後編


「宇田川さん、各種用意した。好きなのを選んでくれ」

「え、え、え、え。いいの、こんなに?」


 夏休みに入って三日目。いつものように俺の部屋に宇田川さんを呼んだ。一曲とはいえ、曲の作成からレコーディング、動画サイトへの投稿まですべて俺と二人三脚でやりきってくれた彼女に、お礼が言いたかった。


「シンプルなチーズケーキに、下に施されたピスタチオの層が絶品のチョコレートケーキ。スポンジなしで構築された生クリームとメレンゲのケーキに、夏にぴったりパイナップルとマンゴーのタルト」

「す、すごい!」


 俺がローテーブルに並べたケーキたちに、宇田川さんは大興奮だった。表情は固いままであるものの、一つひとつ買ってきたケーキを紹介すれば、その度に彼女の瞳は輝きを増したのである。


「好きなだけ食べてくれ。今回のお礼だから」

「え、で、でも。私こんなに食べきれないし」

「一口ずつとか、気になったやつだけでもいいよ」

「え、でも」

「気にしないで。俺も甘いの好きだし。宇田川さんよりは腹に入るから、残ったのは俺が食べる。ケーキは無駄にしない」


 俺がそう言い切れば、彼女は真剣な瞳でケーキを吟味し始めた。


「そ、それじゃあ、どうしよう……。まずチーズケーキから」


 フォークでケーキをつつく宇田川さんは微笑ましく、自然と俺は笑う。


 宇田川さんはどこか人付き合いが苦手らしく、表情にはいつもぎこちなさが残る。今も彼女は笑顔を浮かべていない。彼女の笑顔など、それこそ奇跡が起こらなければ見れないのではないかと思うほどに、曲作りで一緒にいる際にも見る機会はなかった。

 しかし彼女の感情がこちらに全く伝わらない、ということでは決してない。その感情はちゃんと俺に届いている。

 今もそうだ。用意したケーキにここまで喜んでくれれば、母に頭を下げて一緒にセレクトしてもらった甲斐がある、というものである。

 ちなみに、ケーキの代金は俺の小遣いから毎月引かれる。利子付で。


「お二人さーん。入るわよぉ」

 

 妖怪利子ババア、もとい母の事を思い出していただろうか。当の本人が紅茶をトレイに乗せて俺の部屋に突入してきた。


「お、お邪魔してます!」


 宇田川さんは慌ててケーキを喉奥へ流し込み、母の方へ振り返ってお辞儀をした。


「いらっしゃーい。ケーキおいしい?」

「はい。とても美味しくて、嬉しいです。幸せです」

「んんー、素直でいい子! 息子に彼女ができて、本当にお母さん嬉しい!」

「母さん、だから宇田川さんは彼女じゃ……」

「お母さん、やっぱり女の子はウエディングドレスが――」

「話聞けよ、おい」


 なお、俺が曲作りのため宇田川さんを家に呼んだ初日に、母と宇田川さんは顔を合わせた。そしてその日から母さんは宇田川さんを俺の彼女だと思っている。


「じゃ、若い二人でごゆっくり! お邪魔虫は退散するわね!」

「俺の声聞こえない病気とかじゃないよな、おい」


 紅茶をテーブルに置いた母は笑顔で手を振ったまま、部屋を出て行った。俺はその背が見えなくなるまで睨みつけていた。

 母と宇田川さんとの邂逅を済ませてから三十日と少し。俺は未だ母の誤解を解くに至っていない。


 母が去った後、俺はいつも宇田川さんに謝罪を入れる。


「ごめん、宇田川さん。いつもあんな母さんが……」

「菊池君の人の話聞かない感じ、お母さん似だよね」

「宇田川さんがそれ言うの? ていうか、嬉しくねぇ!」


 俺がそう叫んぶと、宇田川さんはじっと俺の顔を見た。


「いいなぁ」

「……え?」

「仲、良さそうだなって思って。……羨ましい」


 目を伏せる彼女の言葉を、俺はゆっくりと咀嚼する。


 ずっと、気になっていたことがある。


 彼女は屋上で歌っていた理由を「お金がなく、人に聞かれずに歌える場所が屋上しかないのだ」と。

 しかし、人前というのが他人を示し、その他人の前で歌うのが恥ずかしければ、屋上よりもっと適切な場所があるのだ。


 カラオケ、そしてである。確かに、カラオケは頻繁に行けばお金がかかる。しかしそれならば、自宅で歌えば良かったのだ。放課後にさっさと帰って自宅で歌えば、よほどの大声で歌わない限り、家族に聴かれることはあっても、赤の他人に聴かれることもない。

 それでも彼女が自宅で歌わないのは、それが適さない環境であるということだ。実際彼女も「家では歌えない」と言っていた。


「……宇田川さんは、お母さんとはあんまり?」


 宇田川さんは目線を上げない。


 随分と踏み込んだ質問をしてしまったと思う。

 でも、どうしてだか、彼女のことをもっと知りたいと思って、気が付いたら聞いていた。


「……私とお母さんは、仲、悪くないと思う。ただ、最近ずっとお母さんとお父さんが喧嘩してるから、全然話せてないだけ」

「それは――」

「お互い、ちょっと不満が溜まって、文句が止まらなくなって、ってだけだと思う。でも結構その期間が長いから、その分、私も居ずらいってだけ。でも自業自得だから、仕方ないかなって」

「自業自得って、なんで……? それはご両親の問題で、宇田川さんが悪いわけじゃ」

「止めにも入らないから、私。いつも自分の部屋に逃げて、ヘッドホンで耳に蓋をするの。物理的に耳を塞ぐために、私は楽しいはずの音楽を鼓膜に無感情に流して、二人が疲れて寝るまでじっと待つんだ」


 いつか、彼女は音楽を壁だと言った。その比喩が彼女のどういった環境から生まれたものなのか、初めて俺は知った。

 おそらく彼女が音楽を壁と称したのは、音楽が両親の不仲という辛さから心を守るための城壁だからだ。壁として自分が好きである歌を使っている。音を楽しむのではなく、物理的に耳を塞ぐ手段として利用している。そう言って彼女は自身を責めているのだ。


 そんな風に思う必要など、欠片だってないというのに。


「歌が上手くなりたいとか、そういう感情だけで純粋に歌が好きならよかった。でも音楽を逃げるために使ってる私は、本当は菊池君にこんな褒めてもらえる資格なくて」

「……」

「菊池君がスクショ送ってくれたさ、動画サイトのコメント欄、見たよ。歌声がステキですねって書いてくれた人いたよね」

「うん、いた」


 宇田川さんが歌った歌は、世間とってはそこそこ、俺にとっては大快挙となる評価を得た。高評価も再生数も見たことがない数字となり、舞い上がった俺は嬉々としてコメント欄のスクリーンショット画面を宇田川さんへ送ったのだ。


「すごい嬉しかった。すごい嬉しかったのに――」


 宇田川さんはぎゅっと自身のスカートの裾を握った。皺がついたそれに目を落とし、少女は小さな声で呟く。


「なのに、まだお母さんたちには話せてなくて。嬉しくて話したいのに、頑張ったねって笑ってほしいのに、喧嘩ばっかりでピリピリしてるから、伝えにくくて」

「…………」

「馬鹿みたいに臆病で、勇気を出せない自分が悪い。悪いってわかってて、でも」


 怖いから、と。彼女はそこまで言って、黙り込んでしまった。

 一瞬だけ見えた潤んだ目は、おそらく気のせいではない。


「宇田川さんはさ、多分ピュッアピュアなんだと思う」

「へ? ぴゅ……?」

「いいんだよ、そんなことで悩まなくたって。歌をどうしようとしたって。ただ楽しむだけで聞くときもあれば、心を支えるために聴いたって。俺だって楽しむだけじゃなくて、認めてもらうために使ってるんだ。自分はこういう歌が好きだぞ、自分はこういう風にいつも思ってるぞって。たくさんの人に知って、共感して、褒めてほしくて。そういう邪な気持ちもあるよ。でもそれって、多分責めるようなことじゃないし」

「それは、音楽が好きっていう菊池君だから、そうなるんだよ。私とは――」

「宇田川さんも、音楽が好きじゃなきゃ辛いときにまず頼らないし。どんな形でもそれは宇田川さんの好きだよ」


 宇田川さんは肩から力を抜き、目を大きく見開いた。目から鱗だったらしい。


 宇田川さんの考えていたことはあまりに自虐的で、俺の言ったことはあまりに一般的な論だ。それにもかかわらず、宇田川さんは考えたことがなかったと言わんばかりの反応を見せた。



 これは一説だが、両親の喧嘩が子どもに与える悪影響のひとつに、「自尊心への影響」があるらしい。「自分が悪い子だから、自分にとって悪いことが起きるのではないか」という心理が働くらしく、宇田川さんもそれに当てはまるのではないだろうか。


 自分が積極的に動かないせいで両親の喧嘩が長期化し、しかも動かないために自分が好きな音楽を利用している。それは純粋な行為ではない、と。


 一般的に見れば、それは辛いときに好きなものを心の支えにしているだけで、立派な「好き」であることに変わりはない。それをわざわざ自虐的な方向で捉えるあたり、今の彼女は結構まいっているのではないか。


 なんとか、救うことはできないだろうか。


「宇田川さん、良かったらもう一曲歌わない?」

「え……?」

「宇田川さんの両親に聴いてもらおう。それで、仲直りのきっかけにしてもらうんだ」


 宇田川さんが口を開けて、目を見張る。今日は比較的彼女の表情が動く日だと、そう思った。



 *



 夏休みも終わって半月。現在俺たちが通う高校は文化祭の準備に追われている。

 クラスの劇のリハーサル中、舞台裏でクラスメイトの名演を眺めていると、ズボンのポケットに入れていたスマホが震えた。画面を見れば、そこには宇田川さんからの報告。それはご両親が文化祭に来れることになった、という内容だった。



 俺は夏休み三日目のあの日、宇田川さんの歌を彼女のご両親に聴いてもらおうと提案した。文化祭では俺の所属しているフォークソング部にも、体育館を使うことが許されている時間がある。その時間の一部を借りて、俺たちの歌を披露しようと。


 宇田川さんは最初、恥ずかしくて無理だとこの提案を断った。しかし両親に歌を聴いてもらえれば、自然と歌について家族で話題になる。それに文化祭は家ではなく、娘の通う学校で行われる。歌を聞かせた直後に話せば、それは周囲の目がある中で話すということ。ならば家の中で話すよりも感情的にならないかもしれない。

 俺がそうつらつらと主張すれば、宇田川さんは悩んだ末、俺の提案を受け入れてくれた。


「いいの? 私のために?」


 俺が部長にお願いして、部員ではない宇田川さんの参加の許可を取った時、彼女は申し訳なさそうに尋ねた。


「いいんだよ。好きでやってるから」

「ほっとけばいいのに。歌のお礼なら、もうもらったのに」


 そう言って俯く彼女に、俺はしたり顔で言ってやった。


「ほっときたくないんだよ」


 かっこつけたことが功をなしたのか、彼女はそれから俺の行動に照れた様子で、「ありがとう」とだけ言うようになった。



 *



 文化祭、当日。ステージ裏で他の生徒の演奏を聴きながら、自分たちの番を待つ。隣にいる宇田川さんをちらりと見れば、カチコチに固まった彼女が、一生懸命に人の文字を呑んでいた。


「宇田川さん」

「な、なに、なな、なにかな!?」

「宇田川さん、大丈夫だよ。ご両親は来てくれてるんだよね?」

「う、うん。さっき、椅子に座ってたから」


 観客用に用意されたパイプ椅子群。その中に彼女のご両親がいる。


「……なんでだろう。なんか俺まで緊張してきた」

「な、な、どうしよう! 菊池君まで緊張してたら、ガタガタになっちゃうよ」

「いや、宇田川さんほどじゃないから。でもうーん、宇田川さんの緊張どうしよっか。……あ、そうだ」


 俺は自身の手に人の字を書くと、そのままその手を宇田川さんに差し出した。


「俺の分もどーぞ」

「…………」


 自分の人の字で落ち着けないのであれば、他人のも一緒に! という我ながら意味のない提案である。これがクラスの友人なら「いらんわ!」と一言で言い捨てられて終わりだが、宇田川さんの場合は真剣に検討しているようで、じっと俺の手のひらを見つめた。


 そして答えは出たのか、彼女は俺の手を掴んだ。


「……宇田川さん?」


 ぎゅっと掴んで、そのまま離そうとしない。かといって、人の字を呑むような動作もない。


「……やっぱり菊池君も自分で呑んどこう」


 そう言って、俺の人の字は返却された。そっと熱が、手から離れていく。


「いいの?」

「いいよ。人の字は呑んでないけど、勇気はちゃんともらったから」


 そう言って彼女は立ち上がる。心なしか、いつもより彼女の背中が頼もしく見えた。



 *



 ステージの上にて、俺がチューニングしている間に、宇田川さんにMC権が渡される。他の部については知らないが、少なくともうちの部では、楽器の準備までの時間を潰すのはボーカルの仕事だった。


「あの、私、自分に自信なくて」


 俺が自前のフォークギターとアンプの調子を確認している間、宇田川さんが自分なりに曲を紹介する。


「最近、暗いこととか、嫌なことが重なってたり。自分駄目だなって、意味がないってわかってても悩んじゃったり。負のループで、本当に嫌で」


 俯く彼女の背を、俺は少し心配して見ていた。しかし、彼女はじっと客席を見ると、丸まった肩を伸ばした。


「でも、私はこの曲が好きで、この曲を作った人も信頼できる人で。だから、その人が好きだって言った私の声も、いつか本気で好きになれると思います。今日は、その一歩にしたい。どうか、私が世界で一番好きな歌を、聴いてください」


 彼女の言葉の終わりを待って、俺は弦をつま弾いた。

 ギターの音色を背に、歌声がマイク越しに広がり、響く。



 ――夏が終わっても まだ君が 隣にいる

  昨日も今日も 閉じたままだと俯いて

  だから僕は夢を湛えて

  綾なす今と 明日 先 未来

  鼓動は遠く――




 積もる思いと期待と、おそらくわずかな感謝と見栄も添えて。彼女は精一杯を歌った。



 *



 歌が終わり、僕たちは軽くお辞儀をする。割れんばかりの拍手を受け取り、俺たちはそさくさと舞台裏に退散した。


 一仕事終えた職人のように、舞台袖の下で、晴れやかな気持ちを持ちながら俺は背伸びをした。想像以上に緊張していたらしく、疲れを感じていた。


「いやあー、良かった! 宇田川さん、おつか――」


 俺は振り返り、後ろに立っている宇田川さんに労いの言葉をかけようとする。しかし彼女は舞台の方をずっと見ていて、俺の方を見ていなかった。


「宇田川さん?」

「…………てた」

「え?」

「笑ってたの!」


 彼女は興奮した様子で振り返ると、両腕をぶんぶんと振りながら、俺に語りかける。


「お母さんとお父さん! 最後、歌い終わったとき、手振ってくれてたの!」

「――そ、そっか! 良かった!」

「うん! 二人があんな穏やかに一緒にいるの、久しぶりに見た!」


 宇田川さんはピョンピョン飛び跳ねんばかりの勢いで、矢継ぎ早に己の感動を俺に伝えようとする。

 どうやら、俺の思い付きは想像以上に好転への一手となったらしい。頬をわずかに紅潮させる彼女の様子から喜びが感じ取れて、俺まで嬉しかった。


 表情が日頃から固い彼女の感情を読み取るのも慣れたものだと、自身の成長を感じていたその時。俺のその思考を読み取ったように、タイミングを見計らったかのように、彼女に変化が訪れた。


「ほんと、はは! 奇跡みたいだ」


 肩から力を抜いて、目尻に少し波を浮かべている彼女がそう言った。

 俺は息を呑む。


 それは君が初めて、俺の前で破顔した瞬間。


 奇跡が起こって、君が笑ったその刹那。



 その瞬間こそ、俺が宇田川さんを本気で好きになっていたと気が付く三秒前。


 そして感極まった俺が宇田川さんを抱きしめ、顔を真っ赤にした彼女に怒られる十秒前のことである。


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奇跡が起こって、君が笑う 葎屋敷 @Muguraya

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