エピローグ 暗殺者でなくなった夜


 夜。


 彼はひとり離宮の屋根にこしかけ、月を眺めていた。


 それを見つけて、彼女はそのそばまで行き、そっと横に腰をおろした。


 しばらく、ふたりで月を眺めていた。


 そして、はじめに口をひらいたのは彼女──オーフィスのほうだった。


「なにを、考えている?」


 それに、彼──ソフィアは月を眺めたまま答えた。


「昔のこととか色々と、ね。いままでは考えられなかったから……」


「生きるのに精一杯で、か?」


 ソフィアは笑って答えなった。振り返って、かわりにこう言った。


「約束だったよね。生き残ることができたら、ボクの名前を教えてあげるって」


「ああ」


「ソフィア・ウル・シエル──この頭文字だけ読むと?」


「ソ・ウ・シ……?」


「そういうことだよ、オ・ミ・ちゃん」


 笑みを残し、ソフィアはまた月に視線をもどした。その横顔をオーフィスは見つめていた。


 彼は、想いをはせるように、さらに口をひらいた。


「このあいだの、ボクをかばって死んだ幼馴染の娘がいたって話、おぼえてる?」


「ああ」


「その娘ね、オミナエシっていう名前だったんだ」


 ピンとくるものがあった。


「もしかして……」


「うん。オミちゃんって呼んでたんだ」


 なんと言ったらいいかわからなかった。


「その娘のこと、好き、だったのか?」


「……わからない」


 彼は月を見たまま答えた。


「あの頃のボクは、彼女のことをどう思っていたかを理解するには幼すぎて。いま振り返って、その感情を理解するには、ボクの心はすでに──壊れすぎている」


 彼はやはり笑っていた。それはいつもと同じ笑みのはずなのに、月明かりのもとで見るこいつは、どこか儚げで、幻のように消えてしまいそうだった。


「もう……、いいんだぞ」


「え?」


 彼がそっと振り返った。


「いまは、私がいる。私がそばにいる。だから──」


 その青灰色の眼を見つめながら、彼女は言った。


「──もうそんなに、がんばらなくても、いいんだぞ」


 彼は少し眼を見開くと、また月に視線をもどしてしまった。そして──


「──うん」


 囁くようにそう答えた。


 ゆっくりと彼の頭が傾いた。肩にその重さと温かさがのる。


「ソフィア……?」


「少しだけ……、こうさせてくれる?」


「ああ」


 そして──ソフィアは瞼をとじた。

 月明かりのした、ひとしずくだけ、涙がこぼれおちた。


 それは感情を失くしてしまった彼が、はじめて流す涙だった。


 彼が暗殺者でなくなった夜。ふたりはいつまでも寄り添って、ただ月を眺めていた。


 そのまま囁くようにつぶやく。


「見ていてくれたかい……斧刃」


 ──あぁ、いい月夜だな。生きるのには、とてもいい夜だ……。


 幻聴かもしれない。だがそう聞こえた気がした。

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脱・暗殺者への道 〜目指すは一般人です〜 宮原陽暉 @miya0123456

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