ちいさな世界

沙原芥子

ちいさな世界

 翠玉に透けるひかりが生物の曲線を見いだす。やわらかな草を踏むと、駆け足が遠ざかって行った。いつしかけものたちは臆病になり、感情なきものが空を統べる。この杖はよく導いてくれた。しかしすでに、うつくしい輝きのちからを、信じるものは数えるほどになった。杖という三本目の足は見えても、わたしの心に持つ三つ目の視線が定めるものは誰にも見えなくなってしまった。

 太陽も大地も黙している。我々はもちろん、河向こうのアディエノの戦士たちも、彼らを信じるものたちはみな一体となって脅威に立ち向かった。炎の雨に襲われても、戦士たちは決して背を向けなかった。


 草いきれの中で横たわっている異国の男の喉からは、ひう、と笛のような音がする。カリトゥカ、彼の虎のたましいも、こんな音に誘われ放たれていった。カリトゥカは強い男だった、彼の内なるけものは怯えることを知らなかった。わたしもまた彼の胸にまじないを刻んだ、勇敢な虎の爪あとを。彼はそうして生きて戻るはずだった。だがカリトゥカは大いなるものに還り、わたしのちからも彼とともに連れ行かれたようだ。

 男は目だけを光らせてわたしを見つけた。恐怖するものは、人もけものも同じ目をする。海を渡って来た彼らはするどい爪の代わりに無数の火の玉をたずさえていた。カリトゥカはこの男たちによって癒せぬだけの傷を受けて死んだ。我々はあの火の玉が何か知らなかった、守護する精霊もまた、未知なるものに啓示を与えてはくれなかったのだ。

 だが今、この男の腰にはなんらの武器もない。ただ青々とした匂いのなかで這いずるものにすぎなかった、わたしたちと同じように。おれを殺すのだな、という目で男は微笑った。くちびるの端から、粘つく黒ずんだ血が流れ出た。ひう、と笛の音がする。男は長くなかった。逃げてきたのだろうか、逃げ場などどこにもないのに。仰臥して、首だけをごろんとこちらへ向けている男の所作には、空の重みだけがある。

 わたしは男のそばに座りこんだ。男はしばらく息を詰めていたが、やがて不思議そうな目でわたしを見つめた。魔物のようといわれた目は空を落としこんでいた。罪そのものといわれた髪は太陽の光を浴びて育った麦穂の色だった。ほんとうに彼は悪なのか? この男にも故郷があるのだ、そこにも空があり太陽があるだろうか? 尋ねたくとも男の喉は石槍で破られている。傷ぐちから滴る血が草の葉を染めていく。

 カリトゥカもこんなふうに死んだ、この男もそんなふうに死にゆく。そう、あの晩……こんなふうにゆっくりと目を閉じて……カリトゥカはわたしの腕のなかでねむったのだった。

「祈ってやろう」

 声をかけると男は閉じかけた目をねむたげに開いた。男たちにわれわれの言葉はわからなかったが、この男はなぜだかまた曖昧に笑ってみせた。今度の微笑みは、ひどくまぶしそうだった。

 わたしは杖を高々と掲げて歌った。もう精霊の声は聞こえない。彼を高みへ昇らせることなど、できようもないのに。わたしのちからを翼にして飛び立ったカリトゥカ、怒るだろうか、いまわしきもののために、戦うべき敵のために、形だけでも祈りを唱えるわたしを。男は懸命にわたしの姿を認めようとしていたが、視線は宙をさまよって、ひとつところに留まらなかった。ひう、ひう、と笛の音が、わたしの歌の合間に囃子のように響いている。


 男はとうとう目を閉じた。わたしは笛の音が止むまで歌いつづけた。この男が還る場所はどこなのだろう、わたしにはもう見えないのだ。わたしはその身体を抱き寄せる。

 未知なるもののために精霊は去り、戦火は灰だけを残して、いま世界は閉じつつある。われわれも戦った、この男も戦った。そしてこの地は誰のものにもならなかった。生まれて初めて、ひどく虚しい気がした。

 わたしの手のひらがべっとりと血でぬれている。あのとき刻んだまじないを思う。カリトゥカを愛したわたしのように、この男をだれか愛したものがいたかもしれなかった。

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ちいさな世界 沙原芥子 @akutako_s

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