アトリが跳ぶころ
若槻きいろ
第1話
花が咲く、と祖父は言っていた。
その場に、その空気に。厳かにして密やかな、誰にも手折られてはいけない花が。
ひとたび風が吹けば、新緑の髪がはらはらと揺れて視界いっぱいに広がった。日が傾くころには、紅みを帯びた光が照って色味が変わる。オアシスでたまに採れる、真白い石の様な肌はいつだって一切の曇りを見せない。
花が咲いていた。
その場にあることが当たり前であるように。
一度も考えたことがなかった。
その花がどうしたいのか。ずっとそこに居続けるものなのか。渡り鳥のように、どこかに行ってしまうことはないのか。
思い込んでいた。
彼の人は、ここを見捨てることなぞないと。
ずっとずっと、乾いたこの地に咲いているのだと。
僕が産まれたのは見渡す限り砂漠の、時々オアシスがある程度の乾いた土地だった。数日歩けば海があり、交易で得るものをこちらの産物と交換して成り立っているような、何処にでもある慎ましい生活があった。
市は交易品と水と酒、そしてオアシスで採れた果実や工芸品で溢れ、機で織られた色とりどりの布や刺しゅうで彩られた。
朝と夜の通りは賑やかで、真昼間は皆家の中で静かに過ごす。
たぶん、広い大地のどこかには、こんな光景ありふれているんだろう。どこにだってあって、代わり映えがない。それでもみんな幸せそうだった。
何処にでもあるような生活だけれども、この村には他には無いだろう特別があった。
村から数里歩いた場所に、ある寂れた塔があった。自分が産まれるずぅっと前からあるらしいそれは、天にまで届くのではないかと思われる程だった。
周囲には塔を中心としたオアシスがあった。まるでそこから広がっているかのように、歪な円が広がっていた。物心がついた時より広がっている気がしたので大人に聞いてみれば、年々村の方へ広がっているのだという。
「無暗やたらと近づいてはいけない」
それが大人たちの口癖だった。どうせ意地悪な大人の、子どもに対する方便だと、昔は思っていた。
僕はそれから六つになった。あの塔に行ける資格を同時に得た。
それは食事係と呼ばれる、あの塔にずぅっと住む鳥のような彼の人の、世話係となったことを指していた。
僕は彼の人を、勝手に鳥姫と呼んでいた。幼いころ、行商人から聞いた、籠の中の鳥の話にそっくりだと思ったからだ。村の大人たちは、名前を付けてはならぬ。情を寄せてはならぬ、と散々僕に言い聞かせていたけども。
それが今までのしきたりで、村の掟で。僕らの生活のためには必要なのだという。
些か納得のいかなかった僕は、口先だけの約束をした。
だって、やっと叶うのだ。あの塔に住まう永遠のヒト、その人に会うことが。焦がれるだけでなく、この目で、この身体で彼の人を知ることが。
それが何より嬉しかった。僕に食事係を任じた祖父は、なんとも複雑そうな貌で僕を見た。
「ゆめゆめ忘れるでないぞ」
厳かに祖父は云う。異論なぞ許さぬとばかりに、いつもはしない、厳しい目つきで僕を見た。
「あのモノはここにいなくてはならぬ。これまでも、これから先も。ずっとだ。お前の祖先も、儂も、この村の者はそうしてあのモノと接してきた……。例え見える姿が、お前が知っているものと似ていても、それは同じではない。お前も、そうしなければならぬ」
祖父はそう云うと、コツリと杖を突いて部屋を出ていった。陽が暮れた室内には僕一人だけが残される。
なぜ祖父はあんなにも口を出したのか、この時の僕には全く分からなかった。任じられたばかりの僕はとにかく浮足立っていて、特別感に酔いしれていたのだ。
何も考えなかった。何も知らなかった。
彼の人の本当も、祖父の気持ちも、何一つ。
何も悟らないまま、僕はその日、幸福感で眠った。
食事係に任じられてから、僕は毎日塔の子ども一人くらいしか通れない入り口に向かい、気が遠くなるような螺旋階段を上った。
苦痛ではなかった。楽しんですらいた。何も変わらなかった日常に、明確な波紋が広がったのだから。
初めてまみえた彼の人は、見慣れた色をしていなかった。
言ってしまえば、オアシスの色。この村の人たちはこぞってよく焼けたライ麦パンのような色をしている。焦げ具合はそれぞれだけど、彼の人のように滑らかな、白い石の様な色は誰も持っていなかった。
そして一番の違いは、髪が瑞々しく波打つことだろう。含むものが違うのかも知れない。光を浴びずとも、何かが湧き出るようにそれは煌めく。厳かに、纏う空気さえ何処か違う。
こういうのを、カミサマというらしい。人によく似た、人あらざるモノ。人が持ちえない能力を持ち、それを自在に操る。
幼い頃の僕にとって、それは崇拝に値していた。
「お前は、この場所を美しいと思うか」
一か月程経って、彼の人は僕にそう話しかけた。僕はぽかんとしてしまった。その時の僕は、いつもの手さげ籠にライ麦パンと干し肉のスープ、そして祖父の代から所望され始めたという紙束を彼の人の前に出し終えた、ちょうどその時だったのだ。
数秒の後に事体を飲み込み、僕の顔は歓喜に染まった。一か月、吐息すらまったく聞くことのなかった鳥姫の声を聴いた瞬間だった。鈴のように響き、かといってうるさくはない、女の人にしてはなんとも低めの、脳に染み込むような声音だった。
「うつくしい、と思います」
言われたままに、僕は答えた。もちろんきちんと問われたことを考えた末に、だ。僕は彼の人の隣にある、たったひとつの窓を見つめた。そこからは夕日に照らされた金の世界が広がっていた。拳ぐらいの僕の村と、地平線まで先が見えない大きな砂漠だ。
「いいことばっかりではないけれど、好きなものはあって。景色も、食べ物も、人も、僕を育んでくれたものなんです」
もっと陽が沈めば常闇のような天蓋が頭上を覆う。そして気まぐれに、ぽつりぽつりと、かつて星と呼ばれた跡が姿を現す。村のほうでは大小の明かりが、赤や黄色、橙のまぁるい光となって彩られるだろう。夕刻になれば子供らは家へ帰り、母を手伝う。静かな暗闇の中、せめてもの明かりを灯して人らはそこで生を繰り返す。
せまいせかいだ。外界と断絶された、情報もろくに入ってこないようなせかいだ。同じ日々を繰り返し繰り返し。この命が終わるまで繰り返し。
けれど、僕の故郷だ。厳しいけれどやさしい両親のことも、村長を務めたことのある祖父のことも。同じ日々を繰り返すけれど、友達と遊ぶ些細な幸せもちゃんとあって。それらひっくるめて、うつくしいのだと、僕は思った。
「かなしいことは、ないんです」
そう言えば、鳥姫はそうか、と言ったきり黙りこくってしまった。
窓の外を臨む鳥姫の周りには、インクで書き散らされた紙が幾重にも散っていた。それらは束ねられることすらなく、足の踏み場さえ奪うほど床に占めつくされていた。彼の人の手元には黒くて短い棒のようなものが一つ。以前、それから黒い字を生み出しているのを見たことがあった。
僕に字は読めなかったけれど、下の方程拙く、上の方にあるものほどきれいな連なりをしていたのはわかった。
狭い部屋の中で、たった一人。ここには食事係の子ども以外が来ることはない。一日に二度、つまり真昼間は本当に一人きりになる。
この人は、どんな思いでこれらを綴っていたのだろう。
物憂げに窓の外を見る彼の人は、こちらへの興味がまるでないようだった。
もう、これでは言葉を話すことは叶わないだろう。一言二言残して、僕は塔を後にする。
この場所がうつくしいかどうか。鳥姫が問うた、その真意を僕は足を砂に沈ませながら思案する。
雨がめったに降ることのないこの乾いた大地では、暑くてカラカラな風が吹く。外に出たくない昼間は熱風と嫌な圧迫してくる日差しで辟易する。けれども、夜は一変してその姿を変える。
熱さなぞ忘れたとばかりに凍てついた空気は、よく晴れた夜空の星跡をよく見せてくれる。今にも落っこちてきそうな小さくてもろいかけらを、天蓋にあるまま眺めるのだ。
僕にとってうつくしいものたちのかけら。これまでの僕を作ってきたものたち。だから、うつくしいのだと答えられた。
それと同時に、思いついたことを言うならば、見てみたい美しかろう光景はあった。見てみたいと、僕は夢想していた。
彼の人が自由に歩き、腕を広げ、大地に飛び出すのを。
砂漠の金と共に、照る日の明かりを一心に受けた彼の人は、きっと美しかろうと思ったのだ。
新緑の髪は紅みを帯びて橙に、薄灰の衣は影を作りより黒く。まるで渡り鳥のように、花と冠される鳥のように美しかろうと思ったのだ。
僕はずっとずっと見てみたかった。けれど同時に、きっと叶わない夢だとも思っていた。
この村は変われないから。しきたりも、掟も、ずうぅっと変えることのなかった小さな世界だから。
みんなのことは嫌いじゃない。だけども、どうすればいいのかわからない。
だから、僕はずぅっと諦めていたのだ。
食事係に任じられて、二つほど年が回った頃だった。
朝の刻に僕が鳥姫の室に訪れると、珍しく彼の人は眠り惚けていた。なんと珍しい。なんとよい時期に来ただろう。彼の人の傍にそうぅと食事が入った籠を置き、その寝顔をじぃっと見つめる。
光を反射する睫毛は長く、髪色と同じ淡い緑だ。瞼の裏では何を見ていることだろうか。
ふと、祖父や大人たちが口をそろえて言っていたことを思い出す。やれ名前を付けるな、情を寄せるな、と。そんなの、無理に決まっている。こんなにもきれいな造作の、僕らと似た姿の生き物に。親しみを、崇拝を感じずにはいられない。かつて、いなかったのだろうか。彼の人に魅せられて、情に落ちて行かぬにしても思いふけた人が。
じぃ、と見つめる。いつまでも見ていられそうだ。けれど、そろそろ帰らねばならない。名残惜しさしかない頭をなんとか帰り道へと向けさせる。
「❘いくな、」
その音は何を指していただろう。魘されたように、同じ音の連なりを鳥姫は小さく呟く。
その時の彼の人の姿はあまりにも頼りなく、ただの人の様だった。
僕はその場を逃げ出した。知りたくなかった。知りたくなかった。
転げるように螺旋階段を飛び降りて、一刻も早く外の、あの熱風を浴びたかった。
息を切らして外の砂ぼこりが舞う空気を吸う。そこで少し、ようやっと落ち着くことができた。
彼の人は、好き好んでここにずっといるのだと思っていた。そういうものだと思っていたから。……あの人の本当を、僕は知らなかった。
とぼりとぼりと目的地を決めぬまま村に戻る。このまま家に帰るのは嫌だった。どこかで頭を冷やしたい。けれど、何処へ? このせまい場所では、隠れるところも、逃げられるところもありやしないのだ。
とぼりとぼりと宛てなく歩いて、いつの間にか人だかりができる広場に来ていた。
「よぉ坊主」
突然、見知った声が僕に向けられた。ああ、今日はキャラバンが来る日だったか。元気にしていたか、と気さくな商人風な青年が僕に話しかけてくる。前に、鳥の話やらを教えてくれたのも、この青年だった。
以前の僕なら、キャラバンが去った後はいつ来るのかまだなのかこらえきれないほどだったのに。食事係になった今となっては、役割のほうが僕にとって大事な物になっていた。
「いつもの威勢がねぇなぁ」
どうした、と青年は僕に問いかける。たいしたことではない。ただ、塔で聞いてしまった、彼の人の言った名前が気になってしかたないだけだった。
聞いた音の連なりを僕は青年に伝えた。名前だとしても、ここらではまず聞かない名だった。
わからないだろう。そんな気持ちでいたのに、あぁ、と青年は頷いて、聞いたことがあると答えた。
「たしか、ずいぶん前にこの村にいたと聞いたことがあるぜ。お前の爺さんの一回り上ぐらいだったか」
俺も爺から聞いたぐらいだけどよ、と彼は云う。まさか知っているとは思わなかった。僕はこの話をきちんと聞かねばならない気がした。それで、と続きを促す。
「この土地の人間とは違う、異なった容姿でな。この土地のような、砂色の髪で、ここらでは珍しい黄玉みたいな琥珀色の瞳を持っていたんだと。爺曰く、滅多に見ないほどの美人だったとよ」
金と宝石に目がない爺が言うんだ、間違いないと青年はお道化て教えてくれた。
「けどよぉ、そいつ、年期が明けるとこの村のことほっぽいて旅に出たんだとさ。なんでも、本になるためだとかなんだとかで」
可笑しな話だよなぁ。と青年はくだらなさそうに笑う。そして客が来ると僕をほっぽいてそちらへと集中し始めた。
話を聞くに、この土地の人間ではない。黒地の肌と日に焼けた、焦げた茶髪がこの土地の人間だと現わす。それは、僕も同じ。
今日はとんでもない、腑に落ちないことばかりが起こる。
鳥姫の居眠りに、そこから飛び出た、かつてこの村にいたらしい、
村人でない異国の人。その人は、彼の人とどんな関係だったのか。
親しかったのか。彼の人が名を覚えるほどだから、もしかしたら
僕みたいな食事係だったのかもしれない。その人が、本になるために旅に出たこととは?
塔での驚きなぞすっかり払拭されて、僕は家路に着いた。
わからないことだらけだ。けれども、鳥姫のことがすこし知れた日でもあった。頭のよくない僕は、それだけでもう満足してしまっていた。
数日後、祖父が体調を崩すまで、そんな楽観的な心地のままでいたのだった。
祖父の部屋で、隠された手紙を見つけるまでは。
僕が食事係になって五つほど年が経った頃だった。
村で一番長生きであった祖父が突如倒れた。持病で、寿命で、いい年でもあった。しばらくして家の離れで目覚めた祖父は、自分の死期は近いと家族に告げた。僕に任を告げた時よりも頬の肉は削げ、腕は枯れ枝のように細く頼りなかった。祖父は冗談を一切言わない人間だった。だから本当に、その時は近いのだと思い知った。
父と母、そして叔母やら叔父やらは動揺を覚えはしたがすぐに受け入れ、いつその時が来てもいいように動き始めた。
「あんた、暇してるなら爺様の部屋から一張羅の服を持ってきて」
いつもの役割を終えて家で微睡んでいると、姉にずばしと言われ、僕は部屋から追い出されてしまった。隣人までもがてきぱきと動き回る中、ちょうど手持無沙汰だったのが仇となったらしい。彼の人の食事係をしている僕であったが、それは周囲には尊敬されるものであっても、身内からはたいしたものにはならないのだ。
半強制的に追い出された形ではあったが、
祖父の部屋なんて、最近では家族の誰も入ったことも、見たこともなかった。僕が物心つく前に亡くなった祖母と一緒のだったそうだが、今使っているのは祖父一人だ。僕は内心、楽しみを見出さずにはいられなかった。
嬉々として入った祖父の室は、窓はすべて閉じられてなんとも伽藍洞な佇まいだった。はたしてここに祖父が生活をしていたとは考えられない程だった。
「一張羅、一張羅?」
事前に姉から、元をたどれば祖父から聞いたという情報をもとに探せども、元来物探しが大の苦手であった僕は初めて早々参ってしまった。祖父の室内にある物置では、古びた布やら服やら小物やらがわんさかとしていて、軽く店が開けそうな程物に溢れていた。
それもこれも、祖父が長年この村の村長として治安を収めてきたからこそのものだった。
堅く閉じられた窓の向こうでは、いつもよりも賑やかな人の声があった。あれが、祖父の人望。あれが、祖父が生きてきた証。
何かを成してきたひとの最期は幸福なのだと、僕は思った。
大きな棚から適当に、力任せに手ごろな箱を引っ張りだすと、勢いよくどたどたと芋づる式に整理されていた物が崩れていく。それと同時に勢いよく積もり積もった埃まで吸い込んでしまうものだから、僕はしばらく咳き込むことをやめられなかった。
「なんだ、これは……」
かさり、と手を彷徨わせれば乾いた音がした。息苦しさの中、やっとの思いで目を開ける。そこにあったのは、大量の古い手紙だった。
紙は随分と痛んで、文字がかろうじて見える程度だった。水痕だったり、酷くひしゃげた跡だったり。それらが届けられたのはずいぶんと昔の様で、すべての手紙の封は切られていた。
このころの僕は、いい加減文字が少しは読めるようになっていた。頑なに学ばせようとしない祖父に隠れて、キャラバンの青年に少しずつ教えてもらっていたのだ。
僕は好奇心に負けて、魅かれるように開けられた封の中身を少しずつ見ていった。宛名には、全てに新緑の貴女に、と書かれていた。手紙にはすべて本のように頁が振られていて、拙くも読んでいくと物語のようにも感じられた。
送り主のところには、いつだったか彼の人が呟いていた名が書かれていた。
これは、これは。
どくり、と心臓が悪い音を立てる。思わず手を胸へ押しやった。
見てはいけない。知らないだけではきっとすまされない。
ここにあった手紙は、祖父の知られてはいけないだろう秘密だった。
「そうか、見てしまったか」
居てもたっても居られなくなった僕は、祖父のいる離れへと急いだ。姉の頼みどころではなかった。きっと後で拳骨を食らうことだろう。それでもいいから、僕は祖父に聞かねばならなかった。
手紙を一つ、握りしめてやってきた僕に、祖父は一瞬驚いたのち、出会い頭の言葉を吐き出した。
「あの人は、緑を生み出す。このあたりのオアシスが豊かなのもそのためだ。だから祖先は彼の人を手放したがらなかった」
とつり、とつりと、僕が知りえなかったことを祖父は語った。大人は皆知っていた。子どもには教えられない、本当のはなし。
「けれども、一度、年頃の子どもがいない時期があった。その時に選ばれたのが、その手紙を書いた主だ」
それがすべてのはじまりなのだと。あの塔は出られないように子どもしか入れない。知恵をつけさず、たいしたことができない、ただの子どもを。
「そやつが来てから、彼の人は変わった。笑うようになった。怒るようになった。悲しむようになった。……どれもこれも、そやつがいたから始まったことだ」
手紙もそう、と祖父は云う。
「儂らはそやつを追い出した。二度と彼の人を誑かさないように。彼の人は、ここにいるべき方。誰も、それを妨げてはならぬ。……それでも、儂は見てしまった」
魅入られた、と祖父は云う。窓の向こう、光の先を見据えて、塔の方角を見つめている。
「彼の人がそやつに執着していることは知っていた。だからこそ、手紙が来たときは慄いたよ。……儂は彼の人を手放したくなかった」
花が咲く、と祖父は言った。
その場に、その空気に。厳かにして密やかな、誰にも手折られてはいけない花が。
「彼の人がほほ笑むとき、そこには必ずそやつの姿があった。ならば、手紙を読んだならば、彼の人はどうなる? 儂はいてもたっても居られなかった」
だから当時の儂は手紙を全て隠した、と。来るたびに、いつ来るのかわからぬものをいつだって警戒し、恐れた。すべては彼の人が永遠にここにいるため。
「見なくても、よかった。いてくれさえすれば、そこにいるならば」
祖父の白く濁った目に映るのは、きっと新緑の鳥姫だ。
祖父は知っていたのだ。これは、この村にとっていけないものだと。
それと同時に、彼の人にとって、かけがえのないものだと。
だから、だから。
手紙を、隠すしかなかったのだ。
その晩、僕は泣きながら眠った。悔しくて、悲しくて、どうしようもなかった。どうにも出来なかった。誰も幸せにならない。
そして三日後、祖父は付き物が落ちたように、永い眠りについた。
葬式の前日に、僕は鳥姫の塔に訪れた。本当は、親族はこの時期ここに来てはいけないと言われていたけれど、そんなこと言っていられなかった。
彼の人はいつものように、じぃ、と小さな小窓から外を眺めていた。
その様子はあまりにもいつも通りだ。反して、僕の心臓は食い破れそうな程暴れまわっていた。
言わねばならない。祖父が亡くなった、今となってはこのことを伝えられるのは僕しかいないのだ。
かたん、と籠が石造りの床に打ちついて音が鳴る。それと同時に、鳥姫はこちらに気が付いたようだった。
新緑の瞳がこちらを見据える。何もかもを見透かすようなそのきらめきから一刻も早く目を逸らしたくて仕方ない。
「明日、お葬式があって。俺の爺様、なんですけど」
たぶん、あなたも知っている。そういっても、彼の人は微動だにしなかった。ただ静かにそこにいるばかりだ。
「この村を出たという、砂色の髪の人の次に来た人、です」
声が震える。合わせた掌ががくがくとぶれて仕方ない。真っすぐに鳥姫を見ることができなかった。
「村長になった、自慢の爺様です。なんですけど」
祖父は。ずっと罪を抱えていた。大人の言いつけを破って彼の人を魅入って、そればかりか鳥姫に渡されるはずだった手紙をすべて隠した。今、ここにある手紙たちは祖父の罪そのものだ。
けれど、それも明るみに出さねばならない。僕たちがどうなろうとも。これまでの世界が壊れようとも。
僕らの生活は、命は、すべて鳥姫の恩恵によるものだった。緑を生み出す不思議なちから。カミサマだけに赦されたちから。
それでも、やはり僕は言わねばならない。
だって、こんなのおかしいはずだから。
これ、と一思いに扉の向こうから大きな籠を引きずり出す。
「爺様の部屋に、あったんです。気になって見てみたら、貴女のことが書いてありました」
鳥姫は籠に近づいて、一番上にあった手紙を眺めて、中身をみた。
彼の人の新緑が、大きく見開く。よく見れば、手が微かに震えているようにも見えた。
開いては、籠に残された手紙を次々と開いてゆく。
僕はそれを逸らさず見つめて、隠された秘密を告白する。
「爺様が、隠していました。多分、これを読んで貴女がどこかに行ってしまわぬように」
怒りか、失望か。できるなら、全てを知ってもなおこの場所にいてもらうのがこの村にとってありがたいことだろう。
けれども、相手は人ではない。此方の通りなぞ通らない。
相手は、カミサマだ。
「あの子、頑固なの」
怖さのあまりにぎゅう、と閉じてしまった瞼緩く開けた。僕の目に映る鳥姫の声音は思った以上にやさしかった。
「約束破っちゃあ、きっと拗ねるわ」
手紙を握りしめて、祈るように、願うように。そしてそれは、叶えるためにある。彼の人は窓に近づいてゆく。
「村の人たちにいっておいて」
鳥姫が窓辺に手をかけた。高い、高い塔だ。
あっと僕は息をのむ。子どもが通れるほどの、小さな窓だ。けれども彼の人はそんなこと気に留めず、体を潜り込ませる。
手紙の束を胸元に強く押し付けていた。陽の光を浴びて、黒い棒がきらりと光る。
「あとは自分らで頑張って、って」
たん、と床を蹴った音がした。
慌てて僕が窓に近づき、下の方を見れば、そこには大きく広がるように花が咲いていただけだった。
「祖父は、貴女をずっと見ていたかった。何処にも行かないで欲しかった」
もはや遠く、姿さえ見えなくなった鳥姫を見つめながら、僕はぽつりと呟く。
ずっと若く、老いることのない。それこそ永遠みたいな貴女を、ずっとずっと。それが貴女をこの塔に閉じ込めて自由を奪うことだとしても。
成就されぬ。捨てたかったろうに、捨てられなかった。
僕の抱えるものが憧憬というなら、祖父のそれは思慕だ。
遠くから眺めるもの。花を愛でるように、傍から見つめるだけならば誰も止められない。
けれども彼の人は、鳥姫は花ではなかった。大空を往く鳥であった。あの小さな鳥かごのような塔にいても、彼の人は鳥であることを忘れていなかった。
いつかの鳥姫は、この場所は美しいかと聞いた。今の僕なら、こう答えられる。
全てがすべて、うつくしい場所なぞありません。それでも、うつくしい場所を求めて、人は向かうのでしょう、と。
fin.
アトリが跳ぶころ 若槻きいろ @wakatukiiro
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