第2話 ありふれた白南風
『ありふれた黒南風』
もっと
笑っていたかった
あの日
目覚めると
瞼の腫れが
少しだけ引いていた
傍らで眠る幼子が
少しだけ身じろぎした
赤みがかってきていた朝顔が
少しだけ開いたままだった
鉛色をした雲
もう夏なのに
子どもの手を引いて
玄関から歩き出す
駅前の商店街で
丸みのある雀や亀の置物に
少しだけ抱きついていたね
干物屋さんの池でのろのろと漂う金魚を
少しだけ眺めたね
いつの間にか綺麗になっていた空を
少しだけ見上げたね
子どもの手を引いて
今下りてきた坂を上る
風が熱いね
もう夏だもの
少しだけ
笑っていた
あの日
『なくしもの』
chou chouをなくしてしまった
料理をする時
髪を落ちないように結わえていた
白と明るい紺色がストライプになった
木綿製のchou chou
身につけたまま外出した覚えはないのだが
植木の手入れ
庭の掃除
そんな時
髪につけていなかったか
と考え
にわかに自信がなくなってくる
時間に追われていると
こういうこともあるのだ
と
情けなく思えてくる
あの日も
一緒に出かけなかった
熱中症の警報が出ていて
途中から雨が降り
人混みは憚られ
話しかけてきたのに
生返事をしてしまった
料理をする手を離せなくて
洗濯機が終了のアラームを鳴らしていて
火を止めたり多少の皺に目を瞑れなかったのか
と考え
にわかに自信がなくなってくる
時間に追われていると
こういうこともあるのだ
と
情けなく思えてくる
今はもう閉鎖してしまった遊園地に
二人で出かけた日
開園を待ちかねたように駈け出す子を追う
私の髪で
あのchou chouが揺れていた
昆虫館で立ち疲れ
少しでも涼みたくて
釣り堀で
針に髪が絡まないよう
ひとつに結わえ直した
一緒にテレビを観ようと
最後に甘えてきたのはいつだったろう
お気に入りのボーダー柄Tシャツを着て
ママのリボンと同じだ と笑った日は
過ぎた時代も
なくしたchou chouも
ごめんね
ごめんね
遊ぼう
と
珍しく抱きついてきた
振り向くと
近くの床に
chou chouが落ちていた
この後も
悪態を吐かれながら
髪を纏め直して
でも
なくしものをした日は
怒らずに済みそうだ
『狭衣の春』
その子は
きらきらと笑いながら
こちらに向かって駈けてきた
全身に纏った
桜の吹雪
そんな花びらの洪水に似た
光の粒々そのものに
この子がなってしまったように
一瞬だけ
うろたえ
抱き寄せた
可笑しいほどの左右対称
キッズスペースに表示された
ロゴマーク
のように
両手を空へと伸ばし
抱っこ
とせがむ
抱き上げた両腕
片手に
たった今
自動販売機で買った
カルピスウォーター
片手に
お昼ごはんのおにぎり
を
落とさないよう
きらきらと光る
池の水面
を囲む
柵に沿って
抱き上げたまま
抱き上げられたまま
その子は
きらきらと笑いながら
こちらを振り向き
駈けていった
全身に纏った
桜の吹雪
そんな花びらの洪水に似た
光の粒々そのものに
この子がなってしまったように
一瞬だけ
うろたえ
抱き寄せた
そんな遠い日を抜け
いつしか伸びた背丈で
私を追い越して
『ありふれた白南風』
その路地裏には樹があった
曲がりくねった枝をのべ
二メートルもない道幅に
花を差し出し時に落としていた
自宅での採点中
赤ペンを持つ私の手の動きは
時計の針と陽の速度に反し
日曜の夕べが暮れようとしていた
幼子の手を引き
ようやく家の裏道へと歩いた
小さな掌に滲む汗は
いつしか私自身のものになっていた
ベランダに忘れられた赤い玩具の車
南の海に沈む夕陽の色をした花
この時間にしては明るすぎる雨上がりの白い空
黒々と滴るような緑の葉の影
その子が歌を歌い出す
私もせがまれ歌い出す
しかし間違え
子どもが泣いた
しばらくして落ちていた花をひとつ
掌いっぱいにのせ
こちらに差し出した
「帰ろう」と
送り迎えのできなかった一昨日と
遊びに連れ出すことのできなかった昨日今日の後ろめたさが
一日の終わりを吹く風の中
心地よく冷やされていった
硝子のコップに花を浮かべ
そして閉じこめた
言葉にならないそれぞれの心が穏やかに溶けていった
このありふれた白南風を
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