スズメバチと、ルンバと、私 ③

 ルンバの動きは常軌を逸している。

 私の脚にぶつかったら、結構痛いに違いない。


 充電が切れるまで、待つのはどうだろう。

 スズメバチは文句を言いそうだが、幸い今は虫の息だ。

 あとでどうこう言われても問題ないはずだ。

 止まりさえすれば。


 私はルンバの軌道に注意しながら、幸運にも自分の近くに設置していた充電ホームベースの電源プラグを抜いた。

 あれだけ動いていたら、バッテリーの消耗も早いに違いない。

 私は居間を出て、廊下の扉のガラス窓越しに、様子を確認することにした。


 しかし、予想と反し、雲行きが怪しい。

 暴走したルンバはそのフロントに生えているブラシを高速回転させ、鋭利な丸ノコギリのように当たるものすべてを切り刻み始めた。

 テーブルの脚をスパンと断ち、小分けになったバームクーヘンのようにバラバラにした。

 円盤状の本体から、クラゲの脚のようなワイヤーがニョキニョキと生え、部屋にあるコンセントに直結させた。

 ホモサピエンスが浴びると骨が透けて見えそうな雷を放ちだした。

 電気を浴びたルンバは、その力を蓄えているようだ。

 その姿はもはや、お掃除ロボットではなかった。


 あらゆる生命をターミネートしかねない存在となったルンバは、巨大な支配者のように、居間に君臨していた。

 窓ガラスが割れ、部屋の壁紙も家具も、爆撃を受けたように焼け焦げていた。

 ほんの数分前の部屋からは想像がつかない惨状が、そこに広がっていた。


 すると、スズメバチが小さな羽音を立てた。

「ブ、ブン……(お、おい。水を……)」

「えっ?」

「ブンブンブウンブ……(奴には水が効くはずだ、早く……)」


 私は洗面所へ駆け込んだ。

 あのルンバを水でショートさせる。

 それが、今の私の使命であり、役目であり、この家で生きているホモサピエンスとしての義務だった。

 これ以上被害が拡大する前に止めなければ。

 さもないと、家が取り返しのつかないことになるし、マンションの管理会社やご近所さんに説明がつかない。

 駅から少し離れていたり、壁がほんの少し薄かったりもするが、割に気に入っている家なのだ。

 この家を守る。

 疑う余地はない。


 洗面台の蛇口を捻り、水を出す。

 バケツがないかを見回す。

 確か、下の戸棚にあったはずだが見当たらない。

 慌てているせいで見つけられないのか、どこかへ行ってしまったのか、判断がつかない。

 ともあれ、代用するものを探さなくてはならない。

 風呂場をのぞく。

 そこには、白いルンバかと見間違えてしまいそうな風呂桶があった。

 小さく頼りないが、これしかない。


 急いで洗面台で水をくむ。

 こちらの気持ちとは裏腹に、大きくひねったにもかかわらず、水しぶき一つも立てない水流がやさしく流れた。

 早く貯めたいがために桶を揺さぶってみたが、よく考えてみればまるで意味がなかった。

 仕方がないのでじっくりと待つ。

 居間の方からは、心無い森林伐採のような音が聞こえる。

 ようやく水が溜まる。

 これで準備は整った。

 あとは、あれに立ち向かうだけだ。

 蛇口を閉め、桶を持つ。


 両手がふさがっていたので、腰元を押し付けて戸を開ける。

 ちゃぷちゃぷと揺れる水面を見守りながら、ゆっくりと廊下へ出る。

 腰元を押し付けて戸を閉める。

 収監された凶悪犯の独房を覗くように、私は扉の窓の奥を見た。


 ルンバはパワーアップしていた。

 生えたワイヤーは束となり、太い足となっていた。

 先は壁に癒着し、そこから居間全体を侵食しているようだった。

 でたらめな電子基板のような模様が浮き出ていた。

 ルンバはその部屋の中央にいた。

 ナガアシグモのようなシルエットで、バチバチと電気を放っている。


 いや、これは無理だろう。

 私がどうこうできるレベルじゃない。


 余りにも状況がおかしかった。

 使命感に踊らされてしまったが、とても太刀打ちできそうもない。

 どう見たってあれはルンバではなく、おぞましい化け物だった。

 クモだって嫌いだ。

 私のすべきことはいち早くここから逃げることであって、戦いに挑むことではなかったのだ。


 ガシッ。

 そう考えていると、何かが私の脚を掴んだ。

「えっ――」


 掴んだのはルンバの太い足だった。


「きゃああああああ!」


 ルンバの足は私を居間へ、扉もろとも引きずり込んだ。

 私は持っていた桶をひっくり返し、顔に壊された扉の破片を被った。

 ズルズルと床に引きずられる。

 はずみで、壁やら家具やらに幾度もぶつかる。

 痛さよりも戸惑いが勝った。

 私はどっちに重力が働いているか、理解しようと必死だった。


 ようやく止まると、私が今、逆さまになっているということが分かった。

 足を掴まれたまま、アジの干物のように宙吊りにされている。


 ドシドシと、下の階の住人から苦情が来そうな足音を立てながら、ルンバは私を表裏と、ペットボトルの成分表を探すように眺める。

 「ピー、ピピピ?」

 何かを言っているようだったが、何を言っているかはわからない。


 丸ノコギリ状のフロントブラシが、眼前に近づく。

 キーンと高周波の音を立てる。

 化け物が振りかぶる。

 私の顔めがけて容赦のない殺意を形にしようとする。


 もう逃げられない。

 死の覚悟すらできない、一瞬――。


「ブーン!」


 その時だった。

 いつの間にか肩から離れていたスズメバチがルンバ目掛けて突進した。


 足が生えたことで、宙に浮かんでいたボディの裏がむき出しであった。

 回転する丸ノコギリの根元はガラ空き状態。

 その回転軸にスズメバチは針を突き出した。


 「ピピッ!」

 丸ノコギリが明後日の方向に飛び、ほどけたブラシが宙に散った。

 化け物ルンバは怯み、拍子に私をぱっと離した。


 「きゃっ」


 どすんと、今度は確実にクレームが来るくらいの衝撃とともに私は地面に落とされた。

 逆さまからだったが、幸いにも頭からは落ちていない。

 しかし代わりに落ちた右肩は、鈍い痛みを放っている。

 思わず抑える。


 「ブンブンブブブン! (何をしている! こっちだ!)」


 スズメバチに言われ、私は廊下に出た。

 「ここを開けろ」といったスズメバチの仕草の通り、戸を開ける。

 急いで駆け込み、戸を閉める。


 洗面所だった。

 こちらの状況を顧みない全自動洗濯機は相変わらず中身の回収を待ち続けていた。

 ふらふらしながらも、スズメバチは次のラウンドに臨む体力を回復させたようだ。


 私は上がった息を整え、冷静さを取り戻そうと努めた。

 「はあ、はあ……。ちょっと、どうして、逃げなかったんです? これじゃ、袋の鼠ですよ」

 「ブブブブンブウンブウン……(そんなわけにはいかん。ここで奴を仕留めなければ取り返しがつかなくなる。そうなったら世界は終わりだ)」


 世界の命運は一匹のスズメバチと、一人のホモサピエンスにかかっているらしい。

 話が大げさすぎてまるで実感がないが、家の破壊を止めることと世界滅亡を阻止することは同義のようだ。

 

 「どうします?」

 「ブブブブブンブブ……(とにかく水をかけるしかない。力では敵わんからな)」


 すぐに洗面台の蛇口を捻る。

 しかし、今度は水が全く出てこない。

 どうして?

 ルンバによって水道管が壊れてしまったのだろうか?

 何度も捻ってみるが、うんともすんとも言わない。


 仕方がない。

 風呂場の蛇口を使おう。

 考えてみれば、そちらの方が水の勢いは強かったかもしれない。

 風呂場へ向かおうとした、その時だった。


 「ピピピ!」


 ルンバのワイヤーが洗面台から蛇口から勢いよく飛び出した。

 私とスズメバチは振り返る。

 すると今度は背後の風呂場の方からワイヤーが伸びてきて、瞬時に首に巻きついた。


 「くッ、くはあ!」


 首を絞められる。

 苦しい。

 息ができない。


 私はそのワイヤーを必死に解こうとする。

 が、びくともしない。

 スズメバチは洗面台からのワイヤーと立ち回り鎬を削っていた。

 状況は、タコが瓶に詰められた獲物を捕らえる様に似ていた。

 もちろんルンバがタコで、獲物が私たちだ。

 絶体絶命である。


 締めつけが強くなる。

 せき込むこともままならず、目の前が暗くなっていく。

 もうだめかもしれない……。




 突如、電流が私の体を伝わった。

 気を失うくらいの衝撃が、かえって私の意識を奮い立たせた。

 ワイヤーは一瞬きつく締まったが、すぐに力を失った。

 何が起こったのか、よくわからないが、慌ててワイヤーを解いた。


 「ブンブン……?(何が起きた?)」


 もう一方のワイヤーも同様で、スズメバチもあずかり知らない何かが起こったようだった。


 辺りは静かになった。

 風通しのよくなった居間からは物音ひとつしない。

 無言で私たちは頷き合い、様子を確認することにした。


 恐る恐る洗面所の戸を開ける。

 建付けが悪くなってしまったのか、戸が開くときに、文字にすると、「ァハーッン」といった具合の音がした。

 注意深く、身を乗り出し、左右を確認する。

 動く物体はない。

 すり足で居間へ行く。


 居間には炙りすぎたスルメのような状態のルンバがいた。

 プスプスと火花が散り、それがスルメだとしても、とても食べる気にはならないくらい焦げてしまっている。

 においも然りだ。


 「一体、どうなってるの?」

 「ブンッブウブン……(そうか、これはおそらく過電流だろう)」

 「過電流?」

 「ブンブブブンブブッブンブン(あいつが動きを止める直前、俺の触角がうずいたんだ。雷が落ちる兆候さ。どこか近くに落ちたらしい。そこから流出した雷が電線を伝って、コンセント、ワイヤー、そしてあいつに伝わってショートしちまったらしい)」


 スズメバチが促す。

 私はススだらけのルンバをつま先でつついてみる。

 もう、ピクリともしない。


 「はぁー……」

 途端にどっと深いため息が出た。

 「ブンブンブン……(さあ、最後の仕上げだ。こいつに水を掛けろ)」

 「え? もう十分じゃないですか?」

 「ブンブンブーン……(念には念を、だ。早くしろ)」


 世界の危機は乗り越えたようだった。





 その後、まずはルンバの始末をした。

 洗面所と風呂場の蛇口はまだワイヤーが出ていて水は出せない。

 キッチンを見てみると、そこにもワイヤーが生えていた。

 もしやと思い、トイレにいってみると、トイレタンクは破壊され床が水浸しとなり、便器の中からイソギンチャクが這い出るような具合で、無数のワイヤーが死んでいた。

 私は見なかったことにした。

 結局、部屋中の水道が使い物にならなかった。

 どうしたものかと思案していると、スズメバチが風呂場の浴槽に溜まっていた水を見つけた。

 昨夜の残り湯だ。

 今朝洗濯で使った残りがあったのだ。

 ぎりぎりルンバの本体が浸かるくらいはあったので、私はルンバのワイヤーをもぎ取り、浴槽に放り込んだ。

 特に大きな反応はなかった。

 汚れた手を拭くのに、全自動洗濯機から乾燥済みの、適当なタオルを一枚引っ張り、拭いた。

 この全自動洗濯機も、壊れてしまったのかもしれない。


 詳しく見るまでもなく、私の家は壊滅状態となっていた。

 直すよりも壊した方が早く、安く済みそうなほどだ。

 火災保険で何とかなるのだろうか。

 その際、どうすればいいのだろうか。

 悩みの種は巨大でかなりの重量だ。

 今はもう、何も考えられない。


 結構な騒ぎになったと思っていたが、外の様子は平穏そのものだった。

 遠くで鳥が鳴いている。

 空からはわずかな雲さえなくなり、紺碧の青空が雄大に広がっていた。

 雷なんて本当に落ちたのだろうか?

 とてもそんな天気には見えないが、まあ、いいだろう。

 ピンチを救われたことに違いはなく、感謝しなくてはいけない。


 なんとなく、天に向かって手を合わせてみる。

 何をしている、とスズメバチに聞かれた。

 私は気にしないで、とただ受け流した。


 スズメバチとホモサピエンスは、少しの間だけ二人で西側の空を見つめた。

 何はともあれ、なんとかなるだろう。

 そう、思えた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る