第4号車 黎明の夢のはじめ

 列車の駆動音に紛れて足音がひとつ。その足音はこちらに近づいている。

 コンコンコン。扉を叩かれる音がするも返事をせずに、列車の振動音に神経を集中させる。

 一方の車掌は返事のない客室に首を傾げる。もう一度ノックをしても返事はない。気配は確かにあるのだが、一向に反応がない。


「……」


 車掌は眉をひそめる。今日の乗客の中で一番の問題児だ。いや、問題“児”という年齢ではないのだが。発車一分前になっても乗車せず、列車を端から端までずっと見つめていた。そろそろ発車時刻だと告げたときの乗客の不満そうな顔と言ったら、ほしいものを買ってもらえなくて駄々をこねる子どものようだった。


「お客様、いるよね?」


 カハタレ列車は車掌の判断によって客室の出入りを許可される。基本的には切符の確認が済み、かつ、無害だと判断されれば客室の出入りを許される。と言っても、この列車には客室ぐらいしかないため、車内をうろつく必要はない。別の客室へ出入りしたければ、客室の主と車掌の許可が得られれば他の客との交流も可能だ。 

 とにかく、まだ客室にいるであろう乗客の無事を確認せねば。車掌が強く扉を叩いても返事はない。もしや倒れているのかと思い、車掌は扉を開ける。

 男が倒れている。こちらに背を向けて倒れる男に車掌はさらに眉をひそめる。呼吸は正常に行われていることは遠目に見てもわかる。

 車掌は乗客の元まで歩み寄る。男は目を閉じた状態で横たわっている。


「……何をしているの?」


 男の瞳が開かれる。黒に近い茶色の瞳がゆっくりと開かれると、男はその目を車掌に向ける。まだ日が昇っていない空を思わせる青色がじとっと見下ろしている。 


「やあ、嬢ちゃん。おはよう」


「うん、おはよう。ねえ、何してるの? 調子悪いの?」


 顔色はすこぶるいい。話し方に違和感もない。むしろ楽しげな声だ。なぜだか床に貼りついていることを覗けば普通の中年の男だ。

 普通か?

 すぐに浮かんだ疑問をすぐさま否定し、車掌は呆れた様子で男を見下ろす。


「何をしているかだって? 音を聴いているのさ」


「音?」


 車掌はしゃがんで男の顔を覗き込む。

 白髪交じりの黒髪に暗い茶色の瞳。身なりがくたびれているせいか、黙っていれば生真面目そうな顔が台無しだ。


「ああ。この列車の仕組みを知りたいが、客室の外には出られない。だったら音を聴いて何となくの造りがわかるかなと思って。でも、これは子守唄みたいで少しうとうととしてしまったよ」


「子守唄?」


 普通に過ごしていればうるさくはないだろうが、男のように横になって耳をあてていればうるさいと思う。眠れるような音だろうか。むしろ、睡眠の妨げになりそうだ。


「で、嬢ちゃんはどんな用事できたんだい?」


「切符の確認と質問の答えを聞きにきたよ、ハジメ」


「なーるほど。まずは切符ね、切符」


 えっと、と男、ハジメは身を起こす。そして、胡坐をかいてポケットの中をあさる。


「これかな?」


 出てきたのは飴の包み紙だ。


「あれ? これかな?」


 そう言って出てくるのはゴミばかり。ガムやアメ、キャラメルなどの包み紙ばかりで肝心の切符が出てこない。色とりどりの紙が床に広がるばかりだ。ポケットの中のものを全て出すほどの勢いで次から次へと止まらない。別次元から取り出しているのかと思うほどの量だ。

 やっとのことで出てきた車掌の制服と揃いの色の切符はもうボロボロだ。しわくちゃになった切符をハジメは車掌に差し出す。車掌は穴を開けてハジメに返す。


「もう少し大事に扱って」


「はいはい」


 ハジメは乱雑にポケットに切符をしまう。言ったことを聞いていない。


「ねえ、甘いもの好きなの?」


 次から次へと出てくるものは菓子の包み紙。色とりどりで様々な柄。一体どれだけのものを食べて、捨ててこなかったのか。

 そもそもどこでこんなに手に入れたのか。ベルでも鳴らして頼んだのか、それとも、駅で手に入れでもしたか。


「嫌いではないかな。休憩のたびにちょっとした甘いのを食べたくなる」


 車掌の考えをよそに、ハジメはのんびりとした口調で答える。色々と見て回りたかったハジメは発車時刻よりうんと早くに駅に到着していた。駅の売店でもらった菓子類の包み紙をポケットに突っ込みながら観光していたため、このような事態になった。自分でもこんなに食べていただろうかと思うほどの量の包み紙が出てきたものだ。

 床に散らばった包み紙からハジメは青の包み紙を取る。灯を反射してテカテカと光っている。正方形のそれを三角形に折ると、また三角形に折る。


「で、他に何かご用かな、嬢ちゃん?」


 ハジメは手を止めずに包み紙を折っていく。アナウンスで車掌が言っていたことは切符のことだけではない。

 車掌は腰を下ろす。ハジメと同じように胡坐をかき、ハジメの手元を見つめがら問う。


「あなたは誰ですか、という問い。答えは用意できた?」


「随分と漠然とした問だ。俺の何を答えればいいのかわからない。出身地や名前とかのプロフィール? 俺の性格? 過去? ……俺の何について知りたいのかによって答えは変わるんだけど」


 ハジメという人間は一体何者なのか。様々なアプローチからハジメという人間を知ることができるはずだ。いつ、どこで生まれて、誰に育てられ、どんな人生を歩んできたのか、などの神の視点の話なのか、自分はこういうことをしてこう思った、自分はこんな性格の持ち主、自分はどんな思想を持っているのか、などの自分の視点の話なのか。客観的視点か主観的視点かによってハジメという人間の印象は変わってしまうと思う。

 包み紙は徐々に形を変える。三角形を開くと正方形になる。両面、正方形にして、ふたつの角を中心に向けて折り筋をつけていく。


「そうだね……。君を君たらしめる軸……原動力は何だろう? それを君に問おう」


「俺の原動力? 俺の原動力は美味い食事かな」


 別の角を折り、筋をつけたハジメは正方形を開き、折り筋に合わせてひし形を折る。


「ハジメ」


「冗談だよ、冗談」


 栄養もあって美味い食事が原動力。あながち間違ってはいないが、車掌が求めている解はそれではない。それをわかっていてハジメは言った。

 ハジメは小さく笑う。


「俺を俺たらしめる原動力ね……」


「夢という言葉に置き換えてもいいよ」


「俺を俺たらしめるそれを夢なんて綺麗な言葉で言うのはな……。似合わないと思う」


 夢という言葉は何とも不安定で、不確定だ。明るいことを語るときにも、暗いことを語るときにも用いられる言葉。いつかすっと消えてしまいそうで、もろく、壊れてしまいそうな夢という言葉。ハジメは夢という言葉を簡単に用いたくないのだ。


「儚いという字は人の夢と書く。上手にできている文字だよ」


 美しい響きの言葉だと思う。だからこそ、夢という言葉と、人の夢で儚いという言葉を結びつけて考えてしまう結果、あまり夢を語りたくない。


「私は君の出身の言葉に詳しくはないけど……。そう。人の夢で儚い、か」


 人の夢はときに綺麗なもので、ときに醜いものだ。車掌は人々が見たり、語ったりする夢をアイオライトの瞳で見てきた。あっけなく消えてしまう夢もあれば、太陽のように光り続ける夢もあった。もちろん、実現した夢の形も見たことがある。

 そんな夢という言葉をハジメは用いたくないと言った。そのように返されることは車掌の予想の範囲内だ。わざと原動力という言葉を用いたのも、彼の生涯を知っているからだ。


「では、君が生きる上で大切にしていたこと、原動力は何?」


「それは新しいことへの挑戦、かな」


 ハジメの手の中でただの四角形だった包み紙が姿を変えていく。翼を広げた鳥の姿になったそれを、ハジメは床に置く。


「新しいことに触れたいんだ」


 ハジメはまた包み紙を手に取る。今度は渋い紅の包み紙だ。


「どうしてそんなことを思ったの?」


「俺の叔父の神の手に憧れたんだ」


 車掌はじっとハジメを見つめる。

 この男、自由奔放に見えるが、その本来の性質は真っ直ぐなのだ。貫きたい強い想いを飄々とした皮で隠している。


「あの人は何事にも挑む人だ」


 叔父は多趣味な人だ。音楽を聴く側にも、演奏する側にもなり、運動をする側でも、観戦する側でもある。料理を作るのも、食べるのも好き、詩を作るのも、誰かの詩を読むのも好き。そういう人間だ。

 自分が受け取る立場になるだけでなく、自ら挑み、発信する。叔父の手は誰の手よりも大きく、思うがままに動いていると幼心に思った。とくに、新しいことに挑みむときのその手は何かを創り出すために必死に動いていた。


「諦めの悪い人でもあったよ。自分の納得のいく、満足のいく結果を己の手でつかみ取るまであがいて、あがいて、必死に手を伸ばす人だ」


 ハジメは目を細める。昔、叔父と一緒に見上げた朝の空に残った月に手を伸ばしたことがある。空の果てに沈もうとするその月なら届くのではないか、ずっと向こうの空へ行けばその月を手にできるのではないか、と。


「素敵な人でしょ?」


「そうだね」


 キラキラと目を輝かせて語る姿は子どものようだ。


「で、実際のところ、ハジメ自身は何かに挑んで叔父さんのような成果は得られたの?」


「痛いところをつくなあ」


 ハジメは眉を下げる。視線が泳ぎ、折りかけの紅の包み紙に視線を落とす。


「やってみたにはやってみたが、思い描いていたものと違った」


「それはなぜ?」


「言い訳っぽく聞こえると思うだろうけど、一番の原因は貧しくて、働かないといけなかったから。気がつくと残された時間が少なかった」


 幼い頃、貧しい生活をしていた。雨風を何とか凌げる小さな借家に母と二人で身を寄せ合って暮らしていたのだ。父のことはよく知らされず、父は遠くに行っているのだとだけ言われていた。大人になってから父は母とハジメを捨てて別の女性のところへ行ってしまったということを知った。また、母は両親との関係が思わしくないため、ほとんど連絡を取っていなかったと言う。いつしか、そんな母も男に狂ってしまい、ハジメは一人寂しく、孤独な時を過ごしていた。

 貧しく、慎ましい暮らしをするハジメに手を差し伸べてくれたのが叔父だった。叔父は母と歳が離れており、ハジメが物心つく頃、まだ二十歳になるような若者であった。中々帰ってこない母を待つハジメと遊んでくれたり、食事を用意してくれた。母がいないことはハジメにとって寂しかったが、叔父がいてくれる日はどれほど救われたことか。

 そして、ハジメが七歳のとき、叔父の元に引き取られた。あるとき、母親はハジメを置いて消えてしまったのだ。惚れた男と一緒に消えたのだろうとハジメは予想している。


「叔父さんはハジメにとって、父親のような存在だったの?」


「そうだな。叔父は色々なことを教えてくれた。本の読み聞かせもしてくれたし、仕事が休みの日には色々なところに連れて行ってくれた。叔父が職場に連れて行ってくれたこともあったんだ」


 叔父は大工であった。時々、ハジメは職場に連れられ、叔父や職場の人たちの仕事ぶりを見ていた。逞しい身体の人々がいらない木材で玩具を作ってくれることもあった。今思うと、その姿は何だか可愛らしく思える。屈強な男たちが、ちまちまと小さな物を作る姿は胸の辺りが温かくなる。


『家っていうのはそこに住む人があるからこそ成り立つ』


 建築途中のそれを見上げた叔父の言葉だ。もう少しで完成という家には新しい家族を授かった夫婦が住むのだと聞いている。


『誰かがいるから、そこは場所として成り立つ。……大切な人と過ごす場所を創る。それが、俺の仕事だ。いつか、俺も自分の家を持てるのなら、自分で設計して、こだわりにこだわった家を造りてえな』


 叔父は眩しい笑顔で語った。こんな間取りで、家の周りにはこういう景色が見えて、こんな仕組みがあると面白そうだと、ハジメに語ってくれた。


『よくばりだね』


『せっかくでっかいもの造るんだ。欲張っていいじゃないか。俺は挑戦したいんだ。衣食住の住を担うでっかい箱をどこまで進化させられるのか』


 楽しそうだろう、と笑うその表情は真っ直ぐで眩しくて、太陽のような人だと思った。

 自分も何かに挑戦して創り出したい。叔父の笑顔を見てそう思ったのだ。挑戦したいこと、創り出したいことをいくつか思い浮かべたのだ。

 そう願ったが、その願いは叶わなかった。叔父に負担をかけたくないと思い、十九歳になるその年、叔父の元を出た。叔父も結婚して家庭を持つようになったことがきっかけだ。叔父の妻はハジメのことを受け入れてくれていたが、やはり叔父の家庭に自分がいては邪魔だろうと思い、家を出た。右も左もよくわからないハジメは叔父の職場の大工の伝手で清掃業に就いたのだ。大工たちにはうちにおいでと誘ってもらえたのだが、叔父から離れないといつまでも独り立ちできないと思い、断ったのだ。しかし、結局のところ、紹介してもらったその場所はハジメが思う、何かに挑戦したいと思えるような場所ではなかった。結局、他に行き場もなく、そこでしばらくの間働き、転職したのだ。


「転職先の人と結婚して、子どもも生まれてってなったら中々忙しくてね。子どもたちのやってみたいには一緒に挑戦した」


 自分と同じような思いをさせたくない。一人目の子どもが生まれたときに強くそう思った。親に愛されて育ちたかったというハジメの気持ち。だから、家庭を優先して過ごした。子どもたちはハジメの気持ちをどう受け取ったのか。年頃の時期は反抗されることもあったが、素直で何事にも一生懸命に取り組む子へと成長してくれた。

 家族と過ごす時間は本当に幸せだった。そこに何も後悔はない。


「楽しかったさ。子どもの笑顔も見られたし、俺自身も新しい発見があった。だけど、心のどこかで自分主導の挑戦をしたかったんだと思う。で、ある程度子どもたちのことが落ち着いてからさてどうしようと迷ってしまった」


 ハジメは鶴の姿になった包み紙を青の鶴の隣に置く。


「それでもいくつか試してみたんだ」


「例えば?」


「料理とか、音楽。でも、俺には合わなかった。運動も何だか違うと思ったし……。それで一番しっくりきたのが、設計図もどきを描くことだった」


「設計図もどき?」


 車掌は首を傾げる。


「いつか、こんな家があったら楽しそうだなって。さっきも少し書いていたんだけど」


「それ、見せて」


「いいけど、ちびっ子の方がもっと上手く描くと思うぞ」


 そう言ってハジメは立ち上がると、テーブルの方に歩み寄る。様々な本やメモがテーブルを覆い尽くしている。テーブルの色がわからないほどの散らかりようだ。その中から一枚の紙を取り出し、車掌に渡す。


「……」


 アイオライトの瞳は紙を睨みつけるようにじっと見た後、紙を顔に近づける。


「字が汚い」


「いやあ、思いつくことを勢いで描き連ねたらねえ」


 あはは、とハジメは頭をかきながら豪快に笑う。ぐにゃぐにゃと曲がりながら連なる文字列はミミズが這っているようだ。

 何とか解読しようと車掌は穴が開くほどじっくりと見つめる。文字は乱雑な上、文字の上にまた文字が重ねられて読みにくい。そして、ハジメが言ったとおり、小さな子どもが描いた方がもっと上手なのではないかと思える絵が紙の中央に描かれている。

 半球形の中に誰かが暮らしていうような絵。ごちゃごちゃと物で溢れかえっているそこは隠れ家のつもりだろうか。あまりに日常とかけ離れたような雰囲気の絵に見えなくもないが、如何せん。


「私には解読不可能だ」


 絵も下手、字も下手、ごちゃごちゃとしていて何が書いてあるのかわからない。まだまとまっていない理想の詰め合わせだ。


「ごめんね」


「絵でも文字でも伝わらないんじゃ勿体ないじゃないか」


 あれもこれも。

 こうしたい、ああしたい。

 こっちがいい、あっちがいい、そっちがいい。

 ここがいい、そこがいい。

 こうありたい、そうあってほしい。

 車掌の目にはこのちぐはぐな設計図はそのように映る。どれもこれもと目移りしていてまとまりのない一枚の紙と言うべきか、思いつくままに書き連ねた彼の止まらない情熱と言うべきか。

 ハジメを突き動かすものを可視化したもの。車掌は爽やかな空色の瞳で見つめる。


「……質問を変えよう」


「え? 変えるの?」


「大幅に外れる質問ではないから」


 車掌の手が宙を撫でる。すると、その場にローテーブルが現れる。車掌はそのテーブルに設計図を置く。ハジメの思いが詰まった設計図を床に直接置きたくなかった。


「君が思い描くこの設計図……君がこの設計図に込めた夢を私に説明してくれ」


 車掌の、夢、という言葉にハジメの瞳がわずかに揺れる。黒に近い茶色の目が気まずそうに逸らされる。


「……俺、さっき、夢という言葉は似合わないって言ったよね」


「私はとても釣り合うと思ったけど」


 車掌は設計図をハジメの方に向ける。連ねられた文字と中央に大きく描かれた絵。これはハジメの理想であり、思い描いたものであり、言ってしまえば空想。


「まだまだ不安定で、不確定。実現していないこれを、夢と言わずして何と言う?」


 車掌の声にハジメはゆるゆると顔を上げる。アイオライトの瞳に金色の輝きが宿っている。じっとこちらを射抜くその瞳に身体が震える。


「今、私が君の目の前でこれを破り捨てることも可能だ。夢を壊すという行為だ。それは新たな挑戦を拒否することとなり、実現不可能なあくまでも夢という実在しないものになる。夢という言葉を使いたくないと言うのなら、私は今すぐにでも、この設計図を破り捨てて、燃やして、灰となったものを捨てる。それを君の目の前でする。その目が瞬くことを許さない」


 車掌は導くための目でハジメを逃がさまいと見つめる。ハジメをハジメたらしめる一要素について、ハジメはどのように向き合うのか。


「君に与える選択はふたつ。ひとつは夢という言葉を用いて君の夢を可視化した設計図について語る。もうひとつは夢という言葉を用いたくない、受け入れたくないと突き放すか」


 受け止めるのか、逃げるのか。さあ、どうする?

 青の双眸がハジメを捕らえて離さない。ハジメは蛇に睨まれた蛙だ。深い青のその双眸は子兎のように見える十代半ばの娘がする目ではない。


「……」


 ハジメは小さく息を呑む。こうも簡単に気圧されるとは思わなかったし、車掌の口から残酷な言葉が吐き出されるとは思わなかった。

 この設計図を夢幻とするか、挑戦の一歩とするか。そんなこと、答えはひとつしかありえない。


「誘導されている気がするなあ」


 菫の瞳が先を促す。


「わかった。これは俺の夢だ。……まだふわふわとして定まっていない、消えてしまうかもしれない俺の夢であり、挑みたかった夢だ」


 青紫の瞳から覇気が消える。


「わかった。ごめんね、ひどいことを言って」


 車掌の眉が下がる。そのような表情をすると、年相応の少女だとハジメは思う。


「いいや。確かに、この紙は夢を可視化したものだ」


 ハジメは設計図を撫でる。我が子の頭を撫でるように大切に。自分の夢と向き合うのなら、大切にしなければならない。


「じゃあ、改めて……。この夢について教えてほしい」


「教えてって言われてもなあ……。隠れ家というか、秘密基地? ガキみたいな夢だよ」


「作りたいの?」


「造りたいな。俺、子どものときは友達いなくてさ。貧しいのと、親がいないからっていじめられていつも仲間外れで……。そうやって馬鹿にしていた奴らが秘密基地行こうって話しているのを聞いていいなって。羨ましかった」


 自分にもそう言って誘える友達や場所があったらと思うと寂しい。もしも、そのような友人や場所があったら、小さな胸に空いた穴は満たされていたかもしれない。


「友達いないの?」


「いるさ。大人になってからできた友達がいる」


 数は多くない。ハジメの交友関係は狭く深い。だから、思い浮かべる顔は親友と呼べる人ばかりだ。


「大人の秘密基地ってよくないか?」


「そのわりに、書いてあることは子どもっぽいけど」


 車掌は辛うじて読める部分を指さす。


「お菓子棚って……。あと、こっちは収納って書いてあるけど、明らかに玩具の絵だよね、これ」


 正直何の玩具かわからない。箱型のそれには升目が引かれ、その上には何やら細々とした物が並んでいる。


「玩具って……。これは将棋だよ、将棋」


「……ああ、将棋ね。チェスのお友達」


 将棋という遊びを知識としては知っている。だからこそ、この絵はひどいと言える。升目も歪で、駒の形は丸。これでは囲碁と言われても文句は言えないだろう。もう少しどうにかできなかったのだろうか。


「ここに将棋って書いてあるだろう?」


 ハジメは将棋盤の近くに書いてある、将棋、の文字を指さす。

 その上に別の文字が書いてあるが。車掌は眉をひそめる。


「読めない」


「くっ……」


 ハジメは言い返せない。車掌の言葉どおりだ。ハジメだから読めるが、車掌からしたらわからない。本当にごちゃごちゃの設計図だ。


「将棋の絵に見えない。わけのわからない絡繰り箱にも見える」


「画力なんて捨ててきたわ」


 ずっと絵は苦手だ。鑑賞自体は嫌いではないのだが、描くとなるとこの世のものではない何かを紙の上に召喚することになる。ハジメは子どもたちが小さい頃に描いてとおねだりされても満足のいくものを描いてやれなかったのを思い出す。子どもたちから、何これ、と尋ねられてばかりだった。


「ハジメは将棋好きなの?」


「そうだな。最初は友達に誘われて始めたんだけど、結構面白くて」


「ふーん……。じゃあ、この秘密基地にはお友達呼ぶの?」


「呼べたらいいなーって。でっかい窓から差し込むお日様の光を浴びながら畳で将棋ってよくないか?」


「畳ね」


 一段上がって何やらこちらも長方形の何かが並んでいるのは畳かと車掌は納得する。


「ここで緑茶を飲むのもいいなあ。和菓子とかあっても最高。書いておこうっと」


 緑茶、和菓子、とハジメは将棋盤の隣に書き足す。


「縁側みたいになっているのもいいなあ」


「縁側……ウッドデッキみたいな場所か」


 車掌はテーブルの上に手を翳す。すると、テーブルが現れたときと同じように音もたてずに設計図のその部分を切り取ったような模型が現れる。ハジメの設計図よりも再現性のあるそれにハジメは目を輝かせる。思い描いた空間が小さく圧縮されて目の前にある。


「そう、それ! ついでに湯呑を出してくれ」


「湯呑も?」


 車掌はまたも首を傾げながら湯吞を出す。中々渋いデザインの湯呑が将棋盤の近くに現れる。


「いいね、いいね! なあ、これって俺が触っても大丈夫?」


「うん。好きな場所に移せるよ」


 ハジメはぱあっと表情を明るくすると、湯呑を二客、縁側に並べる。


「いい感じだな。それにしても、嬢ちゃん、詳しいな。上手に喋るし」


「知識としてあるだけ。言葉については、そう聞こえるだけであって、私が君の国の言葉を話しているわけではないよ。逆に、君の言葉は私が使っている言葉に変換されて聞こえているだけ。文字を読むのも同様」


 ハジメの国の言葉についての知識はある。が、実際に使うことは滅多にない。車掌側には車掌側が使う言葉があるのだ。


「そういうものなのか?」


「そういうものだよ」


「てっきり、達者なのかと思ったよ。ちなみに、この列車の名前のカハタレは彼は誰時のことか?」


 彼は誰時。朝を指す言葉としてハジメの国で用いられる。ちょうど夜明けを走るこの列車に相応しい名だ。


「そうだよ」


「ってことは、対の列車もあるのか?」


「黄昏列車ね。この列車の兄弟分だよ」


 黄昏列車。彼は誰時と対になる誰そ彼時の名を冠する列車。彼の列車は夕方を走る。


「兄弟ねえ。朝と夕方を走る列車ってわけか」


「そうそう」


 元々ひとつの列車だった。朝と夕方に走る列車であり、今のカハタレ列車と黄昏列車の特徴を持ち合わせる車体だった。それがいつしか、ふたつの列車の名前の由来である彼は誰時、誰そ彼時をそれぞれ夜明け前、日没後と区別するようになり、能力を分けられた。元の車体はカハタレ列車、黄昏列車の特徴を失ったものの、新しい役目を与えられて今も走り続けている。

 当時、車掌は別の職に就いていたため、その瞬間に立ち会っていない。話は耳にしていた程度のことで、まさかこの列車の車掌になる日が来るとは思わなかった。


「この縁側で見たい景色は白っぽくなる山の端が明るくなって紫の雲が細くたなびく曙? 月が出て、蛍が飛び交う夜? 烏や雁が空を飛び、風や虫の音の聞こえる夕暮? 雪が降って真っ白になった朝一番?」


「……嬢ちゃんはこれまた有名な文章をご存知で」


 ハジメは全てを諳んじることはできない。だが、車掌が言うその景色は、よく知られる文学作品の冒頭だ。ずっと昔の一人の女性による美意識だ。


「そうだなあ、俺は春の景色がいいな。春は何かとはじめの季節だから」


 春を象徴する桜。それがハジメの脳裏にすぐ浮かぶ。子どもが小さかった頃、家の近くの桜並木を一緒に散歩したものだ。花びらを拾って家に持ち帰り、子どもと一緒に桜を居間にばらまいて妻に叱られたこともあった。

 桜はいつしか、子どもたちの門出の象徴ともなった。桜並木の下を歩く我が子の背中が年々逞しくなっていくのを見ると、また成長したとしみじみとと思った。彼らのはじめの一歩を家の近くの桜並木が見守ってくれていた。


「時間帯は昼がいい。日が高く昇ってポカポカとした陽気の中、外の景色を見ながらうたた寝をしたい」


「寝てしまったら、景色が見えないじゃないか」


「それがいいんだよ、春は」


 ハジメはまったりと言葉を紡ぐ。

 ハジメの言の葉が小さな秘密基地の一角に変化をもたらす。一本の木がニョキニョキと生え、淡い色の花を咲かせる。

 桜の花だ。


「え……。嬢ちゃん、何したの?」


「これに関しては、私は何もしていないよ」


 車掌は足を崩す。


「ここから先は君が考えてこの模型を作るんだ」


 車掌がハジメの話を聞いて再現するよりも、ハジメ本人が考えて再現した方が質がいいに決まっている。今までは車掌が見せた見本。車掌が生み出したものをハジメがあれこれ言うぐらいなら、本人に任せるべきだ。そもそも、ハジメが生み出すべきことなのだ。そうして生み出されたものがハジメの夢の形だ。


「でも、どうやって、物を出すんだ?」


「思い浮かべるだけでいいよ。ここにこんなものを置こうとかって考えるだけでいい。とりあえず、設計図どおりのものを想像してやってごらんよ」


 ハジメは瞳を閉じる。暗闇に浮かぶ一筋の光。そこに半球体の自分の夢が詰まった理想を組み立てる。テーブルの上からカチャカチャと組み立てられていく音がする。意識を集中させて、どんどん詰め込んでいく。

 カチッとピースがはまったような音がする。その音に目を開けると、そこには小人が住んでいそうな小さな生活空間ができている。


「想像どおりだけど、物が多すぎじゃない?」


 車掌は秘密基地が組み立てられる様をずっと見ていた。次か次へとポコポコと物が現れて並べられていく。その結果、秘密基地の床が見えないほどの物で埋め尽くされている。設計図のとおりと言えば、そのとおりなのかもしれない。


「おお、すげー!」


 眼鏡の奥の瞳が新しい玩具を与えられた子どものように輝く。


「どこからこんなにたくさん出てきたんだ? 筍みたいにポコポコ生えてきたもんだな」


「筍って君……」


「あ、竹林があってもいいな」


 ハジメがそう言うや否や、縁側の前に竹林が広がる。青々とした若竹だ。


「こんなに多いんじゃ、全部を聴いている時間がないよ」


 残る乗客は三人。ハジメの夢の秘密基地のことを全て聴いている時間などない。車掌自ら言ったものだが、これは話を聴く中で次から次へとアイデアが溢れて止まらないだろう。


「全てを聴きたいところではあるけど、業務に支障が出る。だから、話を戻そう」


 車掌は床の上に転がる青の鶴を拾い上げ、小さな秘密基地の傍に置く。


「この秘密基地は君のどんな夢の表象だろう?」


「どんな夢の表象、か……」


 物で溢れ返った夢だ。こうして俯瞰してみると取っ散らかっている。


「嬢ちゃんにはどんな夢に見える?」


「ごちゃごちゃしてわかりにくい夢。優柔不断なのか、欲深いのか」


「なるほどね」


 言われてみればそうだ。あれもこれもと手に取ってしまっている印象だ。収納スペースに入りきらないほどのあれやこれやが無造作に転がっているとも言える。まだ自分自身でも整理整頓できていないためか、余計にそう見える。


「うーん……。困ったな」


「困っちゃうか。あのね、ハジメは色々落ち着いてから何か新しいことをしようとしたって言ったよね。私はこの模型と似たような状況だったのかなって思うんだ」


「と、言うと?」


 車掌は目を細める。淡い空の色の瞳は小さな秘密基地を見つめる。


「あれにもこれにも挑戦って一度に手を出し過ぎてしまったのかなって思うんだ。ハジメの叔父さんが多趣味な人だから、よくも悪くもそれが影響しちゃったと思う。欲張り過ぎてしまって、結果としてどれも中途半端になっちゃった」


 車掌の指摘にハジメは思い当たる節がある。

 新しい挑戦をしようと考えたとき、いくつか候補が浮かんだ。その内のいくつかを同時にやってみようと考えてしまっていた。そして、車掌の言うとおり、一度にいくつも挑戦することは性格の問題なのか、身体の問題なのか、どれも合わないと思って続かなかった。どれかひとつに集中して長めにできればよかったのかもしれない。


「で、この秘密基地もそう。あれもこれもって次々とアイデアが出てくることはいいことだ思うけど、そのアイデア同士の組み合わせはどうだろう? 例えば、この畳の部屋」


 車掌は手袋をした手で縁側を指す。二客の湯呑が並んでいる。そして、桜餅が置かれている。


「ここから見える景色、今のところは桜と竹、お花が並んでいるけど、うるさいよ」


 彩り豊かと言えばそうかもしれない。だが、車掌の目には鮮やかすぎるのだ。ハジメの花の知識の問題もあるのかもしれない。季節感が統一されていないからかもしれない。色々と要因はあるだろうが、とにかく、この庭は美しいとは言えない。とにかく庭に花を植えてみようとした結果、色が喧嘩してしまい、場所によっては目が痛い。


「対して、部屋の方。畳の上に将棋と収納があるぐらい。とってもシンプルで落ち着いているのに、庭がひどすぎる。絵の具でもぶちまけたのかってぐらい色が混ざりあっている」


 上からの視点だからはっきりとわかる違い。全体で見ればまた変わってくるだろう。


「君の好みがこれなら庭についてのコメントを取り消すけど、どう?」


「……そうだなあ、ひどいな」


 すうっと花が減る。すると、落ち着いた雰囲気になる。その光景はどことなく懐かしく感じる昔の風景に見える。田舎にありそうな風景を想像する。


「これ、いいんじゃない? ノスタルジックな感じ?」


「空気が澄んでいそうだ」


 すっきりとした。これなら、桜の淡い色も負けないだろう。車掌は目を細める。


「ね。足し算ばかりじゃ結局いいところを消してしまう。時には引き算も必要さ。その引いた分を別のどこかに移すとか、形を変えて加えるのも悪くないと思う」


 今回で言えば花。この和室の一角には相応しくなくとも、例えば、玄関先なら邪魔をしないだろう。部屋のあちこちに飾って分散しても悪くないかもしれない。


「まあ、私は最終形態も知りたいけど、本当に知りたいのはどうしてこんなにも詰め込んだのか、だね。このままではただの欲張りだよ、ハジメ」


 小さな秘密基地に詰め込んだ多くの物。それらはハジメのどんな夢を表象しているのか。車掌が知りたいのはそれだ。車掌自身、おおよその予測はできている。あとはハジメの言葉で聴きたい。


「……」


 青の鶴が列車の振動で揺れる。

 ハジメは物を捨てられない人間だ。まだ使えると思ってなかなか捨てられない。包み紙ももしかしたら、と思って綺麗な物はポケットにしまってしまう。それが子どもの頃からの癖なのかもしれない。

 貧しい暮らしでは上手にやり繰りして生きていくしかなかったから。働いて、初めて給料をもらった日。奮発して新しい服や靴でも買おうと思ったが、できなかった。

 まだ使える。捨てられない。

 ズボンの裾はほつれ、靴も少しきつい。が、もう少し使えるはず。まだ使えるはずと思って新しいものを買うことができなかった。

 よく言えば物を大切する、悪く言えばケチ。妻にそう言われたことがある。必要な物はもちろん買った。子どもたちの服や勉強に必要な物、習い事など、子どもや家族のためになるものに対してはあまり抵抗はなかったが、自分の物となるとどうしても考え込んでしまう。


「……俺、さ。新しい物が欲しいってなると人よりも考えちゃうタイプで、それこそさっきも言われたけど、優柔不断なところがあると思う。まだ使えるから今回は見送ろうって。とくに小さい頃はあれが欲しいなんて言えなかったから」


 母と二人のギリギリの生活。あれが食べたい、それが欲しい、遊びに行きたい。何かをしたいという思いにずっと蓋をして生きてきた。叔父に引き取られてからも後ろめたくて言えなかった。叔父はそんなハジメを気遣ってくれたが、それでも自分から言い出すのは気が引けてしまうことの方が多かった。

 人のお金だから。自分の我が儘のためのお金じゃない。

 そんな思いを抱え、いざ、自分のお金が入ったときも結局できなかった。まだ使える、また今度、と先送りにしてしまう。

 車掌はハジメの言葉に静かに耳を傾けている。彼の生い立ちを知っている。どんな人生を歩んできたのかを知っている。それはハジメよりも詳しい。ハジメが忘れてしまったことも車掌は知っているから。

 明るく見えて、心の内側にある闇を車掌は知っている。その闇をハジメは今も抱えている。


「ずっと、引きずってしまっていたんだ」


 ハジメは小さく息をつく。


「……」


「きっと、この秘密基地はこうしたい、あれが欲しいを言えなかった俺がずっと抑え込んでいた物や気持ちが溢れてしまったことの比喩」


「……そう」


 車掌はぽつりと呟く。初めてハジメを見たとき、彼は興奮した様子で列車を観察していた。車輪はどう動いているのか、どんな仕組みでこの巨体を動かしているのか。興味津々な様子だった。

 抑え込んでいたものが溢れてしまった反動。それが、あれもこれも気になってしまうということなのか。


「だから、嬢ちゃんが言った欲張りも間違っていない」


 大量の欲を一度に出した結果がこの中途半端な秘密基地だ。


「全てを昇華することもできない、不安定な夢だ」


「……できることなら、ハジメの口から私の言葉の引用を聴きたくなかった」


 さっき言われた優柔不断。嬢ちゃんが言った欲張り。どちらも車掌の言葉の引用を示している。

 ハジメの言っていることは確かに答えだろう。だが、車掌の欲しい答えはそれでは不十分だ。

 彼の名前に相応しくない答えなのだ。

 車掌の瞳がキラリと輝く。深い紺の瞳に一筋、金色が混ざる。夜空に太陽が輝くようなその瞳に、ハジメは息を呑む。


「この秘密基地はハジメが今まで我慢していたことを表すものなの?」


 悲しそうに下がる金の眉。深い色の瞳は底の見えない湖のようだ。小さな波紋を広げるその瞳は真っ直ぐハジメを見つめる。


「友達を呼んで将棋をしたいと言っていたことも我慢の表れ?」


「……」


 確かに、目の前の少女に友人と将棋をしたいと言った。それは我慢ではない。実際に互いに暇だったら何度も勝負をして一緒に食事をした。

 将棋の話をしたときのハジメはどうであったか。そこから派生して、縁側がどうの、湯呑がどうのとまた話をした。その時のハジメはもっと楽しそうに話していた。決して、こんなに辛気臭い顔をして話をしていない


「そもそも、この秘密基地の設計図を描いたのはなぜ?」


「それは、俺の願望で……」


「そうでしょ? じゃあ、その願望はいつからあったの? どうして、秘密基地である必要があるの? 別に自宅でもいいはずなのに、秘密基地にこだわるのはどうして?」


 ハジメは目を見開く。そうだ。ただ将棋をするぐらいなら自宅でも、友人宅でも、家の近くの将棋仲間の集まりでもいいはずだ。

 秘密基地へのこだわり。それもはっきりと覚えている。


「……子どもの頃の憧れ」


「ね。大人の秘密基地もいいって言ってたでしょ?」


 車掌はふわりと笑う。春のうららかな日差しを思わせるその笑顔にハジメもつられて笑う。


「……思い出したよ、嬢ちゃん」


 なぜ、叔父の手を神の手だと思ったのか。


「あの人の手は、場所を、繋がりを創る手だ」


 家という場所を造り、そこに生まれる関係を繋ぐ。

 創り出す手。だから、神の手だと。

 そして、この秘密基地の設計図を描くときに思い浮かべていたことの中に、幼い頃の記憶が混ざる。とある老夫婦の家のリフォームの現場を見たハジメの記憶。

 桜の咲き誇る庭の見える縁側。そこで楽しそうに家のことを語る夫婦の姿。

 自分もいつか、大切な人と一緒に仲良く過ごしたい。秘密基地のような場所で家族と過ごしたり、友達と遊びたい。

 そんな願いを叔父に隠れて、いらなくなった紙の裏に拙く描いた設計図。大人になったらきっと、と小さな胸に決めたのだ。


「この秘密基地は俺の……小さい頃の俺の夢と今までを生きた俺の夢の詰め合わせ。それこそ、ひとつひとつは小さくて、下らないとか言われるかもしれないけど」


「下らなくないよ」


 車掌の言葉にハジメは弱々しく笑う。


「一人じゃなくて、誰かと一緒に過ごしたい場所。そこで、何を一緒にしたいかを詰め込んだ場所だ。孤独だった幼少期に誰かと何かをすることにひどく憧れたものだ」


 それこそ、叔父と一緒に何かをする。食事を一人でするよりも、叔父がいるだけでどれほど救われたことか。


「うん。じゃあ、改めて問おう。あなたは誰ですか? その小さな秘密基地はあなたのどんな夢の表象ですか?」


 ハジメは胡坐をやめ、正座する。ハジメを真っ直ぐ見据える車掌に失礼のないよう、ハジメも真っ直ぐ見据える。


「私はハジメという者です。この秘密基地は私の我慢を詰め込んだとも言えますし、誰かと一緒に何かをするための場所とも言えます。……孤独であった幼い私が憧れた物と大人になってから知った楽しみを詰め合わせた夢だと思います」


「わかった。ハジメはそういう人だったね」


 車掌は満足気に頷く。小さな秘密基地はハジメが今まで我慢してきたものの象徴でもあり、幼い頃からの憧れの象徴、そして、大切な人との繋がりを深める場所。この両者を含む答えを車掌は欲しかった。


「この秘密基地のコンセプトを一言で表すなら、何だろう?」


「一言か……」


 ハジメは引き締めていた表情を和らげる。昔を懐かしむようなその笑顔に車掌の瞳が菫色に染まる。


「童心に帰る、かな」


「そうか。じゃあ、この列車が終点に着くまで、その模型をある程度完成させることだね」


 車掌はゆっくりと立ち上がる。ここまできたのだ、いっそのこと完成形を見たいではないか。


「本気で言っているのか、嬢ちゃん」


 ハジメは足を崩す。


「それっぽちの夢なら壊してあげるけど」


「そんな可愛い顔で怖いこと言わないでくれよ」


 ハジメは頭を掻く。金色の髪が灯を弾いてキラキラと輝き、菫色の瞳がにんまりと細められる。


「ああ、わかったさ。ありがとう、嬢ちゃん」


「どういたしまして、ハジメ。じゃあ、私は次の車両に行くよ」


「そうかい。じゃあ、俺は好き勝手やってるよ」


 ハジメは照れ臭そうに笑う。


「新たなはじまりへの一歩を、どうぞ、お楽しみください」


 深々と一礼した車掌が四号車を後にする。

 ハジメは未完成な夢を見つめる。さて、と腕まくりをしたハジメは瞳を輝かせながら夢を掴むように手を伸ばす。

 黎明の空はどこまでも晴れ、澄み渡っていた。

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