透明人間と、不可抗力と、僕 ①

 ドンッ!

 いやな音が鳴った。衝撃が伝わった。

 どちらも初めての感触だった。


 咄嗟にブレーキを踏んだ右足はペダルを踏みぬくくらい力が入って、すぐに動かすことができない。

 慣性の法則で前のめりとなった僕の体は縮こまり、強張っている。

 ハンドルを握る両手はあっという間に汗ばみ、そこにぬめりを感じる。

 目の前の指先が、力みすぎて震えている。

 その奥のスピードメータやらの針は、倒れたまま動かない。

 視線を上げ、フロントガラスの先を見る。

 ヘッドライトの明かりでぼんやりと浮かび上がった道路。

 中央線の先が、闇に溶け込み、欠けて見える。

 バックミラー、サイドミラーを立て続けに見る。

 暗くて見えない。


 何かを轢いたかもしれない。


 全身から汗がどんどん滲んでくる。

 エアコンは正常に動いている。暑くはない。

 キーを回し、エンジンを止めようとする。

 しかし、ハッと気が付いてシフトをパーキングに移す。

 勢い余って、手をドリンクホルダーにぶつける。

 口を開けていた缶コーヒーが倒れ、こぼれる。

 僕はそれを慌てて立て直す。

 沈黙が車内に流れる。


 僕はそのまま、動けずにいる――。




 大原則として、車の運転というのは細心の注意と、安全への配慮と、交通ルールの順守などが必要だ。

 果たしてこれまで、それらのことを意識し考えていただろうか。  

 それを問われると、正直自信はない。


 別に、僕が常日頃、危険な運転をしているというわけではない。

 これは、それらを積極的に守ろうと、日々努力していたか、という問題だ。

 習慣化した車の運転において、最低限の意識はある。

 車間距離を適度に開けるとか、変わりそうな信号を無理して突っ切ろうとしないとか、道路に出てきそうな歩行者がいないかとか、そういったことは身についている。スピードも出しすぎたりはしない。

 自動車免許を取得して以来、交通事故を起こしたことはない。

 免許証を見てもらえればわかるだろう。

 過去にヒヤリとする場面にあったことは、一応ある。

 どんな運転手も経験するくらいの、小さな危険の数々だ。

 たいていの場合はクラクションを「プップー」と鳴らすか、鳴らされるかで決着が着くくらいのケース。

 僕は鳴らされることはないし、あまり進んで鳴らしもしない。

 そんな平均的ドライバーの、普遍的運転。

 それで起きる事故。

 努力が足りていないと言われたらそれまでだろう。

 でも、それよりも大きな原因と呼べるものがあると僕は考えてしまう。


 「不可抗力」。

 それには誰も抗えない。


 街の小さな電気店に務める僕の、今日という一日はいつもと比べて、激務といって差し支えのない日だった。

 電化製品の修理や、調査の依頼が相次いだのだ。

 大手の家電店と異なり、電化製品に明るくない方やご老人に向けたサービスを売りにしている我らの電気店に、午前中から電話が殺到した。

 まさに青天の霹靂だった。

 営業として巡回する僕は、それからというもの、街中を駆け回った。

 区を跨ぎ、沢山のマンションの来客用駐車スペースに車を止め、走り回った。


 駆けつけた家々の家電は、例外なくショートし、壊れていた。

 壊れた時刻もほぼ同じだった。

 一様に皆、被害を嘆いていた。

 僕はいたるところでそれらの家電にお悔やみを申し上げ、必要になりそうな最新家電カタログ、およびチラシを置き、対策案を提案した。ハードディスクの修復は他所で、と案内した。

 壊れたモノの回収等は後日に、と伝えた。


 雷による過電流だろうか?

 しかし、それにしてはあまりにも被害が多く、大きく、そして広大だった。

 天気だって良い。

 昼過ぎにはそれらの被害を伝えるニュースがラジオから流れてきたが、詳しい原因は調査中ということだった。

 その後も逐一報道はなされたが、聞くたびに被害が大きくなるだけだった。


 日中は、町内会のビンゴ大会の景品で当たった、後部座席に積んでいる段ボール詰めの缶コーヒーと、ダッシュボードの奥に入っていた購入時期不明のカロリーメイトを頬張りながらあちこちを回った。

 腹は減らなかったが、コーヒーはみるみるうちに無くなっていった。

 常備していたゴミ用のポリ袋が、走行中カラカラと鳴った。

 勤務時間が終わっても、しばらくその状態が続いた。

 しばらくして、会社から社用車で直帰してかまわないから、と本日最後の訪問先を告げられた。

 時刻は夜九時を回ったところだった。


 ここからだと往復して家に帰るまではかなり時間がかかりそうだ。そう思い、信号待ちの間に、僕は妻のミハルに電話した。

 話によると、我が家の家電製品も被害にあったそうだ。

 それはもう酷いらしい。

 とりあえずこっちは大丈夫だから、と妻は言った。

 僕は帰りが遅くなる旨を伝え、電話を切った。

 先が思いやられる。

 急に疲れがどっと訪れた。

 僕は7缶目のコーヒーを飲み干し、8缶目を開けた。


 本日最後の家も、予想通りのありさまだった。

 僕は本日最後のお悔やみを告げた。

 その家には、特徴のあるしゃべり方の男性が一人と、僕よりも頭のよさそうな顔立ちのシャムネコが一匹いた。

 帰り際、こんな時間にわざわざ来てもらって……、と更なる缶コーヒーをくれた。

 見慣れないメーカーの缶コーヒーだった。

 それをありがたく受け取り、僕はその場を後にした。


 車に戻り、会社に電話をし、お互いいつもより深刻な「お疲れ様です」のフレーズを言い、通話を切った。


 これでようやく終わった。


 明日もきっと似た状況だろう。

 そう思うと気が重くなったが、もう気にしてもしょうがない。

 我が家も一体どうなっていることやら。

 僕はさっさと家に帰ることを念頭に置き、車を走らせた。


 最後の家は町から少し外れた、山の斜面にそびえている家だった。

 帰り道、緩やかな下りのカーブを進んでいった。

 辺りには他にも家屋がぽつりぽつりと点在していた。

 どの家も立派な大きさと装飾と門を構えた、いわゆるお金持ちたちが多く住む地域だ。

 さっきのは初めてのお客だったが、この混乱でウチに依頼が回ってきたのだろう。 

 もらった缶コーヒーは、もしかすると高級なものかもしれない。

 今飲んでいるものを飲みきったら早速いただくとしよう。


 そんなことを考えていたときだった。




 ――断っておくが、こういったことを考えている間も、しっかりと前を向いていた。


 僕としては、このくらいは考え事の不注意とか、そういうものには入らない範疇だと思っている。

 それで信号を無視したことはないし、左折時に巻き込む恐れがある自転車を察知することもできていた。


 事故というものは、起きるときは起きるのだ。

 それは不可抗力と呼べるに違いない。


 たとえ僕が、非常に模範的な運転をする、表彰状をもらえるくらいの腕前だったとしても、この事故は起きていたはずだ。

 きっとそうだ。別に油断してたわけじゃない。


 僕は今日一日をフラッシュバックし終え、自分の吐息が荒くなっていることに気付く。

 これからどうするかを考えねば。


 ……もしかすると、別に誰かを轢いたわけじゃないかもしれない。

 道路上に、なにかが置いてあったとか、ちょっと大きい動物だった可能性だってある。

 確認しなければならない。

 僕はハザードを焚き、車を降りた。

 

 山が近いので、虫がしきりに鳴いているのが聞こえる。

 カエルもいるようだ。

 本来灯っているはずの街灯がいくつか疎らに消えている。

 周囲の光源は、車のヘッドライトによってようやく保たれていた。

 僕はスマートフォンを取り出し、懐中電灯代わりに光を灯す。

 闇雲に明かりを向ける。手汗のせいでスマートフォンを落としそうになる。


 落ち着け……。落ち着くんだ……。

 ゴクリと、生唾を飲み込む。


 少し気持ちを落ち着かせ、車のフロント部を見る。

 左の、ヘッドライトにひびが入っていた。

 少なくとも今朝まで、この傷はなかった。やはり、何かとぶつかったのは間違いなさそうだ。


 次に車の後方を見てみる。

 特に何も見当たらない。

 ぶつかってすぐにブレーキをかけたから、衝突してからそこまで進んでいないはずだ。

 路面を照らす。少し残っていたブレーキ痕を見つける。

 やはり、このあたりだろう。


 進行方向から見て、道路の左側は山の斜面がそびえている。

 右側は草木が茂った下り斜面。

 ここに落ちた?

 いや、道路の幅は広い。

 それにぶつかったのは左側だ。


 僕はぐるりと車の周りを歩き、前方を再度見る。

 やはり何もない。

 

 一体何とぶつかった?


 僕は自分が混乱しているのを自覚した。

 徐々に、それは増大していく。

 急に心細くなったように、お腹のあたりがキュウっとしぼむような感覚。 

 妙におしっこがしたくなる。

 地団駄が止まらなくなる。

 自分の立ち位置が徐々にずれていく。

 靴音が小刻みになる。

 とんとんとんとん……。


 

 「痛いっ!」突然の声。

 「へぁ⁉」僕は情けない声を上げた。

 靴底に、何かを踏んだような感触があった。


 女性の声だ。

 僕は光をあちこちに向け、見回す。

 しかし誰もいない。


 「いったぁ~、うぅ~……」


 聞き間違いではない。

 確かに聞こえる。

 しかも、かなり近い。

 

 下から?

 もしや、車の下に誰かがいるのでは?

 一気に血の気が引いた。


 しかし、放置するわけにもいかない。

 見なかったことにはもうできないのだ。

 僕がいま行うべきことは、いかにこの、人生最大の失敗を抑えることだ。


 僕は決心する。

 この社用車の下に、どんなことが待ち受けようとも、僕は最大限の対処をしなければいけないのだ。

 人の命……。

 いや、そんなきれいごとはよそう。

 結局は僕自身の、今後の人生のためだ。


 僕は道路に膝をつく。

 スマートフォンの明かりを下に向ける。

 特に変わった様子は見受けられない。

 やはり、車の真下だ。


 のぞき込むしかない。


 僕は両手を地面につく。

 意を決して、顔を潜り込ませようとする――。




 ポヨン。


 ん? なんだ?


 何かが顔に当たった。

 いや、当たったというより包まれたという表現の方が正しい。

 安眠枕のように柔らかく、そしてぬくもりがあった。


 どういうことだ?

 少なくとも僕の顔の前には何も見えない。

 見えない何かにぷにぷにと押し返されている。

 見間違いじゃない。


 僕は両手を顔の前にかざす。

 ……そこにはやはり何かがあった。

 指が見えない何かに沈み込む。

 時速60㎞で走行する車の窓から手を出した時のような感触だ。


 もみもみ、もみもみ……。


 「……ちょっと」

 女性の鋭い声が、目の前から聞こえる。


 「なにパフパフしてんだ、痴漢かよ」


 目に見えない女性が、いきなり僕を痴漢呼ばわりした。

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