第5号車 白白明けの思い出

 ぼんやりと白くなり始めた空。ずっと遠くまで空に白い雲が流れていく。自分の頭の中もぼんやりとしていて、霧がかっているようだ。

 呆然としていると、ノックが響く。客室の主はその音のする方に視線をやるも、外の景色に視線を戻す。


「失礼します」


 車掌は応答を待たずに、扉を開けて帽子を脱いで一礼する。客室の主は車掌に興味がないのか、返事をしなければ、視線を向けることもない。

 車掌は扉を閉めて、乗客の向かい側の席に座る。客室の主は見向きもしない。


「おはようございます、お客様」


 客人は車掌を一瞥する。血の気のない唇は横に引き結ばれたまま何も言わない。

 乗客を一言で言えば色素の薄い女性。金色の髪はプラチナを思わせる白に近い金色、淡い空の色を思わせる瞳も、透き通った白い肌も、身にまとう真っ白なワンピースも全てが薄い色合いだ。車掌の金色の髪が光沢を放つのに対して、女性のものはほのかに光るぐらいだ。

 五号車の乗客は特殊。乗客名簿の中で要対応人物として指定されている客人だ。


「お客さん、何か反応ぐらいしてくれない?」


 言葉のひとつなり、身振り手振りがないのではコミュニケーションがとれない。しかし、客人は反応を示さない。車掌は客の前で手を振るも、まるで見えていないかのようにずっと窓の外を見つめている。


「お話したくない気分?」


 名簿によれば意思疎通は取れるとのことだ。車掌自身、彼女の身元を洗い、経歴も見てきた。問題なく話すことができるはずなのだが。

 車掌が後回しにしようかと考え始めたそのとき、女性が車掌に視線を送る。虚ろなその瞳は車掌を見ているのか、もっと遠くを見ているのかよくわからない。


「……あなたは?」


「私はこのカハタレ列車の車掌」


「そう……」


 憂いを帯びた表情の女性は目を伏せる。今にも消えてしまいそうな声音だ。


「この列車はどこへ向かっているの?」


「我が主の元。そして、星になるんだよ」


「……」


 女性は窓の外に目を向ける。雪のように白い月が薄っすらと浮かんでいる。その月を覆い隠すように薄雲がかかっている。もう星の見えない朝の空には真っ白な月と雲が浮かぶのみだ。


「あなたもあの人たちと同じことを言うのね」


「あの人たち?」


「ええ。私をこちらまで連れてきた人」


 黒づくめの人だった。今までに何度か姿を見たことのある影のような存在はある日、自分を見つけて手を引いた。

 我が主の元へ。

 そう言いながら、影は自分を連れて行く。行先を尋ねても我が主の元としか答えない。その我が主という人の元へ行くまでにも様々な場所を巡らされた。そして、この列車に乗せられたのだ。


「あなたもあの人たちの仲間?」


「仲間……というより同じこちら側の存在。我が主に仕えているってところは同じかな」


「そう……」


 女性は小さく息をつく。キラキラと眩しいほど輝く金の髪、光の差し加減によって変わる青の瞳。自分と似たような色を持つが、窓に映る自分の色は何とも薄い。まるで、雪に紛れてしまいそうなほど、白に近くて薄い。


「あなたも私は死んだと言うの?」


「そうだよ」


 車掌ははっきりと答える。


「あなたはもう亡くなった。あなたが宿っていた肉体は器としての役割を果たしていない。いや、器すら、ずっと昔に失われている」


 黒づくめの彼らと同じことを言う。


『あなたはもう死んだ。いつまでもここにいたところで意味はない。ほら、もうこんなにも魂が弱っている。さあ、我が主の元へ』


 そう言って彼らは自分を連れて行った。そして、行く先々の人々もあなたは死んだのだと言う。


「本当に私は死んでしまったの?」


「うん。それも、亡くなって一二八年も経っている」


「そんなに経っているの?」


 女性は信じられないといった様子で顔を上げる。

 車掌はカハタレ列車の乗客名簿を思い出す。目の前の彼女についての記述に車掌は見慣れた文字を見た。

 

 記憶の欠落 程度:中。

 備考:意思疎通は可能。要対応。


 カハタレ列車は乗客にあなたは誰だと問う。乗客自身に己とは何かと問いかけ、己自身に向き合ってもらう。尋ねることで、考え、思い出し、答えてもらう。そうやって記憶の復活を図る。よって、記憶のない者が乗車することの多い車体だ。むしろ、程度の差はあれど、三回に一人はいることが普通なぐらいだ。

 慣れていると言えば慣れている。ただ、相手によって出方を変える必要がある。マニュアルどおりにはいかない。


「そう。約一三〇年もの間、あなたはずっと彼の土地に留まった。その結果、魂が消滅しかねない状態にまでなっていた」


 長い間身体から離れた魂は無防備だ。真っ白な魂は肉体によって守られているのだが身体を離れてしまうと徐々に腐敗が始まる。通常はきちんと手順を踏んで、車掌を含むこちら側の住人が彼らを導くため、腐敗することはない。ただ、彷徨ったり、彼女のようにひとつの場所に留まり続けたり、導きを拒んだりして現世に魂の状態で留まると腐敗が進む。個体差があるため、どれほどの間留まることができるのかは断言できないが、短い場合は五年経たずして魂は消滅してしまう。また、ずっと彷徨う魂は悪しき存在に狙われやすい。狩られてしまって消える魂も少なくない。そうなる前に派遣される者がいる。それが彼女の言う私を連れて行った人だ。


「よくもまあ、これだけの時間捕まらなかったね」


 約一三〇年という月日。車掌からすると大した時の流れではないのだが、人の時の流れで考えれば長い時だ。これほどの時間、ずっと捕まらない魂というのも珍しいし、何より、残っていることも稀だ。


「本当によく消えなかった」


 弱っている状態。それは車掌からしても一目瞭然。見るからに消えてしまいそうな容姿をしていて、生気をあまり感じられない。血の気がないのだ。

 何より、色素が薄い。雪景色に紛れてしまいそうなほど白い。その色素のなさは記憶の欠落の象徴でもある。記憶がない者ほど、色素が薄く、泡のように消えてしまいそうな儚さを持つ。


「魂は消えなかったけど、記憶は忘れてしまっていることが多いみたい」


 本人が覚えていなくとも、魂には刻まれている。車掌たち、こちら側の者が刺激すれば簡単に思い出すことができる。よって、記憶が消えるわけではないのだが、腐敗が進んでいくと思い出すことが難しくなる。長年、現世に留まるような魂でもずっと清浄なままであれば簡単に思い出せるのだが、今回の女性のように消滅が近いような魂は中々思い出すことができない。


「名前はわかる?」


「わからない。教えてもらったけれど、しっくりこないというか、どうも他人事のようで……」


 見ず知らずの誰かのことを聞くような感覚だった。他にも生年月日や出生地、家族のことなど身の回りの簡単な関係者や物事を教わったのだが、どれもこれも自分の話ではないように思えた。


「色々と話を聞いたと思うけど、覚えている、または、思い出したこと、これは何となくわかるっていうことはある?」


「……」


 女性は俯く。何もかもわからない。思い出そうにも、霧に覆われて道筋すら見えないような状態だ。


「思い出さないといけないの?」


「できることならね。全てじゃなくていい。せめて、名前だけでも……自分が何者なのかということだけはわかってほしい」


 自分自身のことがわからないままでは、魂が崩壊してしまう恐れがある。今の彼女も崩壊の恐れがあるのだ。

 崩壊、つまり、消滅。それでは主の元へ送り届け、命の輪を巡ることができなくなってしまう。そうなってしまった場合、生と死の均衡が崩れてしまうため、新しく魂を生み出す必要があるのだが、それがまた面倒なのだ。何もない状態から何かを生み出すことは主であっても難しい。本来使うべきところに力を使えなくなってしまったら、それこそ世界のバランスが崩れてしまう。それだけは避けたいのだ。


「全部じゃなくていい。だから、気を楽にして。あなたの好きな食べ物や場所、人、言葉……。本当に些細なことでいい。ひとつでも構わない。少しだけ、あなた自身に向き合おう。私も一緒に考えるから」


 車掌は手を差し出す。汚れひとつない白の手袋は女性の肌よりも明るい。


「……」


「思い出すことが怖いなら、今から私と過ごす時間を記憶として持って行ってくれてもいい。短い時間だけど、何かひとつでも自分はこういう人間だと言えるようなことができるのであれば、幸いだ」


「……」


 女性は小さく息を吸う。車掌の言葉が身体中に行き渡る。

 今までに出会ったこちら側の存在の多くは機械的だった。冷たく、素っ気ない。わけもわからない自分を置いてきぼりにして先へ進んでしまう。待ってと言っても待ってくれない。わけのわからない場所で一人になるよりも、何を考えているのかわからない彼らについて行く方がまだいいと思いながら、重い足を引きずるようにして歩いた。

 だが、この車掌は違う。焦らなくていい、とその声音が寄り添う。色が変わって見えるその瞳は自分のことをじっと見つめている。

 夜明けを思わせるその瞳、太陽のように輝く金の髪。どこか懐かしく、眩しい。

 彼女なら、自分のことをどうにかしてくれるのではないか。そう思っていると、自然とその手に自分の手を重ねる。思っていたよりも大きな手が優しく握る。


「ありがとう、手を取ってくれて」


 車掌は笑う。女性の手は手袋越しでもわかるぐらい冷たく、震えている。一体、どんな対応を受けたのかわからないが、彼女は記憶がない中不安でいっぱいだったのだろう。

 白に近い空色の瞳から一筋涙がこぼれ落ちる。その涙を女性は拭う。胸の奥にわだかまる黒い何かが少しだけ晴れたような気がする。


「さて、さっそく何をしようか」


 車掌はうーん、と宙を見上げる。


「何か食べる? 食事は大事って言う人もいるし、入口としては悪くないと思うんだ」


 先ほどのハジメの顔がよぎる。食事は原動力だと言っていた。人に限らず、生き物は食事を摂らないと活動ができなくなってしまう。

 肉体を失ってからは食事を摂っていないであろう彼女。食事という行為は日常を思い起こさせるいいきっかけになるのではないだろうか。


「……ねえ、あなたは私のことを知っているの?」


「知ってるよ」


「私の好きな物も?」


「うん、知ってる」


「食べ物も?」


「うん」


「……」


 自分よりも彼女の方が詳しい。それが何だか情けない。

 自分のことなのに、他人の方が詳しいなんて。

 女性はまた泣きそうになるも、ぐっとこらえる。


「肩に力入ってる」


 車掌は握ったままの手を両手で包み込む。


「自分を責めない。いい?」


「……」


「美味しいものでも食べてリラックスしよう」


 そう言って車掌は手を離すと口笛を吹く。すると、テーブルの上に本が一冊現れる。


「え……。どこから出てきたの?」


「気にしない、気にしない。ほら、気になるお菓子や食べ物はある?」


 そう言って車掌は本を開く。そこには色とりどりの菓子や料理の写真が並んでいる。


「たくさんある……」


 どれもこれも目移りしてしまう。これは迷う。


「あの、こんなにあると困っちゃう……」


「それもそうか。じゃあ、こうしよう」


 車掌は本を手に取るとページをパラパラとめくりだす。


「あなたがストップと言ったところのものを食べよう。ちょっと違うと思ったらやり直しで」


「そんな決め方でもいいのかしら」


 困ると言ったのは確かに自分だ。だが、その決め方は少々乱暴ではないだろうか。そもそも、車掌は自分の好みを知っているのなら、それを出してくれればいいのに、と思う。


「いいよ。最初ぐらい。ちょっとした運試しみたいなものだと思ってさ。変更だって受けつける」


 ほら、と車掌はページをパラパラとめくっている。

 これは運だ。それに託してみてもいいと車掌が言うのなら。嫌なら嫌でまた決め直せばいいのだ。

 白いページが次から次へと移動していく。パラパラというその音が心地いい。


「……」


 何となく。ふわっとした直感だ。


「ストップ」


 女性の言葉と同時に、ページが止まる。


「お、シュークリームだね」


 車掌は写真を見せる。どことなく車掌の頭を思わせるような丸みを帯びたスイーツだ。


「ちなみに、見覚えとかってある?」


「わからない。キャベツに似てる気がする」


「そりゃあ、キャベツに見立てられているからねえ。で、食べてみる?」


「ええ」


「わかった。ちなみに、飲み物はどうしようか?」


 車掌はパラパラとまたメージをめくる。本の後ろの方に飲み物の写真が並ぶ。


「どれが気になる?」


 車掌は本を差し出す。飲み物と言っても、こちらも種類が豊富だ。


「えっと……。あ」


 女性はとあるページで手を止める。コーヒーのページだ。


「私、コーヒーが好きだった気がする」


 あのほろ苦い味と香。実際にそこにあるわけではないのに、コーヒーの香がした気がする。


「じゃあ、コーヒーにしようか。温かいのと冷たいの、どっちがいい?」


「温かい方を」


「はーい」


 車掌は女性の手から本を受け取り、閉じる。パタン、と本を閉じるとまた何もないところからシュークリームとコーヒーが現れる。本から飛び出してきたかのように、そのままテーブルの上に並んでいる。


「砂糖とミルクはいる?」


「どうだったかしら……」


 そこまではわからない。


「必要だったらいれてみるのもいいかもね」


「ええ」


 いただきます、と女性はカップを手に取る。黒い水面に白い自分の顔が映る。疲れた表情だ。

 女性は何もいれずに一口飲む。


「あつっ」


「そりゃあ、そうだよ。熱いに決まってるよ」


 大丈夫?、と車掌は首を傾げる。一三〇年もの間、飲まず食わずで感覚を忘れてしまったか。それも無理のない話だ。車掌は手を鳴らし、水を出す。


「ありがとう」


 女性は水を受け取り、そのまま飲みこむ。ちょうどいい冷たさだ。


「ふーふーして飲んでね」


「そうね」


 女性はコーヒーにゆっくりと息を吹きかける。黒い水面が細かく揺れる。真っ白なカップ越しの温度を指先に感じながら、女性は車掌の方をチラリと見る。じっとこちらを菫色の目が見つめている。


「あなたの目、色が変わるのね」


「自分じゃあんまり見えないんだけどね」


 どう?、と言って車掌は首を傾げる。光の差し加減のせいか、青にも紫にも変わる。時々、髪の色も混ざってか、金色が一瞬だけ浮かぶ。


「光の加減なのかしら?」


「そうだと思う」


 車掌は動きを止める。くすんだ青の目が細められる。


「不思議な目なのね」


 コロコロと色が変わる不思議な瞳。宝石を埋め込んだような目だ。


「そう言えば、あなたの分の飲み物やお菓子は?」


「一応、仕事中なので」


 すでにケイトのところでミルクを飲んでいるが。規則上、業務に支障がない程度なら禁止はされていない。怪しむ乗客や混乱してしまっている乗客を安心させるために飲食を共にすることはあるのだが、基本的に車掌が業務中に自分のために食事を摂ることは滅多にない。


「そう……。飲み物ぐらいはいいんじゃないの?」


「あなたがそう言うなら、コーヒーをいただこうかな」


 そう言うと、車掌の前にコーヒーの入ったカップが現れる。湯気が立ち昇るカップを手にした車掌は女性と同じように息を吹きかける。


「コーヒー好きなの?」


「ん? 私? 好きだよ。今日は何となく甘いコーヒーの気分だなあ」


 砂糖とミルク、と車掌が言うとテーブルの上に現れる。車掌は角砂糖をふたつとミルクを注ぎ、かき混ぜる。キャラメル色になったそれを車掌は一口飲む。


「もう少しいれようかな」


「多くない?」


 車掌は女性の言葉に耳を傾けず、車掌は砂糖をひとつとミルクを追加する。


「うん、これぐらいの気分」


 車掌は満足気に笑う。本人がいいと言うならいいのかと思いながら、女性も一口飲む。少し苦いと思うが、この苦味がコーヒーならではだと思う。何だか懐かしい。


「砂糖をひとつ、頂いても?」


「どうぞ」


 女性は角砂糖を一ついれてかき混ぜる。芳しい香が鼻腔をくすぐる。

 差し込む日差しがよぎる。一瞬、目の前でチカッと光ったような気がする。車掌の髪のような金色の光だ。


「……」


 記憶なのだろうか。生前、コーヒーを飲んでいたときの光景なのだろうか。

 女性はまた一口飲む。ちょうどいい味になった気がする。すっと胸の内のおもりが軽くなった気がする。


「やっと笑った」


 車掌の言葉に女性は顔を上げる。


「美味しい?」


「……美味しい。あと、胸の辺りがちょっと温かくなった」


「それはよかった。ほら、シュークリームも召し上がれ」


 車掌はカップを手に取る。

 乗客の緊張をほぐす。それが客との円滑なコミュニケーションをとるための第一歩だ。とくに、女性のように記憶の欠落がある魂に対しては慎重に接する。本人を不安にさせないように時間をかけながらでも、緊張を解きほぐす必要がある。


「中身はね、生クリームとカスタードの二種類。どっちがどっちって知りたい?」


 皿の上にはふたつ。女性の掌よりも大きなものだ。


「教えてくれるの?」


「あなたが望むなら。でも、私のオススメは知らないまま食べてほしいかな。先入観なしの方が楽しいと思う」


「あなたがそう言うなら……。まずはこっち」


 女性は右のシュークリームを手に取る。中はとくに見えない。女性はシュークリームを口にする。サクサクの生地の中、ほのかに甘いクリームの味がする。


「……」


「どっちかわかる?」


「どうだろう……」


 中には白のクリーム。この味の覚えがあるかと訊かれるとよくわからない。


「でも、懐かしい味のような気がする。知っているような……」


「そっか。じゃあ、もう一個食べてみない?」


 女性は車掌の言葉のとおり、もうひとつを手に取る。ふたつとも見た目では判断がつかない。食べてみないとわからない。

 女性はもうひとつを口に含む。こちらも甘い味がするが、先ほどのものとは違う甘味だ。中から黄色のクリームが覗いている。


「どう?」


「どっちがどっちかはわからないけど……。でも、両方とも好きな味」


 女性はふわりと笑う。先ほどよりも穏やかな笑顔に車掌も笑う。


「それはよかった」


「ちなみに、どっちがどっち?」


「最初に食べた方、白いクリームの方が生クリームだよ」


「そうなんだ」


 女性はそのままカスタードクリームのシュークリームを食べる。


「ねえ、訊いてもいい?」


「何?」


 車掌はゆっくりとカップを傾ける。女性の声が少し明るくなった気がする。


「私って甘いものが好きだったのかしら?」


「どうしてそう思うの?」


 車掌は素直に教えない。彼女の言葉を聞いてから、どうだったかは答えるつもりだ。


「何となく。コーヒーの苦味も好きだけど、シュークリームの甘い味も好き。ほっとするの」


「そっか。もしかしたら、コーヒーとシュークリームの組み合わせがいいのかもしれないね」


「なるほど。それもあるかもしれないけど……。でも、私、甘いものが好きだった気がする」


「うん。そうだね。あなたは甘いものが好きだったよ」


 そして、甘いもののお供に選ぶのはコーヒーだった。彼女の内の無意識なのかもしれない。ただの偶然かもしれない。それは車掌にはわからない。


「そうなのね。その中でもとくに好きなものがあったのでしょうね」


「そうだね」


 それが何か、女性にはわからない。だが、朧げな記憶の中、甘いものが好きだったかもしれないという自分のことを知ることができてよかったと安心する。

 カスタードクリームのシュークリームを平らげ、生クリームの方を手に取る。


「あのね、私のこと、訊いてもいい?」


「どんなこと? 全ては答えられないけど」


「その……私がずっと留まっていた場所のことなんだけど、教えてくれる?」


「いいよ。まあ、まずは、シュークリームを食べなよ」


 ね、と車掌はのんびりと促す。

 何てゆっくりとした時間なのだろう。女性は先ほどまでの暗い気持ちが少しずつ明るくなっていく感覚に安堵する。実際の時間にしたら、大した時間ではないのかもしれない。だが、このゆったりとした時間がひどく落ち着く。次から次へと混乱する頭にあれやこれやと言われたときに比べればちょうどいい。

 女性はシュークリームを食べ終える。空になった真っ白な皿が眩しい。


「美味しかった」


「よかった。手、拭きなよ」


 いつの間にか、皿があった場所にお手拭きが置かれている。それで女性が手を拭くと、車掌は、さて、と姿勢を正す。


「じゃあ、さっきの質問のこと、詳しく教えてくれる?」


 女性は小さく頷く。


「色々な人に訊かれたの。どうして、あそこにずっといたのかって」


 女性がずっと留まっていた場所。女性は目を閉じると、つい先ほどのことのように思い出せる。

 広々とした湖、周りは木々に覆われ、動物たちが思い思いに過ごしていた。森の中でずっと過ごしていた。赤い花が咲き乱れ、青々とした木々が影を作り、黄色に色づいた道を歩き、しんしんと白が降る静かな空間。そこでずっと生きていると思っていた。周りの生き物たちも見えていたのかどうかはわからないが、少なくとも敵意を向けられたことはなかった。

 あの場所は一体どこなのか。自分でもよくわからないのだ。自分がわかっていないのに、なぜあそこにずっといたと問われてもわからないに決まっている。


「あそこは私にとって大切な場所なのかな、とか思ったの。嫌な場所にずっといるわけないと思うの」


「……」


 車掌はただじっと耳を傾ける。


「あそこは一体どこで、私にとってどんな場所なの?」


「……わかった。教えよう」


 車掌はバッグから鏡を取り出す。湖の底の深い青から雪のような白へとグラデーションする鏡。それを女性の前に置く。


「これは?」


「鏡だよ。今からそこに映る光景は君が生きていた当時のその場所の光景。さあ、鏡をじっと見つめて」


 女性は言われるがままに鏡を見つめる。プラチナブロンドの髪、透き通った空色の瞳、真っ白な顔の自分が映っている。女性が瞬きをした刹那、ぐにゃりと鏡面が歪む。


「え……」


「大丈夫。そういう仕様の鏡。あなたの生前の様子を映すだけだから」


 車掌がそう言うと鏡の中の景色が変わる。一面、灰色の空に黒い煙が広がっている。重い煙が今にも地上に降りてきそうだ。


『■■■■。どうしたの?』


 視線が動き、少女を見下ろす。車掌のように明るい金色の髪に晴れ渡る大空の瞳を持つ少女だ。バスケットを持った少女は不思議そうに見上げている。


『雨が降りそうね。早く家に戻りましょう、■■■』


 一部、音声が不明瞭だ。聞こえてはいるのだが、何を言っているのか聞き取れない。知っている響きなのだが、わからない。口の動きを見てもわからない。

 少女に手が差し伸べられて一緒に歩き出す。人々がせわしなく行きかう道。商人の男、子どもの手を引く母親、夕飯の話をする恋人などなど、それぞれが歩いている。

 少女と視点の主、声からしておそらく自分は他愛ない話をしながら歩いている。その会話の中でも、やはり聞き取れない言葉が多くある。そのどれもは知っている響きなのに、なぜだかわからない。音がそよ風に攫われてどこかへ飛ばされてしまっているようだ。


『ママだ!』


 少女が手を振る。すると、向こうの方で女性が応じるように手を振る。

 二人は女性の元へ行く。


『ママ、ただいま!』


『おかえり、■■■。■■■■とお買い物できたかしら?』


『うん! ほら』


 少女はバスケットの中身を見せる。野菜や果物が入ったそれを見た母親は小さく頷く。


『よくできました。■■■■もありがとうね。つき合ってもらって』


『いいえ、たまたま私もそちらに用があったし、せっかくなら一緒にって声をかけたのは私だから』


『そうそう、ついさっき、クッキーが焼きあがったの。よかったら持っていって』


 そう言って、女性は包みを差し出す。


『そんな、いいのに……』


『たくさんつくったの。■■■ともたべて』


 ね、と少女が手を引く。


『ありがとう。いただきます』


 包みを受け取り、親子に別れを告げる。すると、目の前を白銀がよぎる。


『雨だ』


 近くでそう言う声が聞こえた。ポツリ、ポツリと降り出した雨に周りもいそいそと歩みを早める。女性自身も急ぎ足で帰路につく。

 そこで、鏡の映像が薄れていき、女性の顔が映る。


「どう? そこが、あなたが生きていたときの場所であり、あなたが留まっていた場所の過去の姿」


 正確に言えば、あの森の近くに彼女が生前過ごしていた場所があったのだ。

 車掌の問いかけに女性は俯く。


「全然違う。私がいたところに人はいなかった。たまに入ってきたけれど、その人たちもすぐにどこかへ行ってしまっていたし」


「じゃあ、すれ違う人や話をした人について何か思い出したことはある?」


「いいえ」


 一緒に手を繋いで歩いた少女も、少女の母親もわからない。道行く人もわからない。そして、不明瞭な音の正体も。


「そう」


「ねえ、本当にあの森は私が生きていたときの場所なの?」


「正確な座標ではないけど、あなたが留まっていた場所の近くの昔はあんな様子だった」


 鏡は嘘偽りなく映す。本人が知らない、覚えていない、嘘だと言っても鏡が映すことは真。

 どれだけ残酷で思い出したくもないことも。目を逸らしたくなるほど凄惨な記憶も。鏡は真実を映す。


「君が生きていた場所は、大きな争いに巻き込まれて廃れてしまった」


 全てが焼き尽くされた。そして、そこは年月をかけて緑溢れる地となった。

 残念ながら、そこに再び人が住むこともなく現在に至る。もう、彼の地のことを覚えている人はなく、知っている人も少ないだろう。


「そんな……」


 チカッと目の前を閃光が走る。鼻先を嫌な臭いが掠める。煙の嫌な臭いだ。

 だが、それも一瞬。女性は何もわからない。


「では、私は……なぜ、あそこにずっといたのでしょうか?」


 女性は視線を下げる。何をあの地にこだわっていたのか。ずっとあの場所にいることが当たり前だとばかり思っていたから、なぜあの地にいると頑なに心に決め、影たちから逃げていたのか。


「そこまでは私にもわからない」


 予測はできるのだ。車掌の経験上、彷徨ったり、一か所に留まる魂が中々こちら側に来ない理由を予測できる。それはある程度パターン化されているからだ。

 今回の女性の場合、死んだことすらわかっていなかった。その死は本人からすると突然訪れたことである。突然の死を受け入れられない者もいて、自覚がないままずっと彷徨ってしまうこともある。そして、そのような魂は自分が生まれ育った場所や、思い出深い場所、自分に縁のある場所に辿り着き、留まることが多い。無意識の内にそうしてしまうのだろう。恐らく、今回の女性のケースはこれだ。


「ひとつ言えることは、あの場所はあなたにとって大切な場所だったということ。それはわかる?」


 車掌は彼女の過去を知っている。彼女が過ごした彼の地は幸せで溢れていたのだ。人々が多く行きかう中に、彼女もいた。人々と交流し、笑う彼女がいたことを車掌は知っている。そして、過去の留まり続ける魂の例を参照すると、彼女の魂の奥底にあの地は落ち着く場所だと刻まれていたのだろう。

 車掌は個人的に一二八年前の彼の地の記録を調べた。彼女と同じく、あの場所に留まった魂は多くあった。そして、その魂の全てはすでに主の元へ送られた。残された魂は彼女のものだけだった。


「……そうだったと思う」


 嫌だと思うのなら、ずっといないはずだ。死後、影から隠れながら過ごした緑が広がる地。心のどこかで離れたくないと思っていた。この美しい場所にいたい。そう思っていたからだ。

 争いの直後の様子は覚えていない。覚えているのは青々とした森だ。その森の中に、瓦礫のような物も見られたが、それはきっと自分が生きていた場所のかすかな手がかりだ。木漏れ日の中を歩いたり、命が芽生える様を見守ったり、開けた場所の湖が空を映す様を見て、星が空を駆ける姿を見上げていた。そこはとても心地よかったのだ。


「昔はどうだったか思い出せない。でも、さっきの映像を見て思ったことは皆、生き生きとしていた」


 商人たちが物を売る声、すれ違う人々の会話、少女と母親のやり取り。どれもこれも、どことなく懐かしく思う。


「多くの物や人が失われたと思う。でも、あの豊かな自然が溢れるあの場所が好き」


 死後、なぜあそこに留まろうと思ったのか。荒れ果てた大切な場所に絶望してしまったのか。悲しかったのか。寂しかったのか。壊した相手を恨み、憎んだのか。考えると胸の奥が痛む。


「無意識の内なのかな……」


「そうだと思うよ」


 無意識。魂に刻まれた自分にとって安心できた場所。生まれてから育ってきた場所だから。大切な記憶が詰まっている場所だから。

 カハタレ列車に乗車した記憶を失った魂の例を見ても車掌はそのように思う。


「そう。そうなのね」


 女性は小さく笑う。寂しそうな笑顔に車掌は気まずそうにコーヒーを飲む。苦い味が口に広がる。

 どうやら、今回は思うように事が運ばない。中々思い出せるような状況にならない。全てを思い出さなくてもいいとは言ったものの、核心的なことが出てこないようだ。本当に、名前だけでもいいから彼女を彼女たらしめる何かを思い出してほしい。

 長期戦か、と思いながら、車掌は作戦を練り直す。一度、彼女を後回しにするべきか、もう少し粘るべきか。


「ねえ、また訊いてもいい?」


 車掌はコップを置く。少しだけ、感情が表に出てきた女性を見据える。


「何?」


「あのね、さっき見せてくれた映像の女の子の名前を教えてほしいの」


 車掌はじっと女性を見つめる。


「……あの子の名前は■■■だよ」


「■■■……」


 女性は二、三度少女の名前を繰り返す。


「どう?」


「わからない。あの子と私はどういう関係だったの?」


「うーん……。何て言えばいいのかな? そもそも、■■■の母親とあなたが友達。あと、■■■とあなたの息子と歳が近い」


「息子?」


 それも覚えていないのか、と車掌は目を伏せる。どうしたものか、と車掌は長期戦を覚悟する。


「そう。息子がいたんだよ」


「息子……。私、夢を見るの。男の子が出てくる夢をたまに」


 ちょうどあの少女と同じ歳ぐらいの子どもだ。顔は朧げでわからない。昔はもっとはっきりと顔が見えていたような気がするのだが。


「ほう?」


 車掌は興味深そうに女性を見つめる。

 魂になっても夢を見る。肉体がないのに夢を見るという話は車掌としても興味深い。魂に深く刻まれた記憶を夢と思っているのではないか。それを車掌側の方ではわかっているのだが、彼らはそれを夢と言う。何とも不思議なことだ。彼らが眠りについて見るものは本当に記憶なのか、それとも肉体を持っているときと同じように夢なのか。


「もしかしたら、その子が私の息子?」


「かもね」


「……息子の名前すら思い出せないなんて」


 母親失格だ、と女性は肩を落とす。森の中で何度も生命の誕生に立ち会ってきた。触れることができない自分は見ていることしかできなかったが、新しい命がこの世に生まれ出たときのあの感動は何度見ても尊いと思うのだ。


「恨まれてしまうわ」


「……」


 息子の魂は、もうすでに新たな道に進んでいる。彼と女性がこれから先、出会う確率はかなり低い。仮に出会えたとしても、親子として過ごした記憶は両者にないのだ。魂の奥深くに眠った記憶は簡単には起こせない。車掌にもできないことだ。


「どんな子だったのかしら。私と息子が一緒に過ごしていたときの映像を見せてもらうことってできる?」


「いいよ。じゃあ、鏡をじっと見て」


 女性は姿勢を正し、鏡に向き直る。すると、先ほどと同じように鏡の中が歪む。

 ちょうどいい光が射しこむ中、泣き声が響き渡る。


『ほーら、■■■。そんなに泣かないでおくれよ』


 慌てふためいた声に視界が動く。


『どうしたんだい、ママがいいのかい? パパの腕の中は嫌?』


 声の主の男は必至に腕の中の子どもをあやしている。垂れ気味の瞳をさらに垂れさせながら、男性は身体を揺らしている。


『どうしたの、■■■』


『ああ、■■■■。休み始めていたのにごめん。その、■■■が泣き出してしまって……。ちょうどうとうとし始めていたところだったんだけど……。』


 男性の腕の中で赤ん坊が大きな声をあげて泣いている。


『あらあら、寝るのが怖くなっちゃったのかしら』


 女性は男性から赤子を受け取る。全身で何かを訴えるように泣く小さな身体をあやすように女性も身体を揺らす。


『■■■、大丈夫よ』


『ほーら、ネコちゃんだぞ』


 ほらほら、と男性はネコのぬいぐるみであやす。二人がかりで子どもをあやすその姿に女性は目を細める。


「この男性は私の夫?」


「うん」


「そうよね。……そうね、この光景も夢で見ていた気がする」


 温かい気持ちになるのだ。ずっと見ていたいような夢なのだ。きっと幸せな頃の思い出なのだろう。

 それからしばらく家族のやり取りを見つめる。元気よく泣く息子、その息子をあやそうと必死になる夫、そして、視点の主である自分。懐かしいような、どこか寂しいような気がする。


「……でも、わからない」


 実際の自分の記憶なのかわからない。懐かしく思う気持ちはあるが、よその家庭の様子を覗いているようにも思う。


「わからないの」


 ぽつりと呟く。空気に溶け込むように女性の声が消える。


「………………そうか」


 車掌は吐息混じりに呟く。

 失敗。車掌の脳裏にその言葉が並ぶ。一筋縄でいかないことは目に見えていた。言葉よりも実際の映像の方が記憶を呼び起こせることが多いのだが、絶対ではない。完全ではなくともいいのだが、できることなら完全に思い出してもらえる方が都合がいい。が、無理強いをして魂が崩壊してしまうことを避けることを優先するのであれば、結果は失敗だ。

 あなたは誰ですか。この問いかけに答えられるほどのことを思い出させることはできなかった。

 車掌は鏡に手を伸ばす。泣き声が落ち着き、夫婦の声も静かになってきた。囁くような鏡の中の声を、穏やかなその時を止めるように、車掌は鏡の縁に触れる。プツリ、と音が途切れ、映像も消える。鏡に映る女性は不思議そうに車掌を見つめる。


「あの……」


「もう、いいよ。無理に思い出さなくても」


 正直、これ以上は時間の無駄。ならば、別の手立てに移った方がいい。


「でも、」


「いいんだ。言ったでしょ? これからを思い出にすればいいって」


「待って! もう少し、もう少しだけ見ていたいの」


 女性は鏡に触れる車掌の手を払い、鏡を手にする。澄んだ鏡面に一瞬、金色の糸が映る。


「この思い出を、記憶を、持って行ってはいけないの? だって、私のことを映すのなら、この映像は私の記憶」


 女性の耳に子どもの泣き声が微かに聞こえる。鏡の中で泣く子どもの泣き声の残響か。

 いいや。ママ、と泣く子どもの声。はっきりと、自分を呼ぶ泣き声だ。


「お願い! あと少し、少しだけでいいから、■■■と■■■と過ごした記憶を見せて」


 感情が溢れる。このままは嫌だと自分の奥に眠っていた強い感情が表に溢れ出る。

 刹那。一陣の風が女性を囲むように旋回する。女性のセミロングの髪を巻き上げ、太陽のような輝きを放つ。


「……っ!?」


「……」


 車掌は見定めるようにじっと見つめる。自分の金の髪も揺れる中、女性を見つめる。

 彼女の感情が一番表に出た瞬間は家族の名前を言ったとき。懇願するようにこちらを見つめた瞳は晴れ渡る大空の色。白み始めた朝の空ではなく、昼間の大空の色だ。そして、髪色もプラチナブロンドではなく、赤みを帯びた金色へと変わっていく。


「……っ」


 女性の周りの風が音もなく消える。自分の子どもを守るように抱きしめた鏡から声が漏れだす。


『……ママ、ママー』


 その声に女性は反射的に鏡を見る。ボロボロと涙を流しながら立ちすくむ少年に視点の主は駆け寄る。


『どうしたの、■■■』


 女性の手が少年の服の砂埃を払う。しゃくりあげながら少年は女性の腕の中に飛び込む。


『転んだの?』


 白い手が子どもの小さな背中を撫でる。


『おーい、■■■■。■■■の声が……って、どうしたんだ、■■■』


 男の声だ。気弱そうなその声は裏返って、こちらに駆けてくる足音がすると、女性の隣にしゃがんで子どもの顔を覗き込む。


『喧嘩か? 怪我か? それとも、えっと……』


 男性はおろおろとするばかりだ。


『とにかく、手当をしましょう。ね、■■■』


『そうだ、手当! 傷口の砂を洗い流さないと! ■■■■、僕は手当の用意をするから、■■ンを頼んでもいい?』


『ええ、お願い、デ■■』


 男性は慌てているのか、足をもつれさせながら走って行く。


『お家に戻りましょう、■■ン。落ち着いたら話して頂戴』


 女性は子どもを抱き上げ、家へと歩み始める。


『ママ……いたいよう……』


『大丈夫。痛いのはどこかへ飛んでいっちゃうように、パパが手当してくれるわ。手当が終わったらミルクでも飲もう』


 女性の手は絶えず子どもの背中を撫でている。


「……ジ■ン……デニ■……」


 鏡の中の景色が消える。そこに映るのは自分の顔だが、先ほどまでの姿と違う。清らかな空の色の瞳に、車掌と同じような太陽のようにキラキラと輝く金髪の女性が映っている。そして、雪のように白かった肌は少しだけ血色がよくなり、赤みを帯びている。


「私……」


「ちょっとは思い出せたみたいだね」


 車掌は身を乗り出し、女性の手から鏡をするりと取る。


「さあ、あなたの夫と息子の名前、言えるかな?」


「……デニス……夫の名前はデニス、息子の名前はジョン」


「じゃあ、あなたの名前は?」


「私の名前……」


 女性は目を伏せる。ぼんやりと霧がかったそこに自分の名前があるような気がするのだが。


「……■ナ■■」


 女性は自信なさげに答える。名前は教わったのだが、どうにも自分のものという実感がわかない響きだ。


「惜しいね」


 車掌は息をつく。

 まさか、彼女の記憶が多少は蘇り、夫と息子の名前を思い出すとは思わなかった。そこで、彼女自身のことを尋ねたが、彼女の方はまだといったところだった。


「でも、時間切れだ。一回ここで締めさせてもらう」


「そんな……」


「でも、よく思い出してくれたなって思うよ。色が戻ってきたのもその証拠」


 入室したときの彼女は本当に今にも消えてしまいそうなほど薄い色合いだった。淡く、儚く、雪となって空気に溶け込んでしまいそうなほどだったが、今の彼女は違う。まるで、夏の昼の空のように色濃くなった。


「ねえ、■ナ■■。答えられる範囲でいいから、私の質問に答えてくれる?」


「え、ええ……」


 女性は戸惑いながら応じる。


「あなたは誰ですか? ……生前、自分は幸せだったと言えますか?」


「私……私のことは、よくわからない」


 女性は小声で答える。家族の名前はわかったのだが、自分の名前どころか、何者と答えられるようなことは思い出せていない。

 だが。


「でも……うん、生きていたときは幸せだったと思う。思いやりのできる夫と可愛い息子と三人で過ごせたことは幸せだったと思う。実際はどうかはわからないけど、あの鏡に映る三人を見て、こう……何だろう、温かいというか、懐かしいというか、そんな気持ちになったと同時に寂しくも思った」


 女性は目を閉じる。怪我をした息子を家に連れ帰ってからの様子が瞼の裏に浮かぶ。夫が手当をして、自分は三人分のミルクを用意した。息子が怪我をしたのは、空を飛ぶ虫を捕まえて二人に見せようとして足もとの石に気がつかなくて転んだことが原因だと言うことも。


「そう思うってことは、少なくとも嫌なことだと思わないから」


「……そう。そうか」


 車掌はゆっくりと言葉を噛み締める。女性の晴れ晴れとした空色と視線がかち合うと笑みを浮かべる。


「■ナ■■はそういう人だったかもしれないね」


 車掌の日が昇ってきた空の色の瞳が細められる。


「■ナ■■。答えてくれてありがとう。さっきも言ったけど、ここで一区切りつけようか。また後で来ると思うから、そのときに話そう」


「え、行ってしまうの?」


「他にもお客さんがいるからねえ……。あ、そうだ切符見てないや。持ってる?」


 あくまで形式的なものである。乗客と話をするための道具にすぎない。必ず確認しなければならないという規則はないのだが、一応形だけでも切符の確認をするという業務を行っている。

 女性は慌てた様子で切符を取り出す。


「これのこと? 絶対に手放さないようにって言われたのだけど……」


 女性は夜明け前の空色の切符を差し出す。


「それそれ。ちょっと貸して」


 車掌は切符を受け取るとそれに穴を開ける。穴の開いた切符を返した車掌は一礼する。


「じゃあ、また後で……」


「ええ、ありがとう」


 女性は微笑む。踵を返した車掌の背中を見送る。が、車掌の足が止まる。


「……?」


 女性は小首を傾げると、車掌が気まずそうに振り向く。


「……ごめんね。実のところ、君が夫と息子のことを思い出してくれるとは思ってなくて諦めていたんだ」


 車掌は帽子を深く被る。本当に人間という生き物はよくわからない。不思議なところで馬鹿力を出してこちらを驚かせる。車掌たちの思いもしないことをしてくれる。


「信じてあげられなかった。■ナ■■は勇気を出してくれたのに……」


「いいの。私だって思い出せるとは思わなかったけど、鏡のおかげよ」


 女性は微笑を浮かべる。淡雪を溶かしてしまいそうなその笑顔に車掌は帽子を脱いで深く頭を下げる。


「どうか、この旅があなたにとって何かを憶う旅となりますように」


 白くなっていく空を背にする女性は車掌を見つめた後、涙を一筋零した。

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