あるホモ・サピエンスたちの日常

もと はじめ

スズメバチと、ルンバと、私 ①

 朝、夫のトウマが仕事へ向かい、次に娘のフウコが高校へ行った。


 軽く、しかし深いため息をつく。

 ゆっくりと背筋を伸ばし、両腕を天井に届きそうなくらいに目いっぱい伸ばす。

 血液が頭のてっぺんから手足の先まで巡っていくような感触。

 ゆっくりと息を吐くと、張りつめた力が徐々に引いていった。

 そして、この空間に残ったのは今という時間と、見慣れたマンションの一室と、私という、生物学的に言うところの、ヒト科のホモサピエンスだった。

 

 いつもはこの後、化粧をし、着替え、戸締りを確認してから会社に向かうのだが、今日はシフトの関係で急遽休みとなった。

 急に割り込んできた透明人間のように、何の予定もない一日が私を圧迫していた。

 

 今、私のすべきことは見当たらない。

 今朝の食器は洗い終え、乾くのを待っている。

 洗面所のドラム型全自動洗濯機は、執拗に服の汚れを苛めている最中だ。

 部屋も片付いていて、お掃除ロボットのルンバは、のんびりフローリングの上を走っている。

 ひとまず居間のソファに座った。

 

 テレビをつけてみる。

 よく知らないホモサピエンスが、最近人気のホモサピエンスの芸能情報を紹介していた。

 一様に、同じ顔に見える音楽グループだった。

 うち一人が、今度映画に出るらしい。

 次に、大きな交通事故が、知らない町であったことが伝えられた。

 昨夜遅くにスピード超過のRV車が、歩いていたホモサピエンスを撥ね、そのはずみで対向車の大型トラックにぶつかり、今度はそのトラックのかけた急ブレーキにより、後続の軽自動車がぶつかったそうだ。

 幸い、どのホモサピエンスも生きているそうだ。次に、ユーチューブで人気の猫が紹介された。

 まんまるとした目を持つアメリカンショートヘアで、生後6か月。

 餌をねだるときに日本語を話すらしい。検証映像が流れる。確かに、話しているようにも聞こえる。

 

 ある程度眺めていたが、特に関心ごとを見つけられなかった。

 私はテレビの電源を落とした。

 部屋が静かになった。

 外の、車が行き来する音が微かに聴こえた。

 他所の家の、玄関の戸を開ける音が聞こえた。

 遠くでカラスが鳴く音が聞こえた。

 

 そうだ。

 そういえば、まだゴミを出していない。

 立ち上がり、玄関を覗く。

 昨夜就寝前に置いておいた黄色いゴミ袋が、長期間拘束された人質のように存在していた。

 いつもは出勤時にゴミ捨て場に寄って行くのだ。駆け寄り、そのゴミ袋をそっと持ち上げる。

 夫が出勤するときに持たせるべきだった。

 少し後悔した。

 

 ゴミ収集の時間は少し過ぎていたが、大抵の場合、収集車の巡回時間は遅れる傾向にある。

 まだ間に合うかもしれない。

 とりあえず口にマスクをつけ、ナマコのような表面をもつスニーカーを履き、ごみ袋を抱えたまま、私は外へ出た。



 廊下から、狭いエレベーターに乗り、一階ロビーを通る。

 マンションの中庭に着く。

 マンションの屋根で切り取られた青空に、ついたばかりのシミを慌てて擦ってしまったような雲が浮かんでいた。

 布団を叩く音、微かな虫の鳴き声、マンションの向かいの道路を行き来する車の音が聞こえる。

 その中を私は、若干の駆け足で抜ける。

 

 ゴミ捨て場に到着する。

 どうやらまだごみ収集は来ていないようだ。

 そこにはまだ黄色い袋に包まれた燃えるゴミが山積みとなっていて、マスク越しに、嫌なにおいが感じられた。

 私はさっさとゴミをその上に投げ入れた。

 着弾距離の計算を間違えた古代の投石兵器のように、私の家のゴミは、ゴミの山の斜面を転がっていった。

 私の額から、汗が一滴流れ、マスクの紐に染みた。

 日差しが照り付けていた。私はその場を後にする。


 中庭をとぼとぼと歩く。

 丹念に手入れされた花壇には、元気のよさそうなアジサイやヒマワリが、名札と共に飾られていた。

 剪定された芝生がなだらかな斜面を形成し、歩行用の舗装された道はレンガ調で、葉っぱ一枚も落ちていない。

 一羽のチョウが、音の存在を忘れさせるようにひらひらと目の前を通り過ぎた。

 私は立ち止まり、それを目で追った。


 すると突然、背後からガラの悪いバイクのエンジン音のような羽音が聞こえた。

 ブウウン、ブウウウン……。

 ハチだ。


 思わず、身をすくめる。

 羽音以外の音が聞こえなくなる。

 体のあちこちの関節が、さび付いたように動きにくくなる。

 唾液を飲み込もうとする。

 しかし、そこに水分は感じない。


 こういった時、どうすればいいか考える。

 たしか、むやみに逃げたり、追い払おうとすると、ハチはそれを敵対行動とみなし、攻撃してくるのではなかっただろうか。

 ならば、私のとるべき行動は、ゆっくりとこの場を立ち去ることだ。

 私はゼンマイ仕掛けのおもちゃのように、そろりと右足を前に出す。


 ブウンブウウン……。

 ハチが近づいたり、遠のいたりしているのが聞こえる。

 背後なのか頭上なのか、ハチのいる位置を確認する勇気はなかった。

 もしかすると、ハチはただ私の横を通り過ぎようとしているだけなのかもしれない。

 下手に動かずに、そのままでいるべきではなかろうか。

 私はゼンマイを無理やり抑えて止める。

 右足がもう少しというところで静止し、地面とのわずかな隙間を作る。

 自然と瞼が閉じて固く結ばれる。

 

 ブブブブブブ……。

 しかし予想は外れた。

 私の耳元付近で、ハチは羽ばたいている。

 ターゲットを私に捉えているのは明らかだった。

 カチ、カチと、歯を鳴らすような音が聞こえる。

 これは、きっと大きなハチに違いない。

 まさか、スズメバチ?


「ブブブブブブ……(おい、動くなよ)」


 ハチの羽音が、日本語に聞こえる。


「ブブブブブブ……(聞こえているだろう? ゆっくりと目を開けるんだ)」

 おもむろにスズメバチは羽を使って話し始めた。

 私は目を開けた。

 すると大きなスズメバチと目が合った。

 異常に成長したオクラくらい、大きく見えた。

 滞空し、お尻から太い針が出てきそうな、恐ろしい姿だった。

 私はムシが元々苦手だったし、顔の前にそんなものがいると思うだけで卒倒してしまいそうだった。


「ブブンブブブン……(気を確かにしろ。大人しくしていれば危害は加えない。お前にやってもらいたいことがあるんだ)」

「……私に一体、何の御用でしょうか?」

「ブブブブーンブーン……(なあに、大したことじゃない。でも、こちらにしては一大事なんだ。協力してもらおう)」

「はあ……」

「ブンブンブン……(まずはお前の家に案内するんだ)」


 スズメバチはそう言うと、器用に空中を飛び、横に8の字を描いた。

 まるでこちらをおちょくっているみたいで、私は少しイラっとした。

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