夕暮れのオルガン~『銀の華』外伝~

長月そら葉

夕暮れのオルガン

 これは、まだ三咲晶穂みさきあきほがソディールの存在も『銀の華』という自警団のことも知らない頃の物語。




 晶穂は生みの両親を知らない。物心ついてから、孤児院の先生に「門の前にあなたはいたのよ」と教えてもらっただけだ。毛布にくるまれ、赤ん坊は大声で泣いていたらしい。

「ただいま」

「おかえり、あきほちゃん!」

「おかえり~」

 小学校から帰宅すると、待ってましたとばかりに小さな弟妹たちに群がられる。晶穂が彼らに応じていると、園長を務める女性が菜箸を手に台所から顔を覗かせた。

「お帰り、晶穂。夕食までは時間があるから、宿題を済ませてしまってね」

「わかりました、先生」

 ここは、孤児院兼幼稚園の水ノ樹学園。様々な理由で親元を離れた子どもたちが、集団生活を送っている施設だ。

 晶穂の他にも幼稚園児や小学生など、十人程が暮らしている。彼らの世話をする先生もいて、毎日賑やかだ。

 晶穂は小学三年生になって数か月が経った。梅雨の足音が近くに聞こえるこの頃は、少し蒸し暑い。

「ただいま。……って誰もいないか」

 この施設で長女となるのが晶穂だ。彼女が来た当初は更に上の年齢の子どももいたが、皆巣立ってしまった。

 一人部屋を与えられているのは今のところ晶穂のみで、幼稚園児の歳の子たちは先生と過ごす子も多い。いつもまとわりつかれるのも大変だが、晶穂はふと寂しくなることもある。

 ランドセルを定位置に置き、中から算数と国語の宿題を取り出す。今日は、算数と漢字の各ドリルを三ページずつ終わらせなければならない。

「……よしっ」

 筆箱から鉛筆を取り出し、晶穂は気合を入れてからまず漢字ドリルを開いた。

「……」

 チクタク、チクタク。壁に掛けられた時計が時を刻む。その音を耳にしながら、晶穂は鉛筆を動かしていた。

「―――はあ」

 しかし、十分も経たずに音を上げてしまった。今日は最後に体育があり、ドッチボールをした。その疲れと空腹で、集中力がもたないのだ。

「……ちょっと、気分転換しよっ」

 何かを口に入れるわけにはいかない。台所には先生がいるし、弟妹たちの手前、盗み食いもつまみ食いも出来ない。

 晶穂は空腹と勉強を一時的に忘れようと、部屋を静かに抜け出した。


 幸いにも誰かにも見つかることはなく、晶穂は一人で施設と渡り廊下で繋がった幼稚園に入り込んだ。全体が一つの敷地に立っているため、鍵も必要ない。

 既に誰もいなくなった幼稚園には、もうすぐ空の向こう側に隠れてしまいそうな太陽の光が射している。その夕焼けに見惚れ、晶穂はしばし時間を忘れた。

 ――ガチャッ

「まずいっ」

 立ち止まっていた晶穂は、何処かの扉が開く音を聞きつけて焦る。もう誰もいないと高をくくっていたが、どうやら幼稚園の先生がまだ残っていたらしい。

 慌てた末、晶穂は偶然鍵の開いていた教室に滑り込んだ。息を殺し、先生が立ち去るのを待つ。

「……行った、かな」

 先生の足音が遠ざかってから数分後、晶穂はようやく息をついた。耳を澄ませても聞こえる音は、自分の息をする音と心臓の音くらいのものだ。

 ほっと息をつき、それからきょろきょろと教室を見回す。幼稚園児の時は毎日のように通った場所だが、小学生になってから入ることなどない。物珍しくて、好奇心が湧き上がる。

「あれ……オルガンかな?」

 小さな椅子が散乱する教室の前方に、茶色のオルガンが鎮座している。数冊の楽譜が置きっぱなしになっており、晶穂はそれを一冊手に取り開いてみた。

 そこに書かれている曲名は、一度は聞いたことのあるものばかり。幼い子どもが好きなアニメソングや子ども番組のテーマソング、更には童謡まで幅広い。

「……ちょっと、弾いてみようかな」

 ピアノもオルガンも習ったことはない。しかし、施設にもオルガンは置かれていて、先生が時折弾いてくれる。それを見て、少しだけ教えてもらったこともある。

 晶穂は椅子を引いてよじ登るようにして座ると、オルガンの鍵盤を開いた。白と黒の鍵盤は、手入れが行き届いているのか汚れがない。

「よし」

 ――ポーン

 ドの音を出す。次はレ、ミ。それからシ、ドまでの場所を確かめ、晶穂は楽譜を開いた。そこから、一曲を選曲する。

 ――ド、レミ、ド、ミ、ド、ミ……

 決してリズミカルではなく、たどたどしい音が響く。懸命に鍵盤を押し込みながら、晶穂はいつしか歌詞を口ずさんでいた。

 ――ド、レ、ミ、ファ、ソ、ラ、シ、ドッ

 最後に全ての音階を順番に弾き、晶穂は達成感で「弾けたー!」と叫んでいた。それから慌てて、口元を手で押さえる。先生に見つかっては怒られてしまう。

「何してるんだ、こんなところで」

「え……っ」

 声をかけられるとは思いも寄らず、晶穂はぱっと顔を上げた。何処から声がするのかと探せば、開いていた教室の窓の外からこちらを見つめる男の子の姿がある。

「だれ……?」

 見たことのない顔だ。少なくとも、小学校にはいないと思う。流石に全校児童の顔を知っているわけではないが、同年代の男の子で大人っぽい雰囲気を醸し出す子などいない。

 男の子の黒髪は、西日に照らされている。そしてその瞳の赤は、夕焼けと同じ色だと晶穂は思った。

「何だよ? じっと見て」

「え? あ、ごめんなさいっ」

 自分が男の子を凝視していたことに気付き、晶穂は慌てて謝った。ぺこっと勢いよく頭を下げてしまい、額が鍵盤にあたって大きな音をたてる。

「いったぁ……」

「くっ、くく。大丈夫かよ」

「わ、笑わなくても良いでしょ!」

 見知らぬ男の子に笑われ、晶穂の顔は羞恥に染まる。

 ひとしきりケラケラと笑った男の子は、頬を膨らませる晶穂に気付いてひらりと窓枠を越えた。驚く晶穂の前にやって来ると、彼女の前髪を手で上げる。

「ひゃっ」

「赤くはなってるけど、血は出てない。冷やせば大丈夫だ」

「あ……ありがとう」

 別の意味で真っ赤になった晶穂から離れ、男の子は掛け時計を指差した。

「お前、何処の奴か知らないけどさ。もう七時過ぎてるぞ」

「えっ」

 確かに、文字盤は午後七時十五分を示していた。晶穂の中で、さっと血の気が引く。

 ガタンッと音をたてて椅子から下りると、晶穂は教室の扉を開ける。既にいつもの夕食の時間を過ぎていた。ここにいるのがばれれば、叱られるのは免れない。

「……」

 教室を出る前に、晶穂はくるっと振り返った。あの男の子に別れの挨拶をしなければと思ったのだ。

「……あれ?」

 しかし、教室には自分以外誰もいない。あの男の子の姿はなくなっていた。

「帰っちゃった、のかな?」

 一瞬探そうかとも思ったが、これ以上教室にいては先生を心配させると思い直した。見回りの先生ももうすぐやって来るだろうから、鍵の心配もいらない。そもそもかけ忘れた先生が悪いのだ。

 教室を出ると、既に夜の帳が下りていた。満月に近い月が、夜空からこちらを見下ろしている。

「急ごっ」

 晶穂は全速力で施設に走る。そして、そっと廊下を歩いて自室に入った。

 夕食は午後七時から始まるのが通常で、晶穂は息を整えてから少し急ぎ足で食堂へと向かう。

「あら、遅かったのね。宿題、難しかったの?」

「かったのー?」

 既に食事を始めていた園長先生と年下の弟妹に問われ、晶穂は曖昧に笑った。

「はい。ちょっと計算問題で」

「そう。冷める前に席について食べてね」

「はい。いただきます」

 内心胸を撫で下ろし、晶穂は箸を握った。今日の晩御飯はハンバーグだ。

「……でね、こーたが」

「へえ。それは楽しかったわね」

 食事中、先生や弟妹たちの声が耳を素通りする。晶穂の頭の中には、夕暮れの教室で出会った不思議な男の子のことで占められていた。

「……ほ? 晶穂?」

「―――えっ」

「もう。大丈夫? 熱でもあるのかしら」

 園長先生に額の熱を測られ、晶穂は我に返った。どうやら食事中に手が止まっていたらしい。

 心配する園長先生に「何でもない」と伝え、美味しいハンバーグと白米を食べ終わる。

「先生、手伝います」

「あら、ありがとう。じゃあ、お皿を洗うから拭いてくれる?」

「はい!」

 布巾を受け取り、晶穂は園長先生の隣に立った。洗剤で洗われた皿の水を切り、布巾で拭いていく。ある程度積み重なったら、食器棚へと片付けるのだ。

 お手伝いが終わると、何人かの弟妹がくっついてくる。

「あきほちゃん、テレビみよ」

「あきほちゃん、えほんよんで~」

「ごめんね。宿題の続きやるから、みんなで遊んでて」

「「えぇ~~~」」

 残念そうにする彼らに再び謝り、晶穂は自室へと向かった。机の上には、まだ終わっていない宿題が広げられたままになっている。

「とりあえず、やらなきゃ」

 晶穂は鉛筆を持ち、漢字の練習を始めた。カリカリという文字を書く音が響く。

 宿題は思いの外はかどり、二時間もせずに終わらせることが出来た。歯を磨いて風呂に入り、再び自室に戻って来たのは一時間後だ。

「……あの子、誰だったんだろ」

 明日の用意も済ませ、晶穂は布団に寝そべって考える。そう言えば名前も知らないなと思ったが、後の祭りだ。

 ふあぁ、と欠伸をして、晶穂はタオルケットを被った。明日も学校がある。

「また会えるといいな……」

 急速な眠気に襲われ、晶穂は目を閉じて夢の世界に旅立った。



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