズムを刻む。まるで、兎が跳ねるような姿だ。


「私は鏡の中のケイトはやけにゆっくりと動くなあと思った」


 車掌は少し跳ねた後、手を後ろに組みながら歩く。


「壁伝いに歩いていたみたいだし、もしかしたら足の具合が悪いのかもしれない。外に出てからはもっとゆっくりになったからね」


 車掌の目には、鏡の中のケイトは支えがないせいか、慎重に歩いていたように見えた。

 そう言われてケイトは視線を落とす。軽く足を動かしてみるも、別に普通だ。怪我をしたような痕はない。


「それについて、ケイトは気になる? 気にならなかった?」


 車掌は足を止めてケイトを見つめる。ケイトは少し考える。他のことに集中していた。逆に言えば、他のことの方が気になると思ったのだろう。だから、気にも留めなかったのだろう。


「とくに遅いとかって思わなかった」


「わかったよ。じゃあ、次。鏡の中のケイトがいた場所、どこだと思う?」


 自宅ではないと言えたが、確かにどこなのか。記憶にはない景色が広がっていたことから、ケイトの知らない場所だとは思う。


「あのおじいさんの家……とか?」


「それはそうだろうね。彼の家がある場所ってどんなところ? 街中? それとも、街外れ?」


「街外れだと思う。見えた範囲に他に家もなかった。それに、街を見下ろしていたから……高いところに住んでいる」


「ふむふむ。じゃあ、君は彼の家に住んでいたと思う?」


 車掌は淡々と尋ねる。ケイトは自宅ではないと言う家で目覚め、家を出ようとしていた。そのケイトを引き留めた男性は、自分と一緒に暮らしている、家に戻ろうと言った。


「……住んでいたかはわからないけど、一緒に過ごしていたのかもしれない」


「なるほど。ちなみに、君はおじいさんの言葉は嘘だと思う? 本当だと思う?」


「……」


 嘘をついているようには思えない。あんなにも悲しそうな表情をして嘘をついているとしたらとんだ噓つきだと思う。本当なのかもしれないが、そこまで信じられない。


「わからない。嘘つきだとしたら、とんでもない役者さんだなとは思うけど」


「あはは、そうか。じゃあ、別のことを鏡に映してもらおうか」


 車掌はまたケイトの隣に座る。やはり車掌の太陽のような色の髪も、日が昇るのを待つ空の色の瞳も映らない。

 ぐにゃりと鏡面が歪む。あの男性が扉の前に立っているところから始まる。部屋の様子を見るに、鏡の中のケイトが目覚めた部屋のようだ。男性はこちらに歩み寄り、膝をつくと鏡の中のケイトの手をとる。


『ケイト、具合はどうだい?』


 不安そうにケイトを見つめる男性の目はやはり嘘をついているように見えない。


『寒いかい? 手が冷たいね』


 男性は優しく鏡の中のケイトの手を撫でる。


『温かいミルクを持ってこようか』


 男性は穏やかに笑うと立ち上がる。男性が退室する姿を鏡の中のケイトはじっと見送る。


『……』


 鏡の中のケイトはゆっくりと身体を起こす。そして、男性に撫でられた手を見つめる。


『私は……あの人は……』


 掠れた声を漏らした鏡の中のケイトの視界が暗くなる。手で顔を覆っているのだろう。わずかに手が震えている。


『あの人は……誰なの?』


 鏡の中のケイトの声は驚くほど静かだ。そして、嗚咽が聞こえ始める。

 鏡の中のケイトの嗚咽をケイトは静かに聴く。鏡の中のケイトはあの男性のことがわからず、不安そうだ。先ほど見た映像よりも鏡の中のケイトは男性に心を許しているようだった。男性も凪いだ湖の水面のように曇りの少ない笑顔を浮かべていた。


「ねえ、車掌さん」


「何か気づいた?」


「気がついたというか……何だか、切なくて」


 恐らく、鏡の中のケイトは病を患っているのだろう。具合が悪く、男性が世話をしてくれているのではないかと推測する。


「鏡の中の私はあのおじいさんを知らないのに、おじいさんは献身的に看てくれる。それが切ないの」


「そうだね。おじいさんはケイトのことを知っているのに、鏡の中のケイトはおじいさんのことを知らない。おじいさんの立場になると辛いよね」


「そうなの。私も同じ立場だったら辛い」


 例えば、大切な家族が、親しい友人が、愛する人が、自分のことを知らないと言ったら胸が痛む。この男性とケイトの関係はまだわからないが、互いを全く知らないという関係ではないはずだ。

 鏡の中の扉が叩かれる。ケイトは涙を拭うと、扉の先の相手に応じる。男性がマグカップをふたつ持って入って来る。


『ケイト?泣いていたのかい?』


 男性はサイドテーブルにマグカップを置くとケイトの顔を覗き込む。眼鏡の奥の瞳が心配そうに覗き込んでいる。


『苦しいのかい?』


『……ごめんなさい。あなたのことがわからなくて……覚えていなくて……』


『いいんだよ。また僕のことを覚えてくれればいいんだ。君が忘れてしまっても、何度でも僕は君に名乗るさ』


 男性はポケットからハンカチを取り出すとケイトの目元を拭う。泣かないで、とケイトに優しく言うその姿は愛する人を見つめる目だ。慈愛に満ちたその笑顔にケイトの胸が痛む。

 本当にこの人はケイトの知らない人物なのだろうか。とても近しい関係の人物ではないだろうか。

 考えても答えはでない。ケイトは鏡の中の男性を見つめる。男性は鏡の中のケイトの目元を拭い終わると、マグカップを差し出す。車掌と一緒にミルクを飲んだときのマグカップとよく似ているが少し違う。ダックスフンドが二匹描かれているのだ。鏡の中のケイトはマグカップを受け取ると、男性はもうひとつのマグカップを手に取る。そちらはケイトのものと色違いのマグカップだ。


『少し熱いかもしれない。だからゆっくり飲んでくれ、ケイト』


 そう言って男性は軽く息を吹きかけて飲む。熱かったのか、男性は顔をしかめる。


『ほらね。ケイトも気をつけて』


 男性は茶目っ気のある笑顔をケイトに向ける。

 鏡面がぐにゃりと歪むと気難しい顔をするケイトが映る。


「さあ、何か気づいたことや思ったことはある?」


「……あのおじいさんはきっと私と近しい関係の人だと思うの」


 ケイトは実の姉のように慕っていた女性のことを思い出す。彼女が結婚すると聞いたとき、お祝いの挨拶をと思って二人の元を訪ねた。女性は幸せそうに笑い、その隣で相手の男性は女性のことを愛しそうに見つめていた。そのときの男性を思わせるのだ。


「恋人か夫婦だと思う」


「なるほどね。他に気になったところは?」


「もしかしたら、体調が悪いのかも。それとも、怪我をしているとか。それなら、さっき車掌さんがゆっくり動いていたっていうのにも当てはまると思う」


 ケイト自身、車掌に言われて鏡の中のケイトの動きを注視していた。自分の祖父よりも高齢の男性の動きと比べると鏡の中のケイトはゆっくりとした動きをしているように見えた。それを思えば、車掌がゆっくりとした動きだという指摘もわかる気がする。


「車掌さんは何か気がついた?」


「マグカップが色違いのお揃いだね。ケイトもさっき言っていたけど、近しい関係……恋人か夫婦だろうなって思った」


 揃いのものを使うというのは、ある程度の信頼関係があるから。家族、友人、恋人という関係で見られる、仲の良さの証明だ。


「やっぱり……」


「どう? 少しは何か男性のことわかった?」


「わからない。わからないけど、胸がこう、きゅーって締めつけられるの。悲しくて、苦しくて、申し訳なくて」


 ケイトは胸を押さえる。どうして、こんなにも胸が痛むのかと思うほど、男性を見ていると悲しくなってくる。


「そうか」


 もう少しか。車掌は鏡に触れる。すると、鏡は眩い光を放ち始める。


「……今から見る映像で君の記憶が甦ればいいのだけど」


 車掌は独りごちる。

 鏡の中の景色が再び歪む。不思議なことに今度は視点が違う。ベッドで安らかに眠る白髪の女性とその女性の手を取って静かに泣く男性、そして、その男性の後ろで静かに控える白衣の男がじっと老人の背中を見つめている。まるで、天井から見ているような視点だ。


『ケイト、ありがとう。僕は幸せだったよ』


 男性の声は震えている。視点が変わり、ベッドの横に座る男性と同じ視線の高さになる。男性は涙をこぼしながら女性の手を優しく撫でる。


『徐々に君の記憶は失われてしまった。新しい記憶からどんどん消えていって、孫のことも、子どものことも、夫である僕のことも忘れてしまった。ご両親とアールが亡くなったことも……。結婚したことも忘れてしまって、その度にプロポーズをして……同じプロポーズの言葉は格好よくないから、毎回考えてね。……辛くなかったと言えば嘘になるが、君が忘れてしまった思い出が消えたわけではない』


 男性は涙を拭う。


『僕が思い出を語ると、時々、君は思い出すことがあった。その記憶がたった一日だけのすぐに消えてしまう記憶であっても、また君と記憶を共有できてよかった。……ああ、これから僕は君のいない日々を過ごすのか。寂しいな』


 男性は目を閉じ、女性の手の甲に口づけする。女性の手の甲を男性の涙が濡らす。


『君が僕のことを忘れてしまっても、君と過ごした日々はとても楽しかった。ありがとう、ケイト。もし、あの世で会うことがあったら僕のことを覚えていてくれていると嬉しいな』


 男性は女性の左手に自分の左手を重ねる。二人の指には銀色に輝く指輪がはめられている。


『愛しているよ、ケイト』


 すうっと鏡の中の光景が消え、ケイトが映し出される。静かに涙を流すケイトは胸の辺りが痛むと同時に温かくなるのを感じる。

 年をとった自分らしき女性とその女性を愛した男性。第三者の視点から見た二人。少ししか見ていない二人の関係は何とも温かく、自分のことのように悲しくなる。

 いいや、これは。


「……このおじいさんは、おばあさんのことをとても愛していた」


 知らない、わからない、と言われても男性は何度も名乗り、関係を明かし、求婚して。記憶はほとんどもたず、すぐに忘れてしまうのに男性は根気強く女性に接した。

 宝石のように美しく、泡のようにすぐ消えてしまう切ない物語だ。


「ねえ、ケイト。今、鏡に映る君の姿はどんな姿? いくつぐらいの人で、髪の色はどうだろう?」


「……」


 涙をただただ流すケイトの姿だけが映される。隣の車掌のような金髪ではない髪の色が映っている。


「ケイト。君の手をよく見てみて」


 そう言われてケイトは膝の上に組んだ手を見つめる。左手の薬指に輝く愛の証が涙で歪む視界にはっきりと映る。忘れないで、自分はここにいる、と主張するように輝いている。空にぽつりとひとつだけ輝く星のように光を放っている。

 車掌はその手に輝く指輪の存在を知っていた。乗客のことを知るのは車掌の務めである。乗客名簿のケイトの情報に、既婚者であることが記されていた。左手を取ってその指輪に触れたのだが、ケイトは何も言わなかった。わかりやすいその証が馴染み過ぎていたのか、それとも忘れていたせいか。ケイトは反応を示さなかった。


「さあ、ケイト。胸の内の整理整頓はできたかな?」


 もうここまできたら背を押すだけだ。車掌は宙に手をかざすとハンカチが現れる。そのハンカチは男性がケイトの目元を拭ったものと同じだ。柔らかな生地のハンカチでケイトの頬と目元を拭う。


「……!」


 車掌がケイトの涙を拭う。その拭い方があの人を思わせる。あの人のように優しく、涙をすくうように。

 思い出をすくい上げるように。こぼれ落ちないように。


「さあ、教えて、ケイト。君を愛した男のことと、君の本当の姿を私に教えて」


 車掌はハンカチを持つ手を下ろすと、鏡をたたみ、ゆっくりと立ち上がる。

 金色のふわふわな髪に帽子を被った車掌のアイオライトの瞳が輝きを増す。夜明け直前を思わせる瞳が灯の橙色を宿して少し日が昇った淡い青へと色を変える。


「あなたは誰ですか」


「……」


 ケイトは膝の上の手で拳を作る。視界に入る鏡に映る自分は車掌と同じ年頃の娘の姿ではない。

 ケイトはすうっと息を吸うと、車掌を見据える。


「……私はケイト。彼……アレクは次々と忘れていってしまう私の傍にいてくれた最愛の人。年老いた私のことなんかをずっと見てくれた人よ」


「……そう。君の夫はアレクという人なんだね」


「ええ。彼は若い頃、アクセサリー職人でね。この指輪を作ってくれたのも、名前を刻んでくれたのも彼」


 ケイトは大切そうに指輪を撫でる。緊張のせいでガチガチになったアレクは噛みながらプロポーズしてくれた。薔薇の花束と一緒に彼はこの指輪を贈ってくれた。


「そして、私は十五、六の娘じゃないわ。七十を過ぎたおばあさん。皺が多くて、髪も白くなって……歳をとったわ」


 自分の精神は昔に巻き戻っていたのだが、身体は老人そのもの。それに一切気づかず、若い精神状態でずっと車掌と話していた。窓や鏡に映る老女の姿に気づくこともなかった。


「ごめんなさいね、車掌さん。こんなに物忘れのひどいおばあさんに合わせてもらって」


「ううん。私はケイトとアレクの幸せな関係を見られてよかった」


 車掌は今まで多くの乗客と接してきた。中にはケイトのように結婚をして相手がいる乗客もいた。そして、鏡で乗客と相手の過去を見ることも多いが、必ずしも二人のように良好な関係とは言えない。険悪な関係のままという夫婦もいる。そりが合わず別れてしまったという夫婦もいる。もちろん、二人のように幸せな関係の夫婦もいるが、アレクのことを忘れてしまってもなお、ケイトを愛し何度でも名乗ると言ったアレクの根気強さに美しい夫婦関係だと思った。何より、ケイトがアレクのことを思い出すことができてよかったと素直に思う。


「ねえ、車掌さん。もしも、あの人がこの列車に乗ることがあったら私がこの列車に乗ったことを話してくれないかしら?」


「そうだね。もしも、ね」


 彼がこの列車に乗るかはわからない。むしろ、この列車に乗らない可能性の方が高い。数多くの手段があり、列車にも多くの種類がある。

 必ずは約束できない。それでも。

 車掌は優しく微笑む。


「もしも、アレクに会うことがあれば伝えるよ。何か伝言はある?」


「伝言……そうねえ」


 ケイトは白い眉を下げ、少女のように笑う。


「会えるのを楽しみにしていると伝えてくださる?」


「それだけ?」


「ええ、それだけ。本当に言いたいことは自分で伝えるわ」


「そっか。ケイトはそういう人だったね」


 車掌はそっと言葉をこぼす。車掌を介した言葉のやり取りというのも無粋な気がする。またそのときまでケイトは待つのだろう。


「ありがとう、可愛い車掌さん」


「うん」


 ケイトは窓の外を見つめる。少し空が白みはじめてきた。地平線の彼方が明るくなり、絵の具が滲むように空が明るくなる。空にたったひとつ輝く星の傍に小さく輝く星がひとつ、いつの間にか輝いている。互いに寄り添い合うようなその星にケイトはまた涙をこぼす。


「……よい旅を、ケイト」


 車掌は帽子を脱いで一礼する。今のケイトは車掌が話し相手になるには邪魔者だ。

 彼女を彼女たらしめる記憶との時間を過ごす一人の人間の横顔を一瞥して退室する。

 どうか、最愛の人とまた巡り会わんことを。そう願いながら、車掌は次の車両へと向かった。

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