割れたのは、

詩村巴瑠

割れたのは、

 「実は櫂はお父さんの子ではないんだ。」

優しい穏やかな声音で告げられた言葉に、櫂はやっぱりなと他人事のように思った。明日は十六歳の誕生日。夜も更けていく午後十一時半。台所で洗い物をしていたところ、後ろから父にそう声をかけられたのだった。自分は本当の子供ではないのではないかと疑ったことはこれまでにも何度かあった。その度にまさか、とネガティブな考えを打ち消していたが本当にそう告げられる日がくるとは思ってもいなかった。

「でも、血が繋がってないだけで十八年間一緒に暮らしてきたし、僕は本当の息子だと思ってる。だから、これはこれからも家族としてよろしくっていう話。」

その声音から、表情から、気遣われているのがわかるから尚のこと困る。

「うん。俺は本当の家族のこと覚えてないし、家族って思えるのは今の家族だけだから。」

 

 ダイニングルームのテーブルに向かい合わせで座る父の顔を櫂は直視できない。言わないで欲しかった。0才の時から育てられたのなら、言われなければわからないのに。しかし、櫂は父に全く悪気がないことはとてもよくわかっていた。いい意味でも悪い意味でも、この家の人間は皆、鈍感だ。父も、一歳年上の兄も自分は本当の子供じゃないからなんて後ろ向きなことを呟こうものなら、瞳をまん丸にしてから、「なんで!?櫂は大事な家族だよ!」と一片の曇りもない笑顔を向けてきそうだ。

 櫂は物事すべてを良い方に考える彼らとは違って、悩まなくてもいいことも考えすぎる自分のことが嫌いだった。思い返してみれば、自分だけ実の子供ではないのではないかと思ったきっかけも自分だけが後ろ向きな考え方をしてしまうところからだった。父は勿論、一歳年上の兄、渚は呆れるほど能天気だ。皿を割ったり、物を壊したりといった失態を何度も繰り返しているのだが、「ごめん」という一言だけでヘらりと笑って済ませてしまう。渚自身の失態だけでそれをやるならただのクズだが、誰の失態に対してもそんな態度なので彼の性分なのだろう。

 

 小学5年生の時、櫂は父の大切にしていたグラスを不注意で割ってしまったことがあった。ガシャンという音を立てて割れたのは、空色から群青色のグラデーションカラーになっているガラス製のグラス。死んでしまった友人に貰ったものなのだと父が寂しそうま顔をして話してくれたことがあった。そんな大切なものを、櫂は棚の隣に並んでいた皿を取る際に割ってしまった。散らばったガラスの破片を集めることもせず、呆然と立ち尽くした。

 ソファに座ってテレビを見ていた渚が、「櫂くん、大丈夫?」と立ち上がって近寄ってくる。

「渚は座ってて。」

咄嗟に出た声は思ったより冷たく響いた。渚は愚鈍だから、ガラス片が足に刺さって大騒ぎになっても困る。ため息をついて、倉庫に箒を取りに行った。夜になって、父が帰ってきて三人揃って食卓につく。黙々と箸を進める櫂はグラスを割ってしまったことをいつ言い出そうかとびくびくしながら機会をうかがっていた。きっと、父は怒らない。なんでもないことのように笑って許してくれるのだろう。だからこそいたたまれない。

「そういえば、お父さん。」

「なんだ、渚。」

「今日もお皿一枚割っちゃった、ごめんなさい。」

櫂が言いだすよりも前に渚が、告白する。いつもなら、いつになったら皿割るの直るんだよ、くらいの言葉を投げつけている。しかし今日は、俯いたまま黙々とサラダを口に運んだ。渚はちゃんと白状したのに。早く言わなきゃ。焦る気持ちに舌が渇く。せっかくの白身魚のフライの味もよくわからない。

「そうか、怪我はなかったか?」

「うん、大丈夫。」

「それならよかった、気を付けるんだぞ。」

父はそう言って、渚の頭を撫でる。あぁ、早く言わないと。口に含んでいたものもなくなった。覚悟を決めて、櫂が顔を上げると、渚と目が合った。次は櫂の番だよ、と言いたいのだろうか。向けられた太陽みたいな笑顔が櫂にとっては恐ろしかった。いつも、失敗ばかりの兄を散々馬鹿にしてきたのに、よりにもよって大切なグラスを割ってしまったなんて。そんなことが許されてはいけない。笑って許されてしまったら、この罪悪感はどこへやればいいのだろう。

「父さん僕も、」

「ん、どうした?」

「僕……、父さんの大切にしてたグラス割っちゃった。」

言ってしまったら、なんだかどうにでもなれというような気持になる。父は想像した通りの微笑みを浮かべて、「珍しいな。いや、普段使いする場所に置いてたんだから仕方ないさ。」と言う。

良かったねというようににこにこ笑ってみている渚に無性に腹が立つ。惨めだ。父も兄も、僕みたいに細かいことを気にしてぐるぐる考え込むことなんてないんだろう。滅多なことでは他人に悪感情を抱いたりしないんだろう。自分だけがこの家族から浮いている。櫂は、その時初めて疎外感を自覚した。


「そう言ってくれて安心したよ。これからも家族としてよろしく、櫂。」

能天気な父なりに、緊張していたのだろう。櫂の本当の家族だと思っているという返答に父は安堵のため息をつく。差し出された手を握り返して櫂は思う。自分が父や渚を家族だと思っているのは他に家族がいないからで、本当の家族がいる父や渚にとっては自分は家族ではないのではないか。ほらまた、考えすぎる。手を動かせば思考も止まるだろうと、洗い物に戻るために櫂は椅子を引いて立ち上がった。時計を見ると時計の針はちょうど十二時を指していた。

「誕生日おめでとう、櫂。」

櫂の視線を追って、日付が変わったことに気づいた父が言う。櫂は精一杯の笑顔を作って返す。


「ありがとう。」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

割れたのは、 詩村巴瑠 @utamura51

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ