第10話
「死臭っていうのはしつこい。服にまとわりつくとまず取れない。喫煙所、焼き肉屋、車の芳香剤。頑固な臭いというのは色々あるが、さすがに死臭とは比べ物にならないな。まあ、同じ『肉』っていうことで焼き肉屋の臭いは同じ系統かもしれない。脂肪が煙霧に紛れて付着するわけだからな」
カミオカが前置きのように話すと、次に11月の月例会について触れ、場が大いに沸いた。サークルは8割方男。沸き立つ歓声は野太く、足元を揺らすようにうるさかった。
思わず耳を塞いで片目をつむる。隣にいる龍太郎もメンバーと一緒になって騒いでいた。
「他のお客様もいらっしゃいますのでもう少しお静かにご利用ください!」
レンタルスペースの職員が飛んできた。このうるささは外からも耐えがたいものだったようだ。
「ヤベオカさんが来るって! すごくない?」
興奮した龍太郎が珍しくまくしたてるように早口でわたしに言った。
わたしがこのサークルに入るきっかけになったのは、『99番目のお隣さん』というサイト。最初は友達に教えてもらって知った。それからのめり込むようになり、毎日サイト内にある『事故物件マップ』にかじりつくようになった。
『99番目のお隣さん』の管理人ヤベオカに会えるのは、信じられないことだ。
職員がすっ飛んでくるほどの、場を弁えない歓声がそれを表しているではないか。
気を取り直してカミオカが事故物件における死因についての講釈を始めた。このサークルの月例会は大体こんな感じで進む。ほとんど、カミオカが一方的に自分の知識や考察を話し、メンバーたちに聞かせる。まるで授業だ。
カミオカはカミオカでどこか気味の悪い男だった。痩せぎすのもやし男で、普段からなにを考えているのかわからないし、似合わない髭もなぜ伸ばしているのか。私はカミオカが苦手だ。
「はい、龍太郎」
カミオカの声で反射的に龍太郎に振り向いた。
すると龍太郎はわたしの隣で手を挙げている。
「発見が遅れるから……ですか」
「正解!」
パチン、と指を鳴らすカミオカ。
「すっごいじゃん! かっこいい!」
なにがなんだかわからないが、カミオカの高尚な問いに的確な解を出したらしい。内容はわからないが、オーバーに喜んでみせた。
「季節や温度にもよるが、大体一週間もすれば臭いが漏れ出してくる」
死体がどのように腐り、臭いを発するまでをカミオカが克明に語っている。いちいちこの男の話は生々しく、映像が飛び込む。
「うえええ……」
「モニカ、気分悪かったら外の風を当たって来るかい?」
「いえ、大丈夫です」
カミオカが心配そうに髭をさすりながらわたしを見つめる。本当はこのまま提案に従い、龍太郎と一緒に抜け出したかったが、龍太郎の表情はそれを求めてはいない。
仕方がない。終わるまでの間、耐えよう。そして、月例会が終わった後、龍太郎とふたりになればいいのだ。
我慢。もう少しだけの我慢だ。
◆
「田原さん、この部屋はすごいよぉ~。なんてったってね……」
酒井がそこまで言ったところで龍太郎は手を突き出して制した。「それ以上は言うな」ということだろう。
わたしと酒井は顔を見合わせ、溜め息を吐いた。この光景は初めてのことではない。
龍太郎は真剣な表情で部屋に入ると、目を閉じて鼻を引くつかせた。
目を閉じる理由は、本人曰く「面白くないから」だそうだ。まず、臭いから楽しむという。楽しむという感覚はわたしにはわからないが、内見ツアーの時は口出ししないことに決めている。
――それにしても……。
事故物件に入った時の龍太郎は言い知れぬ凄みがあった。とても話しかけられる雰囲気でない。
それは酒井も感じていたらしく、龍太郎がこうなった時には無口になった。
「あっあっ」
――当たりだ。
セックスの時でも出したことのない快楽に澱んだ声を出す時、決まって龍太郎はわたしたちの理解を超えた言動にでる。
目を閉じたまま口をぽかんと開け、口角からよだれが垂れる。股間はズボンの上からでもわかるほどはっきりと硬くなっていた。
何度か痙攣のような震えを伴い、フラフラと浴室へと向かう。
鼻の穴を膨らませ、犬の息遣いさながらの荒い呼吸をしたかと思うとゆっくりと目を開ける。
「わあ……」
感嘆の声を上げ、龍太郎は目を見開いた。その瞳は潤み、水槽に張り付きジンベエザメを見上げる無邪気な子供のようだった。
一体、龍太郎になにが視えているのかはわからない。前に、「虫が視える」と言っていたがそれのことだろうか。もしもそうなら、一体どんな景色が彼の視界に広がっているのだろう。
「仏さんでも視えてるんですかねぇ」
呆れたような、怯えているような、どちらとも取れない俯き加減で酒井が小声で話しかけてきた。
「あ……え」
返事をしたつもりだがうまく声に出来ない。その事実に驚いた時、唐突に理解した。
わたしも酒井と同じく、怯えているのだ。わたしたちに視えない、なにかを見つめる龍太郎に。
「ここで死んだんですよね。前の住人が」
「えっ! ええ、今日もまた一段と冴えておられるようで」
口元を引きつらせながら酒井が認めた。
龍太郎は空のバスタブに顔を突っ込み、「おごっおごっ」と濁った声で喜ぶ。
「バスタブは交換済みですか。残念です。ここで煮込まれてたんでしょ?」
酒井は黙り込んだ。YESということだ。
不気味だった。龍太郎は、わたしと同じではない。わたしと同じ存在などではない、と痛いほど思い知らされる。
だからこそわたしは触れなければならない。彼の異常さ、狂気に。本物に近づけば近づくほど、わたしはネクロフィリアに近づけるのだ。
「女の人……かな。歳はわからないが、恐らくそこそこ年配だと思う。追い炊きのまま入って、心臓発作かなんかで死んだんだろう。そのまま誰も気づかず、煮込まれ続けた」
「うぷっ!」
気付けばわたしは飛び出していた。持っていたビニール袋に胃の中のものを吐いた。
――煮込まれていた? 冗談じゃない。なんなのそれ!
心の中で叫ぶ。
本当はわかっていた。死体愛好家と、死臭愛好家は似ているようで違う。死体を愛でるのと、汚く崩れれば崩れるほど喜ぶのは違う。用途が違うからだ。
それにそもそもわたしにとって『死体愛好家』という顔は、ただの設定である。いわばただの「にわか」だ。そんなわたしが龍太郎という本物に触れれば、たちまち拒絶反応が起こる。そんなことはわかりきっていたことだ。
しかし、いくら龍太郎が本物の異常者だとしても直接わたしに危害が及ぶわけなどない。この現代日本で、近づくだけで危険な人間などそうそういるわけがないのだ。
特に龍太郎のようなおとなしい性格の男には。
「いつか、煮込んでみたいなぁ。どんな臭いがするんだろう。とんこつスープみたいな感じかな。それとも鶏に近いのかな。いや、待てよ牛骨かもしれない」
そうひとりごちながら、龍太郎は帰りの夕食にとんこつラーメンを希望した。耐えられる自信がなかったので、やや強引に寿司にした。
どんな部屋でもあんな風になるわけではない。物件に入った直後に、臭いでわかるのだと言った。住人……人間が、どんな風に死んだのか。
とても信じられない話だが、信じるとすれば超能力に近いものになるのだろうか。霊感というものかもしれない。
どんな名前の、どんな能力でも構わない。わたしの持っていない凄みは、憧れに足るものだった。
興奮したままの龍太郎をセックスに誘うのは、容易だった。
暗い部屋。軋むベッド。無音の空間に吐息。汗。よれるシーツ。
うねる身体に龍太郎の腕が巻き付いた。結合と摩擦。緩やかなピーク。いつもよりも濃厚に。深く、奥へ、深く。
「あっ、はあっ」
みっともない声だ。なんて無防備で隙のある、わたしらしからぬ声。
「もっと……おねがい……」
媚びる。縋る。願う。交わる。離れる。求める。絡まる。混じる。
時に獣の姿で。時に獣にまたがり、共食いしあう蛇のように。
「やめっ……そんなとこ……嗅がないで……」
わたしは今日も死体とセックスをしていた。動く死体は、わたしの脇、首筋、足裏や肛門、性器……特に口を嗅ぐのが好きだった。
どんな時でも表情の変わらない龍太郎が唯一、目を虚ろにする瞬間。この時も龍太郎はわたしを膝の上に乗せながら汗で濡れた脇に鼻を擦りつけて嗅いだ。
決まってその時、龍太郎自身が固さを増す。なにも語らないがそれで興奮しているのだとわかった。
「肉の臭いだ」
「肉……? なんのこと」
「なにが」
行為の最中で龍太郎が口走った「肉」という言葉。おそらくわたしのことを言っているのだろうが、そんな言い方はないと少し悲しくなった。
けれどわたしは龍太郎と死体を重ねて興奮しているのだから、同類だ。文句を言う筋合いもないし、なによりもわたしは行為を楽しんでいる。最高の夜だ。待ち望んでいた、最高の夜。
「なんでもいい……あ、イクっ……!」
「ああ」
幾度目かの絶頂。その中でも最も烈しいエクスタシーに、わたしは身を震わせた。
龍太郎は毎回、わたしの絶頂に合わせて身を震わせると龍太郎自身を抜く。
快楽の世界からようやく正気に戻り、龍太郎を見るといつの間にか龍太郎はティッシュにコンドームをくるんですでにゴミ箱に捨てていた。
「臭(ルビ/くさ)いのが好きなの?」
事後、まともなピロートークなどあるはずもなく、話しかけるのはいつもわたしのほうだった。そうでもしないと龍太郎はずっと無言のままだ。普通の男女関係を求めていないのだから、それでいい。無表情で無口な龍太郎だが、聞いたことには答えてはくれるし、問題はなかった。
「臭い? なんで」
「なんでって、セックスの時いつもわたしの身体ばっかり嗅いでるでしょ」
「モニカは自分の身体が臭いと思っているのかい」
「気を付けているけど……お尻とか匂われるのはあんまりいい気分じゃない」
「そうか。でも僕はそんなことはしていない」
耳を疑った。
あれほど毎回露骨に鼻を擦りつけてわたしの汗や体液、肌や内臓を嗅いでいるというのに、龍太郎はそれごと全部否定した。そもそも昼間の光景を忘れるはずがない。
「でも……」
「なにか変なことしたか」
バカにされているのかと思ったが、龍太郎の性分的にそれはない。だからと言って冗談をいうタイプでもないはずだ。
本気なのだろうか。本気で、龍太郎は「嗅いでいない」と主張しているのか。
床に鼻を擦りつけ、さながら警察犬のようなみっともない恰好で死の臭いを嗅ごうと勃起しているあの姿。あれをまるごとなかったことにするというのだろうか。
それだけではない。龍太郎の事故物件に対する執着はすさまじいものだった。
カミオカを通さずに酒井に直接金を渡しているらしく、素人目に見てもふっかけられているとしか思えない金額を要求されていた。それにも関わらず、龍太郎は文句ひとつも言わずに支払っている。何度、内見ツアーに付き合っただろう。
わたしは思い返した。
しきりに鼻をひくひくとさせては、ゴミ箱に近寄ったり、キッチンのシンク回りに顔を近づけていたり、カミオカの首のそばでじっとしていたりしていた。
「僕が匂いフェチ? 冗談はやめてくれ。臭いものなんて普通の人と同じくキライだし、わざわざそんなものに近づくなんてあり得ない。君が見たそれはきっとなにかの間違いだ。僕は臭いなんてどうでもいい」
「……じゃあ、たとえば死臭なんてどう?」
一瞬、龍太郎の肩がぴくんと動いたのをわたしは見逃さなかった。
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