仕舞い忘れたミニカー

第3話 仕舞い忘れたミニカー

『錯覚』

子供部屋の扉を開けると

窓辺に置かれた

トナカイのつぶらな瞳と

私の目が合った

ぬくぬくとした

春の陽が差し込む

この部屋の主は

遊び疲れた挙げ句

リビングで眠ってしまっている

のだろう

子供部屋の扉を開けると

窓辺に置かれた

トナカイのつぶらな瞳と

私の目が合った

ぬくぬくとした

春の陽が差し込む

この部屋の主は

今朝叱られたことも忘れ

幼稚園の園庭を走り回っている

のだろう

けれど

子どもたちの背で

ランドセルの

バタバタと鳴る音が

近づき

遠ざかり

そのうちの

一続きの音が

玄関で止まり

チャイムが鳴る

『松の若葉が、いつしか』

うすみどり色をした松の若葉は

いくつもの短い直線

そんな庭の樹木の指先を掴もうと

私は丸太の手摺から腕を伸ばしてみる

掌に取れんばかりの

転がるような囀り

そんな不如帰の鳴き声にも気づかず

遊び疲れた我が子は奥の部屋で眠っているだろう

素焼きのコーヒーカップを口元に運びながら

幼子の面影を探す

テラスから身を乗りだし

私に引き戻されて泣く小さな姿も今はなく

虫取り網と篭を傍らに

夢を見ているその子は

今日も薪を運んで誇らしげに笑い

野山を駈け巡るのだろう

いつしか日が高くなり

鳥の数知れぬ声が入り乱れる

カップは空になり

こうしてペンを持つ時間がやけに間延びする

針のような葉が刻一刻と

終わりのない空へと

ばらばらに広がっていく

触れた指先が微かに痛む

せっかく用意したサンドイッチ

ハムと卵がたっぷり入って

ママ一人では食べきれないよ

ということではないけれど

一人で起きていたい夜と

一人で寝ていられる朝を迎え

松の若葉がいつしか伸びる

広がる

深まる

私の知らない何処かへ

『ありふれた楽園』

今はもうない

ありふれた楽園

休みの日に

駅まで走る足取りは弾んで

朝からの日差しが

小鳥の羽ばたきのように瞬いて

ようやく

乗り換えに戸惑わなくなって

ようやく

飲み物やパスケースを忘れなくなって

地下から

ママとKくんとを乗せた電車が

お日さまに

おはよう

商店街や

駅前のマンション

街路樹の緑が溢れるこの街からも

きっと仲間が乗ってくる

冒険に合流しようと

朝から大忙しだろう

可愛い電車に乗れたらわくわくして

一駅の間が楽しくて

開園前の門の側で

ベンチに座ってパンを食べたね

育ち盛りのKくんに

ママのマフィンもあげる

門が開いたら

追いつけないくらいの速さで

昆虫館に走り出して

せっかく朝から並んだのに

蝉が鳴いたら

そちらに走って

カブトムシやクワガタと触れ合って

小さな窓から見える

隣の家のベランダに干された洗濯物の白さと

シャツをそよがせる風で涼んで

釣堀で

餌を丸めて針につけてあげようとしたら

指を刺してしまって

釣り上げた魚から針を外せなくて

レストランの窓際で

ジェットコースターを眺めて

買ってあげたお子様ランチを

なかなか食べ終えられなくて

風船や

トランポリンや

アスレチックや

すべり台で暴れて

日の落ちた中を

門まで歩いて

夕焼けが綺麗だから明日も晴れそう

と思いながら電車に揺られて

「T園に住みたい」

と言いながら

Kくんはうとうとして

家で食事をしたあと

アニメの録画を観ながら

釣堀でもらった景品の駄菓子を食べていたら

開けていたルーバーから

風が吹き込んできて

そんな

今はもうない

ありふれた楽園

(T園閉園に寄せて)

『仕舞い忘れたミニカー』

この日が

いつかは来るって

ちゃんと

分かっていたつもりだった

けど

いつの間にか来ていたんだね

気づかなくて

ごめんね

「また明日来ようね。今日は帰ろう。」

買い物帰りに寄った

落ち葉の綺麗な公園

「また明日観ようね。面白かったね。」

大好きなキャラクターが踊っている

お馴染みのテレビ番組

「また明日遊ぼうね。片付けておこうね。」

リビングの片隅に

仕舞い忘れたミニカー

明日

が来なくなってどのくらいかな

来なくなった

明日

を

ママは

今日

も探しているよ

滑り台も吊り橋も

あんなに怖がったけど

着ぐるみの遊ぶお花畑も

一日中遊べるぐらい広かったけど

赤いお洒落なミニカーで

どこまででもドライブできそうだったけど

君にはもうどれも小さすぎて

君の漕ぎ出す世界が

ママには広すぎて

その日は

もう来ていたんだって

ちゃんと

分かっていたんだ

嬉しいはずなんだ

けど

気づかないふりしていて

ごめんね