第20話 あなたがいなければ

 外へ出るとまた、しとしと雨が降り出していた。キーを差していったのに、エンジンは掛かっていない。エアコンもついてない蒸し暑い車内に、亜里沙は一人待っていた。


「暑いだろ。どうせなら、冷やしといてくれよ」


 冷たいコーヒーを買っていって正解だ。一気に全開になった冷風に前髪をあおられて、亜里沙はおずおずとコーヒーを飲みだした。


「忘れ物…なんだったんですか?」


 僕はポストカードの束を取り出した。美術館のお土産の定番だ。展示のポロックの作品がはがきサイズで楽しめる。


「記念だよ。お前にはしゃくだけど、実際、良かったしさ」

「…ポロック、気に入ってくれたんですか?」


 僕はババ抜きみたいにポストカードを扇形にして拡げた。そのうち、気に入ったのを一枚だけ取って亜里沙に残りを渡した。亜里沙はそれを胸に抱きしめるようにした。


「いいんですか」

 僕は何も答えず、頷いた。

「行きたかったのは、亜里沙の方じゃなかったっけ?」

 と、言うと亜里沙は小さく頷いた。

「記念ですね」

「そう、記念。お前といると、色んなことありすぎだ」


 僕はエンジンをかけて、バックにギアを入れた。周りに誰もいなかった。がらがらの駐車場を大回りでターンして、一般道に飛び出る。



 佐伯から奪ってきたスマホの話は、しなかった。今のこいつには、出来ない。なんとなく、そんな気がした。珍しく無言の亜里沙を見ていると、この件で何を言っても、余計傷つけてしまう気がした。


 晴れ間がまだ、見えているにも関わらずフロントガラスを打つ雨は短い期間で激しくなっていった。まるで急速に時間が立ち戻っていくようだ。あの夜も雨は、一気に土砂降りになった。出し抜けの真夏の山の嵐が亜里沙を、無造作に僕の運命の中へ放り込んだのだった。


「酒、まだあったよな」


 気まずさを打破しようと、僕はラジオをつけた。ノイズがひどい。


「この雨で、コンビニ停まるなんてごめんだからな」


 大粒の雨の音は今や蝉時雨せみしぐれよりもやかましくなった。軽井沢がどんどん遠ざかっていく。恐らく通り雨のはずのこの雨雲から何とかして逃れたかったが、雨足の方はますます、ひどくなるばかりだ。


 ラジオからはチューニングノイズしか聞こえない。タイヤが飛沫を上げる音だけが、断続的に響いてきていた。ふとみると対向車も後続も、一台もない。こうして信号にも停められずに走っていると、何かの呪いでどこか現実離れした場所に閉じ込められた錯覚に陥る。


 意識していなかったが、そろそろ、亜里沙を拾った直線道路だ。


(そう言えば、災害ニュースをつけたんだっけ)


 あのときは、亜里沙こいつに出会うなんて想像もしなかった。


「すいません」

 亜里沙が言い出したのは、そのときだ。

「あのっ停めて…ここで、停めてもらっていいですか」


 何かにえかねたような、切羽詰まった口調だった。何が起きたか考える間もなく僕は、路肩に車を停めた。


 その瞬間、何を思ったのか、亜里沙は衝動的にドアを開けて外へ飛び出そうとしたのだ。僕はそれに抱き着いて、引き留めた。


「馬鹿、お前っ、トイレ行きたいならそう言えばっ」

「トイレなわけないでしょ!…あたしはっ」

「なかったことにする気か?」


 亜里沙は、はっ、として息を呑んだ。


「やっぱり、出会わなかったことに?」


 言ってから僕は、自分でも何を言っているんだと思った。知らず知らずのうちに、過敏になっていた。不思議な気分だが、亜里沙の今の気持ちが手に取るように分かるような気がした。


「だってすっごい迷惑、かけちゃいましたから。…まさかあんな、あんな形で芦田さんと出会いたくなかった。そう思ったら…つくづく自分…いやになって」


 亜里沙は、真顔になっていた。双つの瞳から、澄んだ色の涙がひとつ、ふたつ、こぼれ落ちた。


「いやになったからって、やらかしたことからは逃げられないだろ」


 だって、出会ってしまった。同じ雨の中を通ったって、あのときと同じ道で降りたって時間は元には戻りはしない。


「僕だって、お前のお陰で自分と向き合えたんだ。まあ、やらかしたけど。やったことはやったことで、向き合わなきゃしょうがないだろ」


 泣きながら、亜里沙は何度も頷いた。


「…あたし、まずいこといっぱいしましたよね?」

「したねえ」

 そこはさすがに否定できない。

「でも別に、迷惑だなんて思っちゃいないよ。そりゃ、たまにうざいなあ、とか、ほっといてくんないかなあ、とか思ったりしたときはあるけど、それも含めて、亜里沙なんだろ」


 すると亜里沙の肩からようやく力が抜けた。僕が身体を離したので、亜里沙は、そっとドアにかけた手を離したのだ。そのとき、ラジオが復活したのか、急にソフトなスムースジャズがかすかな音量で流れ出してきた。


「行くなよ」

 僕は、ストレートに言った。


 これだけ素直になって、自分の気持ちだけを口にしたのは、久しぶりだった。


「もう出会ったんだから。…一緒にいるのが嫌になったんじゃなかったら、それでいいんだから」

「嫌なわけないですよ。逆です。あたし…芦田さんがいなかったら、もう、本当にだめになってます…」


 亜里沙ももう、混ぜっ返したりなんかしなかった。自分の気持ちに素直になるのに、僕たちは恐ろしく周り道をした。でももう、一緒にこの帰り道を急いでもいいはずだ。



 夏の雨に閉じ込められて。



 僕たちはようやく、埋もれていた言葉を発見できた。それはやっぱり、偶然でもなく、奇跡でもない。完全に一致した、一つの言葉だった。


 二人で過ごしているうちに何げなく、でも抗いようもなく、僕たちは離れがたい関係になってしまった。


 だがもう、それを妨げるものなんか何もない。だったら僕たちはとっくにこの言葉を、捧げ合ってもいいはずだった。平気なふりをしているなんて、これ以上、堪えられようもない。




 あなたがいなければ。



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あなたがいなければ 橋本ちかげ @Chikage-Hashimoto

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