八
藤が房親と共に消息を絶ったのは、三日後のことだった。父は藤の邸に押しかけ、女房たちを問い詰めたが何も知らないという。そのまま五日調べさせ、何の収穫も得られなかった父は、桔梗にも邸に行かせたが、そこで初めて女房たちが口を開いた。
「兄上様がおいでになったら、この文をお渡しするようにと。中身は誰も見ておりませぬ」
上質な紙にしたためられた文を渡されたとき、桔梗はとても嫌な予感がしていた。
ゆっくりと紙を開き、文字を目で追う。そして読み終わったとき、桔梗は思わず文を取り落とした。
「あ……あぁ……」
その文は、どう読んでも遺書としか思えなかったのだ。
『桔梗の兄上。今まで、申し訳ございませんでした。お許しくださいとは申しませぬ。しかし、あの桜の下の約束を思い出してくださりませ。私は、あの約束のために生きて参りました。ただ、約束をお忘れの兄上が恨めしくて、あんなことをしたのです。
ただ、貴方を愛していました。それだけなのです。
暫しのお別れとなることを、ご承知ください。この文は誰にも見せずに燃やしてくださりませ』
文の後には、別れの詩と涙の染みがあった。桔梗は、文を握りつぶして、その場に蹲った。そして、それと同時に、文に記されていた桜の思い出が一気に目の前に蘇った。
§§§
藤が五つか六つくらいの頃、西対の庭の桜が綺麗に咲いたからと、母と三人で眺めていた。庭を駆け回る子供たちと、それを穏やかな笑顔で眺める母。とても幸せな時間だった。
ひらひらと舞う花びらを捕まえようとして、宙に飛んだ藤を受け止め、小さな手の中に薄桃色の花弁があることに気がついた。
「すごいな、藤!」
「はい!ははうえ、はなびらをつかまえました!」
「まあ、私にも見せてちょうだい」
しかし、花弁を持ったまま母の元へ駆け寄ろうとすると、不意に強風が吹き、藤の捉えた花弁が飛ばされてしまった。
「あぁっ、はなびらがありませぬ」
「風に飛ばされたか?残念であったな」
「せっかくつかまえたのに……」
桔梗は、泣きそうな顔をする藤の前にしゃがんで頭を撫でた。
「泣くな。花びらとは散って消えるもの。お前がもっておいたとしても、いつかは朽ちてしまうのだから、綺麗な内に手放したのはむしろ良いことかもしれぬ」
「あにうえ!そのようなさみしいこと、ききたくありませぬ!」
「あっ、すまぬ、余計なことを言った」
拗ねてそっぽをむいてしまった藤の頬に掌を当てて、こちらへ向かせる。
「……わかっておりまする。このよに『とこしへ』のものはないと、おききしました」
「ああ、そうだな」
「……では、あにうえは?」
「え?」
藤の大きな瞳が瞬いた。
「あにうえ、あにうえはずぅっと私と一緒にいてくださりますか?」
いじらしい声に、桔梗は弟が愛しくなって、その丸い頬をつつきながら約束した。
「当たり前ではないか、私達は兄弟なのだから」
大好きな兄の言葉に、弟は歓喜の声を上げながら兄の首に抱きついた。鬱陶しいくらいの桜の花びらが、二人の周りを飛んでいた。
§§§
何故、忘れていたのだろう。先に約束を破ったのは自分の方だったのだ。ずっと一緒だと約束したのに、元服してからは会いにも行かず、久しぶりに会ってから後は、拒絶してばかりだった。挙げ句の果てには、「お前が憎い」と言って逃げ出した。
「……ふ、じ」
何故、何も返してやらなかったのだろう。二人きりのときに、誰も聞いていないときに、一言だけでも、本心を伝えていれば。
「……藤……っ」
今更後悔しても、もう遅いのだ。
「――桔梗様はおいでか!」
突如、聞き覚えのある声がした。女房をかき分け、ばたばたと騒々しく入ってきたのは――房親だった。
「房親?そなた、今までどこに……!」
「桔梗様!あぁ、良かった、貴方様に真っ先にお伝えせねばと……」
涙に濡れた桔梗の顔を見た途端、房親の顔も歪んだ。
「……っ、我が主、藤の、君、が」
よくよくみれば、房親の目は既に真っ赤に腫れていた。房親が話し始めるのと同時にそれに気づいた桔梗は、瞬時に耳を塞いだ。
「嫌だ、聞きとうない」
「桔梗様!いいえ、最後まできちんとお聞きくださりませ!」
涙声の応酬に、その場にいる女房たちも一歩も動けずにいた。
「貴方様だけは、受け止めていただかねばなりませぬ!」
腕を捕まれ、耳に蓋をするものがなくなった。目の前に迫った房親の顔は、涙と砂で薄汚れている。
――嫌だ、嫌だ、聞きたくない。聞いてしまえば、あの文に記されたお別れが本当になってしまう。
そんな桔梗の祈りも虚しく、房親の口から発されたのは、この世で一番残酷な報告だった。
「――我が主、藤の君は、三日前に、この私、房親の目の前で、自ら……鴨川に御身を投げられました」
女房たちが口々に騒ぎ出し、動揺が邸中に広がる。桔梗はその中心にいながら、一言も発することができずに、泣き崩れた房親の背中をただ呆然と見つめていた。
房親の報告はすぐに両親の耳にも届き、父大臣は悲しみのあまり病に倒れ、母は暫く口をきけなくなった。父は病身を押して遺体のない葬送をおこなったが、病床ではずっと「何故だ、何故身投げなどしたのだ」と
喪が明けてすぐ、桔梗は帝に召された。帝が藤を気に入っていたことは誰もが知っていたので、きっとそのことで何か話があるのだろう。
「……此度は、残念だった」
挨拶の次にかけられた言葉だった。
「あのように有望な若者が、たった十五で散ってしまうとは」
「勿体のうお言葉、弟もきっと喜んでおりましょう」
「さぁ、どうだかな。彼奴は朕を怨んでおるやもしれぬ」
「と仰いますと……?」
帝は、手の中で弄んでいた扇をぱちりと閉じて、小さく笑った。
「教えてやろう。近うよれ」
「はっ、失礼いたします」
帝の前の御簾の側近くへと誘導される。潜めた声で帝が囁いたのは、あまりに酷な話だった。
「朕はずっと
「な……」
「朕自ら取り立ててやろうと言ったのに、
がたん、と大きな音が御簾の内より響いた。帝が調度品の何かを蹴倒したのだろう。
「朕は、そなただけは許さぬ。心の内で妬みつづけてやろう」
「み、帝――」
「もう良い、下がれ。これ以上話すことはない」
「……御前失礼いたします」
急いで退出し、帝の話を頭の中で整理する。帝は藤を寵愛したが、桔梗一人に藤の心は向けられていた。それに怒った帝は、桔梗を排斥するように命じ、藤は死を以てその命を拒んだ。つまりそれはどういうことなのか。
「まさか、藤が身を投げたのは、己の罪を悔いてというだけではなかった……?」
殿の廊下を歩きながら、こぼれ落ちそうになる涙を飲み込む。
「私を……守るために……?」
袖で顔を覆い、人に見られぬようにしながら息を吸う。
「私の他に、誰にも……自ら触れなかったと?女房に手をつけることも、なかったと――」
迎えに来た従者とともに、俥に乗った途端、堰き止めていた感情が決壊した。桔梗は、外の家人たちに嗚咽が聞こえぬよう、口を押さえた。
――藤、お前は私だけをただ愛し、守り抜いて死んでいったというのか。
「――――っ」
もう、限界だった。心が軋んで、悲鳴を上げている。何故、自分はまだ生きているのか、わからなくなった。
憔悴した顔で戻ってきた桔梗を、二の姫は優しく出迎えた。彼女はただ側に寄り添って、桔梗が自ら口を開くのを待った。やっと人心地がついた桔梗が今日の出来事を話し始めたのは、夜半のことだった。
「……帝が、弟の話をされたのだ」
「はい」
「
「……そんなはずは、ございませんわ」
二の姫の言葉が無責任な慰めに聞こえて、桔梗は声を震わせた。
「貴女に、何が解る」
「桔梗様」
「貴女は、私達のことなど、何もしらないはずだ――」
不意に、二の姫の掌が桔梗の口を覆った。
「いいえ、知っております。私、全部存じ上げておりましたの」
どうかそのままお聞きくださりませ、と呟いて、二の姫は手を下ろし、姿勢を正した。その真剣な様子に、桔梗は諦めて大人しく話を聞くことにした。
「私は藤の君の思い人が誰か、わかってしまったのです。貴方が私に触れてこない日があるのが不安になって、密かに貴方のことを調べさせましたから。私は、全てを書いた文をお送りしました。藤の君は否定なさらなかった。ただ、『すべて本当のことだとしたら、貴女はどうなさいますか』とお返事が来ました」
じじ、と燭台の火が揺れた。そこで初めて、桔梗は自分が息をするのを忘れていたことに気がついた。
「きっとこれは真実なのだと思うと、胸が苦しくて。私は病に倒れました。そして、今度は私が、『私の気分が優れないのは、あなたの想いのせいでしょうか』とお送りしました。そうしたら、『貴女が仰るようなことはございませぬ。私の想いがどんなに貴女を怨んでいたとしても、お守りのあつい貴女に届くはずもない』と」
その文言は桔梗も知っている。たまたま見てしまった文はその問いに対する返事だったのかと、変に納得した。
「あの方の想いの強さに勝てるのだろうかと、何度も悩みました。けれども、私には貴方と離れることはできなかった。私と藤の君はお仲間。貴方という火の輝きにとらわれてしまった、哀れな蝶なのです」
隙間風が、二の姫の髪先を揺らした。
「焦がされると解っていながら、惹かれずにはいられなかったのですもの――」
一筋の涙が二の姫の頬を伝う。桔梗には、二の姫の姿が、最後に見た藤の姿と重なって見えた。
――もしも、もう一度最後に逢ったあの瞬間に戻れるなら、私はきっとこう言うだろう。
『私はお前を、愛している』と。間違いなく、私はお前を愛していた。こんなことになるなら、一度だけでも一言だけでも、素直に伝えれば良かったのだ。
§§§
厳しい冬が終われば、春は必ず巡ってくる。
満開の花の下で瞼を閉じた男は、心底幸せそうに呟いた。
『ごらん、藤。桜だよ。ずっと一緒にいるって、約束しただろう?私はずっとお前の側にいるからな――』
大樹の幹に寄りかかったまま、もう二度と動くことのない指先に、薄紅色の花びらが一枚、ひらひらと舞い降りた。
同じ枝で鳴いた鳥 悠々 @yuyu-0131
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