第19話
カミオカは僕の顔を認めると、一瞬驚いた表情を見せたがすぐに顔を綻ばせ、明るい口調で「よく来たな」と歓迎した。
僕にはその反応が意外だった。
モニカがここにいることは確かだ。それ故、僕が訪ねてきたということの意味を、カミオカもわかっているだろう。いまさら隠し立てはできない。
にもかかわらず、そんなことは微塵も感じさせないほど、カミオカは上機嫌だった。この反応はやっぱり、僕に特別な感情があるという表れなのか。
……それにしても、ひどいな。
カミオカは僕を三和土まで招き入れると、中に入れと促した。もちろん、僕もそのつもりではあったが、中に入るのを躊躇させるような光景が広がっていたのだ。
カミオカの家は、足の踏み場もないほどにゴミが散乱していた。カミオカがここまで来たことを感心してしまうほど、通路という通路がゴミでおおわれている。
ゴミの種類も幅広い。衣服であったり、食べ終わったカップラーメンや弁当の容器、缶や紙パックは当たり前で、目の前で微笑んでいるカミオカのきちんとした恰好とはギャップのある光景だった。
「いやあ、嬉しいよ。龍太郎が僕の家に来てくれるなんてね」
「いえ……。で、その……どこを歩けば」
「え、わかるだろ。ここに床が少し見えているところがあるのわかるか。これを辿っていくんだよ」
「すごいゴミじゃないですか」
「ゴミ? お前にはゴミに見えるのか。僕には宝の山に見えるけどね」
どういう目をしていればそんな風に見えるのだ。
衣服や本などは辛うじて宝の山だと認めてやるとして、食べ残した弁当の容器や空のビールやチューハイの缶などは宝などではなく誰が見てもゴミだ。
そんな僕の心を読もうともせず、カミオカはさっさと奥へと進んでゆく。僕も慌ててそれに続いた。
目を凝らして、ギリギリ足の踏み場らしき形跡のある部分を歩く。それだけで神経をすり減らしてしまう。
遅れている僕に構わずにカミオカはずんずんと進み、見えなくなってしまった。
「ちょっと……! カミオカさん!」
「なにしてるんだ、こいよ。龍太郎」
「待ってください、こんなの進めませんよ!」
奥から「ひひひっ」という気味の悪い笑い声がした。
視覚的な汚らしさもカミオカことながら、臭いも酷い。どこを歩いていてもなにかが腐ったような悪臭がする。鼻の下に臭いがこびりついてしまったのではないかと思うほどだった。右を見ても左を見ても、僕の目の高さに近いところまでゴミが積みあがっている。
これで近隣住民からの不満はあがらないのだろうか。
「ここには僕しか住んでいないのでね」
僕の心の声が聞こえているかのようにカミオカは言った。
ここには自分しか住んでいないから、なにをしても誰からも文句はない。そう言いたいのだろうか。
「冬はいい。寒いから臭いもあまり外に出ない。その代わり夏は大変だ。なにもしてなくても臭いが外に出るからな。まあ、でもこの辺は極端に若い一人暮らしのやつしか住んでないから、直接的な苦情は意外とないんだ」
そう説明した後にカミオカは「いい臭いだろ」と笑った。どこがいい臭いだ。鼻が曲がりそうとはまさしくこのことで、細めた目をちゃんと開けられない。これだけ激しい臭いだ。服にもこびりついてしまったに違いない。
だが不思議と外で会うカミオカからはこの種類の悪臭を感じたことはなかった。一体どうしてだろうか。
「こっちだ。ここならゆっくりできるだろう」
悪臭に涙目になりながら奥まで行くと、驚いたことにここまでとはまるで違う、異質にも感じるような綺麗な部屋に辿り着いた。
畳の部屋だったが、ブラウンのカーペットが敷いてあり、ソファと小さなテーブル、ノートパソコンにクローゼットがある。飾り気はまるでない殺風景な部屋ではあるが、まるで応接間のような片付いた部屋だ。
僕は感心したが同時に混乱する。
この綺麗な部屋から一歩外に出るだけで広がる悪臭を放つゴミ屋敷と、極度に飾り気を嫌ったシンプルで殺風景な部屋。
この二つの空間を作ったのが同じひとりの人間だとは到底考えられない。一体、どちらの人格が本当のカミオカなのだろうか。単純に「カミオカは二面性がある」くらいの話で済ますことができればいいが、どちらの面も同じ面だとしたら――。
僕はそこまでで考えるのをやめた。心のどこかで無理矢理カミオカを異常者に仕立て上げようとする自分がいる。部屋が汚いのがなんだ。一部屋くらい綺麗にしているのだって別にそこまでおかしくないだろう。
そう思いながら部屋に足を踏み入れると、嘘のように臭いが消えた。ここまでの悪臭で鼻がバカになってしまったのかと思ったがそうではないらしい。完全な無臭空間だ。
「驚いただろ。この部屋は消臭に徹底してるからな。外でなにが腐っていてもここだけは大丈夫だ」
どういう理屈で大丈夫なのかはわからないが、消臭を徹底しているのは本当だと身をもって実感している。
「コーヒーと紅茶、どっちがいい?」
「い、いえ……僕は大丈夫です」
「遠慮するな。もてなしたいんだ」
部屋の殺風景さに一瞬麻痺しそうになった。この部屋から一歩でれば不潔極まりないゴミ屋敷。そんな家のキッチンで淹れた飲み物など口に付けたくはない。
だがはっきりと断り切れずもごついている僕に構わず、カミオカは部屋を出た。飲み物を持ってくる気だ。
……しまった! 最悪だ。
行ってしまったものは仕方がない。カミオカが戻ってきたらさっさと本題を切り出し、話に夢中になっている体で飲み物に口を付けない方向で行くことにした。
「それにしても……」
不思議な部屋だ。本当になにもない。
見回してみるが、娯楽に関するものは皆無といってよかった。唯一、デスクの上に置いてあるノートパソコンだけがそれにあたるのだろうか。
「テレビもないなんて。徹底しているな」
考えてみれば僕自身もここのところあまりテレビを好んで見ることが少なくなった。
だからといってテレビと切り離した生活は考えられない。番組を観ることがなくても、DVDやブルーレイで映画も観るし、ゲームもする。そういった嗜好がカミオカにはまるでないのだろうか。
そう思いながら部屋を観察していると、ふと目に留まるものがあった。
かなり型の古いラジカセのようだ。もう壊れてあるのかと思い、近くで見てみる。
見たことのないスイッチは手あかで色が剥げている。ずいぶんと年季が入っているようだ。しかし、埃もかぶっていなければ中から覗いているカセットテープも新しい。現に、ラジカセの前にピカピカのカセットケースがあった。マジックペンで「岡村ANN」と手書きされたカードが差してある。タイトルの下には「2017.11~」と記してあり、今も現役で使っているのだとわかった。
「そういうの知ってる?」
「ひっ!」
突然背後から話しかけられ、思わずみっともない声が漏れてしまった。
カミオカはにんまりと笑いながらマグカップになみなみに淹れたコーヒーを片手に持っている。
「今ではあんまりそういうの見ないだろ。テープも現役で録音に使ってるし、毎日ラジオも聴いている。CDもなんとかポッドってやつも僕には合わなくてね。だからこれで十分なんだ」
「そ、そうなんですか。僕はあまりラジオとか聴かないんで」
「聞けよ! なんで聞かないんだ!」
突然、カミオカは大声を出した。手に持ったマグカップのコーヒーが烈しく波打ち、びちゃびちゃとカミオカの足元に零れている。
「な、なんでって……僕は、テレビとか観るんで」
「くだらない! ラジオを聴け! いいな、わかったか」
わけはわからないが、有無を言わせない迫力にうなずくしかなかった。
それを見てまたにんまりと笑顔を作ると、コーヒーで濡れた手も気にせずラジオのスイッチを押す。部屋に僕たちではない声が響き始めた。
「この部屋な、防音にも優れているんだ。そういう風に作った」
「そんなこと、勝手にやってもいいですか。大家さんに怒られるんじゃ」
「僕の家だ。前の家主から買った。土地ごとな」
……買った? こんなボロボロのアパートを?
僕の脳裏にこのアパートの外観が浮かぶ。仮に格安だったとしても、今にも崩れ落ちそうなこのアパートを買うだろうか。幽霊アパートとして近所でも有名な家だ。土地だけで考えれば魅力的なのは認める。だがこの部屋をそんなに特別仕様にリフォームするくらいなら、新しく建て直さなかったのはなぜだろうか。土地代で蓄えが尽きてしまった……ということなのか。
疑問は尽きないが、逆に腑に落ちたこともある。このアパートにカミオカしか住んでいないという点においてだ。なるほど、カミオカの所有物なのだから住民が彼ひとりだけだとしてもそれほど不思議はない。
「さあ、コーヒーを飲め。冷めないうちに飲め」
「ありがとうございます……じゃあ、いただき――」
カップを手に取り、顔を近づけた時、反射的に顔を背けた。とてつもない悪臭がコーヒー……いや、コーヒーのようななにかからしたのだ。
「な、なんなんですかこれ!」
色は確かにコーヒーのように黒い。だが、臭いはそれとは違うものだ。異様に生臭く、コーヒーとは似ても似つかない。
涙目でカミオカを睨んだが、カミオカは無表情で僕を見つめるだけだった。
「飲めないのか?」
「こんなの、飲めるわけないですよ! 悪ふざけはやめてください」
「飲まないのか。残念だ」
カミオカはそう言うと僕からカップを取った。そして、そのままカップごとゴミ箱に投げ捨てた。
「なんだったんですかそれ!」
「さあ。俺は飲みたくないものだ」
「な……」
言っている意味がわからない。なにを言っているんだ。
自分は飲めないのに、僕には飲まそうとしたのか。愉快犯なのか。アレを飲んだ僕が苦しみ、えづくのを見て楽しもうとしていたのだろうか。
それをあんなに真顔で……どうかしている。
家に入ってからのカミオカは、どこをどう切り取っても僕が知っているカミオカではなかった。
まるで別人。初めて会う人間のようにしか思えない。
「あの!」
「うーん、なにだったら食べるかな。なにだったら飲む?」
「聞いてください!」
カミオカは返事をせず、顔だけをこちらに向けた。
「モニカはどこですか!」
「またあの女か。その名前を言うな!」
「そんなわけにはいきません! カミオカさんですよね。モニカをどこかにやったんでしょう? この家ですか? この家のどこかにいるんですね」
「なぜ僕があの女を拉致しなければならないんだ。バカを言うな」
「嘘を言わないでください! わかってるんです。カミオカさんがモニカに逆恨みして、乱暴をしたに決まっている」
「やめろよ、龍太郎」
カミオカは深いため息を吐いた。そして頭を掻きながら僕に近づいてくる。
「そうか……このアパートがカミオカさんの持ち物なら、モニカを閉じ込めておける部屋はいくらでもある。その中にここと同じ、防音の設備が整った部屋があるとすれば」
カミオカが「ないよ」と答えたのと同時に、これまで感じたことのない烈しい熱を感じた。
頭では体のどこからそれを感じたのか理解が追いつかなかったが、それと反比例して体は反射的に横腹を押えていた。
「?? ……え? ええっ!」
悲鳴は出なかった。痛みによる嗚咽も。じんわりと指と指の隙間からどろりとした血が滲んだ。それを見た上でも自分の身になにが起こったのか理解できない。
「な、なにした……んですか!」
「龍太郎はかわいいなあ」
次はふとももに強烈な熱。今度はすぐにその正体がわかった。痛みだ。
「うわああああ!」
痛みと驚き、恐怖、悪寒。
これらが一度に正面から僕を襲った。
……刺された! 腹を! 足を!
「やめ……カミオカさ……誰か、たす……」
支離滅裂な言葉が口から溢れる。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます