十話

穏やかな夢を見た。

綺麗な青空と、キラキラ光る湖の側。そこに賑やかな笑い声が響く。

レティは対岸に立っていた。目の前は渡れない一面の碧。楽しい世界はいつも眺めているだけの光景。

でも皆がレティを呼んでいる。こっちにおいでと手招きしていた。

いつもならレティは行かない。行ったとしてもどうすればいいのか分からないからだ。碌な返事もできない己に逡巡する。

いきなり、レティの両肩を優しく包む手があった。大きくて固い手がレティの肩をすっぽりと覆った。

そのままフワリと抱き上げられた。不思議なことに湖面の上を沈むことなく歩いていく。抱き上げてくれた人の顔を見上げた。

彼は小さく微笑んでいた。照れたように、優しく笑って湖を渡っていく。


ーーあぁ、初めて見た笑顔もこんなだったな。


あの時のことはよく覚えている。とても小さな変化だったが、お礼と同時に変化した表情はレティの心を満たしてくれた。

彼に抱かれたまま湖を渡り切ると皆がレティを歓迎してくれた。

何か面はゆいなと思う反面、ああこれは夢だなと実感すると唐突に周りの景色が溶けていき、レティ自身も霞のように霧散していった。






静かな部屋の中で薄く目を開けると、見慣れぬ天井が飛び込んできた。

まだボンヤリした頭で夢の内容を思い出す。ここまで鮮明に覚えているのは随分と久しぶりのことだった。

珍しいな、と思う。睡眠時間が短い分、いつも深い眠りだったから夢なんて殆ど見なかった。見ていたとしても心に強く残るほど覚えていることはなかった。

まだ夢に浸っていたかったが、違和感が強く残る景色を見てそうも言っていられない。

レティはゆっくりと身を起こして周囲を確認した。

そんなに広くない部屋だ。清潔に保たれた白い壁に、小さな窓と白いカーテン。

対面にはまたシンプルな扉。レティの足でも十歩もしない内に辿り着ける距離だった。

扉とベッドの間には引き出しが備わった小さな机が一つに背もたれの椅子が一つ。ベッドの側にも丸い椅子が一脚あった。

他は何もなく、殺風景な部屋だった。

いや、一箇所だけ部屋を彩った物があった。レティはそこに目を向ける。

机の上に花瓶が置かれていた。そこに色とりどりの花が生けられている。

綺麗だと思うが、知らない花ばかりだった。だけど一つだけ、つい最近覚えた花が紛れていた。

鮮やかな花に埋もれて目立たないが、こんな使い方もするのかとレティは瞠目する。

花瓶の直ぐ横に折り畳まれた小さな紙が置かれていた。

何となく気になって、レティは裸足のままベッドから降りた。

その時気付いた。いつもレティが着ている質素な服ではなく、清潔そうな寝間着を着ていた。

思わず触ってみれば滑らかな質感が手に伝わった。

レティの持ち物ではない。というか、レティの寝間着は使い古された物ばかりだ。こんな真新しそうな服は全く記憶にない。

何故、と頭の中ではてなマークが乱舞したが、分かる訳がなかった。

机の上の紙に答えが書いてあるのではと思いベッドに座ったまま手に取るが、残念ながらレティの今の状況の解答は書かれていなかった。

折り畳んだ紙を広げて内容をざっと読む。中には簡単に記載されていた。


『ロイドさん、レティさん へ

もう無くさないでね♡ ミアータ、エレオノーラ より』


そして下には材料や調味料らしき名前が容量と共に箇条書きされている。更に下を読んでいけば材料の使う手順が簡潔に記されていた。

何かのレシピなのは分かったが、どうしてそんな物が机に置かれているのかサッパリだった。

ミアータとエレオノーラの名前にも覚えがない。多分女性だとは思うが、最近の記憶を辿っても心当たりは全くなかった。おまけに気になる名前がもう一つあった。

余計に混乱してしまい、紙を持ったまま固まっていたが、不意に扉が開く音がした。

内心でかなり驚いた。身体が強張ってしまい、目だけが開いた扉を窺う。

けれど入ってきた人物も驚いたのか、取手を握ったまま中途半端な形で動きを止めていた。

お互い無言で相手を見る。碧の瞳と薄緑の瞳が交錯した。

先に沈黙を破ったのは向こうだった。


「……もう、起きても大丈夫なのか?」


その声に、途端にレティの緊張が解けていくのが分かった。何でこんなにも全身が身構えたのか疑問を覚えるが、彼の声を聞いて安堵の息を吐いた。


「……ロイさん」


呟いて、自分のしわがれた声に驚く。

随分長いこと出していなかったみたいに掠れきっていた。喉がへばりついていて、ようやく渇いているのだと自覚した。

視線を落とし、つい喉元に空いた手をやろうとする。

でも、レティより先に大きな手が優しく首筋に触れてきた。

反射的にピクリと肩を震わせると、手は慌てたように引っ込む。


「……悪い、大丈夫か?」


言われて視線を上げると、いつの間にかロイさんが直ぐ側に立っていた。

何故触られただけで肩が震えてしまったのかーーその理由が夜の出来事だと瞬時に思い出したが、目の前の光景に一気にどうでもよくなってしまった。

間近にロイさんの顔があった。いつもならどうして近いのと原因不明の焦燥に囚われるのだが、今回は別の意味で驚愕に襲われた。

口元は常と変わらず引き結ばれているのだが、その瞳。

正確には眉尻が少し下がっているのだ。

まるで心配しているような、困っているような表情に見えるのはレティの錯覚ではなかった。

見たこともない顔立ちにレティは目を瞠ってしまった。

しばらく無言が続いたが、耐えきれなくなったようにロイさんが片手に持っていた物を差し出した。

小さな盆だった。その上に、湯気が立ったカップが二つ。


「……飲めるか?」


小さく言われて、レティはコクリと頷いてカップを一つ受け取った。

カップの中身を覗き込む。店で見た、あの色のお茶だった。

でも、香りがしない。レティの鼻が駄目になってしまったのかと不思議に思ってついつい首を傾げてしまった。

取り敢えず渇きを癒やすために一口飲む。味覚も機能していないのか、味が殆どしなかった。

盆を机に置いて、手近にあった椅子に座ったロイさんも飲む。

すると、今度は眉を顰めて「悪い」とまた呟いた。


「俺が淹れたんだが…………味も匂いも全然しないな」


憮然とした様子にレティは可笑しくなって小さく目を細めた。ーー残念ながら、それ以上表情が変わることはなかったが。

ロイさんが数少ない不得手とするお茶をわざわざ淹れてくれたのだ。ちゃっかり二つ用意していたのは周到と言うべきか。もしくはレティが目覚めるまで何回も淹れ直してくれていたのか。

それを想像すると余計に可笑しくなって、心が温まるのを感じた。さっきまでの緊張が嘘のように解けていく。


「うん、でも美味しいよ。……ありがとう」


まだ少し掠れていたが、やっと滑らかに声が出せた。

紙を持ちっぱなしだった手でそのまま喉の辺りを触る。

痛みはもうない。絞められた感触が一瞬だけ蘇るが、ロイさんの表情の変化と温かいお茶のお陰で恐怖心は何処からも湧いてこなかった。

ふ、とレティの手の上からロイさんの手がもう一度伸びて触れてきた。

先程以上に、まるで腫れ物に触るかのように慎重な手付きで、レティの手の甲を撫でる。

その手が決してレティを傷付けないことは百も承知なのに、どうして彼は怯えたように触るのか疑問だった。

だから、その手を触り返そうとすると、ずっと持っていいた紙片が床に落ちてしまった。


「……あっ」


慌てて拾おうとすると、ロイさんが先に指先で紙を摘んだ。

既に読んだのか、中身を軽く眺めただけでそのまま机に置いてしまった。


「あの、ロイさん……その手紙……」

「あぁ、一昨日行った店からもらったものだ。あの時の土産のケーキにレシピを紛れ込ませていたらしい。これで、同じ物が作れる、だそうだ」


そう言ってロイさんは、買い物を潰してすまないと、三度目の謝罪を口にした。

レティは首を横に振りながら内心で驚く。

一昨日と言うことは、レティは一日以上眠りこけていたのか。道理で喉も渇くし、夢も鮮明に見るわけだ。

納得しながら続けて質問を口に出す。


「あの、じゃあそこに書いてある名前は?」

「あの時いた二人の店員ーー姉妹の名前だ。本当なら店主に黙って渡すはずだったらしいが、昨日来た時はこっぴどく怒られていたな……もう少し、詳細に書けとか」


その時を思い出したのか、ロイさんが遠い目をしながら答えた。

でも、レティが聞きたかったのはそっちではなかった。この間行った店と聞いて、心当たりがあったから。


「あ、いえそうじゃなくて……」


思わず口籠る。

ロイさんが訝しげにレティを見るが、どう言えばいいのかレティは迷った。

だって、もしかして今まで勘違いで呼んでいたのだから。

どれくらい時間が経ったのか分からないが、ようやく決心がついて問い掛けた。


「ロイさん」

「ん?」

「ロイさんって……ロイドさんなんですか?」

「……………………は?」


たっぷり間が空いてからロイさんは聞き返してきた。

それから何かに思い至ったのか、物凄い渋面を作ってレティを見てきた。

見慣れているはずなのに、そんなロイさんの表情を見てレティは心の中でワタワタと慌てた。

そう言えば意識が朦朧としていた時も、何となく周りの警備兵の人達が”ロイドさん”と呼んでいたのを思い出す。

レティだけがずっと”ロイさん”だと勘違いしていたのだ。

俯いて、どうしてずっと間違っていたのかと記憶を辿ろうとするが、答えに行き着く前に頭に手を置かれた。

ハッとして顔を上げると、ロイさんがとても神妙な顔をしてレティを見つめていた。

この短時間の間にコロコロ表情が変わるロイさんに面食らっていると、バツが悪そうに少しだけ目を逸しながら小さく首肯した。


「……確かに俺の名前はロイドだが……好きに呼べばいい。その呼ばれ方も、割と気に入っている」


そのまま優しく頭を撫でてくれる。

何故ここで急に頭を撫でてくるのか分からなかったが、もしかして、気にするなというよりは照れ隠しなのだろうか。

そう思って瞬きを繰り返しながらロイさんを見ていると、彼は余計に目をあらぬ方向に向けてしまった。

当たりだと確信すると、唐突に胸の奥から説明し難い気持ちが湧いてきた。ザワザワするようなソワソワするような不思議な感覚だった。

けれど、無理矢理鎮めようとは思わなかった。

感情のままにロイさんの顔をジッと見る。

綺麗な湖と同じ色の瞳は、まだレティを見ようとしない。いつの間にか顔自体がそっぽを向いていた。

その所為で髪の色が良く見えた。部屋の白い壁では光も反射していないから、白髪にも金髪にも見える、絶妙なバランスを彩っていた。

瞳と髪の色が綺麗だなと改めて思った。褐色の肌は元々気にしていない。

ただ、色の濃い肌が余計に碧と白金を際立たせているなと思った。

頭を撫でられながら、飽きもせずボンヤリとロイさんを眺めていると、ついに向こうが折れたのか小さく息を吐き出しながらレティに向き直った。

その時、変な表現だが、ロイさんの挙動が可愛く見えてしまった。

レティはカップを机に置いて、頭を撫でていた手を取る。

微かに驚いた顔をしたロイさんを見ながら、彼の手を胸に持ってきて両手で包み込んだ。


「じゃあ、ロイさん、のままでいいよね」


そう言って、悪戯っぽく首を小さく傾げた。

レティの顔を見ていたロイさんは、小さな驚きから溢れんばかりに目を見開いて驚愕を露にした。

そこまで驚いた姿は見たことなかったから新鮮だと思いながら、いきなりの変化にどうしたんだろうと、レティは心の底から不思議に思った。



レティが感情のままに吐露した時、心から破顔していたことに彼女自身が気付くことはとうとうなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

変異種も魔女も、誰かを想う気持ちは変わらない 立花砂那 @shamrockf

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ