第6号車 暁光を見つめる双眸
明るい光がはっきりと顔を覗かせている。太陽が顔を覗かせ始めたか、とシュリットは窓の外を見つめる。出発時は暗闇だった。写真集を見ながら時々外を見ていたが、日が昇る様子はなかった。薄っすらと地平線が白っぽくなっていたような気もするが、基本的に暗い空だった。少し開けた窓から冷たくも、爽やかな風が吹き込む。
シュリットは写真集を閉じて、テーブルの上に置く。そして、窓を閉める。
「どうぞ」
誰かが来たようだ。若い女性の軽快な足音。アナウンスをしたであろう人物の到着だ。
扉がゆっくりと開き、シュリットの目に光が飛び込む。帽子を脱いで一礼した人物はシュリットが予想していた背格好の少女だった。少女は顔を上げる。
「おはようございます。切符を」
車掌は帽子を被り直して扉を閉める。
「ああ。切符、切符……」
シュリットはテーブルの上に置いた切符を車掌に差し出す。車掌は切符に穴を開けて返す。
「何かあったのですか?」
シュリットは車掌に尋ねる。
「ああ……待たせてしまってごめんなさい」
シュリットを乗せる六号車が最後尾だ。かなり待たせてしまった自覚が車掌にはある。
あなたは誰ですか、という問に対する答えを車掌の納得のいくまで深堀させる。ある程度の限度を設けているつもりなのだが、それでも後ろの車両の客人ほど待たせてしまう。文句を言われたことは数知れず。だが、車掌としては自分自身を見つめてほしいため、一人一人の時間を優先してしまうのだ。
「別に待つことに関しては何も。写真集や画集を見ていたから待たされたという感覚はない」
シュリットは淡く微笑む。
ちょうどいい暇潰しになっていた。どれもこれもシュリットの興味を引くものばかりだった。アナウンスからそれほど時間が経っていないように感じるほど、シュリットは夢中だった。
「六号車に入って少しの間、足を止めていたようだったから。何かあったのかと思いまして」
シュリットの言葉に車掌は苦笑する。グレーの目がじっとこちらを見上げながら問う。
「……本当に耳がいいんだ」
「ええ。音を頼りに生きていましたから」
シュリットは目を閉じる。ガタン、ゴトンと列車の駆動音とともに振動が身体に伝わる。外から風を切る音がして、ガラスがわずかに震える音もしている。
「足音が聞こえてそろそろかと思っていたのですが……。足を止めた音がしましたので、何かあったのかと」
「うん、まあ、ちょっとね。でも、大丈夫。多分」
「そうですか」
シュリットはゆっくりと目を開ける。光が飛び込んできて眩しい。車掌の帽子の装飾に目を細める。
「私のことは置いておいて……。シュリットは大丈夫? もう慣れた?」
車掌はシュリットの目を覗き込む。グレーの目がわずかに逸らされる。
「まだ少し変な感じがします」
「そっか……。写真集、見てたの?」
車掌はテーブルの上に整頓されて置かれた本に目をやる。美しい建物の写真が表紙のものだ。他にも、いくつか写真集や画集が積まれている。
「はい。世界にはこんなにも綺麗なものがあるのだと知りました」
シュリットは愛しそうに本の表紙を撫でる。
「お気に入りは見つかった?」
「そうですね……。こちらとか、素敵だなと思いました」
シュリットは先ほど見ていた写真集のページを開く。そこには家が立ち並び、色とりどりの花が咲き乱れ、洒落た飾りつけが施された街並みが広がっている。
「あと、こちらも……」
シュリットはさらにページをめくる。黒の背景に煌びやかな金色はまるで大輪の花を思わせる。花火の写真だ。
「こんなものがあるなんて知らなかったです」
こっちのページも、と言ってシュリットは次のページを開く。今度は大輪の花と比べてかなり小ぶりだ。花火が燃える様子をコマ送りになるように写真が配置されている。
「前のページのものと似ている。こっちは小さいみたいですけど」
シュリットは散る閃光を指で撫でる。
「シュリットは花火が気に入った?」
「花火? これが、花火……。ドーンと大きな音がする花火ですか?」
「そうだよ。大きい方は打ち上げ花火、小さい方は線香花火。シュリットの周りでは線香花火はあまり見ないものかもしれないね」
「へえ……。センコウハナビ……」
シュリットは目を細める。興味深そうに見つめたシュリットは眉を下げる。
「その、車掌さんはご存知かもしれませんが……僕の目は……」
「うん。知ってるよ」
車掌は安心させるように優しく答え、わずかに目を細める。
弱視。シュリットの目は全く物を映さないというわけではないのだが、見えにくい。彼の場合は靄がかかったような視界であったそうだ。はっきりと物が見えないその視界で彼は時には聴覚を、また時には嗅覚を、別の時には触覚を頼りにして生きてきた。その苦労を記録上ではあるものの、車掌は知っている。だから、彼に調子はどうかと尋ねた。
「写真とか、はっきり見える?」
「ええ。本来なら、こんな視界なのかとびっくりしました」
「うんうん。別の職員から、強い光がちょっと苦手かもしれないって聞いていたんだけど、大丈夫?」
「最初はこれがチカチカするという感覚なのかと思うこともありましたが、大丈夫です」
本当に驚いたのだ。何もかもが違って見えた。人の顔も触らずともわかるし、景色がはっきりと見えるというのはこのことかと驚いたと同時に、灯をじっと見ただけで視界が真っ白になって気持ち悪くなってしまった。今も、ゆっくりと見渡すように動かないと少し気持ち悪くなる。
「無理はしないでね」
「はい。ありがとうございます」
「いいよー。他に不便はない?」
「今のところは何もないです。あ、でも、少しお願いが」
「何?」
シュリットは車掌を見上げる。車掌の髪色は先ほどの大輪の花火と似ている。そして、こちらを見つめる瞳は色が変わる。何とも不思議だ。
「その、家族の顔や僕が住んでいた辺りの写真や絵ってありますか? ベルを鳴らしたときに応対してくださった方が車掌さんにと仰っていたので」
「いいよ。写真や絵も用意できるにはできるんだけど、まずは動画でもいい? 後で写真を用意するように手配する」
「本当ですか?」
ぱあっとシュリットの顔が明るくなる。
「うん。ちょっと待ってね」
そう言って車掌はバッグから鏡を取り出す。
「それは?」
「鏡だよ」
「少し見てもいいですか? この色が変わっていく感じ、不思議な色」
「いいよ。はい、どうぞ」
そう言って車掌は鏡を差し出す。シュリットは壊れ物を扱うかのように受け取る。深い青から白へと色が移り変わっていく。所々に金色が散りばめられたそれをシュリットはしげしげと見つめる。
「この色が綺麗に移り変わっているところ、素敵ですね」
「グラデーションっていうんだ。色が段々と変わっていく様子のことって言うとわかりやすいのかな?」
「これがグラデーション……。以前の視界だったら、青としかわからなかったかもしれません」
ただそこに青色の何かがある。そのようにしか見えなかったかもしれない。こんなにも色が綺麗に移ろうようなものを初めてしっかりと見る。
「車掌さんの目もグラデーションですか?」
「ん?」
車掌は首を傾げる。シュリットから見るとまた色が変わったような気がする。
「色が変わりました」
「ああ、この目の場合はグラデーションとは違うかな? 光の差し加減で変わっているだけだよ」
「目の色は変わるものなのですか?」
「変わると言うと語弊があるけど、光の影響とか、角度で見え方は変わるかも。シュリット、鏡を見てごらんよ」
車掌の言葉にシュリットは鏡を立てる。そこには一人の人間が映っている。列車に乗る前にはすでに自分の顔がどんな顔をしているのか知っていた。ただ、言葉で説明しろと言われてもできないのだ。
「そのまま鏡を見ていて。目の色を覚えていてね」
車掌は帽子を脱ぎ、客室を照らす灯を帽子で隠す。すると、シュリットの瞳の色が変わる。
「あ、違いますね」
「うん。暗い色になったと思う」
「へえ……。でも、車掌さんの目はもっと違う変わり方をしているような……」
一言で言えば青。だが、その青も全部違う。どう表現していいのかわからないが、彼女の目の色は多彩だ。
「光の加減の問題だと思うけどね」
車掌は帽子を被り直す。また車掌の目の色が変わっている。
「さて、家族や家の周りの光景だっけ? どんな様子や時間のものが見たい?」
「と、言うと?」
シュリットは不思議そうに車掌を見上げる。
「うーんとね……。例えば、子どもが生まれたとき、とか、自分がいくつのとき、とか。とくに指定がないなら鏡が勝手に決めてくれるけど」
「では……子どもが生まれたときのものを。二人いるのですが、二人分、見せていただくことは可能ですか?」
「いいよ。先に娘さんからいこうか。じゃあ、鏡をじっと見て」
車掌はシュリットを促す。シュリットはじっと鏡を見つめると、鏡面が歪む。シュリットの顔も、客室も溶けるようにして歪み、そして、景色が変わる。
おぎゃー、おぎゃーと元気に泣く赤子の声だ。視界ははっきりと見え、女性が二人いる。その内の一人はぐったりとしていて、もう一人は元気よく泣く赤子の身体を拭いている。
『モニカ』
自分の声だ。今よりもずっと若い声に横たわる女性、モニカがこちらに視線を送る。
『シュリット……』
『モニカ、大丈夫?』
ゆっくりと歩み寄ったシュリットはしゃがんでモニカの手を握る。その手はひどく、震え、声も不安が滲み出ている。
「モニカ……。僕が思ったとおりの人だ」
「美人さんだね」
短い髪の彼女は鼻筋がすっと通っていて、目元の涼やかな美人だ。車掌自身、人の美醜にさほど興味はないのだが、一般的に顔立ちの整っている部類だと思う。
シュリットは目を細める。目が見えにくい自分を支えてくれた妻だ。何かと気を配ってくれた彼女の顔は手で触った感触ぐらいでしかよくわからなかったが、妻の若かりし頃の様子が見られてよかった。
『女の子ですって、シュリット』
モニカは微笑む。
『そうか、女の子か……。モニカに似てる?』
『またそれ言ってる』
『だって、モニカに似ていた方が絶対に可愛い女の子に育つよ』
『そう? 私はシュリットのちょっと垂れ目な感じが好きだけどなあ』
モニカはクスクスと笑う。すると、横から助産師の女性が赤子を連れてくる。
『シュリット、抱っこする?』
『え、でも僕は……』
シュリットはこのときのことをよく覚えている。よく見えないために子どもを落としてしまったらどうしようと不安になっていたのだ。
『じゃあ、先に私が抱っこしてもいい?』
『あ、ああ』
モニカは寂しそうに笑う。その笑顔に当時のシュリットは気づいていなかっただろう。声音もとくに変わりないものだったから気がつかない。
壊れ物を扱うように大切に抱いたモニカは微笑むと、シュリットの手を取る。
『ここが頭。ここがほっぺた。それで、こっちが手で、ちょっと手を伸ばして……。ここが足』
娘の身体を触れていくその手。生まれたばかりの命に触れたことを今でもよく覚えている。元気よく泣くその様子が手を伝ってきた。ふにゃふにゃとして、慎重に抱かなければ怪我をさせてしまいそうなほど脆いと思ったと同時に、何が何でも守ってやらねばと親としての自覚が強くなった。
『シュリット、泣いてるの?』
もう、とモニカが呆れたように笑っているところで鏡は現在のシュリットの顔を映す。自然と笑みがこぼれている自分の顔だ。
「どうだった?」
「娘は妻と顔の造りがよく似ていると思っていましたが……。こうやって見ると、本当によく似ています」
すっと通った鼻筋も、輪郭も、目元も妻に似ている。それは、二人の顔に触れたときから思っていたことなのだが、実際に見ると、生まれたばかりの娘の顔には妻の面差しがあった。とくに、鼻の感じはそっくりだ。
「次は息子をお願いしてもいいですか?」
「わかった。もう一回、鏡を見て」
シュリットは再び鏡に向き直る。同じように鏡面が歪むと、雨の音が響き渡る。
息子が生まれたのは雨がひどく降る夕方だった。シュリットが仕事から帰ったときにはすでに生まれていた。義父に導かれながら、妻の元へ急ぎ足で戻ったことを覚えている。急ぐあまり、足もとの注意が疎かになり、雨で濡れた歩き慣れた道で何度も転んでしまった。
急いで帰ってきたであろう鏡の中のシュリットは息を切らせながら部屋に駆け込む。
『シュリット! あなた、そんなに濡れて……』
モニカが驚いた様子でシュリットを迎える。
『生まれたって、お義父さんから聞いて……』
『転んだでしょ? 怪我してない?』
モニカはじっとシュリットを見つめる。
シュリットより後から部屋に入ってきた義父がタオルを持ってきてくれた。それで軽く身体を拭く。
『身体を冷やすといけない。先に風呂に入って温まってきてはどうだい?』
義父がそう申し出る。確かに、風邪でもひいて妻や子どもに移してはいけない。そう思ってシュリットは義父の言葉に頷く。
『でも、その前に……』
シュリットは頭をよく拭き、モニカとモニカの隣でスヤスヤと眠る息子の顔を覗き込む。
『モニカ。この子の手はどこ?』
『え?』
『少しだけ触りたい』
『わかった。手、貸して』
モニカはシュリットの手を取ると息子の手に触れさせる。息子の小さな手がシュリットの指を握る。
その感覚を今も覚えている。弱々しくも、しっかりとシュリットの手を握る温かな手だった。
『この子はモニカに似てる?』
『あなたに似ていると思うわ。口とかとくにそっくり』
モニカの笑う声が心地いい。お風呂に行ってらっしゃいな、とモニカが見送る声と共に映像が消える。そこに映るのはシュリットと客室だけだ。
「息子さんは君に似たんだね」
「ええ。こうやってしっかりと見えると本当に僕に似ているのだと思いました」
生まれたばかりの子どもたちの顔と、若かりし頃の妻の顔。見たいと思った姿を見ることができて嬉しい。自然と満面の笑みになる。
「他にも見たいことがあるだろうけど、ここで少し区切らせてもらうね」
車掌は鏡を手に取る。バッグに鏡をしまった車掌はシュリットに向き直る。
「写真は本題を終えてから用意するね」
「本題……と言いますと、あなたは誰ですか、という問いのことですか?」
「それそれ」
車掌は失礼、と言ってシュリットの向かい側の席に座る。
「名乗るだけ……というわけではないようですね」
シュリットのいる六号車まで、車掌は中々来なかった。写真集を数冊眺めることができるだけの時間、彼女は他の乗客と話をしていたのだろうと推測できる。
それは、単純に名乗るだけではいかないことの表れか。シュリットは車掌に視線をやる。
「一体、何を答えればいいのでしょうか?」
「そうだね。今までの乗客にしてきたことと同じさ。君自身のことを教えてほしい」
「僕自身のこと……」
車掌は写真集を手に取る。線香花火のページを開くと目を細める。燃え方の段階に応じて名前がつけられている。その様子を人生にたとえるそうだ。
シュリットの人生も中々に波乱万丈だ。目が見えにくいということから、かなり苦労してきたのだ。そんな彼に問いたいこととなると以前にも似たような境遇の人々に尋ねたことと同じようなことになってしまう。
「君と似たような境遇の人にも尋ねたことがあるんだけどね」
シュリットの身体が震える。シュリットの周りにはごく少数しかいなかった同じように目が見えにくい人々。広い世界で見れば、それなりの数がいるであろう自分と同じ境遇の人々。
「僕と似たような境遇の人……」
「たくさん会ってきた。目がはっきりと見えるようになって、君と同じような反応をする人もいた。逆に怯えてしまう人もいたんだけど……。私は、君たちの興味を活かした質問をすることもありだと思うんだ」
彼らは皆、今までとは違う見え方に驚き、興味を抱く。ならば、それに沿うようなことを尋ねたくなる相手もいるのだ。
「シュリット。質問は君の目から見た、窓の外の景色を説明してもらうことだ」
「え……」
シュリットの声が震える。それはシュリットが最も苦手とすることだ。視覚から得られる情報よりも、耳や鼻、手や足から感じる情報を頼りにしていた。目に見えるものを説明するようなことは本当に苦手なのだ。
「もちろん、ヒントなしだなんて言わない。視覚以外の情報をいれてもいい。条件として、自分の言葉で、視覚情報をひとつでもいれること。それだけ」
「ですが、僕は……」
「ねえ、シュリット。この列車には何人乗客がいると思う?」
「え? 乗客の人数ですか?」
この列車はひとつの車両につき、乗客は一人。この六号車が最後尾ということは、乗客の人数は自分をいれて六人だ。
「六人……ですよね」
「正解。君を除いて五人。ただ、今回は特別なお客様がいる。そのお客人からは欲しい答えを得られないかもしれないから、ちゃんと話せる人は四人だ」
「はあ」
車掌は何を言いたいのだ。もったいぶった言い方をすると思いながら、シュリットは先を促す。
青の瞳がキラリと光る。
「その四人に話を聞きにいかないかい?」
「えっ」
シュリットは思わず声を漏らす。そのようなことをしてもいいのだろうか。アナウンスでは車掌が手伝ってくれるとは言っていたのだが、他の乗客の手も借りていいのだろうか。思い思いの時間を過ごしているであろう他の乗客の邪魔にならないだろうか。
それに。シュリットの脳裏に嫌な記憶がちらつく。
シュリットの心配をよそに、車掌は立ち上がる。
「シュリット。君は耳がいい。文字を追うよりも、音声で記憶することの方が得意なんだよね?」
「それはまあ……」
読み書きはできないことはない。ただし、時間がかなりかかるのだ。その代わり、音による情報を頼りに勉強してきたため、聞いたことを覚えることの方が得意なのだ。
「今から会う人との会話と景色をよーく覚えて。景色は車両によって全部異なる。彼らの客室から見える景色を客室の主がどのように形容するのか、実際に見た景色は彼らの言葉と合うのかどうか」
「……」
「今日の乗客はきっと力になってくれると思う。どう? やってみる?」
シュリットは視線を落とす。
「……本当に、手を貸してくれるのでしょうか」
少なからず差別を受けてきた。見えない、ではなく、見えにくい、を受け入れてもらえないことが多々あった。車掌はそう言うが、実際はどうなのかわからなくて怖い。
「私はよくも悪くも多くの人間を見てきた。善人も悪人もいっぱい見てきた。……君のような人も、差別的なことを言う人も」
車掌は長く生きてきた。多くの人間に出会い、見送ってきた。だからこそ、この目が見抜くことや乗客名簿の情報から本質を見抜くことが得意だ。
そうでなければ、このカハタレ列車の車掌の務めを果たすことなどできないのだ。あなたは誰ですか、と尋ねる立場の者が乗客の性格を見抜けなければ意味がない。
「だからこそ言える。彼らは君のことを突き放したりしないよ」
ケイトもカレンもハジメも彼女も、誰もシュリットを侮蔑するような言葉は言わない。もしもがあったときの覚悟ができるぐらい、車掌は彼らをシュリットとに会わせてもいいと自信を持って言える。
「それにね、君と友達になれそうな人がいるんだ。歳も近い人でね」
「友達……」
シュリットには友人が少ない。本当に限られた世界で生きてきたのだ。交友関係も狭く、歳の近い友人というものにどれだけ憧れたことか。
「嫌なら別のことを尋ねるだけ。さあ、どうする?」
「……あの、車掌さんも一緒に来てくれるのですか?」
「もちろん。一緒だよ」
「……」
シュリットは膝の上の手を握る。一人でないなら少しは気が楽だ。すでに顔や性格を知っている車掌が一緒にいてくれるなら心強い。
「……わかりました。とりあえず、やってみます」
正直言えば怖い。今までは声色だけで判断していた相手の表情がすぐに目に飛び込んでくる。不快な表情というものがどのようなものかはわからないが、声と目の両方でその情報が入ってくると思うと怖い。
それでも、せっかくくっきりと見えるようになったのだ。少しは冒険をしてみたい。この目で、人はどんな表情や身振り手振りをするのか知りたい。
「うん。じゃあ、行こうか」
車掌の言葉にシュリットは頷くと立ち上がる。
「歩くのは平気?」
「はい。ただ、早くは歩けなくて……」
駅で行きかう人々はどんどんシュリットを追い越していった。今までは気配で感じていたのだが、実際に経験してみると自分はゆっくりと歩くのだと思った。誰かと一緒に出掛けるときはその人のおかげで少し早く歩けるのだが、一人となると慎重になる。
「歩くの怖い? 杖があった方が安心する? 私の肩使う?」
「大丈夫です」
「わかったよ。無理はしないでね。あ、そうだ。その写真集、持って行こうか」
車掌は線香花火のページを開いた写真集を手に取る。
「線香花火のこと、知りたいと思わない? 実際に触ったことのある人がいるから、その話もついでに聞こうよ」
「いいんですか?」
「いいよ。君と友達になれそうな人だし、そもそも話好きだと思うよ」
内容が内容なだけあって真面目な話ばかりになってしまったが、彼はもっと気さくに話す人間だ。彼自身も友人が少ないと嘆いていた。シュリットとは違う境遇ではあるものの、幼少期に苦労した者同士だ。彼はシュリットの境遇に寄り添ってくれるはずだ。
「列車、揺れるから気をつけてね。バランス崩しそうになった、私の肩を掴んでくれて構わないから」
「え、ですが……」
車掌はシュリットよりも小柄だ。もしかしたら押し倒してしまうかもしれない。
「結構頑丈なんだよ、私。だから、心配しないで、ドーンとね」
車掌は胸を張って笑う。本当に大丈夫だろうかと思いながらシュリットは頷く。
車掌に続いてシュリットは客室を出る。列車の振動はシュリットが思っているよりも弱く、バランスを崩すことはなさそうだ。シュリットに合わせてゆっくりと歩く車掌の隣を歩く。
「あの、隣のお客さんはどのような方ですか?」
「あー……。彼女のことは事前に説明しとかないと」
列車の振動に身を任せていると、ノックが響く。それに応じると、見慣れた金色と見知らぬ金色が扉から覗く。
「やっほー、さっきぶり」
車掌は手を振りながら入室する。女性は車掌よりも、後ろの男性の方が気になる。金色の髪にグレーの瞳の男は小さく頭を下げてから入室してくる。
「えっと……。そちらの方は?」
「彼は六号車の乗客だよ」
「シュリットと言います」
「シュリットさん……」
女性は小さく彼の名前を呟く。隣の客室の人間が一体どのような用できたのか。
「初めまして」
「突然、すみません」
シュリットは女性をじっと見つめる。自分や車掌と似たような色合いの髪だが、少し違う気がする。ゆっくりとした話し方をする女性の声音は優しく吹くそよ風のようだ。
「あのね、■ナ■■。君に協力してほしいことがあるんだ」
とりあえず座って、と車掌はシュリットを女性の対面に座らせる。緊張しているのか、シュリットの肩には力が入っている。
「協力、ですか……。私なんかができることでしょうか?」
記憶が抜け落ちている自分に何ができるというのか。彼に何をしてあげられるのだろうかと不思議に思う。
「シュリットに、この窓の外の景色を説明してあげてほしいの」
「景色?」
女性は窓の外を見る。全体的に白っぽい空だ。雲も月も空も色素の薄い景色だ。
「その……僕は目が見えにくかったのです」
「見えにくい? ……見えないではなく?」
「はい。霧がかって見えていたというか、霞んで見えるというか……」
霧がかった景色は女性も知っている。遠くまであまり見えず、ぼんやりと焦点の合っていないような視界だ。水辺だとよく霧が発生して、先を見通せなくなるのだ。
その状態が彼にとっては通常なのか。
「今もですか?」
「今は普通に見えます。あなたの顔もはっきりと」
女性はゆっくりと瞬きをする。
「そうですか。……私なんかでよければ、協力しますね」
記憶はなくとも。自分ができる範囲のことなら。
女性は小さく笑う。
「あ、ありがとうございます!」
シュリットは胸を撫で下ろす。
記憶が抜け落ちているという女性。あまり、記憶がないことを刺激するような言動は避けてほしいと車掌に言われた。それとひとつ、頼まれたことがある。
「あの、お名前でお呼びしてもよろしいですか?」
彼女自身、名前は知っているらしいがそれが自分のものという認識が薄いらしい。何度か呼んであげてほしい、と車掌に頼まれた。
「ええ」
女性は眉を下げて笑う。正直、まだ自分の名前にピンときていないのだが、呼び名がないと話しにくいだろう。それに、呼ばれていくうちに思い出せるかもしれない。
「■ナ■■さん、ですね」
「そうみたいですね」
女性はちらりと車掌に視線を送る。確認をするような視線に車掌は小さく頷く。
「■ナ■■、シュリット。二人とも、そこまでガチガチにならなくていいよ」
見るからに緊張した面持ちの二人だ。女性は記憶がないことを、シュリットは目のことを気にしていることが目に見えてわかる。
「気楽にね。……何て言って気持ちが解れるなら別なんだけどね」
どうしたものか、と車掌は写真集を開く。ちょうど開いたページが森の写真だった。それをテーブルの上に置くと、女性の目が大きく開かれる。
「ここ……。私がいた場所に似ているわ」
「やっぱり? 雰囲気はこんな感じだよね」
女性が魂の状態でずっと留まっていた場所。深い森で彼女は長い間、彷徨っていた。
彼の地を離れたのはつい最近のことなのに懐かしい。女性は表情を和らげる。
「ええ。あら、こっちのページの景色、好き」
そちらは大きく開けた場所だ。一面に広がる湖に空や木々、山々が映し出されている。鏡のように空を映す湖には赤や黄色の小さな葉の船が漂っている。彼女がいた場所にも同じような場所があったのだ。
「僕も、素敵だなって思いました」
シュリットの表情も少し和らぐ。まだ頬のあたりが緊張で固まっているせいか、ぎこちないが。
「■ナ■■はこの写真のどこがいいと思う?」
「目立つのは湖よね。鏡みたい」
上下反転しているが、同じ景色がふたつ。また、この湖の水の美しさが窺える。近くに立てば、澄み渡るような冷気が漂っていそうだ。
「季節は秋かしら? 葉っぱが赤や黄色ね」
澄んだ空にもよく映える。色鮮やかな光景だ。
「どんな匂いがすると思う? ■ナ■■」
「匂い? うーん……私の実際の経験だけど、こういう景色ってすっとする匂いだったと思う」
少し冷たい空気が女性の胸の内を満たす。
「水も綺麗だと思うから、清涼感のある匂いって言うのかしら? そこに、葉っぱのちょっとカラッとした匂いもあったりして……。水辺だから、湿った土の匂いも混ざっているかも?」
「だって、シュリット。想像できる?」
シュリットは目を閉じる。
清涼感のある匂い。綺麗な水の匂い。葉の乾いたような匂い。湿った土の匂い。どれもが何となく想像できる。とくに、綺麗な水の匂いというのは印象深い。匂いというよりも、冷気の漂うあの感覚。肌で感じ取るあの心地のよさは中々経験できない。
グレーの目が開かれる。
「風も心地いい、秋なのだと思います」
「風……。この写真の様子だと、あまり風は吹いていなさそうだけど、そうかも。ちょっと冷たい風かしら」
「僕もそうだと思います」
「枯れ葉がカラカラ、カサカサと音をたてる感じもあると思うの。あの音、好きよ」
「僕も、落葉を踏む音が好きです」
ちょうどいいのだ。カサカサと踏みしめると聞こえる音。あれで足音を判別することもあったが、単純に耳に馴染む音で気に入っている。あの音を聞くと、本格的に秋の到来を感じる。
穏やかに笑う二人を見て、車掌は笑みを浮かべる。互いの緊張が解れてきたようだ。
「話が盛り上がり始めたところ悪いけど、そろそろ本題に戻ろうか」
車掌は窓の外を指さす。
「■ナ■■。あなたは、この空をどのように形容する?」
女性は少し困ったように眉を下げる。
「そうですね……。上手く説明できるかわからないけれど」
女性は窓の方へ視線をやる。
「白っぽい空ですよね。淡い色……ぼんやりとしていて霧がかっているみたい」
淡い色。シュリットの目には車掌の鏡の装飾が思い浮かぶ。あの鏡の白に近い色の部分と似たような色合いを切り取ったような空なのかもしれない。
「静かに迎える朝という感じがする。小鳥の囀りを聴きながら、もう少しって微睡みたい空」
「静かな朝、か……」
シュリットも目を閉じて想像する。意識が浮上したかと思いきや、沈んで、と思ったらまた浮上してを繰り返すあの感覚を思い浮かべる。
「ごめんなさい、これ以上はその、言葉がでてこなくて」
「私はいいと思うけどね」
車掌は予想以上の結果だと思いながら聞いていた。記憶が抜け落ちているから言葉も忘れてしまったわけではない。それは承知の上だが、ここまで描写するとは意外だった。ぼんやりとした空、で終わってしまうとばかり思っていたのだが、彼女は言葉を選びながら彼女なりの描写をした。
「本当?」
「僕も素敵な表現だと思います。実際に、鳥の鳴き声を聞きながらうとうとする朝もあったので……」
あの時間帯はまだ寝たい、という思いと、起きないと、という思いがぶつかり合うような時。そんな時間の空は今見ているような空だったかもしれない。
「役に立てたかしら?」
「はい。ありがとうございます、■ナ■■さん」
「よかった」
女性はふわりと笑う。
「お時間をいただき、ありがとうございました」
「どういたしまして。あのね、車掌さん」
「ん?」
車掌は写真集に伸ばしかけた手を止める。女性は車掌に手招きをする。車掌は彼女に合わせて身を屈める。
「私、朝が一番好きな時間だった気がする」
女性はぽそっと車掌に耳打ちする。
太陽が空の端に昇り、一日の始まりの時間帯。少し冷たいあの気候がちょうどいいような記憶がある。
車掌は微笑を浮かべる。彼女の記憶がひとつ、戻ったのかもしれない。
「そうだったかもしれないね」
車掌は身を引くと、写真集を手に取る。
「さて、まだまだ話し足りないかもしれないけど、次へ行こうか、シュリット」
「はい。■ナ■タさん、本当にありがとうございました」
「こちらこそ、お話できてよかった。ありがとう」
二人はどちらからともなく笑った。
ちょうどよい熱さのそれを流し込んだハジメは深く息をつく。これがいいのだ。湯呑を置くと同時にノックが響く。
「はいはーい。どうぞ」
ハジメが応じると、見慣れた少女とハジメと同じ歳ぐらいの男の顔が覗く。
「あれ? 休憩中?」
車掌はそれでもお構いなしに入室する。その後ろを慌てた様子で男がついてくる。
「おう。嬢ちゃんも一服する?」
「いいや、結構。今いい?」
「どうぞ、どうぞ。そちらは?」
ハジメは不思議そうな目でシュリットを見上げる。ハジメと歳が近そうだが、こちらの方が落ち着いて見える。ハジメよりも年上かもしれない。
「初めまして、僕はシュリットと言います」
「シュリットさんね。俺はハジメと言います。よろしく」
ハジメは人懐こい笑みを浮かべる。シュリットもハジメの明るい声音に安堵したのか、よろしくお願いします、と声を弾ませる。ハジメの声は少し高い声で圧がないように感じる。
車掌はシュリットを座らせると、事の次第を話す。ハジメはふむふむ、と相槌をうちながら車掌とシュリットの話に耳を傾ける。
「……なるほどね。俺でいいなら、もちろん、協力させてもらうよ」
「さすがだね、ハジメ」
「まあ、語彙が少ないことはご了承いただきたい」
ハジメは詩人ではない。だから、上手く説明できる自信はないと断っておく。
「ありがとうございます、ハジメさん」
「いえいえ。で、この空ね」
ハジメが頬杖をついて空を見上げる。
シュリットも空を見上げる。車掌の言うとおり、この客室から見える空も五号車と違う。
「うーん……。何だろうな。まだ暗い空だよな。向こうの方が赤みを帯びているけど、上の方を見るとまだ瑠璃色……濃い青色だから。あと、雲の影の感じもいいよな。日の光が雲からチラッと漏れ出ているのもいいよな」
シュリットはじっと空を見つめる。五号車の空は白っぽかったが、こちらの空は暗い。太陽が出てはいるものの、低い位置にあり、下の方は赤っぽく、上の方は青っぽい。そして、太陽にかかる雲が日差しを抑えているようにも見える。
「参考になる? こんな説明で」
ハジメは納得のいっていない様子でシュリットに尋ねる。自分の語彙力のなさが痛い。もっと上手いこと言葉にできたらいいのだが、これ以上の説明は正直厳しい。
「はい……。あの、ひとつ気になることが」
「うん?」
ハジメは小さく首を傾げる。
「瑠璃色、というのはどの辺りの色ですか?」
シュリットが気になった言葉だ。ハジメはその後、濃い青と言い換えていた。瑠璃色は青の仲間なのだろうと推測できるが、具体的にいうとどんな色なのか。
「どの辺りねえ……。あの辺」
ハジメは空のやや上の辺りを指さす。紫色を帯びた濃い青だ。どこかの車掌の目の色を思わせる色とも言えるかもしれない。
「て、言って伝わってる?」
シュリットは困ったように笑っている。正直、ハジメが指さす部分がいまいちわかっていない。
「嬢ちゃん、色の見本帳みたいなの……て、それ写真集?」
「そうそう。この中にあるかな? 瑠璃色」
「さあなあ。探してみるか」
貸して、と言ってハジメは車掌から写真集を受け取ると、パラパラとページへのをめくっていく。
「そう言えば、こっちのテーブルの上、片付けたの?」
模型を作っていたテーブルの上は相変わらず散らかっているが、備えつけのテーブルの上は綺麗になっている。ハジメが座る席の後ろには箱が置かれ、その中にテーブルの上にあったであろう本やペンが片付けられている。
「お茶をこぼすといけないから片付けた。借り物だしね」
そういうところは真面目なのか、と思いながら車掌は箱の中を覗く。仕舞い方は綺麗とは言い難いが、その気遣いはできるのかと感心する。
「これとか、近いかな?」
ハジメは一枚の写真を指さす。海の写真だ。晴れ渡る青空に白い砂浜、そして、眼前に広がる瑠璃色の海だ。日の光を浴びてダイアモンドを散りばめたようにキラキラと輝いている。
「なるほど……。えっと」
シュリットは写真と夜明けの空を交互に見つめる。すると、ハジメは写真集を手に取り、シュリットの視線の高さに合わせて持ち上げる。
「こっちの方が比べやすいでしょ?」
「……! はい、ありがとうございます!」
シュリットの表情が明るくなる。
「君って意外と気配りできるんだね」
「そうか?」
「そういうところだよ」
出発間近まで列車を観察していた人間と同一人物なのかと疑うほどだ。根はやはり真面目で、叔父に影響されたのか場を大切にする性質なのだろう。場を大切にするということは状況把握ができるということ。こうしたらもっと快適なのでは、と無意識に思い、それが行動に出る。この場ではシュリットの目の動きを最小限にして、比較しやすいようにと場を作りかえた。
車掌は小さく笑い、シュリットの方に視線をやる。シュリットは写真と空を見比べながら、ハジメが指さした位置と大体同じ場所を指さす。
「あの辺りですね」
「そう、そこ。深みのある青ね」
ハジメは写真集を下ろすと、にいっと笑う。それにつられてシュリットも笑う。どこか安心した笑みだ。
「綺麗な色ですよね」
青、と言っても様々な青がある。濃い、薄い、明るい、暗い、と微妙な違いで色が変わる。シュリットにとっては新鮮だ。
「ちょうど嬢ちゃんのそのリボンも瑠璃色か?」
ハジメは車掌のリボンに目を向ける。車掌はリボンを見下ろすと、指で摘まむ。
「ちょっと明るい色かな? でも、ほぼ瑠璃色だね」
「何だ、灯台下暗しってか」
わざわざ写真集から探さなくともあったではないかと思いながらハジメはため息をつく。美しい写真を見られたから得ではあったが。
「あ、そうだハジメ。ちょっと話をしてあげてほしいことがもうひとつあるんだ」
「え? 何々? 今度はどんな難題を出してくれるんだ?」
ハジメに夢は何かと難しい質問をしてきた車掌だ。空のことでも多少身構えたのだが、次は何だと見るからに眼鏡の奥の目が嫌がっている。
「大丈夫、大丈夫。ちょっと写真集借りるね」
車掌は写真集をペラペラとめくる。ここだ、と言って開いたページには黒を背景に橙色の光が飛び散っている写真を開く。
「花火?」
ハジメは首を傾げる。線香花火だ。
「シュリットが興味あるんだって」
ね、と車掌はシュリットに向けて言うとシュリットは小さく頷く。
「は、はい!」
「へえ、なるほど。いいよな、花火。ド派手な打ち上げ花火も、線香花火みたいな控えめなのも。夏の風物詩だ」
ハジメは目を細める。花火はハジメの孤独な少年期の記憶を思い起こさせる。叔父が買ってきてくれた花火のセットの締めは線香花火だった。赤い熱の塊がぽとっと呆気なく落ちてしまうあの瞬間が何とも寂しかったことをよく覚えている。もう少し長く残ってくれれば、この時間がもっと続くのに、と名残惜しかった。
「実際に試してみる方がいいに決まってるけど、さすがに車内でするわけにはいかねーよな」
ハジメは床を軽く蹴る。板張りの床は固い音を返してくる。この列車に限らず、火気厳禁に決まっている。
「本物はさすがに無理だけど、それっぽいものなら出せるよ」
「何でもありだな、この列車」
模型も、本も、飲み物も、何でもありな列車だ。ハジメは何とも言えない顔で笑う。
「それっぽいもの、と言うと?」
シュリットが尋ねると、車掌は小さく口笛を鳴らす。白手袋の手が伸ばされ、そこに細い紐状のものが現れる。
「はい」
車掌はハジメに差し出す。それはどこからどう見えても、ハジメの幼少期から姿を変えない線香花火だ。
「おいおい、嘘だろう……」
ハジメはそれを手に取り、嗅ぐ。火薬の匂いが確かにする。
「これがセンコウハナビ?」
シュリットはしげしげと見つめる。写真のように光を散らしていないとただの紐のように見える。
「まだ火をつけていないから……て、どうやって火を点けるんだ、これ」
「マッチと蝋燭?」
車掌が首を傾げながら言うと、テーブルの上にマッチ箱と蝋燭が現れる。車掌はマッチ箱を手に取ると、一本のマッチを取り出す。そして、マッチの先端を箱の横にこすりつけ、火を灯す。橙色の炎がゆらゆらと揺れている。
「偽物だから触っても平気だけど、熱いから触らない方がいいことをおすすめしておくね」
車掌はハジメの手にマッチを近づける。確かに、その炎は熱を帯びている。
「ちょっ、危ないって」
「ごめん、ごめん。で、後はこうよ」
車掌はぱっとマッチを落とす。燃えてしまうだろう、と言いかけたハジメの言葉はすぐに引っ込められる。床の上で炎は揺らめているが、燃え広がる気配はない。
「え? 何これ?」
「偽物の火だよ」
車掌はマッチを拾う。焦げ跡もない床は綺麗なままだ。車掌がマッチに火を吹きかけると呆気なく温かな色が消える。焦げ臭いマッチ独特の香が白い煙とともに立ち上る。
「これなら使っていいけど、線香花火以外には使わないこと」
「他に火を点けたいようなものもないからいいけど……。偽物って言うわりにはリアルだな」
炎の揺らめきも、熱を持っていることも、香も全て本物と変わらない。
「シュリット。普通のマッチはこうはいかないからね」
「そうですよね……」
シュリットもハジメと同じように思った。マッチから立ち上る香に覚えがある。あの臭いは残りやすいのだ。
「線香花火はシュリットの課題が終わってからね。てなわけで、よろしく、ハジメ」
「これ、俺が預かるの?」
「何か不都合でも?」
「別にないけど……。シュリットさんがいいなら」
「こちらこそ、ハジメさんがいいなら」
シュリットは背筋を伸ばしてお願いします、と頭を下げる。
「うん、じゃあ俺が預かろう。終わったら一緒にやろうな」
ハジメは口の端を上げて約束だ、と言って笑った。
「やっほー、カレン」
ラベンダー色に染まる空を見上げていたカレンは呑気な声と共に勢いよく開いた扉に肩が跳ねる。声の主の方を反射的に見ると悪戯が成功した子どものように笑う車掌とカレンと同じように驚いている様子の男性が部屋の前に立っていた。
ノックなり一言声をかけるなりしてから扉を開けるなりしなさい、という言葉を呑みこみ、カレンは笑顔を貼りつける。
「あら、どうされました?」
カレンは立ち上がり、二人を迎え入れる。車掌はズカズカとカレンに構うことなく入室し、男性は申し訳なさそうに入室する。
「あのね、協力してほしいことがあるの」
「何でしょうか?」
「彼のことなんだけど……。とりあえず、二人とも座りなよ」
車掌はシュリットの背を押して座らせる。シュリットが、失礼します、と言って座るのを見届けたカレンも遅れて席に着く。
車掌とシュリットは事情を説明すると、カレンはわずかに眉間に眉を寄せる。
「……そうですか。目が」
目が見えない、ではなく、見えにくい。弱視と呼ばれるものか、と思いながらカレンはシュリットを見つめる。見た目で判断することができず、また全盲ではないため、誤解も生まれやすいという。車掌も言葉を選んで補足をしてくれたが、当の本人はどこか気まずそうに話す。すでに、五号車、四号車の客とは話しているとのことだが、まだ慣れていないようだ。
カレンは小さく息をつく。知識では知っていることだが、実際に弱視の人と接したことがない。どう接するべきだろうか、と思いながらもカレンはシュリットに微笑みかける。
「まず、会って間もない私にお話してくださって、ありがとうございます。とても勇気のいることだと思います」
見ず知らずの相手に話す。もしかしたら理解が得られないかもしれない、心ない言葉をかけられるかもしれない。そんな恐怖があるかもしれないのに、シュリットはカレンに話してくれた。それを理解した上でカレンは応じるべきだと初めに感謝の言葉を述べる。
シュリットの灰色の瞳が大きく揺れる。
「今はよく見えるとのことですが、慣れないことはありませんか?」
「今のところは……。強い光が苦手なぐらいで、普通にしている分には何とか」
「そうですか。視界がよく見えるようになった分、気分が悪くなったとかありませんか? とくに、強い光が苦手とのことですが、どうでしょう? 客室の灯は大丈夫ですか?」
カレンにとっては大した強さの光の灯ではないが、シュリットにとってはどうなのか。弱視と言っても見え方は様々だ。シュリットの視界が今までどうであったのか、カレンが知る術はないのだが、彼にとっての光の強さやよく見える視界というのにすぐに慣れるのには時間がかかると思うのだ。
「大丈夫です」
「ならよかったです」
どこまで踏み込んでいいのかわからない。シュリットの機嫌を害すかもしれない。
それでも、カレンの自己満足かもしれないが、彼が明かしてくれたことに応じてあげたい。
「カレンさん。その……お気遣いいただき、ありがとうございます」
シュリットは小さく笑う。今までに、このように自分の目のことを明かしてきたが、感謝の言葉をかけられたことは少ない。理解が得られずに辛い思いをしたことがある身からすると、勇気を出して話してくれてありがとう、とその言葉だけでも胸の内が少し軽くなる。若い彼女がシュリットの勇気を褒めてくれることが嬉しいと思う反面、自分の娘と同じ年頃の彼女がこの列車に乗っていることを思うと悲しくなる。
「私でよければ、シュリットさんのお手伝いをします。空のことですよね」
カレンは車掌に確認をすると、車掌は頷く。
「カレンにはこの空はどう見える?」
「……あまり、色は使わない方がわかりやすいですか?」
弱視といっても見え方は人によって違う。シュリットの場合の見え方がどうであったかわからないため、どのように伝えるのがベストなのかとカレンはシュリットに尋ねる。
「大まかな色はわかるので大丈夫です」
「そうですか。わからない色がありましたら、仰ってくださいね。車掌さんがちょうどいいものを持っているみたいですから」
カレンは車掌の腕の中に納まる写真集に視線をやる。自分が伝えたい色を指さしながら説明できるのであれば、シュリットもわかりやすいだろう。
「今までの二人もこれを使ったからね」
「そうですか。では、私もお二人に倣いましょうか」
そう言ってカレンは空を見上げる。
「私はこの空は赤と青が混ざった空に、太陽の光の白が少し加わったように思います。ラベンダー色……紫色の空に見えます」
「ラベンダー……。娘が好きな香の花だ」
仕事先の客人にラベンダーの香を好む人がいた。その香を嗅げば、あの人が来たとわかりやすかった。客人曰く、ブレンドして使っているとのことだった。香を分けてもらったことがあり、娘がそれをいたく気に入っていた。
「私もラベンダーの香は好きです。疲れたときに使うと心も落ち着いて、いい香ですよね。実際に花を見たことはありますか?」
「いいえ」
「車掌さん、写真集を貸してくださらない?」
車掌はカレンに写真集を差し出す。ラベンダーの花の写真があればいいのだが、と思いながらカレンはページをめくると、ちょうど花の写真ばかりが集まったページにラベンダー畑の写真があった。一面に広がる青っぽい紫色にシュリットは空と見比べる。
「これが、ラベンダーの花……」
空に向かって伸びる紫の花。青い空と同じように薄紫色がずっと遠くまで広がっている。すん、と軽く鼻をすする。柔らかい香の中に爽やかなハーブのような香も少し混ざるあの客の香。香というものは記憶に残りやすいのだ。
薄い紫色は外の景色にも見える。空の赤と青の狭間の色がちょうどこのラベンダーの花畑を思わせる色だ。そのラベンダー色が空の多くを占めている。
「柔らかい雰囲気の花ですが、爽やかな香の花というようにはあまり……」
想像と違う。意外と大きい植物のようだ。
「もっと小さい植物だと思っていました」
これぐらいの、とシュリットは手で大きさを表現する。実際のラベンダーの半分ぐらいの大きさのイメージだった。
「……」
カレンからすると見えることが当たり前で、ラベンダーはこれぐらいの大きさでどのような花なのか知っている。だが、シュリットにとってはそれが違う。見えにくい視界の彼にとっては遠近感や色、見え方が違い、知らないものも多いのだろう。
カレンは小さく笑みを浮かべる。
「新しい発見ですね」
「ええ、そうですね。また僕の知らない世界を知ることができました」
シュリットは照れ笑いを浮かべる。
「ありがとうございます、カレンさん。おつき合いしてくださって」
「こちらこそ、わざわざお越しいただきありがとうございます。……次を急ぎますか、車掌さん」
残るは二号車の婦人と、眠っていると言っていた一号車の客人。一号車の客がどのような人物なのかは知らないが、残すところはあと二人という認識だ。
「まあ、お暇するならしようかなって感じだけど」
どう?、と車掌はシュリットに視線をやると、では次に、と彼は答える。
「足元にはお気をつけて」
シュリットはゆっくりと立ち上がる。カレンも立ち上がり、シュリットが転んだりしないようにと様子を窺う。
「ふふ」
シュリットが笑みを零す。
「どうしたの?」
写真集を手にした車掌が尋ねる。車掌の瞳の色はラベンダーよりも濃い紫の色をしている。
「カレンさんはお優しい方だと思いまして。嬉しいのです」
シュリットはカレンに向き直る。凛とした声音は聴き取りやすい反面、人によっては威圧的に聞こえるかもしれない声だ。だが、その声から滲み出るこちらを気遣う言葉がどれほど優しいことか。
「本当にありがとう。きっと、あなたはご両親にとってご自慢の娘さんだったのでしょうね」
カレンのヘーゼル色の瞳が大きく揺れる。今までにも褒められたことは多々ある。その中でも、シュリットの言葉は本当に純粋で嫌味がない。互いのことを知らない状況で、言葉を交わしたのはわずかな時間でこのように褒められたことは数少ない。
「……ありがとうございます、シュリットさん。大変光栄に思います」
カレンは深々とお辞儀をする。
「……あのね、カレン、シュリット」
カレンが頭を上げると同時に車掌は切り出す。手袋をはめた手が空を指さす。
「紫色って赤と青を混ぜた色なんだよ」
そんなこと知っている。カレンはそう思いながら、シュリットに視線をやる。シュリットは興味深そうに空を見上げている。
「だから、赤と青の間に紫……ラベンダー色が広がっているの。ねえ、カレン。私があなたに尋ねた質問とそれに対するあなたの回答、覚えているよね?」
「……もちろん」
カレンの短所と長所。視野が狭いことと、周りに恵まれたこと。それをカレンは答えた。
車掌の菫色の目が細められる。
「ふたつのことが混ざった状態……。それがカレンをたらしめるひとつの要素だよね」
カレンの瞳が見開かれる。短所と長所、そのふたつがあってこそのカレンだ。
カレンは車掌から目を逸らして苦笑する。
「ええ、そうよ」
「わかっているなら、結構。じゃあ、次に行こうかシュリット」
「え? あ、はい!」
シュリットは何のことやらよくわかっていない。二人の間で行われた不思議なやり取り。それを見届けた。
じゃあね、ありがとうございました、と言って二人が退室するのを見届けたカレンは小さく息をつきながら席に着いて空を見上げる。
赤と青の狭間の色。二色が混ざり合ってできる紫という色。
「……私の負けだわ」
思わぬ車掌の言葉にカレンは勝てそうにないと息をつく。不思議と怒りのないその表情は自分でも穏やかなものなのだろうと思いながら紅茶でも頼もうと決めた。
ゆっくりと手を動かしているケイトの耳にノックの音が飛び込む。どうぞ、と言って応じるとキラキラと輝く髪の持ち主が二人、姿を現す。
「やあ、ケイト。随分久しぶりな気がするね」
「あらあら、車掌さん。そうねえ、久しぶり」
ケイトはふふふ、と笑う。まるで、孫が久しぶりに遊びに来てくれたような感覚だ。
「ところで、そちらの方は?」
ケイトはもう一人の方に問う。
「六号車のシュリットと言います」
「六号車? これはまた、遠いところから……。どうぞ、座って」
ケイトは向かい側の席に手を差し出す。シュリットが会釈して座ると、ケイトは作業中のそれをテーブルの端に寄せる。
「何か作っていたの?」
シュリットが問う前に車掌が問う。柔らかそうな塊に自然と目がいく。
「ええ。ぬいぐるみでも作ろうかと思って。車掌さんがお隣に行ってしばらく経った頃かしら? 綺麗な乗務員さんがいらしてね。何か欲しいものはないですか、て声をかけてくださったから、マフィンとミルクとお裁縫の道具を頼んだの」
「うんうん、いいね」
車掌はニコニコと笑う。兎と思われるぬいぐるみは直に完成しそうだ。白い身体に青の瞳の可愛らしい兎だ。
「それで、何だったかしら?」
この二人はどのような用できたのだったか、とケイトは首を傾げる。まだ説明をしていない、とシュリットが申し出て、説明を始める。ケイトは頷きながらシュリットの言葉に耳を傾けながら、シュリットのことも尋ねる。
「そう……。歳を取って私も目が悪くなったけど、きっとあなたの見えにくいと私の見えにくいは違うのでしょうね」
若い頃と七十を過ぎてからの視力は全然違う。シュリットにとっては幼い頃から苦労してきたことがわかる。
「お話ししてくれてありがとう、シュリットさん」
ケイトは穏やかに笑う。その笑顔にシュリットは安堵する。ケイトで一応最後だからということもあるかもしれないが、何よりケイトの笑顔がとても温かく感じる。他の乗客たちもとても優しく接してくれたが、ケイトの笑顔が一番落ち着く。彼女の話し方がゆっくりしていることもあって胸の内が温かくなる。
「それで、えっと……。空のお話よね?」
「はい。教えてください」
「そうねえ……」
ケイトは空を見上げる。暗い夜明け前の空に輝く白銀がふたつ。
「まだまだ夜に近い朝の空よね。暗いのだけど、下の方はちょっと明るい。でも、お星様はあのふたつしか見えない。お寝坊さんなお星様かしら」
ふたつの星が寄り添うように並んでいる。乗車したときはひとつだった星がもうひとつ増えた。増えた方の星は二度寝でもするのだろうか。
「あれが、星……」
白い光はか細く、太陽が昇りきる前に消えてしまいそうな光。今までのシュリットの目では捉えられなかった弱い光だ。
「随分と小さい光よね」
「はい」
「私たちも、お星様になるのよね」
ケイトがぽつりと呟くと、シュリットは肩を震わせる。
「どんなお星様になるのかしら」
ケイトは車掌を見上げる。くすんだ青に金色の光が混ざった車掌の瞳は困ったように泳ぐ。
「それは人それぞれで、私からは何とも言えないかな」
「そう……。私はアレクを見つけられるかしら」
「アレクさん?」
「私の夫の名前よ」
ずっと忘れていた最愛の人の名前。彼のことを最期の時まで忘れていた。だから、せめて、星になってからは彼の最期の時まで見つめていたい。
「シュリットさんは結婚されているの?」
「はい。妻と、子どもが二人」
「まあ、そうなのね」
「僕が死んで、少しは楽になっていればいいのですが」
どこか家族に対して後ろめたさがあった。両親にも迷惑をかけたと思っている。とくに、母親は父方の祖父母に責められてしまった。
なぜ目の見えない子どもが生まれたのか。
見えないではなく、見えにくいのだと両親は何度も言ってくれたのだが、父方の祖父母には受け入れてもらえなかった。それが申し訳なくて、これから先も両親に世話をされながら生きていくのだろうと思っていた。結婚なんてできるわけないと思っていた。
そんなシュリットが結婚できたことは奇跡だと思っている。モニカには何度も言ったのだ。それでも、あなたが好きだと言ってもらえて嬉しかった。子どもを二人も授かって幸せだったが、モニカにも子どもたちにも苦労をかけたと思っている。とくに、子どもたちが幼い頃は一緒に外で走り回って遊んでやることもできず、寂しい思いをさせてしまったと思うのだ。我慢もさせてしまって、彼らの友達に何と言われているのかと気になったこともあった。
何度か自分の目のことを子どもたちに尋ねたことがある。
『パパの目が見えにくいことで二人には我慢してもらったり、お手伝いしてもらっているけど、嫌かな?』
そう尋ねた。娘は小さな反抗期に突入していて、息子もやんちゃ盛りだったときの答えを忘れられない。
『うん、いや。だって、パパにあわせないといけないんだもの』
『パパもいっしょにおそとであそんでよ。おいかけっことかいつもおそいし』
娘と息子はそう答えた。そう思われても当たり前なのだと思った。二人が言ったことは本当のことで、幼い頃からシュリット自身も負い目を感じたり、憧れたことなのだ。
二人の言葉を聞いたときはショックで何も言えなかった。そうか、と言って二人を遊びに戻らせたところまでは覚えているのだが、そこから先のことは覚えていない。その場でぼーっとしていたのか、それとも気まずくて場所を移したのか。
子どもたちは悪くない。彼らに悪気はなく、素直な感想なのだ。他の子どもたちがしてもらっているようなことをシュリットはしてやれない。
それはモニカに対してもだ。大丈夫だって、と彼女は明るく答えてくれるのだが負担は計り知れないだろうに、と何度思ったことか。
ごめん。そう言葉が出てしまう。こんなことなら、と思ったこともあった。
「そんなこと言っちゃ駄目よ」
ケイトの言葉に無意識に下を向いていたシュリットは顔を上げる。
「私もアレクに世話をしてもらっていた身だけど、そんな風に思っては看てくれた彼に失礼だと思うの。彼の行動を否定したくない。だから、あなたも家族に対してそんなことを思わないでほしい」
アレクのことを忘れていたという負い目がケイトにはある。おこがましいと思われるかもしれないが、やはり、謝罪よりも感謝の言葉のやり取りの方が互いに気持ちのいいことだと思うのだ。
「ご家族はあなたのことを責め立てたりしたの?」
「……いいえ」
とくに、妻のモニカはいつも支えてくれた。彼女自身も忙しいはずなのに、シュリットのことを理解し、家の中ではいつも傍にいてくれた。シュリットが転んだり、ぶつかったりしないようにと家具の配置を気遣ってくれた。子どもたちには玩具を出したままにしないようにとよく言い聞かせていた。
『いつもごめんね』
結婚してすぐの頃にシュリットがそう言うと、彼女はシュリットの背を容赦なく叩いてこう言った。
『そこはありがとう、でしょ? 一緒に暮らすんだもん。シュリットにとっても、私にとっても暮らしやすい家庭にしよう。別に、私からしても不便じゃないような配置にしてるし。何も困ったことないよ』
彼女はそう言って笑ってくれた。あの時の手の頼もしさにどれほど救われたことか。自分よりも小さな手がシュリットを支えてくれた。
「はい。僕はとても、大切にしてもらえました」
「ええ、そうよね。だって、あなたの目、綺麗なんだもの」
ケイトは目を細める。絶望の色も、怯えた色もない透き通った瞳だ。誰か一人でも頼れることのできる人がいた証拠ではなかろうか。そうでなければ、彼の目はもっと暗く、澱んでいてもおかしくない。グレーのその瞳は角度によっては鍛え抜かれた鋼の色に見える。その瞳がたとえ、見えにくい目だとしてもその美しさに変わりはない。
「ねえ、車掌さん」
「ん? そうだね。見方によっては銀色に見える目だよ」
鈍い銀色の瞳。美しい刃の色だ。光が当たったときの彼の瞳の色だ。
「……ありがとうございます」
シュリットは恥ずかしそうに笑う。
「いいのよ。私の話、参考になったかしら?」
「はい」
ふたつの星。それはケイトとアレクがそうしていたように寄り添って輝いている。その星を見つめたシュリットは目を細める。自分とモニカもそうであっただろうと思いながら。
「……シュリット。考えはまとまりそう?」
「自信はないのですが……。頑張ります」
「随分と難しいお題なのね」
「でも、私は期待しているよ」
車掌の深い青の瞳がシュリットを優しく見つめる。
「君ならではの感性での答えを待っているから」
「僕ならではの感性……」
目が見えにくかったシュリットならではの感性。それを車掌は望んでいる。
「そうね。同じ物を見て、聞いてもそれぞれ違う表現をするから」
ケイトはしみじみと言う。人という生き物は皆が皆同じではない。それぞれの言葉でその人なりの表現をするのだ。
「あなたの答えを聞けないのは残念だけど、応援しているわ、シュリットさん」
「はい」
「じゃあ、戻ろうか、シュリット」
車掌の言葉にシュリットは頷くと立ち上がる。その様子をケイトは温かな眼差しで見送る。
「いってらっしゃい、シュリットさん」
「いってきます」
ケイトが小さく手を振るのにシュリットも応じて手を振った。
六号車の景色が変わっている。シュリットが乗車してからほとんど変わらなかった空は姿を変えていた。
驚くシュリットを横目に車掌は姿勢を正す。期待に満ちた淡い青の瞳でシュリットを見上げる。
「さあ、シュリット。あなたはこの空をどう形容するだろうか。考えがまとまったら教えて」
座ってゆっくりと考えなよ、と言いながら車掌は腰かける。シュリットは車掌の言葉に意識を引き戻されて対面に座る。
「……」
第一印象は眩しい空だと思った。他の客室で見てきた空と比べると一番明るく、そして、広く見える。
「あの、窓を開けてもいいですか?」
「いいよ」
車掌が答えた後、シュリットは窓を開ける。ひんやりとした風が頬を撫で、澄んだ空気が客室に吹き込む。わずかに水を含んだようなその風に身を任せるように空に何かが流れている。
「……」
シュリットは外に手を伸ばす。空を漂う白いものも、姿を現した太陽も掴むことができない遠い存在。そして、その空の下に広がるのは果てが見えないほど大きな水の溜まり場だ。さざ波で揺れる水面には大空が映し出されている。
どこからともなく、水が落ちる音が聞こえた気がする。雨が降っているわけでもないのに、ピチャン、と雫がひとつ落ちたような音だ。
「……」
「他の乗客から聞いたことを参考にしていいからね」
車掌の言葉から乗客たちの言葉を思い出す。
思い出せないことが多いと言った彼女はぼんやりとしていて静かに朝を迎えて微睡みたいような空と言った。
線香花火の約束をした彼は瑠璃色という濃い青色を教えてくれた。
娘と同じ年頃の彼女は赤と青が混ざり、ラベンダー畑のような空だと喩えた。
家族の話をした高齢の彼女は夜に近い朝に輝く星のことをお寝坊さんと言った。
一体、この列車はどこを走っているのか。それぞれの車窓から見える景色は違うと事前に聞いていたが、こんなにも違うとは思わなった。そして、シュリットの知らない世界にはこのような景色が実際にあったのだろうとも思う。
そんなことを考えながら、シュリットは手を引っ込める。
「車掌さん。あの空の白いものって雲ですか?」
「そうだよ。あれも雲だよ」
「雲?」
シュリットが知る雲というものはもっとはっきりと見えるものなのだが、今見えている雲は何だか違う。中には空の色と同化してしまうほどはっきりとは見えない雲もある。
「巻雲……すじ雲とかはね雲とか呼ばれるね」
ハケで伸ばしたように細く、薄い雲だ。まさに、羽のような形のその雲は太陽の色を受けて淡く黄金色に輝いている。
「あんな雲もあるんだ……」
シュリットの目では捉えることが難しかった雲だろう。筋状のその雲の独特な形。それを形容するならどう言えばいいのか。
「はね……羽か」
鳥が大空を飛び回るために必要とされるもの。羽の作り物を触ったことがあるが、ふわふわとしているものもあれば、少し硬いものもあった。今の空に浮かんでいる雲はどうなのだろうか。
「どうだろう、シュリット」
まとまってきたか、それとも詰まってしまったか。車掌はシュリットに尋ねる。
「注目したい部分はあるのですが、どう表現しようかと思いまして」
「雲のこと?」
「ええ。はね雲が気になりまして。こう、空の色に溶け込みそうというか、触れそうで触ることのできないような、そんな感じで……」
触るとどのような感触なのだろうと気になる雲だ。
「もしも、あの雲に触ることができるとして、どんな触り心地だとう思う? ふわふわしているのか、かちかちなのか。さらさらしているのか、ざらざらしているのか。軽いのか重いのか、どうだろう?」
車掌の問いかけに対して、シュリットは少し考えると、無意識に手が動く。宙を掴むように動く指を車掌はじっと見つめる。
「さらさらしていそうで、軽い……水を掬い上げたときに指の隙間から糸のように零れ落ちてしまいそうなそんな感覚」
「綿みたいとは思わない?」
「綿はもっと大きくて、僕の目でもわかるような雲だと思います」
シュリットが即答すると、車掌は目を細める。
「さすが、マッサージ師。手の感覚が優れているね」
彼の生業だ。幼い頃から培ってきた指先の神経は敏感なのだろう。
「実際のところ、雲ってどんな触り心地なのでしょうか?」
「私も触ったことがないからなあ……。中でも、すじ雲って高いところにできる種類だからねえ」
「そうなのですか」
雲にも高い場所、低い場所にできるという特性があるのかと驚く。
「あんなに高いところの雲にも光が」
太陽の光を受けて輝いて見える雲だ。
「いいなあ……」
自分の目に射しこんでいた光はあんなにも眩しかったのか。
シュリットは拳を握る。まだ整頓できていないが、何となく伝えたいことができたような気がする。
「車掌さん。まだまだ言葉足らずですが、僕の答えを聞いてくれますか?」
「もちろん。じゃあ、訊くよ」
車掌は姿勢を正し、アイオライトの瞳でシュリットを見つめる。静かな鋼色の瞳が緊張した面持ちで視線を返してくる。
「あなたは誰ですか? この窓の外の景色について、あなたの言葉で教えて」
シュリットはゆっくりと呼吸をする。開けたままの窓からちょうどいい冷たさの風が入り込み、シュリットの胸に吸い込まれていく。
「僕はシュリット。この景色のことをどう言えばいいのか、ですね。……最初に思ったことは眩しいなと思いました。ただ、これが本当に眩しいという表現でいいのかはわかりませんが、目を細めたくなるような、ずっと見ていられないようなそんな感覚です」
車掌は静かに聴いている。車掌自身、眩しいという身体の反応について言及するつもりはない。シュリットの言っていることが正しいから。
シュリットは慎重に言葉を選ぶようにゆっくりと紡いでいく。
「風も気持ちがよくて、落ち着く。何だか、すっとした香もして僕はこの空気が好きだと思います。……あと、僕が一番注目したところははね雲です。太陽の色みたいになっていて、少し白っぽい。ですが、空の青も少し映っているし、赤色に見えるところもある。高いところにできる雲らしく、水に映る空も見ていそうな気がします。掬い上げた水が糸のように流れる……そんな触り心地の雲だと思いました」
シュリットはほう、と一息つく。
「……これで終わりです。どうですか?」
「うん、よく頑張ったね。難しいお題だったと思うけど、シュリットが一生懸命考えてくれて嬉しい」
車掌は瞳を細める。太陽の白い光と空の青色の境目の色と似ている瞳が優しくシュリットを見つめる。
「最後にひとつだけ。シュリット。見えるようになったあなたにとって、光や色というものはどういうものに感じる?」
暗闇の視界ではなかった。だから、シュリットの視界には光も色もあった。だが、それを明確に区別できるような視界ではなく、はっきりとしない霧がかった視界だった。
それが今はどうなのか。車掌はそう問う。
「……」
シュリットは空を見上げる。先ほど見てきた空の中で一番明るいと思う空。光が溢れているこの空だ。
「新鮮に感じました。それと同時に、世界は光や色に溢れていて、単純に青と言っても色々な青があって、明るい、暗いと言ってもそれもまた違って……。光や色を言葉で説明するのはとても難しい。けれど、表現がいくつもある。ということはそれだけ多様ということなのだと……そんな風に思います」
「そうか。シュリットはそういう人だったね」
車掌は声を弾ませる。
シュリットの答えに対して講評はしない。彼の感性をそのまま受け入れる。それが彼にとっての新しい世界への入り口になったのなら、余計な口出しはしない。
シュリットは穏やかに笑うと、窓を閉める。名残惜しそうに入り込んだ風が一際爽やかで、気持ちのいい風だった。
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