透明人間と、不可抗力と、僕 ③

 僕は車を走らせた。目的地もなく。


 車内は質問が許される雰囲気ではなく、夜の走行音のみが心地よく響いていた。

 坂を下り、だんだんと街の灯りが多くなっていく。


 車内の時計は十時半を回ったところだった。

 鼻血も止まってきている。


 さりげなさを装い、僕は信号待ちや左折時に、透明人間の方を見た。

 どう見ても、姿は見えない。


 助手席のシートは、透明人間の座る形にシートが控えめに沈み込んでいた。

 そこにお尻が沈み、そこに背中がもたれかかっている、と思うと、なんとなく姿かたちの想像ができた。

 力の割に、そこまで大きな体格ではないようだ。


 年齢は幾つくらいだろうか。

 声だけで判断するのは難しい。

 口調からすると僕よりも若い気がしたが、断定するほどの確信はない。


 僕は透明人間の、一連の接触を思い出す。

 透明の、彼女の胸に僕は顔をうずめ、手のひらで掴んだ。

 見えないことで、その柔らかさが際立っていた。

 彼女はそれによって、僕のことを痴漢と言った。

 僕も、その事実をすべて否定はできない。


 しかし、これには僕にだって言い分がある。

 誰が地面に透明人間が横たわっていると思うだろうか。

 もし透明人間でなかったとしたら、僕の行動は著しく異なったものになったはずだ。


 少なくとも……。

 顔を埋めてしまうのは不可抗力で行われたかもしれない。

 しかし、そこから手で掴もうとは思わなかったはずだ。


 そう、これも不可抗力なのだ――。




「青!」


 透明人間が叫ぶ。

 僕は慌てて両足でアクセルを踏む。


「一応、言っておくけど、アンタをどうこうしようって考えてるわけじゃないのよ」


 ふいに透明人間の彼女は話し出した。


 「はあ」

 僕は返事をする。


「私ね、さっきあるところから脱走してきたの。思い出すだけでも不快な、クソみたいなトコ。だから私、追われている身なの」

「はあ」

「何故か聞きたい? 教えてあげる。私、こう見えて透明人間なの」


 きっと、彼女なりの冗談なのだろう。

 緊張のせいか、ちっとも笑えない。


「そこでは閉じ込められて、色々調べられたりしてたんだけど、今日、どういうわけか部屋の鍵が外れたのよ。それで逃げ出したってわけ。大変だったけど。感謝してるわよ? 私。さっき、アイツを轢いてくれなかったらちょっと危なかったもの」

「轢いた?」

「ええ。ちょうどイイ感じにアンタが突っ込んできたから、助かったわ」

「僕が、人を轢いた?」

「だからそうだって。バカじゃないの?」


 僕は血の気が引くのを感じた。


「何、気にしてるの? それこそバカよ。あんなヤツ、轢かれて当然。大丈夫、すごくムカつくけどアイツも透明人間だから、バレっこないわよ」


 僕の肩がポンポンと叩かれる。

 慰めてくれているようだ。


「死んだかどうかはわかんないわ。轢かれた拍子に車の下に入り込んじゃったし。一応確認しようとしたのよ。『お、ラッキー、死んだかな?』ってな具合にね。で、車の下に潜り込もうとしたら、アンタが下りてきてさ、私の指を踏むんだから。たまんないわよ」


 記憶を思い起こしてみる。

 ちょうど僕が不安になって地団駄を踏んでいたときだ。


「痛いのなんのって、指も赤くなっちゃってさ。アンタにはわからないだろうけど。そしたら、今度は何? アンタ、私のおっぱい触りだしたでしょ? もう、考えられない。人として信じられない。ケダモノよ。ホントは今すぐ殺してあげたいくらい」

「ち、ちょっと待ってくれ。それは、僕も、車の下を調べようとしてて。まさか、そこに透明人間がいるなんて知らないし、わかりようがないし……。どうしようもないじゃないか。ふ、不可抗力だ」

「へー、不可抗力、ね……」


 彼女はあざ笑うかのように言葉を放つと、少し黙った。

 外の景色でも見ながら、何を言うか、考えているのかもしれない。

 いや、もしかすると、思案などせず、僕の焦っている様子を眺めていただけかもしれない。


「たとえ、どういう事情でも」

 彼女は語気を強めて言う。

「アンタは私の胸をもんだ。それが事実なの。わかる? 経緯なんて知ったこっちゃない。アンタは人を轢き殺した。私の胸をもんだ。不可抗力? それがどうしたのよ。こっちは勝手に胸もまれてんの。何言ったって、許せるわけないじゃない――」


 いきなりだった。

 ゴンッと強い力が、僕の頭を窓ガラスに打ち付けた。

 彼女が僕の頭を蹴ったのだ。


 勢いでハンドルが揺らぎ、車がふらつく。

 ブレーキを踏もうとして、アクセルを踏む。

 このままでは事故になる。

 僕は慌てて、冷静になることに努め、ようやく車は止まる。

 急ブレーキ。


 彼女の攻撃は、まるで素振りがわからないから、どうしてもクリティカルヒットする。

 脳が揺さぶられて気持ちが悪い。

 気を失いそうだ。

 でも、紛れもない痛みが、僕を眠らせない。


「いい? どんなまっとうな理由があったところで、私の前では無意味。怒りの炎は燃やし尽くすしか消せない。それが私なの」

「……さっき、僕をどうにもしないって言ったじゃないか」

 僕はびくびくしながら言う。


「そうよ。仮にも助けられたからね。だから、アンタには私に付き合ってほしいことがあるのよ」

「付き合ってほしいこと?」

「アレ、見てよ」


 アレ、というのがどれを指すのか一瞬困ったが、それはすぐにわかった。

 車が前に止まっている。

 白い、とても高そうで、速そうな乗用車。

 この社用車とは比べ物にならない。

 左の運転席から、ドライバーが下りてくる。

 上下白いスーツに、黒いワイシャツ。腕や首に、金色のアクセサリーが見える。

 その顔は、とても怖い。


「アレ、きっと怖い人よ」

「なんで、どうして……」

「だって、アンタいきなり中央線越えて、あの対向車にぶつかりそうになったじゃない。すごいスピードであそこに止まったのよ。見てなかった?」

「な、なんてことしてくれたんだ!」


 すると、彼女は言った。


「これ、私の不可抗力」


 強面のドライバーは何か叫びながらどんどん近づいてくる。

 僕の体のいたるところから、汗が噴き出る。手先が震える。息が荒くなる。


「ど、どうしよう……」


 尿意が溢れる。

 早くここから逃げ出したい。


 そう思った時だった。


「こうするのよ!」


 彼女の足が、僕の縛られた両脚もろともアクセルを踏んだ。

 とても、強く。


「う、うわあああああ!」


 車が急発進する。

 強面の男に突撃する。

 勢いそのまま、強面の男の車で板挟みにする。

 金属のフレームがグシャリとひん曲がる。

 衝撃。

 悲鳴よりおぞましい、男の断末魔。


「アイツ、バカよね。無防備でこっちに近づいてくるなんて、死んでも文句言えないわよ」


 彼女はケラケラと笑い声をあげた。

 ボンネットに乗り上げた強面の男はピクリともしない。


「おめでとう。これで二人目。これも不可抗力よ」


 笑いを堪えながら、彼女は言った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る