藤が房親と共に消息を絶ったのは、三日後のことだった。父は藤の邸に押しかけ、女房たちを問い詰めたが何も知らないという。そのまま五日調べさせ、何の収穫も得られなかった父は、桔梗にも邸に行かせたが、そこで初めて女房たちが口を開いた。

「兄上様がおいでになったら、この文をお渡しするようにと。中身は誰も見ておりませぬ」

 上質な紙にしたためられた文を渡されたとき、桔梗はとても嫌な予感がしていた。

 ゆっくりと紙を開き、文字を目で追う。そして読み終わったとき、桔梗は思わず文を取り落とした。

「あ……あぁ……」

 その文は、どう読んでも遺書としか思えなかったのだ。


『桔梗の兄上。今まで、申し訳ございませんでした。お許しくださいとは申しませぬ。しかし、あの桜の下の約束を思い出してくださりませ。私は、あの約束のために生きて参りました。ただ、約束をお忘れの兄上が恨めしくて、あんなことをしたのです。

 ただ、貴方を愛していました。それだけなのです。

 暫しのお別れとなることを、ご承知ください。この文は誰にも見せずに燃やしてくださりませ』


 文の後には、別れの詩と涙の染みがあった。桔梗は、文を握りつぶして、その場に蹲った。そして、それと同時に、文に記されていた桜の思い出が一気に目の前に蘇った。


 §§§


 藤が五つか六つくらいの頃、西対の庭の桜が綺麗に咲いたからと、母と三人で眺めていた。庭を駆け回る子供たちと、それを穏やかな笑顔で眺める母。とても幸せな時間だった。

 ひらひらと舞う花びらを捕まえようとして、宙に飛んだ藤を受け止め、小さな手の中に薄桃色の花弁があることに気がついた。

「すごいな、藤!」

「はい!ははうえ、はなびらをつかまえました!」

「まあ、私にも見せてちょうだい」

 しかし、花弁を持ったまま母の元へ駆け寄ろうとすると、不意に強風が吹き、藤の捉えた花弁が飛ばされてしまった。

「あぁっ、はなびらがありませぬ」

「風に飛ばされたか?残念であったな」

「せっかくつかまえたのに……」

 桔梗は、泣きそうな顔をする藤の前にしゃがんで頭を撫でた。

「泣くな。花びらとは散って消えるもの。お前がもっておいたとしても、いつかは朽ちてしまうのだから、綺麗な内に手放したのはむしろ良いことかもしれぬ」

「あにうえ!そのようなさみしいこと、ききたくありませぬ!」

「あっ、すまぬ、余計なことを言った」

 拗ねてそっぽをむいてしまった藤の頬に掌を当てて、こちらへ向かせる。

「……わかっておりまする。このよに『とこしへ』のものはないと、おききしました」

「ああ、そうだな」

「……では、あにうえは?」

「え?」

 藤の大きな瞳が瞬いた。

「あにうえ、あにうえはずぅっと私と一緒にいてくださりますか?」

 いじらしい声に、桔梗は弟が愛しくなって、その丸い頬をつつきながら約束した。

「当たり前ではないか、私達は兄弟なのだから」

 大好きな兄の言葉に、弟は歓喜の声を上げながら兄の首に抱きついた。鬱陶しいくらいの桜の花びらが、二人の周りを飛んでいた。


 §§§


 何故、忘れていたのだろう。先に約束を破ったのは自分の方だったのだ。ずっと一緒だと約束したのに、元服してからは会いにも行かず、久しぶりに会ってから後は、拒絶してばかりだった。挙げ句の果てには、「お前が憎い」と言って逃げ出した。

「……ふ、じ」

 何故、何も返してやらなかったのだろう。二人きりのときに、誰も聞いていないときに、一言だけでも、本心を伝えていれば。

「……藤……っ」

 今更後悔しても、もう遅いのだ。

「――桔梗様はおいでか!」

 突如、聞き覚えのある声がした。女房をかき分け、ばたばたと騒々しく入ってきたのは――房親だった。

「房親?そなた、今までどこに……!」

「桔梗様!あぁ、良かった、貴方様に真っ先にお伝えせねばと……」

 涙に濡れた桔梗の顔を見た途端、房親の顔も歪んだ。

「……っ、我が主、藤の、君、が」

 よくよくみれば、房親の目は既に真っ赤に腫れていた。房親が話し始めるのと同時にそれに気づいた桔梗は、瞬時に耳を塞いだ。

「嫌だ、聞きとうない」

「桔梗様!いいえ、最後まできちんとお聞きくださりませ!」

 涙声の応酬に、その場にいる女房たちも一歩も動けずにいた。

「貴方様だけは、受け止めていただかねばなりませぬ!」

 腕を捕まれ、耳に蓋をするものがなくなった。目の前に迫った房親の顔は、涙と砂で薄汚れている。

 ――嫌だ、嫌だ、聞きたくない。聞いてしまえば、あの文に記されたお別れが本当になってしまう。

 そんな桔梗の祈りも虚しく、房親の口から発されたのは、この世で一番残酷な報告だった。

「――我が主、藤の君は、三日前に、この私、房親の目の前で、自ら……鴨川に御身を投げられました」

 女房たちが口々に騒ぎ出し、動揺が邸中に広がる。桔梗はその中心にいながら、一言も発することができずに、泣き崩れた房親の背中をただ呆然と見つめていた。



 房親の報告はすぐに両親の耳にも届き、父大臣は悲しみのあまり病に倒れ、母は暫く口をきけなくなった。父は病身を押して遺体のない葬送をおこなったが、病床ではずっと「何故だ、何故身投げなどしたのだ」と譫言うわごとのように喚いていた。その様子を見ていられず、喪中ということもあって、桔梗も自邸からあまり出なくなった。そうして、一家が悲しみに暮れて過ごすうちに日がすぎ、喪が明けた。

 喪が明けてすぐ、桔梗は帝に召された。帝が藤を気に入っていたことは誰もが知っていたので、きっとそのことで何か話があるのだろう。

「……此度は、残念だった」

 挨拶の次にかけられた言葉だった。

「あのように有望な若者が、たった十五で散ってしまうとは」

「勿体のうお言葉、弟もきっと喜んでおりましょう」

「さぁ、どうだかな。彼奴は朕を怨んでおるやもしれぬ」

「と仰いますと……?」

 帝は、手の中で弄んでいた扇をぱちりと閉じて、小さく笑った。

「教えてやろう。近うよれ」

「はっ、失礼いたします」

 帝の前の御簾の側近くへと誘導される。潜めた声で帝が囁いたのは、あまりに酷な話だった。

「朕はずっと彼奴あやつをいたぶっておった。彼奴あやつには、兄であるそなたのことしか見えておらなんだ故な。気づいておったか?そなたを想うあまり、男にも女にも、自ら触れることはなかったらしい。しかし、何をしても藤の心が朕に向くことはなかった。故に、朕はそなたが憎く仕方なかったのだ。そして、彼奴あやつが身投げする半月ほど前、朕は命じたのだ。『そなたの兄を陥れ、昇進せよ。そしてもっと朕の側近くで仕えよ』とな」

「な……」

「朕自ら取り立ててやろうと言ったのに、彼奴あやつはそなたを選んだ。そして一人、朕をおいていった!」

 がたん、と大きな音が御簾の内より響いた。帝が調度品の何かを蹴倒したのだろう。

「朕は、そなただけは許さぬ。心の内で妬みつづけてやろう」

「み、帝――」

「もう良い、下がれ。これ以上話すことはない」

「……御前失礼いたします」

 急いで退出し、帝の話を頭の中で整理する。帝は藤を寵愛したが、桔梗一人に藤の心は向けられていた。それに怒った帝は、桔梗を排斥するように命じ、藤は死を以てその命を拒んだ。つまりそれはどういうことなのか。

「まさか、藤が身を投げたのは、己の罪を悔いてというだけではなかった……?」

 殿の廊下を歩きながら、こぼれ落ちそうになる涙を飲み込む。

「私を……守るために……?」

 袖で顔を覆い、人に見られぬようにしながら息を吸う。

「私の他に、誰にも……自ら触れなかったと?女房に手をつけることも、なかったと――」

 迎えに来た従者とともに、俥に乗った途端、堰き止めていた感情が決壊した。桔梗は、外の家人たちに嗚咽が聞こえぬよう、口を押さえた。

 ――藤、お前は私だけをただ愛し、守り抜いて死んでいったというのか。

「――――っ」

 もう、限界だった。心が軋んで、悲鳴を上げている。何故、自分はまだ生きているのか、わからなくなった。



 憔悴した顔で戻ってきた桔梗を、二の姫は優しく出迎えた。彼女はただ側に寄り添って、桔梗が自ら口を開くのを待った。やっと人心地がついた桔梗が今日の出来事を話し始めたのは、夜半のことだった。

「……帝が、弟の話をされたのだ」

「はい」

彼奴あやつは、私のために死んだのだと」

「……そんなはずは、ございませんわ」

 二の姫の言葉が無責任な慰めに聞こえて、桔梗は声を震わせた。

「貴女に、何が解る」

「桔梗様」

「貴女は、私達のことなど、何もしらないはずだ――」

 不意に、二の姫の掌が桔梗の口を覆った。

「いいえ、知っております。私、全部存じ上げておりましたの」

 どうかそのままお聞きくださりませ、と呟いて、二の姫は手を下ろし、姿勢を正した。その真剣な様子に、桔梗は諦めて大人しく話を聞くことにした。

「私は藤の君の思い人が誰か、わかってしまったのです。貴方が私に触れてこない日があるのが不安になって、密かに貴方のことを調べさせましたから。私は、全てを書いた文をお送りしました。藤の君は否定なさらなかった。ただ、『すべて本当のことだとしたら、貴女はどうなさいますか』とお返事が来ました」

 じじ、と燭台の火が揺れた。そこで初めて、桔梗は自分が息をするのを忘れていたことに気がついた。

「きっとこれは真実なのだと思うと、胸が苦しくて。私は病に倒れました。そして、今度は私が、『私の気分が優れないのは、あなたの想いのせいでしょうか』とお送りしました。そうしたら、『貴女が仰るようなことはございませぬ。私の想いがどんなに貴女を怨んでいたとしても、お守りのあつい貴女に届くはずもない』と」

 その文言は桔梗も知っている。たまたま見てしまった文はその問いに対する返事だったのかと、変に納得した。

「あの方の想いの強さに勝てるのだろうかと、何度も悩みました。けれども、私には貴方と離れることはできなかった。私と藤の君はお仲間。貴方という火の輝きにとらわれてしまった、哀れな蝶なのです」

 隙間風が、二の姫の髪先を揺らした。

「焦がされると解っていながら、惹かれずにはいられなかったのですもの――」

 一筋の涙が二の姫の頬を伝う。桔梗には、二の姫の姿が、最後に見た藤の姿と重なって見えた。

 ――もしも、もう一度最後に逢ったあの瞬間に戻れるなら、私はきっとこう言うだろう。

『私はお前を、愛している』と。間違いなく、私はお前を愛していた。こんなことになるなら、一度だけでも一言だけでも、素直に伝えれば良かったのだ。


 §§§


 厳しい冬が終われば、春は必ず巡ってくる。

 満開の花の下で瞼を閉じた男は、心底幸せそうに呟いた。

『ごらん、藤。桜だよ。ずっと一緒にいるって、約束しただろう?私はずっとお前の側にいるからな――』

 大樹の幹に寄りかかったまま、もう二度と動くことのない指先に、薄紅色の花びらが一枚、ひらひらと舞い降りた。

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同じ枝で鳴いた鳥 悠々 @yuyu-0131

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