見知らぬ指輪

野森ちえこ

約束のお守り

 恭志きょうじが着ていたジャケットのポケットからハンカチに包まれた見知らぬ指輪が出てきたとき、片寄かたより 依湖いこが一瞬のあいだに思ったのは『まさか』で『キョウちゃんにかぎってそんな』で『ついにやってしまったか』だった。


 あけすけな言葉をつかうなら、恭志は非常に貧乏である。

 とにかく彼にはお金がない。それはもう、素晴らしくお金がない。

 べつにギャンブルにはまっているわけでも、酒におぼれているわけでも、女につぎこんでいるわけでもないのだが。

 ではなぜそれほど貧乏なのかといえば、まず父親が事業に失敗して多額の負債を抱えることになった。恭志が高校三年生のときだったという。

 恭志なりに悩んだようだけれど、最終的に進学は断念。そして就職したのはいいが、その会社というのがとんでもないブラック企業だった。朝も晩もなく、休みらしい休みもろくにとれずに安月給で働くこと数年。

 やがて限界を迎えたらしい身体からだが壊れてしまって入院。それを機に退職するも、なかなか再就職がきまらずアルバイトでくいつなぐ日々。今ココ。というやつである。


 それからもうひとつ理由がある。絵画だ。

 恭志は息をするように絵を描く。その行為自体にお金はかからない。紙と鉛筆さえあれば絵は描ける。

 だが道具をそろえるとなると話はべつだ。しかも恭志がやっているのは油絵である。白色だけで五種類も十種類もあるという油絵なのである。


 白は白でしかないのでないか。ていうか、そんな何種類もあったって、いったいなんにつかうのさ。と、芸術などさっぱりわからない依湖は思うのだけれど。

 油彩画にとって『白』はとても大事な色らしい。光沢の強弱、色調の硬軟、白色とひと口にいっても、それぞれに違いがあるという。そのため、あらゆる効果を狙って、カンバスの地塗りにつかうこともあるのだとか。


 きっと、恭志は白にこだわりのあるタイプなのだろう。いつだったか暑苦しく語っていた。

 そして、絵の具ってなんであんなに高いんだあああぁあー! と、ときおり空やら海やらに吠えている。基本的にアホなので、しばしば奇行に走るのである。長いつきあいの依湖にとって、その程度は日常茶飯事だった。

 ちなみに恭志が進学をあきらめたのも、志望していたのが美術大学だったかららしい。

 奨学金は結局のところ借金だし、学費免除されるほどの才能も実力も持ちあわせていない。しかもその性質上、学費のほかに消耗品である画材などの教材費もかなりかかる。断念せざるを得なかったのだろう。

 それでも、恭志はくさることなく絵を描きつづけている。その一点において、依湖は恭志を尊敬していた。それなのに。


 澄んだ飴色のちいさな石がついているシンプルなプラチナリング。プラチナ純度をしめす内側の刻印はPT900。イニシャルなどは彫られていない。石はトパーズだろうか。

 きれいな石だけれど、宝石としての価値はあまりないと聞いたことがある。

 どうせ手をだすなら、もっとお金になりそうなものにすればいいものを。

 いやいや、そうじゃない。依湖は邪念を振り払うべくぶるぶると頭を振った。

 人さまのものに手をつけるほど追いつめられていたのなら、ひとこと相談してほしかった。

 今さらそんなことをいっても指輪は目のまえにある。依湖はあせった。このままでは恭志が犯罪者になってしまう。


「待って依湖さん。誤解だよ」

「大丈夫。大丈夫よ。今ならまだまにあう。わたしも一緒に謝ってあげるから。ね、キョウちゃん。正直にいって」

「いや、だから」

「今月そんなに苦しかったの? どうしてひとこといってくれなかったのよ。誰の指輪? デザイン的に若い子のものではなさそうだけど」

「あ、すごいね。依湖さんそういうのわかるんだ。そうなんだ。これ、ばあちゃんの指輪なんだよ」

「おばあさまの! もっとダメじゃない! 身内だからってなんでもゆるされるわけじゃないのよ!?」

「いや、だから違うんだって! 盗んでないから! その前提から離れて!」


 貧乏が憎い。

 たまに吠えたり走ったりしながらも、くさらずあきらめず、まっとうに生きてきた恭志をこんなウソつきにしてしまうなんて。

 きっと、魔がさしたのだ。そうにきまっている。そうだといってほしい。


「キョウちゃん」

「はい」

「ほんとうのことをいって」


 観念したのだろうか。恭志はおおきく天を仰いだ。仰いだところで、見えるのは安アパートの天井だけであるが。

 それからなにを思ったのか、ブォンと風が起こりそうないきおいで姿勢を正すと、ちゃぶ台と呼ぶのがぴったりくるようなミニテーブルからスマホをとりあげた。妙にキビキビと操作している。そして。


「あ、ばあちゃん。恭志だけど。うん。さっきついた。ありがとね。そう、それでさ、今日あずかった指輪のこと、依湖さんが心配してて、ちょっとばあちゃんから説明してもらってもいい? うん、そう。今日話したおとなりさん。大家さんのお孫さんで、おれの大切な人」


 このアパートのオーナーは依湖の祖父である。依湖がひとり暮らしをしたいといったとき、最初は断固反対していた父であるが、祖父のアパートならと渋々認めてくれたのだ。

 その後となりの部屋に恭志が越してきて、ひょんなことから交流がはじまり――恋人になるまでそれほど時間はかからなかった。

 かれこれ六年、いやもう七年のつきあいになるか。

 恭志のことを知っている友人知人は、みな口をそろえて『あんな将来のなさそうな男はやめておけ』という。

 貢がされているのではないか。都合よくつかわれているのではないか。そんな心配をされる。

 依湖のほうが年上なのも、そう見られる要因かもしれない。その差はほんの二歳程度なのだけど。

 しかしこんなことになるなら、むしろ貢いでいればよかったのかもしれない。でもそれをしたら、恭志をほんとうにダメにしてしまうような気がするし――と、そこまで考えて、依湖はふと違和感をおぼえた。


「依湖さん、どうぞ」


 なんか変だぞと思ったのと同時にスマホがつきだされ、依湖は反射的に受けとってしまった。恭志を見ると、おおきくうなずかれる。

 恐るおそる耳にあてた。


「も、もしもし」

『あらあ、どうもはじめまして。恭志の祖母でございます。寛子ひろこと呼んでくださいな。あなたが依湖さん?』

「は、はい」

『いつもキョウちゃんがお世話になってます〜』


 ◎


「ごめんなさい!」


 依湖はがばりと頭をさげた。もともと正座をしていた都合上、しっかりお手本のような土下座になった。


 要約すると、この指輪は『お守り』として、寛子が恭志に持たせたものらしい。なんのお守りかといえば『それは本人から聞いてちょうだい。うふふ』と、妙に楽しそうだったのが気になるところである。が、今はそれどころではない。また、やってしまった。


「ホントにもう、煮るなり焼くなり好きにして」

「いいって、わかってもらえれば。大丈夫だから、頭あげてよ。依湖さんの思いこみの激しさは今にはじまったことじゃないし」

「う……」


 返す言葉がないというのはこのことだ。恭志にうながされ、おずおずと顔をあげる。なんともいたたまれない。

 一度こうと思ってしまうと、ほかの可能性をいっさい受けつけなくなってしまう。依湖の悪いクセだった。それで何度も失敗しているのに。

 どうやら自分には学習能力というものがそなわっていないらしいと、今度は依湖が天を仰いだ。見えたのは、やっぱり安アパートの天井だけだった。


「この指輪は、ばあちゃんの宝ものなんだ」


 恭志の父親は寛子の息子でもある。

 だから息子の事業が傾きだしたころ、すこしでもたすけになればと、お金になりそうなものはすべて売り払ってしまったのだという。けれどそのなかで、この指輪だけは手もとに残した。


 二束三文にもならなかったから。というのが本人の弁である。しかしそれは事実かもしれないが、真実ではないと恭志はいう。

 なぜなら、長い結婚生活で寛子が夫からプレゼントされた、たったひとつのものだったから。

 いや、夫がみずからえらんだ唯一のプレゼントといったほうがいいだろうか。

 というのも、たとえば誕生日など、寛子は結婚当初から『今月は私の誕生日なので』と、夫のお小遣いからいくらかもらい、それで好きなものを買うスタイルをつらぬいてきたからである。

 恭志はよく祖父から『惚れた女の誕生日はなにがあっても忘れてはいかんぞ』といわれていたらしい。半泣きで。

 なんだかいろいろ透けて見える夫婦関係である。

 なんにせよ、定年退職を迎えたその日、夫はみずからえらんだものをはじめて妻に贈ったのだ。妻の誕生石がついた指輪を。

 きっと感謝とか愛情とか、いろんな思いがこめられていたのだろう。

 ちなみに、メッセージなどの刻印はリングケースのほうにしてあったらしい。


「ああ、それでハンカチに」

「うん」


 そこにどんな言葉が刻まれているのかは恭志も知らないという。夫婦ふたりだけのものだから。


「依湖さん」


 おもむろに背筋をのばした恭志は、ずりずりと、正座したひざをほんの気持ち依湖のほうに近づけた。

 恭志の顔があまりにも真剣だったものだから、依湖もつられて姿勢を正す。

 部屋に満ちる耳に痛いほどの静寂。

 車の走行音。救急車のサイレン。どこかで吠えている犬の声。アパートの外からはいってくる音が、やたらおおきく耳に届いた。

 やがてゴクリとのどを鳴らしたのは、依湖か恭志か、ふたり同時だったかもしれない。

 そして、いよいよ恭志が口をひらいた。


「ずっと考えてたんだけど、やっぱりおれ、一生のあいだに一度くらい、絵で勝負したいんだ。

 今は絵も就職活動も中途半端で、両立も集中もできてない。再就職がうまくいかないのも当然だと思う。だから――」


 ◎


 あれから二日。

 休日の今日は自分の部屋の家事をまとめてやっつけてしまおうと、依湖はせわしなく動きまわっていた。

 布団をほして、洗濯機をまわして、掃除機をかけてと、朝からフル稼働だ。

 しかし2DKのコンパクトな部屋である。昼まえにはあらかた片づいてしまった。午後は水まわりでも徹底的にやってやろうか。そんなことを考えながら、依湖は胸もとでひかえめに輝く、チェーンネックレスに通した指輪にそっとふれた。


 あの日、依湖はてっきり別れ話をされるのだと思った。恭志がひどく思いつめた顔をして、ひどくいいにくそうにしていたから。『絵に集中したいから別れてくれ』と、そういわれると思ったのだ。

 だが、意を決したような恭志の口から実際に放たれたのは『三年、時間をください』という言葉だった。

 依湖の思いこみは、たいていはずれる。そして、はずれたことにほっと安堵するまでがワンセットだ。

 ほっとしすぎて泣きだしてしまうことはめったになかったけれど。


 依湖は結婚という形にこだわる必要は特にないと思っている。そうでなければ、今日まで恭志とつきあっていないだろう。

 しかし恭志は、再就職がきまったらふたりのことをちゃんとしたいと思っていたらしい。その就職活動を、いったん停止する。

 依湖より絵画をえらんだと思われてもしかたない。こんなことをいったらきっとフラれる。

 後悔しない道を進みたい。だけど依湖とも一緒にいたい。わがままだろうか。贅沢だろうか。いったいどう話せばいいのだろう。

 恭志は恭志でそう思い悩んでいたという。

 そうして、もともとおばあちゃん子だった恭志は寛子をたずねた。

 寛子は、ああしろともこうしろともいわない。

 それなのに、寛子に話すと気持ちが整理されて、不思議と視界がクリアになるのだという。だから、悩んだり迷ったりしたとき、恭志はきまって寛子をたずねる。子どものころからずっとそうだったらしい。

 渡された『お守り』にしても、恭志の好きにしていいといわれているのだとか。

 寛子は『キョウちゃんにあげた』といい、恭志は『ばあちゃんからあずかった』といっているが。

 いずれにしろ、今は依湖の胸もとで静かに輝いている。


 三年でなんらかの結果をだせなければ、絵の道はすっぱりあきらめる。

 それまで就職活動は停止するけれど、もちろんアルバイトはつづけるし、今後も変わらず自分の面倒は自分でみるというのだから、依湖からすれば悩むことなどなにもないような気がした。


 依湖があまりにもあっさり了承したものだから、恭志はしばらく挙動不審になっていたけれど、それぞれが『別れ話』にならなかったことに安堵して、最終的にふたりして鼻をズビズビいわせることになった。

 そうして、約束の三年後まで依湖に持っていてほしいと、恭志から寛子の指輪を――お守りを渡されたのである。


 それにしても。

 まずはどうするのかと思ったら、ある画家のもとに弟子入りするというのだから驚いた。

 てっきりどこかのコンテストに応募するとか、そういうことだと思っていたから。


 なんでも、その画家が描いた絵画との出会いが、その道で勝負することを恭志に決意させたらしい。

 薄井うすい ともという、世界的に有名な天才画家なのだとか。

 いわゆる雅号というやつなのか、それとも本名なのか。なんだか幸薄そうな名前である。

 今日はじめて本人とコンタクトをとるらしいが――大丈夫だろうか。すこしばかり先行きが不安になってくる。

 いや、大丈夫。大丈夫だ。依湖は頭からぶるぶると不安を払い落とす。自分の悪い想像はだいたいはずれるのだから、心配いらない。

 とにかくお昼をたべたら水まわりの掃除をしよう。

 そうきめて、依湖は冷蔵庫のドアをあけた。

 さて。

 お昼、なににしよう。



     (おしまい)



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