スズメバチと、ルンバと、私 ②
私はスズメバチの言う通り、家に案内することにした。
1階ロビーのエレベーターへ向かいボタンを押した。
乗り込み、3階のボタンを押す。
ドアが緩慢に閉じる。
スズメバチは「いつでもお前を刺せるんだぞ」と言わんばかりに私の周りを飛び続けた。
閉じられた空間では羽音がやたらとうるさかった。
「ちょっとお願いがあるんですが」
「ブンブン? (なんだ?)」
「家に着くまで私の肩にでも止まってくれませんか? さっきからうるさくてたまらないんです」
「ブーンブン……(うるさいだって? お前、いい度胸してるな)」
「あなただって、他の人の目に付きたくないでしょう?」
「ブーン……(まあ、いいだろう)」
スズメバチは私の肩にピタリと乗った。
ムシということもあって、ゴマフアザラシのヒゲくらいの重さしか感じなかった。
飛ぶにはやはり軽くなくてはいけないのだろう。
しかし、力は確かなもので、服越しにスズメバチの足が食い込んでいた。
少し痛かったが、我慢できないほどではない。
やがてエレベーターが到着し、ドアが開いた。
すると、目の前にお隣に住む、南部さんが立っていた。
私より年上の、ホモサピエンスの専業主婦だ。
買い物にでも行くのだろう。
誰もがネギを突っ込みたくなりそうな買い物バッグを腕から下げていた。
「あら、唐西さん。おはようございます」
「おはようございます」
私はペコっとお辞儀をし、エレベーターを降りた。
入れ違いに南部さんが乗り込んだ。
「……」
「……」
南部さんは私の肩の上に乗るスズメバチを、呆けたような顔で見続けていた。
やがて扉が閉まり、南部さんは宇宙船の非常ポッドで一足先に脱出するかのように、下降していった。
南部さんはスズメバチについて、どのように受け止めていたのだろうか。
まさか合意の元で私の肩に乗せているとは思わないだろう。
本物のスズメバチと思わなかったかもしれない。
もしかすると、自分の理解の範疇を超えた、新たなファッションの一部と思い、スルーしたのかもしれない。
または、スズメバチという存在の危険性に、自身の生活における関連性を見出さなかったのかもしれない。
あるいは、私なんか刺されてしまえと思っていたのかもしれない。
単純に、それどころじゃなかったのかもしれない。
色々な可能性があるだろう。
「ブンブン……(おい、早くしろ)」
肩の上でスズメバチが羽音を立てる。
羽が髪の毛にバチバチと当たった。
私はイラっとした。
玄関扉を開けるとすぐさま、スズメバチは居間の方へ一直線にブーンと飛んで行った。
私はそれを眺めながら、ゆっくりと細長い溶岩石のようなスニーカーを脱いだ。
踵をそろえてきれいに置いてから、スズメバチの後を追おうとするが、止める。
先に手を洗いたかった。
私はゴミ出しをしてきたのだ。
とりあえずスズメバチは放っておいて、洗面所へ向かった。
洗面所では、一仕事終えた全自動洗濯機が無言で中身の回収を訴えていた。
私はそれをスルーし、まず、その近くにあるボイラーのスイッチを入れた。
洗面台へ赴き、ぬるま湯が出る程度に調整して蛇口を捻る。
ハムスターの体温くらいの流水に手を突っ込む。
バシャバシャとしぶきを立てて手を洗う。
手首から指の間、爪の先までゴシゴシと擦る。
端に置いてあるハンドソープを数回ポンプする。
呼吸困難のカエルのような下品な音がする。
詰め替え用を買ってあるので、後で中身を補充せねばなるまい。
そう考えながら目いっぱい泡を立てる。
手のひら全体に泡を浸透させる。
十分に行き届いたところで洗い流す。
泡のぬめりが残らないよう入念に。
チャッチャと水を切り、かけてあるハンドタオルに水分をありったけ吸収させる。
ポンポン。
洗濯物を取り込んでおこうかとも思ったが、スズメバチをあまり待たせてもいけない。
私は洗濯物を後回しにすることにした。
居間では、スズメバチがルンバを攻撃していた。
空中からルンバを追いまわし、身を深く折り曲げて、前から後ろから、思ったよりも小さい針でルンバの黒いボディを突いている。
しかし硬いボディには刺さらない。
針で突く音が未開の地の原住民の伝統的打楽器の音楽のようなリズムを刻む。
一方のルンバは灼熱の中の殺人マシンの如き不動心で、フロント部にあるブラシを高速で動かし、床の埃を微塵も残さずターミネートし続けていた。
部屋の隅にたどり着くと、ゆっくりと態勢を切り返し、反対方向へ向かった。
流石に見かねたので、「ちょっと、何をしてるんですか」とスズメバチに声を掛けた。
「ブブブンブンブン……! (お前、今まで何をしていた! こっちに来い!)」
私はスズメバチのそばに近づいた。
足元には、散らばったコンペイトウのような傷を受けたルンバが次に向かうべき方角を探っていた。
「ブンブブブンブブブン……(さあ、早速やってもらおう。いいか、早くこのマシンを止めるんだ)」
「はあ。でも、どうしてですか?」
「ブブンブ……(いいからやるんだ)」
「そんな……」
私はルンバのスイッチを押した。
たしか、長押ししないとオフにならなかったはずだ。
うまくインクの乗らない印鑑のように押し続けた。
そのうちにボタン周辺の明かりがくるくると回りだし、電源が落ちた。
ルンバは活動を停止した。
「ブンブン(よし、まずはこれでいい)」
「もう動きませんよ。これから一体どうしろっていうんです?」
「ブーンブーン……(次はこれを壊すんだ)」
スズメバチはゆっくりと下降すると、今度は傷がつかない程度にルンバを小突いた。
コンコン。
「ブブ、ブンブン……(これをこの世から滅さなければならない)」
「ルンバを? どういうことです?」
「ブブブブブッブブーン……(何故かは聞くな。話が長くなる)」
「ちょっと待ってください」
私は少し語気を強めた。
「そんなこと急に言われても困ります。掃除ができないじゃないですか」
「ブブンブウウン……(そんなもの、掃除機でも使えばいいだろう)」
「なんで掃除機がよくて、ルンバがダメなんです?」
「ブウン……(うーむ)」
スズメバチは考え込んだ様子で左右を行ったり来たりしだした。
薄氷の上に生じた亀裂のような形の右手をその逞しい顎に添えて。
なるほど、スズメバチも考え事をするときは、こういうポーズをするんだなと、感心した。
「ブンブンブーン……(困ったものだな)」
スズメバチは話し出した。
「ブンブンブンブン……(もしやお前はこれがどれだけ危険なものか、知らないんじゃないか?)」
「危険なものですって?」
私は足元のルンバを見た。
先ほどと同様に、沈黙を続けたままだった。
「ただのお掃除ロボットですよ」
「ブンブンブンブブンブーン……(お前にはわからないのだろうが、このマシンをこのままにしてはいけないんだ。俺の一族の危機でもある。これは戦争なんだ。俺達が生き残るか、アイツらが生き残るかの、な。目的の為なら、手段は厭わない)」
スズメバチは強く羽音を立て、お尻の針をニョキッと見せた。
バタバタと動く羽の風圧が顔に当たる。
私は「まあ、まあ」といった具合の動作でスズメバチをなだめた。
「でも、ルンバなんて今時珍しいものでもないでしょう? まさか、世の中のルンバを一つ残らず止めようとしているんですか?」
「ブウンブウンブブブ……(そうじゃない。この家の、こいつだけがおかしいんだ。他とはまるで違う)」
「他と違う……?」
このルンバは夫が買ってきたものだった。
なんでも、社員割引で安く購入したらしい。
少し前から、家電に蛍光灯から単三電池に至るまで、夫が購入してくるようになった。
そういったことが最近できるようになったんだと、夫は自慢げに話していた。
おかげで今では、横行していた古い家電が消え失せ、一部型落ちもあるが、十分に新しい電子機器に包まれることとなった。
それまで蜘蛛の糸のような紐を引っ張って消灯していた照明がリモコン一つで強弱さえも調整できるようになったとき、娘が狂喜したのをよく覚えている。
「ブーンブンブン……(きっとお前たちにとっても危険なはずだ。破壊しなければならん)」
「そんなこと言っても――」
私の言葉を遮るようにハチは続けた。
「ブブンブブウブブンブブブンブブンブーンブン! (いいか。これは俺たちの戦いだが、すでにお前の戦いでもある。もう巻き込まれているんだよ。お前が『そんな』とか、『どうして』といっている間にも危険はどんどん膨らんでいるんだ。ウダウダ言っている暇があったら、こいつを早く壊すんだ!)」
そう言われて私はもう嫌になってきた。
どうしてこんなことになってしまったのだろう。
私は理由を考えた。
しかし、心当たりはなかった。
ビーッ! ビーッ!
急に部屋の中から防犯ブザーのような、けたたましい音が鳴りだした。
思わず耳を塞ぐ。
スズメバチも咄嗟のことに辺りを見回す。
すると、突如、足元のルンバが動き出した。
けたたましいモーター音を上げ猛スピードで走り出す。
ピンボールのように壁にぶつかり、壁紙を擦っていく。
あるいは、穴を空けていく。
ガンガンガンガン!
一体何が起こっている?
「ブッブンブン! (再起動だと!)」
そう言うとスズメバチは戦闘態勢に移行した。
ジャキンと小さい針を出し、顎を鳴らす。
果敢にルンバへ突撃する。
しかし先ほど同様、効果は見られない。
それどころか、ルンバの急な方向転換についていけず、翻弄され、何度も衝突し、ダメージを負っているようだ。
スズメバチは次第に動きが遅くなっていく。
羽音がハリの無いギターの弦のように弱々しくなる。
ルンバは依然、暴走中である。
「ちょっとスズメバチさん……」
私はよろめくスズメバチに駆け寄る。
するとスズメバチはゴングに救われたボクサーのように、へたっと私の肩に倒れこんだ。
「ブブ……(うう……)」
もう羽を動かす体力も残っていないようだ。
駆け回るルンバ。
さらに勢いを増して、目で追うのもやっとな程になっていた。
テレビ台のガラスにはすでにひびが入っていた。
このままではあのルンバに家をめちゃめちゃにされてしまう。
スズメバチの言う通り、何はともあれ、もう私はすでに戦いに巻き込まれているのだ。
早くルンバを止めなければならない。
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