第4話 今夜、星の雫の降るこの場所で

今日子が乗った飛行機は、見渡す限り白と黒とグレーだけの広い大地に着陸した。

 機内から出てボーディングブリッジを歩くと、流れ込む空気が微細な氷のようで、呼吸するたび肺が震えた。

 昨日まではただ遠いとしか思えなかった北海道は、羽田から一時間半であっさり到着する場所ではあったけれど、やはり東京とは空気の質が違った。

 到着フロアに進むと、依緒がガラスの仕切りにくっつくようにして待っていた。

 3週間ぶりに見る依緒は、東京にいる時よりも化粧も髪のカールも控えめになっていたけれど、それが元々の可憐さを引き立たせていた。依緒は自分のことをどう見ているのだろう。

 会った瞬間にハグをしようなんて考えながら来たというのに、いざ向き合うと妙に緊張してしまって立ち尽くした今日子の手を、依緒がそっと握った。 

「ここまで来てくれてありがとう」

 涙が出そうになる。 

 憧れこそあれどお金も時間も余裕がなく、依緒を見送るまで考えられなかった北海道行きだったけれど、依緒に会いたくて恋しくて気が狂いそうで、毎日トラベルサイトをチェックして見つけた安いパックツアーに申し込み、なんとかバイトのシフトも代わってもらってようやく来ることができた。

 何も言わなくても依緒はその意味をわかってくれているのだ。

 

「小樽行きの電車がもう来ているよ、行こう」

 依緒に連れられ、空港地下のJR駅に向かう。

「今日はおうち空けて大丈夫だった?」

「うん、もう母は家の中では杖なしで歩いてて台所仕事はしてるし、リハビリも毎日じゃなくなったし。父も洗濯とかするようになったからね。私も久々の休日だよ」

 依緒が帰った翌日に母親も退院し、毎日雪の中、車で母をリハビリに連れて行っているのだとLINEで知らせてくれていた。

 両親と常に一緒の生活の中、メッセージの数はどうしても減ったけれど、毎日夜中には電話であれこれと話した。

 でも、声と文字だけでは寂しさは埋められなかった。東京にいた時だって実際に会うのはそこまで頻繁ではなかったのに、依緒と過ごした最後の夜があまりに鮮烈だった分、喪失感がひどかった。

 

 あの時確かに二人は心身ともに一体となっていたのに、遠く離れ時間が経つにつれ、まるで全てが幻のように思えてくる。 

 離れるのが嫌、と二人で言い合ったけれど、付き合っていくかまでは言葉にならなかった。

 そもそも、好きとか付き合うとかもうしんどいと思うと言っていた依緒が、今日子と付き合う気があるのかもわからなかった。

 依緒からはいつ東京に戻るという話は一向に出ないし、リハビリの付き添いに家事に忙しい依緒に、早く帰ってきてとは今日子は言えなかった。

 依緒を好きだと自覚する前は思ったことを何でも言えたのに、今は言えない思いが心に沈み、冬の曇天のように重く溜まっていく。

 もしかして依緒は、東京を離れる最後の思い出として自分を受け入れてくれたのだろうか、とすら思って夜中に一人泣いたりした。


 JR車内に並んで座り、お互いの近況について話していると、枯れかけた植物が水を吸い込むように自分の心が元気になってくるのがわかった。

 やっぱり私は依緒が好き。

「お正月明けで雪まつりもまだで、今時期は北海道はただ寒いだけだよ」

と依緒は車窓を指しながら笑う。

 でも一面グレーの世界だとしても、依緒さえいれば今日子には心躍る景色だった。

 やがて曇り空を映した海が見えてくる。

 電車は海のすぐそばを走って行った。眼下に波が白く砕けていく。

 思い切って今日子は切り出した。

「私、先輩にきっぱり言ったんだ。彼女がいますって」

 依緒が目を丸くする。

「彼女って言ったの?」

「うん。はっきりさせたほうが効果あるかなって」

「勇気あるねえ。効果あった?」

「あったと思うよ。会社辞めさせられる覚悟もしていたけど、そっか、て割とあっさり。それからは変な誘いは無くなったし。でもちょっと仕事の本数は減らされたかなあ。新規は回してもらえなくなったかも」

「そっか……」

 心配そうな依緒の様子に、今日子は明るく言った。

「でも、知り合いの編集さんに売り込んでフリーの仕事も小さくても増やしているし、もう一度文学賞にもトライしたくてまたプロット練っているところ」

「カッコいいね、今日子は。……私も、お見合いは断ったよ」

「ほんと!?」

 声が上ずる。お見合いについても我慢して飲み込んできた話だった。

「ほんと。母が会わせろとかうるさくなるから、好きな人がいるとまでは言えなかったけれど、自分の相手は自分で見つけるって言った。そしたら、依緒は男を見る目がないくせにって言うから、見る目は東京の5年で鍛えたって言い返したよ」

 依緒は今日子をはにかみながら見つめて続けた。

 

「だから私、今日子を好きになれたんだと思う。

 ずっと、好きになってくれた相手を好きになってきて、相手次第で流されるような恋愛をするのが自分でも嫌だったけれど、今日子のことは告白される前から好きになってた。自分で認めなかっただけで」

「嬉しい」

 思わず今日子は依緒をぎゅっと抱きしめた。狭い座席なので子供のように抱きつくような体勢だったけれど、依緒が自分を思う気持ちを聞くことができて、ようやく今日子は安堵を覚えた。


 電車はやがてレトロなガラスのランプが灯る小樽駅に着いた。

「プラネタリウムに行った時、依緒と小樽に行きたいなあなんて言ってたけど、本当に来ちゃったね」

 憧れ続けた「星の雫」の世界に降り立ち、今日子は海からの凍り付くような風に鼻先を真っ赤にしながらも、沸き立つ思いで写真を撮りながら歩いた。寒い中でも観光客でいっぱいの小樽運河を眺め、蔵造りの店を覗き、再度駅前に戻ってバスターミナルからバスに乗って急勾配の坂道を上り、ほぼ頂上にある小樽商科大学に向かった。

 

 バスから降り、大学の正門前に立つ。

 そこからは雪に覆われた小樽の町並み、港、札幌方面まで見渡せた。吹雪だったら何も見えなかっただろうから今日はついていたねと依緒が言う。坂道を撫でるように吹き上げる海風が一層冷たく感じたが、今日子は感慨深かった。高校生の頃からどんな場所なんだろう、行ってみたいと思い続けた場所に今、大好きな依緒といる。

「ここが慎吾とあゆみ、そして依緒の通った大学なんだね」

「うん。この坂道が地獄坂だよ。何かあってバスに間に合わなかったら何人か集めてでもタクシー乗って来ちゃったな」

「その気持ちわかるわ」

 依緒はふーっと白い息を吐いて正門を見上げた。

「卒業以来に来たなあ」

「えっそうなの? 担当教授とかサークルに顔出したりしなかったの?」

 依緒は自嘲気味に笑った。

「『星の雫』みたいな学びあり恋愛ありの大学生活を思い描いてたけれど、実際はずっとここにいていいのかなって思う4年間だったから、逃げるように出て行った感じ」

 そう言いながら依緒は今日子を促し、並んで大学に入っていく。

 冬の早い夕暮れが迫り、学生達もぽつぽつと帰ろうとする中、二人はこぢんまりとした校舎や図書館を見て回った。

 

「ずっと『星の雫』の小樽に行ってみたいって思ってきた。でもこうして来てみると、大学生の依緒がここで頑張っていたんだなってことに感動するよ」

 依緒はふふっと笑った。

「地味な劣等生だったけど、今日子にそう言ってもらうと全ていい思い出に上書きされる気がする。

 今日子に会って、樽商出身なことを喜んでもらえて、初めて私も樽商出てよかったなって思ったし、私も大学の4年間があったから東京でも頑張れたんだなって思うようになった。鍛えてもらったなって。

 そして東京で頑張った5年のご褒美に、今日子に会えたのかなって思ったよ」

「ご褒美だなんて」

 遠回しに東京生活は終わりと告げられたようで、今日子は胸がぎゅっとした。

 再び外に出ると、薄雲を通して弱々しく光っていた太陽が山に沈み、天頂から濃紺のベールが降りてこようとしていた。

 

「依緒にあげたい物がある」

 先を歩く依緒に声を掛けると、今日子は背負っていたリュックから小さな紙袋を取り出し、真っ赤なリボンが掛けられた白い小箱を外灯の下で依緒に渡した。

「どのタイミングで渡せばいいのか迷ってたけれど、真っ暗になる前に」

「わあ、開けていい?」

 今日子が頷くと、依緒は嬉しそうにリボンをほどき、小箱を開けた。

「綺麗! 星のピアスだ!」

 金で縁取られた星形のジルコニアの下に細いチェーンがつながっているデザイン。

 意味がある物を依緒にあげたくて、探しに探したピアスだった。

「なんだか、『星の雫』って言葉みたいなデザインだなって思って。私達、クリスマスの頃は“友達”でプレゼントもなかったから、恋が実った記念にあげたくて」

「記念……」

 依緒が驚いた顔で今日子を見上げる。

「うん。私、こんなことしたことないけど、依緒にはしたかった。

 初めて言うけど、今まで人を好きになったことがなかったの。

 恋愛したいのに、人を好きになるってどんな気持ちなのかわからなくて、それがコンプレックスだった。

 でも、依緒のことは生まれて初めて好きになったの。

 だから、無理してでも会いに来たいしプレゼントもあげたかった。

 これが私にとって初めての恋愛なの。

 苦しくても寂しくても、依緒とちゃんと付き合っていきたい」

 

 依緒の瞳にみるみる涙が溜まっていった。

「私、今日子のことを好きになるのが怖かったの。

 本当は今でも怖い。私が大好きになると、いつも最後は関係が悪化して終わってたから。 今日子のこともそうやって失ってしまうんじゃないかって」

「前もそう言っていたね」

 依緒は流れる涙を拭いながら懸命に話した。

「でも、札幌に帰ってからずっと寂しくて、実家なのに自分の場所じゃないみたいで苦しかった。

 今日、今日子と会った瞬間にようやく息がうまくできたような気がしたの。

 もう今日子のそばが私の居場所なんだよ。

 だからまた東京で働けるように頑張るから。今月中には東京に戻るって父母にも言ったの」

 

 愛おしさがこらえきれずに今日子は依緒を抱きしめると、「依緒好き、大好き、大好き……」と耳元で繰り返し囁いた。

 依緒も、今日子の肩に顎を乗せ、背中に腕を回し、「大好き」と囁き返す。

 

「ねえ依緒、私達のことを小説に書いてもいい?」

 答える代わりに、依緒は微笑んで今日子にキスをした。 

 

 遮るもののない漆黒の夜空一面に無数の星が瞬きながら光っていた。

 一緒に見られたらと願った星空を今、本当に二人で見ている。

 私達は「運命の恋」を確かに掴んだ。

今夜、星の雫の降るこの場所で。

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今夜、星の雫の降る場所で おおきたつぐみ @okitatsugumi

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