第14話
◇
バッグの中でスマホが震える。
龍太郎からかと思い、慌てて画面を確認するが会社の後輩からの飲み会の誘いだった。
嘆息し、他に通知が来ていないか見てみるが登録している動画チャンネルの通知と、ネットニュースの見出しだけだった。
このまま真っすぐ家に帰る気にはなれない。駅から自宅までの道のりを逸れ、わたしは少し寄り道をすることにした。
人恋しかったのだ。誰でもいいから、一緒にいたい。同じ空間にいればそれで構わない。そう思いながらもわたしは焦っていた。
それだけひとりの夜が不安だった。今夜は特に。
幹線道路から外れた路地を歩いていると、テラス席のある小洒落たワインバーがあった。
飛び込むようにして入ると、カウンターに腰を下ろす。
ワインはサングリアしか飲めなかったが、赤を頼んだ。酔いに任せるしか孤独を薄める術が浮かばなかったのである。
店内は薄暗かったが不快になるほどの暗さではなかった。客はそこそこ入っているが、カウンターに座っていたのはわたしだけだった。
壁にテレビがかけてあり、上野動物園でパンダが生まれたことを伝えていた。音声はミュートで文字放送だった。
ピンク色の小さな生き物は、言われなければパンダの子供だとは思えない。あれが大きくなれば、白と黒の丸いクマになるのか。想像がつかなかった。
ウェイターがワインを運んできた。
ひと口飲んで、やはりサングリアにすべきだと後悔した。
◆
ドアの鍵は開いていた。瞬時に今朝、閉め忘れたのかと焦ったがそんなことはないと思い直す。
閉め忘れでないとすれば、考えられる可能性はなんだ。
不安や恐怖が気持ちに追いつかず、わたしはただなぜ鍵が開いているのかという疑問ばかりに気を取られていた。
無意識にドアを開ける。鍵がかかっているはずの部屋が空いている時点で、もっと慎重に動くべきだったと後悔した。
ドアを開けた音だ。
しまった、と思ったわたしの鼻孔にビーフシチューの香りが漂う。ますます混乱した。
なぜ、誰もいないはずの部屋のドアが開いていて、中からビーフシチューの匂いがするのか。
次に目に入ったのは、三和土に揃えられた男物の靴。赤茶の汚れの目立つスニーカーだ。そして、わたしはそのスニーカーに見覚えがあった。
「おかえり、モニカ」
奥から男の声がわたしを出迎えた。龍太郎の声だ。
なぜ、龍太郎がわたしの部屋にいるのだろうか。
どうやって、わたしの部屋に入ったのだろう。
疑問はあった。だが、その声を聞いてこれまで抱いていた不安や怖気の類が霧散していくのがわかった。その瞬間に、わたしはやはり龍太郎を恐れているのではなく愛しているのだと再認識したのだ。
まして久しぶりのその声。わたしの嘘に怒って無視を貫いているのだと思っていた。
だからこそ、色んな気になる点を差し置いて喜びが勝ったのだ。
「仕事、お疲れ様」
エプロン姿の似合わないそのシルエットが現れ、心の底から力が抜けていく。靴を脱ぎ散らかし、龍太郎に抱きついた。
「会いたかった! 嫌われたと思って、怖かった!」
「……そうか。ごめんな、心配かけて」
「ほんとだよ! ずっとほっとかれて!」
「すっかり、らしくない喋り方じゃないか。『死体愛好家』さん?」
「ごめん、嘘ついてごめん……。見ての通りよ。本当のわたしはこんな女なの。どこにでもいる、普通のOL」
「そうみたいだな」
龍太郎はそう言って頭を撫でてくれた。邪気が抜け、心も体も龍太郎で満たされてゆく。わたしが求めていたのはこれだ。
「ね、セックスしよ? いつもみたいに」
「いつもみたいにはもうできない」
「そんなこと言わないでよ、お願い」
「わかったよ。でも、それは僕の作ったシチューを食べてから」
そう言って龍太郎はわたしの腰に手を添え、奥へと促した。
「料理、できたんだね」
「言ってなかった? ひとり暮らしも長いし、得意じゃないけどシチューくらいはね」
龍太郎はわたしのコートを脱がすと、よそってくるからとキッチンへ戻る。
幸せな気持ちでいっぱいだった。結局、すべて杞憂だったのだ。
素の自分をさらけ出したことで、きっと龍太郎も本来の自分自身で接してくれようとしてくれたに違いない。
ということは、今後はもっとお互いを分かり合える。そうに違いない。
涙が頬を伝った。この涙は幸せの涙だ。これでわたしは自分を偽らずに済む。素の自分で生きていけるのだ。もう、誰にも嘘を吐かなくとも、設定を纏わなくともいい。
「おまたせ。さあ、食べて」
「わああ……すごい、本格的だね」
目の前に置かれたシチューは深いブラウンで、適度な時間煮込まられたものだとわかった。渦を描いたフレッシュミルクが本格さを彩っている。
湯気と共に鼻先をくすぐるいい匂いが食欲を刺激し、すぐにでも口に運びたくなる衝動を抑えるのに大変だった。
肉の脂と根菜が混ざり合い、ワインの香りも仄かに薫る。
「写真、撮っていい?」
「いいけど、大げさだな」
わたしは記念に、とシチューを重いカメラで撮った。
「さあ、冷めないうちに」
「うん。じゃあ……いただきます」
シチュー皿の横、几帳面に置かれた紙ナプキンとスプーン。まずスープを掬い、口に運ぶ。口に入れた瞬間から旨味がいっぱいに広がり、鼻から抜ける香りでさらに幸福感が追いかけてきた。スープが喉を通っていくと、舌の上にはコクと旨味だけが余韻として残った。
「肉も食べてくれよ。いい感じに煮込んだんだから」
「もちろん」
もはやわたしは次のひとくちを急いていた。さらなる幸福感を求めていたのだ。
スプーンにごろごろとしたサイコロ状の肉を乗せ、口に運んだ。
「……んぷ」
「うまいだろ?」
「う、うん」
わたしの気のせいだろうか。妙に臭みのある肉だった。もしかすると、安物の牛肉なのかもしれない。もしそうなら、独特の臭みが残っていることはある。
しかし、それでは説明がつかなさそうなほど強烈な臭みだった。それに固い。
「そっちの肉もうまいぞ」
龍太郎がシチューを指さすと、サイコロ状の肉とは別に、ささみのような形のものがあった。
「鶏肉?」
「そうだな。似たようなもんだ」
口の中の臭みを消し去りたい一心で、わたしはその肉を頬張った。
確かにさっきのものほど臭みはない。しかし、種類が違う独特の癖がある。まずくはないが、ビーフシチューには合わない気がする。
「どうだ」
「おいしいよ。すごいね!」
肉の臭みのことは口に出さず、わたしはそう答えた。味の如何は置いておいて、龍太郎がわたしのために作ってくれたという事実だけで充分幸せだったからだ。このくらいの些細な嘘は許されるはずだ。
「そうか。よく食えるな。僕は絶対に無理だね」
「えっ……?」
龍太郎はエプロンと脱ぐと、シチュー鍋の火を切りバスルームへと消えた。
その言葉の意味がわからず、わたしはしばらくその場で考え込んだ。
……どういうこと? 絶対無理って、なに? もしかして、ワニとか、カンガルーとかそういう変わったお肉だったのかな。
変な肉を食べさせる、というのが龍太郎の報復だとしたら。
ふとそんな考えが頭をよぎり、もしもそうなら厭な気分には違いないが、かわいいものだと思った。そして、むしろそのやり方は龍太郎らしいとも思った。
それならわたしはなにも気付かない振りをして完食するのが正解ではないか。そうすれば仕掛け人である龍太郎も、わたしの度胸を褒めてくれるかもしれない。そして、認めてくれるかも。
バスルームの方を見る。龍太郎はまだでてくる気配はない。
「よし、じゃあ……全部食べちゃおう」
決心すると、次の肉を頬張る。涙が滲むほどの臭みに思わず口から出したくなる。食べるたびにどんどん臭みがはっきりと輪郭を表し、スープの味が消えてしまうほどに感じた。
それでもこれは禊だと言い聞かし、無理矢理飲み込んだ。とにかく、先に肉だけ食べてしまえばあとは根菜とスープのみ。懸命にスプーンを進める。
噛むのが苦痛で、四口目にもなるとほぼ丸呑みだった。当然、大きな肉が簡単に喉を通るはずがないので、水で流し込む。
「ぷはっ」
なんとか飲み込むことができ、涙を拭う。大きな肉は皿からなくなり、あとはささみだけだ。
「あっ……」
誤って水のグラスを床に落としてしまった。幸い、中身は空だったが取るのが遅れて転がっていってしまった。
転がるグラスは、こつん、と音とともに止まった。飼っているうさぎのケージだ。
「そういえば、ボンちゃんにもごはんあげないと」
ケージを見て、ボンちゃんと名付けたうさぎのことを思った。すぐでなくともいいが、このあと龍太郎と情事が始まってしまえばそのまま朝になりかねない。
立ち上がりケージのそばに置いてある餌袋を取り、中を覗き込む。
「あれ……」
ボンちゃんがいない。ボンちゃんは割と大きなサイズのうさぎで、いくら小屋の中に隠れたからといって見失うわけはなかった。
「もしかして……逃げたとか」
顔が青ざめた。たかがうさぎとはいえ、ボンちゃんは大事な家族だ。それがいなくなるなんて考えたくもなかった。
「どうしたの」
その時、バスルームから龍太郎が出てきた。
わたしはベッドの下を覗き込んでいて、龍太郎を見ずにボンちゃんがいなくなったことを告げる。
「ああ、あのうさぎか」
「そう! もしかして、どこか見た?」
「見たもなにも、食ったろ」
「え?」
「そんなことよりさ、こっちに来てくれよ。プレゼントがあるんだ」
龍太郎がなにを言っているのかわからず、振り返る。
「ひひひっ」
いつか聞いた甲高い笑い声を発し、龍太郎はわたしの手を掴み、立たせた。
「僕さ、わかっていたんだ。あれは嘘だったんだろ」
「うん……ごめん、そのことは謝らなきゃって……」
「なにを謝る? 君が普通のOLでうさぎを飼っているってことが嘘だったんだろ?」
「えっ……わたしが? OLが?」
「わかってるって。もうそんな嘘は吐かなくていいんだ。だから、『死体愛好家』の君に最高のプレゼントを用意したよ」
「待って! 違うって! それが嘘だったんだよ! その、わたしは死体愛好家なんかじゃ……」
開くバスルームのドア。
バスルームから強烈な激臭が噴き出すように鼻を刺した。
「君に死体をプレゼント~!」
目の前に広がったのは二体の死体。はらわたを抜かれた女性のもので、腐敗しており茶色く変色していて顔の判別すらできない状態だった。
「ぎゃ……ッ」
悲鳴をあげようとしたところを口にタオルを詰め込まれる。声がでない!
無理矢理見せつけられた光景は、目を疑う、とてもこの世のものとは思えないものだった。
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