第3号車 東雲の誇り

 ふわあと大きな欠伸をしたカレンは眠い目をこする。外はまだ暗い。山の端の空がわずかに赤みを帯びて、ラベンダー色に染まっている。

 つまらない。退屈。

 カレンはダークブラウンの髪を指に絡めながら退屈そうに景色が流れるのを見つめる。

 ベルを鳴らしたところ、落ち着いた女性の声が応じた。アナウンスが聞こえたスピーカーから聞こえたその声に暇つぶしになるようなもの、例えば本はないかと尋ねた。女性が、少々お待ちください、と言った直後、本が数冊、テーブルの上に現れた。誰も客室に入ってきていないにも関わらず、本がテーブルの上に置かれてカレンは気味が悪くなった。何をしたのかと尋ねても答えてもらえず、音もなく現れた気味の悪い本に触れることができずにいる。本自体は見たことのあるカレンの好きな小説や、カレン好みのタイトルのものなのだが。

 結局、暇つぶしになるようなこともなく、ずっと座っているだけ。


「嫌な時間ね」


 客室から出ることもできず、かと言って何か物を要求しても本と同じように忽然と現れるのであれば不気味で触りたくもない。

 その間、アナウンスで聞いた問について考えればいいのだが、すぐに答えは決まった。あなたは誰ですか、など時間をかけるような問ではない。簡単なことだ。自分はカレンであると答えるだけだ。

 暇つぶしにもならない、意味のない質問である。なぜ、そのようなことを尋ねられなければならないのか。車掌がきたらそれとなく文句を言ってやろうと決めてから時間が経つ。三号車のカレンのところに車掌は中々来ない。先の一号車、二号車で時間をとられているのだろうと思うが、こんなに時間をかける必要がどこにあるのかとカレンは呆れる。切符の確認と質問の答えを聞くのにどれほどの時間をかけているのやら。

 イライラし始めたカレンの耳にノックの音が聞こえる。やっと来たか、と思ったカレンは姿勢を正し、どうぞ、と入室を促す。


「失礼します」


 声の後に扉が開く。帽子を脱いで一礼した少女にカレンは目を瞠る。

 綿菓子のようなふわふわな金色の髪はあちらこちらに跳ねている。顔を上げた少女の瞳は菫色の瞳で快活な印象を受ける。淡い空色の制服に身を包んだ少女はどこからどう見てもカレンより年下。十代半ばほどの少女だ。

 カレンは眉根を寄せる。アナウンスの時点で薄々察しはついていたのだが、まさか乗務員にこんなにも幼い者がいるとは思わなかった。


「おはようございます、カレン」


 少女はニコリと笑う。

 初対面の人間、それも客に対して呼び捨てとは。カレンはさらに眉根を寄せそうになるが、笑顔を貼りつける。いけない、こちらの品位が疑われてしまう。


「おはよう。これはまた、随分と可愛らしい乗務員さんね」


 こんなに幼いとは思わなかったと遠回しに含みをもたせた声で言う。対して、少女は動じず、扉を閉めてカレンの方に歩み寄る。


「よく言われるんだ。こんな姿でも車掌なんだ」


 少女は帽子を被り直すとへへっと軽く笑う。

 車掌。こんなにも幼い子どもが?

 カレンは笑顔を貼りつけたまま、内心疑心暗鬼になる。先ほどの本のことと言い、質問のことと言い、車掌と言い、この列車は大丈夫なのか。


「切符を拝見します」


「切符ね。ええ、お願いします」


 カレンは切符を車掌に差し出す。夜明けを思わせる装飾の切符だ。美しい切符は車掌の制服を思わせる色合いだ。車掌は切符に穴を開け、カレンに返す。


「ありがとう」


「ねえ、車掌さん。いくつかお尋ねしたいことがあるのだけど、いいでしょうか?」


「うん。何?」


 車掌はカレンの対面の席に座る。座れとも言っていないし、座っていいですかの一言もない車掌にカレンは小さな怒りがこみ上げる。そもそも、仕事中の車掌が客室の席に乗客の許可も得ずに座るとはどういう了見なのか。

 カレンは一呼吸する。ここであれこれ言っても、カレンの格を下げるだけだ。ふつふつと胸の内で沸きあがるそれを抑え込む。


「本でも読みたいと思ってベルを鳴らして本を用意してもらいました」


「ああ、これ?」


 車掌はテーブルの上の本を一冊取ると、パラパラとページをめくる。


「好みに合わなかった?」


「いいえ。私の好みに合いそうな本をご用意いただきました。ありがとうございますと用意してくださった方にお伝えください」


 用意してくれたことには感謝している。が、問題はそこではない。


「ですが、そちらの本、誰かが届けてくださった形跡がないのです。少々お待ちくださいと仰った直後に突然テーブルの上に現れたのです。こちらの好みを一切伝えていないにも関わらず、ここまで私の好きそうなものが用意されて……」


「不気味?」


 車掌は直球な言葉で訊く。カレンが少し遠回しに言っているのを壊すような言い方だ。


「不気味というか……不思議なことが起きるものだと思いました」


 正直に言えば気味が悪い。できることなら今すぐにでもこの列車を降りたい。それが出来ないとわかっているからこそ、余計に嫌になる。


「差し支えなければ、どのようにして客室に入らず、私好みのものを用意できたのか教えていただけませんか?」


「そうだなあ……。まずは、驚かせてしまってごめんなさい」


 車掌はペコリと頭を下げる。今までの振る舞いはともかく、カレンは車掌が謝罪してくれるとは思わなかった。ふわふわの髪は光を弾いてキラキラと輝いている。ゆっくりと顔を上げた車掌の瞳は爽やかな青色だ。清々しい青の瞳はカレンを見つめる。


「どうして瞬時にほしいと願ったものが現れるのか……。わりと他の列車でもあることだからなあ」


 車掌は頬をかきながらどう説明したものか、といった様子で話し始める。


「え? 他の列車でもあることって……」


 駅のホームで他の列車が待機しているところを見た。あのホームに並んでいた列車でもこれが普通なのかと驚く。聞いた話によると、場所は違うらしいが、船もあるらしい。もしかしたら、船も同じように怪奇現象が起こるのかもしれない。


「うん。不思議な力が使える魔法の列車だと思ってくれるといいかな?」


「魔法、ですか」


 そんな物語のような話を、はいそうですか、と信じられるわけがない。魔法なんてもの、存在するわけがないと思うカレンからすると馬鹿馬鹿しい話だ。だが、実際に魔法のようにぽん、と現れた本を見てしまった以上、カレンには否定できる材料がない。


「あまり詳しいことは言えないんだ、ごめんね」


「そうですか。わかりました」


 車掌たち側の事情か。あまり知られたくないのだろうと思うと、深追いは避ける。心のどこかでこれ以上知るのは嫌だという思いもあり、追及は避けようと決める。仕組みを知ったところで気持ち悪いだけだ。


「詳しい事情は存じ上げませんが、できることなら一言アナウンスのときに仰っていただくなり、張り紙をしていただけますと、これから乗車される方も驚かずに済むかと思います」


 事前に知っていればまた話は変わっていたかもしれない。わからないなりにも心の準備はできたかもしれないのだ。

 カレンがそう言うと車掌は小首を傾げる。


「じゃあ、どんな風に伝えればいい?」


「え?」


 それはカレンが考えることではないだろう。詳しい事情を知っていて、かつ、責任者である車掌が考えるべきことだ。


「そ、そもそも、係の方が実際に届けに来てくださればこのようなことにはならないと思います」


 車掌がノックして入室したように、実際に客室まで届けにきてくれればいいだけの話だ。それが普通なのであって、この列車がおかしいのだ。


「うーん……。それはちょっと難しいね。今日はたまたま乗務員は私含めて二人だけど、普段は一人だし。多くて三人かな?」


「え!?」


 運転士を含めて三人はわかる。車掌と客室乗務員、運転士だろう。二人となると、客室乗務員がいない状態なのだろうが、普段は一人とは一体何事だ。


「ちょっと待ってください。普段一人って、運転士の方は?」


「今日はいるよ」


「今日は!?」


 運転士なくして列車の運行は不可能だ。発車すらできないではないか。


「ほら、瞬時にほしいものを用意できる列車なんだし、運転士なしで動いても不思議ではないでしょ? だから、車掌だけでも十分事足りる。て、言うか車掌なしでも本当は回っていくんだけどね」


 車掌は飄々とした口調で言う。

 カレンは眩暈がした気がする。言われてみればそうなのだが、運転士なしで動く列車というのもさらに気味が悪い。

 あっけからんと言う車掌が嘘をついている素振りはない。それが当たり前だと言う口ぶりだ。だが、カレンを含めた乗客にとっては当たり前ではないはずだ。この話を一号車と二号車の客は聞いたのだろうか。四号車以降の客はどう思うのか。カレンと同じようにベルを鳴らして、何かを頼んだ客もいるだろう。その客も物が音もせずに現れて不思議に思ったに違いない。


「あまりこの列車のことを考えすぎると、質問に対する答えを考える余裕がなくなっちゃうよ」


 頬杖をついた車掌がのんびりと言う。

 そうだ、質問のこと。そちらのこともあった。確かに、よくわからないこの列車から早く降りたいと思うが、列車のことを考えて気に病むわけにはいかない。これは車掌が言ったとおり、魔法の列車とでも思った方が楽だ。


「……そうですね。わかりました」


 カレンは小さく咳払いをする。この列車の謎は一度忘れよう。


「では、別の質問をしてもよろしいですか?」


「どうぞ」


 菫色の瞳が先を促す。窓の外に広がるラベンダー色よりも深い色だ。光の差し加減では青にも見えるアイオライトのような瞳だ。


「アナウンスで提示された質問についてです」


「ほお。その様子だと、答えが用意できている、というように見えるね」


 自信満々に言うカレンに対して車掌は目を細める。


「ええ。簡単なことですから。ですが、その前にお尋ねしたい。あなたは誰ですか、と質問する意図が私にわかりません」


 言ってしまえば名乗るだけでも終わる質問だ。自分はカレンだと答えるのが至ってシンプルだ。もちろん、自分はこういう人間で、こういう経歴があってと答える人もいるだろう。


「先の一号車と二号車の方にも尋ねたわけですよね?」


「一号車はまだ。寝ているみたいだから、まだ訊けてはいないけど、二号車のお客さんには訊いた」


 眠っていても無理はないだろう。朝早く、それも日も昇っていないような時間に発車だ。寝ていてもおかしくはない。カレンは発車時刻を聞いたとき、耳を疑った。どうしてそんなに早い時間に、と思ったが、欠伸は出たりするが不思議と眠気はない。カレン自身、規則正しい生活をするよう心掛けているものの、こんなに早い時間に起きたことは滅多にない。これで眠気が襲ってきている中に車掌が来たら激怒していただろう。


「そうですか。ちなみに、二号車のお客様はどのようにお答えされましたか?」


 確か、七十半ばほどの女性だった。どこかふわふわとした足取りだったため、駅員か乗務員に導かれていた。女性の白髪とは違い、キラキラと輝く白銀の髪に紺色の制服を身にまとった男性だった。軽く会釈した彼の夜空色の瞳が印象的だった。彼と車内で会えるだろうかと淡い期待を胸に抱いていたのだが、車掌の話を聞く限り、その可能性は低いだろう。ベルに応じた声は車掌と違う女性のものだった。きっと彼はこの列車にいない。

 少し気持ちが沈んだカレンは頭を振る。今は彼のことではないのだ。車掌は目の前で難しい顔をして腕を組んでいる。


「ちょっと個人情報になるから全ては答えられない。まあ、名前を教えてくれたかな」


 名乗るということが一番手っ取り早い。二号車の女性がそうしたのであればカレンも同じようにすればいいように思う。


「なるほど。わかりました」


 肝心の情報は聞けなかったが、個人情報となれば話は別だ。逆に考えれば、個人情報となり得るようなことを話した可能性も出てきた。


「話は戻りますが、なぜ質問するのですか?」


「簡単なことだよ。この列車はカハタレ列車。あなたは誰?、と尋ねる列車で私たち列車側から見たあなた、つまり乗客に問いかけている。それだけ」


「……」


 意味がわからない。この列車に乗るだけでなぜそのようなことを訊かれなければならないのか。


「不満そうな顔してる」


 車掌がニヤリと笑う。してやったりという笑顔にカレンは表情を引き締める。

 隙を見せるな。車掌の思うがままになるのは嫌だ。


「そうですか?」


 カレンはにこやかに笑う。


「カレンの考えていることを当てようか? そんなことを訊いてどうするのだって。しょうもないことを訊くって思ってるでしょ? 表情はにこやかに取り繕っているけど、内心は真っ黒だね。私はあなたがどんな人間か知っているんだよ」


 車掌は試すような口ぶりでカレンを挑発する。乗客名簿に彼女のことが記されている。生まれも、経歴も、好みも、性格もわかっている。案の定、カレンのヘーゼル色の瞳が揺れる。


「どんな人間かご存知であるなら、質問の意図がさらに理解できません」


 客人に対して何たる失礼な物言いをするのか。あの白銀の髪の彼なら、目の前の車掌のような振る舞いをしないだろうに。女性に優しく声をかけながらつき添っていた彼ならもっと丁寧な対応をするだろうに、と思いながらカレンは車掌をじっと見つめる。


「私たちが知りたいから訊くのではなくて、乗客に己が何者なのかを知ってほしいと思うから訊くの」


 アイオライトの瞳は何を言っても無駄だと言わんばかりの強い眼をしている。

 訳が分からない。これでは同じことの繰り返しになりそうだ。

 カレンは深く息をつく。


「お引き取りを。これ以上、あなたと話すことなどありません」


「私はあるよ。まだ答えをもらっていない」


「いいえ。この部屋から出て行ってください」


 このまま車掌と話したところで苛立つだけだ。それに、これ以上感情を押し殺して笑顔を貼りつけるのも疲れる。いっそのこと眠ってしまって終点に着くのを待った方がいいかもしれない。その方が余計なことを考えずに済みそうだ。

 しかし、車掌は動こうともせず、カレンの向かい側に座ったままだ。カレンを試すように見つめる菫色の瞳は少しも逸らされない。

 何かわからない圧のようなもの。まるで、獣が獲物を狙っている目だ。その瞳からカレンは逃れられない。


「私は答えを得られるまで動かないよ」


「……」


「さあ、カレン。あなたは誰ですか?」


「……いい加減にして」


 カレンの中の何かが切れる。その糸はヴァイオリンの弦が勢いよく切れるように音をたてたような気がする。


「あなたみたいな子どもが何を言っているのかしら? 私は客人よ。客人の言うことが聞けないの?」


 カレンはテーブルを叩く。バン、と音が響くも車掌は動じない。

 それどころか、楽しそうに笑っている。その笑顔は自分が思い描いたとおりの結果になったと喜ぶ顔だ。


「勘違いしないでほしいな、カレン。この列車の中で一番偉いのは私だよ? 乗客の君たちじゃない。私は君たちを監視しているんだよ」


 車掌の瞳に影が宿る。夜明け前の深い青の瞳は楽しそうに歪む。


「確かに、君は一応・・大切な客人だ。だけど、客人だからと言って偉ぶらないでほしいな」


 車掌はゆらりと立ち上がり、テーブルに手をついて身を乗り出す。ギラギラと輝く深い青の瞳がカレンのヘーゼルの瞳を覗き込む。

 カレンの身体が震える。カレンの心の奥底まで覗き込みそうな瞳を知っている。

 威厳のある人間の目だ。威厳のある者の目は全てを見透かしてしまいそうなほど強い光を宿し、押し黙らせてしまう。威厳というものはそう簡単に身につけられるものではない。教育と経験によるものだ。豊富な知識を持ち、人心を掌握する術を身につけ、実践することで得られるものだ。ただただ偉ぶったり、はったりをしたところで見抜く者は見抜き、策を練る。

 言ってしまえば年下の少女。そんな少女に怖気づいている自分がいる。


「わかった?」


 権力者の目。自分の持ちうる力を使い、人を動かすような者の目だ。独裁者にも聖人にもなる目。アイオライトの瞳が細められる。冷たい氷のような目だ。背筋が凍る。


「……」


 カレンは小さく頷く。そうするしかできないように、糸で操られた人形のようにしか動けない。

 ぎこちなく頷いたカレンを見た車掌の瞳は無邪気で快活な瞳に戻る。


「うん、それでよし」


 車掌は身を引く。先ほどまでの威勢はどこへ行ったのか、カレンは身を縮こまらせている。

 肉食動物に目をつけられた草食動物。思いのほか、すぐに大人しくなったものだと思いながら、車掌はバッグから鏡を取り出す。深い青から白へとグラデーションになっているそれを開いて、カレンの前に置く。


「さあ、答えてくれるよね?」


 圧のある物言いだ。カレンは渋々頷くと鏡を見据える。ダークブラウンの髪は胸のあたりまで伸び、ヘーゼルの瞳が疲れているように見える。カレンからすると、もう動けないのだ。


「それで、この鏡は何ですか?」


「あー、猫かぶりはもういいよ。疲れるでしょ?」


 車掌はヘラヘラと笑いながら、対面の席に腰を下ろす。

 車掌はカレンがどんな人物か知っていると言った。変に隠したり、取り繕っても無駄だろう。あの多色性の瞳に嘘をついたり、笑顔を貼りつけても意味がないと思う。


「……わかった」


「そっちの方が話しやすいし。で、その鏡はカレンのことを映す鏡だよ」


「そうでしょうね」


 鏡なのだから当たり前だ。すでに疲れ切ったカレンの顔が映っている。


「では、カレン。君のことを教えて。あなたが誰なのかを」


 車掌がそう言うと鏡の中の景色がぐにゃりと歪む。木目調の客室とカレンのダークブラウンの髪色が溶け合うようにして鏡の景色が変わる。


「何……これ……」


「魔法の鏡さ。気になるとは思うけど静かに見て。あ、鏡の中の景色について気になることがあれば言っていいよ」


 始まるよ、と車掌が言うと鏡の中に見慣れた景色が広がる。

 美しいバラの園。先祖代々受け継がれてきたバラ園だ。真っ赤なバラが美しく咲き誇り、蝶が優雅に飛んでいる。そのバラ園の中央に男性が佇み、こちらに気がつくと微笑む。


『カレン』


 男はしゃがむと腕を広げる。視点の主は走り出したのか、パタパタと軽やかな足音をたてて男に駆け寄る。


『おとうさま!』


 今よりも高い声だが、これはカレンの声だ。


「これは私の記憶?」


「そうだよ。今父親に駆け寄ったのは幼い頃の君」


 車掌には鏡が見えていないにも関わらず、車掌は鏡の中の状況について話す。鏡の中のカレンの走る音や、父を呼ぶ声を聞けばある程度の状況は理解できるだろうが、見えているかのような反応だ。

 鏡の中のカレンは父親の腕に飛び込む。すると、父親に抱き上げられたのか視線が高くなる。


『お勉強は終わったかな?』


『おわりました。きょうはおひめさまのおはなしをよみました』


『お嬢様ー。そんなに急いで走らなくても……』


 カレンが来た方から中年の男性が走ってきて息を切らしている。彼はカレンの教育係だ。その教育係の男を見て父は小さく笑う。


『歳か?』


『旦那様もいずれこうなりますよ』


 男は姿勢を正すと眼鏡の位置を直す。父親よりも年上の教育係は、まったく、と父に対して眉を下げる。


『そうだろうな。ところで、カレンの勉強の進み具合はどうだ?』


『ええ、すこぶる順調どころか、ぐんぐんと進んでいきますよ。予定を考え直す必要がありそうなほどです』


『そうか。カレンはお利口さんだな』


 父親はカレンの頭を撫でる。愛しそうにカレンを見つめるヘーゼルの瞳に幼いカレンは嬉しそうに笑う。


『わたし、おおきくなったらおとうさまのおしごとのおてつだいをしたいの』


『カレンがお手伝いしてくれるのかい? それは嬉しいなあ』


『うん! だから、いっぱいおべんきょうしておとうさまのおやくにたてるようになるの』


『そうか、そうか。それは楽しみだなあ。そうだ。今からお仕事があるんだ。少し手伝ってくれるかな、カレン』


 はい、とカレンは大きく頷く。父が教育係の男に下がるように言うと、カレンは教育係の男に今日の勉強を見てくれたことに感謝の言葉を述べる。教育係は嬉しそうに笑うと一礼して去って行く。

 父はカレンを抱いたまま書斎へ向かう。道中、勉強の進捗を話しながら、すれ違う使用人たちに挨拶をしていく。綺麗な廊下をずっと進み、書斎に着く。整理整頓が行き届いた部屋には高価な物が並んでいる。

 父は腰かけてから、カレンを抱き上げて膝にのせる。そして、書類を手に取り、カレンに見せる。


『カレン。この紙に書いてあることを読み上げてくれるかな?』


『よみあげですね。えっと……』


 カレンはスラスラと読み上げていく。いくつか知らない単語があってつっかえることがあるものの、歳のわりには上手に読み上げていく。


『素晴らしい、カレン。難しい言葉もあっただろうに、上手に読めたなあ』


 父親はカレンの頭を撫でる。すごいぞ、と褒める父の瞳に映る幼いカレンは照れ笑いを浮かべている。


『いいえ。まだまだです』


『十分だ。たくさん勉強しているんだな。お父様も負けていられないな』


 父親は誇らしげに笑う。弾けるような笑顔の父の顔が歪む。

 鏡の中の光景が変わる。先導するメイドが扉を開け、カレンは書斎に入室する。父はメイドにご苦労と言うとメイドを下がらせる。扉が閉じられてカレンはデスクの書類をよけた父の前に立つ。先ほどの父親よりも、記憶に新しい父親の姿がそこに映し出される。視線が高くなったことから、カレンが成長したことがわかる。


『カレン。最近の振る舞いについて言いたいことがある』


『はい、何でしょう』


 今のカレンの声音だ。落ち着いたトーンで話すカレンの声が書斎に吸い込まれる。


『少し横柄な態度ではないだろうか?』


『横柄ですか?』


『ああ』


 父親はデスクの上で手を組み、カレンをじっと見つめる。落ち着きを払ったヘーゼル色の瞳だ。


『使用人たちに対する態度がとくに顕著だ』


 父親は静かに言う。


『見た目や相手の立場、先入観で判断しすぎではないだろうか? 自分の都合を優先して彼らへの言葉に棘がないか?』


 鏡の中の父の瞳にカレンは身を強張らせる。先ほどの車掌と同じ威厳のある者の目だ。車掌とは違って嫌な圧力は感じないものの、背筋が自然に伸びて父親から目が離せなくなる。


『人の才能を見抜く目も必要だとお父様はよく仰っていますよね』


 鏡の中のカレンの声は淡々としている。自分の考えに間違いはないと自信を持っている声だ。


『そうだとも。ただ、カレンの場合はその判断材料が限られている。もっと広い視野を持つべきだと私は思う』


『瞬時に判断するためには限られた情報で見抜く必要があります』


『それである程度の判断をするのは構わない。それも必要な力だからな。ただし、それだけで決めつけるのはいかがなものかと思う』


『……』


『多角的な視点で物事を考えられるようになってほしい。そうすれば、もっと世界が広がって見えると思うよ』


 父親は穏やかに微笑む。その笑顔は愛娘を見つめる父親の笑顔だ。

 鏡の中の景色が霞む。父の優しい淡褐色の目が遠ざかり、カレンのつり気味の目とかち合う。


「これでおしまい」


 車掌は鏡を手に取るとバッグにしまう。太陽を模した留め具をしてカレンに向き直る。


「さあ、カレン。カハタレ列車の車掌として君に尋ねよう。あなたは誰ですか? あなたが自慢できること、誇りに思っていることと自分の短所、ここを直すべきだと思うことを教えて」


「……」


 カレンは目を伏せる。

 カレンにとっての誇りとは何か。それは良家の娘として生まれ、身分に見合う振る舞いができることだ。恥ずかしくないように教養を身につけた。美術、演劇、音楽、歴史、文学、地理などを中心にあらゆる分野の知識を身につけた。他家の子女たちに引けを取らないように、誰とでも話が弾むように話術も必死に覚えた。容姿にも気を遣い、髪の手入れや姿勢を正すことを怠らない。誰から見ても立派だと言われるように努力をしてきた。実際、他家の者からよく褒められ、両親や祖父母からも自慢の娘だと言ってもらえた。

 カレンの短所は何か。いつだって完璧を目指したカレンは短所がないように努力をしたのだ。苦手な分野はあるが人並みには理解できることばかりだ。あえて言うのであれば、先ほど鏡の中の父が指摘した視野の狭さか。だが、多くのことを学んだカレンからすると、それが理解できない。多岐に渡ることを知っているカレンのどこが視野が狭いというのか。

 車掌が見せた鏡の光景は何だと言うのか。幼いカレンが父の仕事を手伝うと言ったこと、成長してから父に指摘された短所のふたつの場面。何がどう結びつき、車掌の意図することなのか。

 カレンは車掌を一瞥する。アイオライトの瞳はカレンの反応を窺っている。


「……」


「困ったら言って。一緒に考えるから」


 車掌は小さく笑う。


「……どうして、あの映像を見せたの?」


 車掌の意図を。それがわかれば話が広がるか。

 気に入らないところのある車掌に助けを求めることは、本来、カレンのプライドが許さない。誰かの手の上で踊らされることが嫌いなカレンだが、この車掌はカレンのことを見抜いてしまう目を持っている。父親と同じ部類の人間だと直感が告げる。ならば、いっそのこと明らかにしてしまった方が変に扱いにくい女だと思われずに済みそうだ。

 車掌はカレンの問いに対して宙を見上げる。


「うーん……。それはこちらの意志ではないから」


「え?」


「鏡の判断だよ。カレンをカレンたらしめることに関する大切な記憶を映す。それがあの鏡の役割だから」


 カレンをカレンたらしめること。それがあのふたつの場面。全く繋がらないというわけではないだろうがあのふたつがカレンたらしめるのに重要なのか。


「ちなみに、私が自慢できるところは柔軟なところで、悪いところは周りを置いてきぼりにすることかな」


 車掌はニコニコと笑いながら言う。確かに、カレンのことを置いてきぼりにするような振る舞いが目立つ。一応、本人に自覚はあったらしい。


「自分一人で突っ走る自覚はあるのね」


「まあね。だから、今こうして車掌をしているわけだけど。昔はもっとお偉いさんだったんだよ、これでも」


 この子どもが車掌よりも上の立場であったこともあるのか。明朗快活な少女のどこがお偉いさんだったのか。その面差しを今は見ることもできないし、確かめる術もない。

 威厳に満ちたあの瞳を知らなければ。あれは人を従え、動かし、導く者の目だった。あの目を見ていなかったら信じられない話だ。

 どのような立場だったかは知らない。が、それ相応の立場にあったことは確かなのかもしれない。


「なぜ車掌に?」


「今までのことに縛られるよりも、時には流れに合わせて柔軟に変わった方が簡単に物事が進むって思って行動したら、こっちの仕事が回ってきたって感じ? 左遷なんて言う奴もいるけど、私から見ればそういうことを言っている奴らの方が面倒なことしてるなーって思うんだ。まあ、この仕事は決して楽なことではないんだけど」


 今日だってイレギュラーなお客がいるし、と車掌は肩を落とす。


「柔軟にって考えて行動した結果がこれさ」


 車掌が長所として挙げたことが短所と繋がる。諸刃の剣のようになったのか。


「参考になった?」


「意外と自己分析できるのね」


「嫌味な言い方」


 車掌は頬を含ませる。髪もそうだが、車掌の頬も触り心地が良さそうだ。


「カレンから見て、私はどう見える?」


「そうね。まず、失礼な振る舞いが目立つわ。お客様に対して敬語もなし、説明は大雑把、振る舞いも身勝手ね」


「あれ? 悪口ばっかじゃね?」


「あなた、車掌なんでしょ? もっとスマートな対応をしていた駅員がいた。彼を見習ってほしいわ」


「スマートな対応の駅員?」


 車掌は首を傾げる。カレンのお眼鏡にかなうような気の利く駅員などいただろうかと駅員たちの顔を思い浮かべる。どいつもこいつもぱっとしないような気がすると考えているとカレンは、いました、と声を大きくする。


「白銀の髪にサファイアの瞳の男性です。二号車の方をエスコートしていらっしゃった方」


 キラキラと輝いて見えた男だ。柔和な笑顔で会釈をした姿が印象的だ。


「白銀の髪にサファイアの目……。制服は紺色の生地に銀色の糸が使われていて、帽子に星の飾りついてた?」


「帽子の飾りまではわからないけど……。そうね、制服は紺色に銀色の差し色だった」


 となると車掌の脳裏に浮かぶ人物は一人だ。車掌も異例の存在だが、彼の方がもっと異例だ。


「別の列車の車掌だね。私が指導した男に違いない」


「指導した?」


「うん。彼が車掌職を引き継ぐ前の話だよ。あの子も変わり者だよ」


「え、ちょっと待って。あなたの方が指導者なの?」


「そうだよ。私の方がこの職は長いから」


 男の年齢は二十代半ばほどで、目の前の車掌は十代半ばぐらい。一体、目の前の車掌はいつ頃から働いているのか。


「いやあ、指導した身からするとあの子が褒められるのは嬉しいね」


「え……」


 車掌の態度が悪いのか、男の元々の接客対応なのか。どちらなのかはわからないが男を褒めることで間接的に車掌を褒めることになってしまった気がする。


「優秀な教官だと思う?」


「思いたくない。彼の人柄だと思いたい」


 カレンは即答する。そう、これはカレンの願望だ。少なからず目の前の車掌の指導もあるだろうが、この車掌の仕事をする姿を見て丁寧な接客を心がけようと決めたに違いないと思いたい。

 車掌は、えー、と不満そうに声を漏らす。


「私っていいところなし?」


「そうね……。元気なところは悪くないんじゃないかしら?」


 悪く言えば子どもっぽいのだが。カレンは目の前の少女をじっと見る。淡い青の目は生き生きとしていて、にこりと笑うその姿は元気な子どものようだ。軽やかに走る姿は子兎を思わせるだろう。


「元気が一番だよ」


「ええ」


 身体は資本だ。無理をし過ぎて身体を壊しては意味がない。

 カレンの脳裏に母の姿が浮かぶ。カレンの母は病がちで、カレンが十歳のときにこの世を去った。母は休んでばかりはいられないと得意の裁縫をしてカレンや姉の服を作ってくれた。しかし、無理がたたったのか、病状は悪化するばかり。結局、早くに亡くなってしまったのだ。

 母のその姿を知っているからこそ、健康であることは大切だとカレンは考える。と、同時に、ずっと寝てばかりで誰の役にも立てなくて悔しいという母の気持ちもわかる。


『カレン。誰かの役に立てる人になりなさい。私はお父様を支えるべき立場なのに、満足にできなくて悔しいの。カレンは賢い子だから、困った人に知恵を授けて助けてあげて』


 母は冷たい手でカレンの頭を撫でながらそう言った。ずっと昔に言われた言葉だ。母のその言葉が父の仕事を手伝いたいと思ったきっかけの言葉だ。

 なぜ忘れていたのだろう。今になってはっきりと思い出す。


「……ねえ、逆に訊きたいのだけど、あなたから見た私ってどう見える?」


「ん? いいけど、私の答えを丸っと自分の答えにしないこと、あと長所だけ教えてあげることが条件。短所は自分で考えてね」


「わかった」


 うん、と車掌は答える。車掌はふわふわな金色の髪が揺れる。


「カレンのいいなあって思ったところは、努力家なところ」


 思っていたのとは違う。もっと嫌味を言われるのかと思いきや拍子抜けしてしまう。何を当たり前のことを、とカレンはわずかに眉をひそめる。自分でも努力してきたと胸を張って言える。


「小さい頃から優秀で、教育係が予定を調整し直すほど勉強熱心。父親の仕事の手伝いをしたいと思って、仕事に関することはもちろん、教養を身につけた。良家の娘として、両親の娘として恥ずかしくないようにと君はいっぱい勉強した。幅広い分野の知識を持ち合わせていて、素直にすごいなあって思う」


 車掌は小さく微笑む。その笑顔はカレンを褒めてくれる屋敷の人々の顔を思い出させる。


「まあ、そのせいなのか、気位は高くてちょっと物言いはきついかなとは思ったけど」


 車掌のその一言で全て台無しだ。嫌味など言わないのかと素直に信じた少し前の自分に忠告したくなる。上げて下げることを言う無礼者だと。


「短所は言わないとのことだったけど?」


 カレンはここで荒げた言動をすれば車掌の言葉が覆ってしまうと思い、ぐっと抑え込む。対して、車掌は新しいおもちゃをもらった子どものように笑っている。


「えへへ。まあね。でもヒントになったと思うよ。どうして長所だけを君に言ったのか。君の短所が見つからないから、なんて優しいことは言わないよーだ」


「そう」


 この車掌ならそう言うだろう。むしろ、短所だらけだよクスクス、なんて言いかねない。

 それはさておき、車掌が短所を述べなかった理由を考えることの方が有益だ。なぜ、車掌はカレンの短所や注意すべきことを言わなかったのか。それは、すでに鏡の中の父が言っていたからか。でなければあの鏡を見る意味も、問いかけられる理由もわからない。

 ガタンゴトン、ガタンゴトンと列車は駆ける。地平線の辺りが赤みを強く帯びている。ラベンダー色も明るい色になっている。


「あのね、私はカレンのこと努力家だって言ったよね? だからこそ、どうしてそれに気づかないの? って思ったことがある。それは君のお父さんが言っていたね」


「視野が狭いってこと?」


「それもだけどそうだな……。その言葉の前に君のお父さんは君の何かを咎めたよね?」


 視野が狭い。決めつけはよくない。

 使用人たちへの態度。ふたつ目の場面は横柄な態度ではないかと指摘された。


「使用人たちへの態度がよくないと」


「そうだね。そこから視野を広げるようにという話になったけど、カレンは屋敷の人たちにどう接していた?」


「どうも何も普通よ。昔と変わらない態度だった」


「それは本当?」


 車掌の瞳が強くカレンを見つめる。


「私は君のことを気位が高いと言ったね」


「……見下していたとでも言いたいの?」


 カレンは声を低くして尋ねる。そのようなことはない。彼らがいてこそ、屋敷内は美しく保たれ、回っていくのだ。


「君は彼らとちゃんと言葉を交わしていた?」


「もちろん。父の仕事のことや、スケジュールのこと、屋敷に関すること……。よく話したわ」


 父の仕事の支えになるようにと色々と気を回した。資料の取り寄せや、客人への対応、屋敷の備品などの業務のことから、普段の日常の何気ない会話もした。

 車掌は、じゃあ、と言ってカレンを射抜くように真っ直ぐ見据える。


「ありがとうとか、お疲れ様って労いの言葉をかけたりした?」


「それは……」


 カレンは俯く。痛いところをつかれたように胸が大きく脈打つ。


『カレン。使用人たちにありがとうと言うのも雇い主の役目ですよ』


 昔の記憶だ。カレンが十歳のときに亡くなった母の言葉だ。母は病弱で、いつも傍には使用人が二人は控えていた。いつも彼らにありがとうと言っていた母は病が重くなって、話すことも難しくなっても彼らの腕に手を伸ばして感謝の意を示した。母のその行動に使用人たちはときに涙を流しながら、母のことを支えた。母は使用人たちに慕われていた。だから、母が亡くなったときの使用人たちは悲しみに暮れて、墓参りも欠かさずしてくれるのだ。


「……」


 いつからだっただろうか。使用人たちが用意してくれたものに対して、自分のためにしてくれたことに対して礼を言うことが減ったのは。全く言わないというわけではなかったが、明らかに減ったと車掌の指摘で気がつく。

 きっかけは母が亡くなってからだったと思う。他家の子女たちと話しているときに使用人に対してまでそんなにへりくだった態度だといつか裏切られるかもしれないと言われた。もしかしたら母は薬に毒を混ぜられて亡くなったのでは、と言われて使用人を少しだけ疑ってしまった時期があった。それがきっかけだったのかもしれない。母が亡くなったショックで冷静な判断ができなかったのかもしれない。

 歳を重ね、父の仕事の手伝いや家の代表として表に頻繁に出るようになってから減ってしまった家を支えてくれる人々への感謝。よその家の者が扉を開けてくれたときには礼を言うのに、自分の家の使用人が同じことをしても何も言わない。同じことをしるのに、いつも近くにいる使用人には声もかけず、他家の子息には感謝の言葉をかけるとはどういうことなのか。それが父の言いたかったことなのだろうか。今となっては真意はわからない。


「何だか、誘導されているみたい」


「まあね。それが仕事でもあるから」


 車掌は表情を和らげる。その表情は、もういいかい?、と尋ねているように見える。

 カレンは背筋を正し、深く息を吸う。車掌の思うようにころころと掌で転がされていたように思うと悔しいが、今は自分のことだ。自分は何者なのかを答えることに集中する。


「……」


 自分の誇りと欠けているところ。それを自分の言葉で言うとどうなるのか。

 カレンは口元を引き結ぶ。

 大丈夫。胸を張れ。堂々と。


「お願いします」


 車掌の桜色の唇が緩やかな弧を描く。


「じゃあ、教えて。あなたは誰ですか? あなたが直すべきところと自慢できるところを教えてください」


 車掌の凛とした声音を緑と茶の混ざった瞳が受け止める。


「私はカレン。欠点は……お父様から指摘されていたことだけれど、視野の狭さ。その視野というのは学問や知識の分野なのかと思ったけど、きっと違う。人づき合いのことだと思う。いつからか、良家の人々とばかりつき合い、身近で支えてくれていた人への配慮を忘れていた。彼らのおかげで私は多くを学び、知識を得られたのに彼らに返すことができなかった。……こんな私でも彼らは支えてくれた。彼らが内心どう思っていたかはわからないけれど、優しい人々に支えられて努力し続けられたことによって身につけた教養や知識が私の自慢。そして、いつも私のことを気遣ってくれた彼らが私にとっての宝物です」


 たどたどしい言葉だ。いつもだったらもっときちんとした言葉で思いを伝えられるのだが、気恥ずかしいのか、拙い答えとなってしまった。本人たちがいないとは言え、もっと整った言葉を伝えたかったし、そもそも、彼らを前にして言うべき言葉なのにそれを伝えられないことがもどかしい。

 もっとしっかりとした言葉で答えたかったと反省しているカレンの目の前で白い手袋に包まれた手が叩かれる。その音にカレンは顔を上げる。


「うん、ありがとう、カレン。カレンはそういう人だったね」


 車掌は満足そうに笑う。アイオライトの瞳がキラキラと輝く。


「どうか、今言ったことを忘れないでね」


 車掌は立ち上がると身を翻す。カレンへの問いかけは終わりだ。

 赤みを帯びてきた空を見つめる。少し赤みの強い紫の空だ。


「じゃあ、私は次の客人のところに行くね。また何かあったらベルを鳴らしてよ」


「忽然と現れることに変わりはないのね」


「うん。そこのところはごめん」


 車掌は手を合わせて謝る。


「まあ、いいわ。紅茶でもいただこうかしら」


「じゃあ、今用意するね。それ」


 車掌が手を鳴らすとティーカップとティーポッドが現れる。バラの花があしらわれたティーセットだ。すでに紅茶が注がれたティーカップを見てカレンは苦笑する。

 まったく、この列車は本当に何なのだと思いながら、紅くなってきた空と似た色の紅茶の香をかぐ。ほどよい甘味のある香りだ。バラの香りがする。あのバラ園のことを思い出す。あのバラ園も庭師たちのおかげで、代々受け継がれてきた。


「ご満足?」


「そうね。ありがとう。紅茶でも飲んで深く考えないようにする」


「そうしてくれると助かるかな」


 車掌はニコニコと笑う。カレンは砂糖をひとついれてから一口飲む。


「美味しい」


「よかった。じゃあ、ごゆっくりどうぞ」


 車掌は帽子を脱いで一礼すると跳ねるように扉へと向かう。


「そうだわ、車掌さん」


 ドアノブに手をかけかけた車掌はカレンの声に振り返る。カレンは優雅に紅茶をまた飲むと車窓の方へ視線をやる。赤と青の狭間のラベンダー色が少し濃くなった空は誰かさんの瞳を思わせる。


「あなたの瞳、光の加減や角度によって菫色や青色にも見える不思議な目ね。まるで、アイオライトみたいで綺麗」


 多色性という特徴を持つ石だ。その特性からアイオライトは大海原を渡る際に方角を知るために用いられたとされる話がある。その話から美しい青にも紫にも黄色にも見えるその石には車掌がカレンにしてみせたような石言葉を持つのだ。


「アイオライト。その石は道しるべの象徴とされている。あらゆる角度から冷静に物事を捉えて、柔軟に考えることで解決への糸口を見つける、導きの石」


 カレンは小さく笑う。夜明けの空を思わせる瞳を持つ車掌はまさしく。


「あなたはアイオライトのような導き手なのね」


「……」


 車掌は窓に映るカレンの表情を盗み見る。彼女の父親と同じ、人の本質を見抜く目をしている。

 やはり彼らは親子だ。車掌は小さく息をつくと、帽子を脱ぐ。


「お褒めにあずかり、恐悦至極。どうか、新たな日の始まりまでの旅路をお楽しみください」


 車掌は深々と頭を下げる。カレンの小さく笑う声を背中に聞きながら、車掌は退室した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る