いつものように勝手に城に上がり込み、走廊ろうかを闊歩していた侈犧しぎ不貞ふて腐れた乾児こぶんと共に、ふいに鼻をついた臭気に眉をしかめた。城は通常どおり静寂だが肥溜めのようなくささが漂っている。元を辿れば彼らがよく構っている幼君の居室で、隣の小房こべや帛書ほんを広げていた当人から異様なにおいがした。


「おいおい、なんだよこの鼻のひん曲がりそうなのは」


 声に顔を上げた。それを見て二人は唖然とする。白桃の頬にべったりと塗り付けられていたのはまさに牛糞そのものだったからだ。

「どうした?厩舎うまやで転げたのか?」

 言いつつ近づいて拭ってやろうとしたが、避けられる。紅珥くじはちらりとその隣を見た。


「昨日、徼火きょうかと喧嘩したんだ」


 そちらは気まずげに目を逸らし、侈犧は溜息をついた。話はなんとなく聞いている。徼火が心ない者に顔の造形を揶揄やゆされた。砂人は顔つきも一族とは少し異なるからだ。それを聞いた紅珥がくだらないと一蹴したのを、本人は消極的に捉えたらしく、紅珥は苦労もせず恵まれた面立ちだから軽んじれるのだと言い返したらしい。徼火は昔から自分の容姿を気にしているから、瑣末事さまつじのようにあしらわれて不快だったのだろう。


「それで、なんでお前は糞を塗りたくってんだ?」

「徼火を侮辱した奴にこの顔で話しかけて来たんだ。それでどういう反応をするかと思って」

 紅珥は思い出して笑った。「すごく困ってた」

「ひどい。あたしの顔が糞を塗った顔と同じだと言いたいの?」

 徼火が憤然と詰め寄る。しかし、違うさ、と紅珥は笑みを絶やさない。

「この顔でいるとな、たとえ当主の息子だからといってもみんな私を避けるんだ。頭がおかしくなったのかとな。普段は恭しく頭を垂れながらへつらうくせに。所詮はそんな奴らなんだよ。人を見た目や立場だけで判断してびたり見下したりする、それがありありと分かって面白かったんだ。そんな奴らの言うことなんて気にするほうが莫迦ばからしいと思わないか?」

 徼火は唇を引き結んだ。その手を叩く。

「すまない、徼火。お前の気持ちもまずに傷つけた。でも、私はお前の顔も髪も目もすべて美しいと思うよ。玉座ぎょくざに飾る宝石のようで神々こうごうしい」

 心から言うと徼火は座り込み、ついに泣き出した。侈犧もその頭を軽くはたきながらやれやれと肩をすくめる。

「やることが突拍子もないぜ、お前は。鼻は大丈夫なのか?」

「まだ大丈夫。しびれてきたらさすがに落とすよ」

 そうしてくれ、と再度溜息をついた直後に、水盆を抱えた丞必が入ってきた。

「紅珥さま、いい加減落としてください。走廊にまでにおいが立ちこめて他の者が迷惑しております」

「後で落とすからそこに置いといてくれ」

 にべもないのに困って眉尻を下げる。侈犧は胡座あぐらをかいて煙管きせるを取り出した。

「徼火と仲直りしたんだから、もう気が済んだろ。それに、今日は別のに会いに行くんだろうが。くさいのを落とさねえと嫌われるぞ」

 紅珥は失念していたのかはっとした。「そうだった」

 朝から頬に貼り付けている汚れをやっと落とす気になった主に目に見えて丞必がほっとし、侈犧と視線を交わす。侈犧は吸口をくわえて片目を閉じてみせた。







 初春でもまだまだ防寒に気を抜けない。しかし紅珥は身を切るような風をものともせず、子馬を操りながら城下への道を駆けて行く。いつものように門を抜け、通りを進み、今日は途中の露店で焼き菓子を求めた。


 通い慣れた高楼の門をくぐり門番に馬を預け、門窗とぐちに立つと楼主が出迎えてくれる。獅徇ししゅんの経営している妓楼のひとつだった。紅珥は帛紗ふくさから大粒の橄欖石かんらんせきを取り出した。あの子の瞳のように透明な緑に輝くそれを惜しげもなく渡し、店の裏口にまわる。


 目的の少女は衣をたくし上げて忙しそうに手を動かしていた。蟀谷こめかみに浮いた玉の汗を拭ったところでこちらに気がつき顔をほころばせる。


ふせさま」

「精が出るな。休憩しよう、雪貂せっちょう


 彼女は獅徇から改めて名を贈られた。もうすでに以前の自分の名を憶えていないという。こちらの言葉を話せるようになると同時に、急速にもとの言語は失われた。


 もう少し、と雪貂は水桶で洗っていた布を細腕で絞った。干し終わってまくった袖を下ろし、待っていた紅珥と建てつけの悪い物置小屋に入る。まだ雑用係で自室をもらえない雪貂のために客房きゃくしつを使えば余計に金がかかるからだ。払っているものだって閼氏に借りただけで、当主にあれだけの大見栄を張っておきながら悔しいが、紅珥はいまだに金の生み出し方もわからない。しかし七日に一度、こうして少女に会う時間はすでに日常となっていた。


 寒風を凌げるといっても物置であることには変わりない。火鉢もないなか二人は藁にくるまり、雪貂がねえやたちから貰ってきた飴湯あめゆを飲みながら紅珥の買ってきた菓子を食べた。


「仕事には慣れたか?」

 雪貂は寒さでさらに白い顔で笑った。

「だいぶん。姐やたちは優しいし」

「楼主は?」

「怒ったら怖いけど、平気」


 雪貂は笑んだままそう答えたが、紅珥は内心信じられずにいた。ここは獅徇の持つ妓楼のうちで最も小さな店で、彼女自身が楼主として目を光らせてくれているわけではなかった。不満を述べたのに獅徇が言うには、彼女が手ずから営む大店おおだなに行くには雪貂がもう少し大きくなってから、だそうだ。

 とはいえ前のところよりはずっといいようで、ここに移ってから泣いている姿は見ていない。


 紅珥は霜焼けで赤くなっている手を握ってやった。

「何かあったら、私に言うんだぞ」

 こくりと頷いたさまは小鳥のようにいとけない。

「お前をまだ自由には出来ないけれど、私が絶対に当主になって、もっと楽をさせてやるからな」

 訪問している間は雪貂は子どもにはきつい労働から一時だけ解放される。そのことが分かっているから、いつも店の者から帰るようかされるまで共にいた。


 雪貂はかじかんだ指先が温まるのを感じながら呟く。

「当主……」

「そうだ。私は将来この牙族がぞくの頂点の座にく」

 言えば笑って頷く。「わたしも、たくさん勉強する。文字ももっと読めるように頑張る。そうしたら、伏さまのお嫁にしてくれる?」

 最後の言葉は近ごろの口癖だった。それは妓女が客との別れ際に使う決まり文句のようなものだったが、雪貂が本心で言っているのは紅珥も分かっている。


「もちろん。私は当主に、そして雪貂は閼氏になるんだ。約束だ」


 うん、と彼女は以前と同じように、小さな手で握り返してきた。そのあえかな力も、照れ笑いの可憐な顔も全てが愛おしくて胸が締めつけられる。こんな気持ちは今まで誰にも感じたことのないものだった。

「今度、許しをもらって沙棘さじの林に行こう。お前を拾ったところに」

「いいの?」

「私の秘密の場所を教えてやる。実はあの時置いてきた水囊すいとうがまだそのままなんだ」

 雪貂は鈴を転がすような声を立てた。「きっともう砂に埋まっているかも。でも、わたしはそれで助かったんだもの、今度はわたしが助けなきゃ」

 そうだな、とつられて笑い、玻璃の入っていない窓の外を見上げた。雲間から射した一条が伸び、冷えた大地を少しずつ暖めてゆく。まるで雪貂みたいだ、と思った。高すぎる能力に翻弄ほんろうされ、当主の子という立場を重荷に感じ身を凍らせ動くことのできなかった自分をかしてくれた、白く輝く光。


「伏さま?」

 問うてきた彼女の美しい金髪を撫でた。

「雪貂、私のさいになるお前には、私の下の名を教えてやる。今度からそっちで呼んでくれ。みんなおそれ多いと言って呼ぶ人が少ないから、名付けられ損なんだ」

 内緒話をする時と同じように手で口を囲えば、くすくすと笑って耳を寄せてくる。



 いまや雲は完全に晴れ、うららかな午後の陽だまりが二人を優しく照らしていた。






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胡雛有心 合澤臣 @omimimi

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