閻魔蟲

巨海えるな

第1話

閻魔蟲




『エンマ虫』【閻魔虫】

 甲虫目『エンマ虫』科。動物の死骸や糞に集まる蛆を餌とする。

 黒色で光沢があり、形は扁平な卵型。蛆を喰らう性質から害虫と誤解されることが多いが、屍肉や糞を食べることはない。








田原修一




 厭なことを思い出すのは決まって暑い夏だ。

 汗でべとつく体。アスファルトから立ち昇る臭い。熱気で歪む景色。

 空ばかりがやたらと青く、悠々と浮かぶ雲が馬鹿にしているようで腹が立つ。とにかく僕は夏が大嫌いだ。

「ダクトの化粧カバーですが、窓枠に沿ってL字型に設置ということでよろしいですか」

 振り返った先に赤ん坊を抱いた若い女性が立っている。

 微妙な顔つきで微笑みながら、彼女はそうですね、とうなずく。

「じゃあ、こちらに設置します。数か所、ビスを止めるので穴を開けますが大丈夫ですか」

 やはり同じ調子で女はうなずいた。

 おそらく、言っていることをあまり飲み込めていないのだろう。だが聞かずに進めるわけにもいかないのだから仕方がない。

 甲高い唸り声をあげて電気ドライバーが回る。ガチン、とドライバーが止まり、振動で汗が手の甲に落ちた。

 口にくわえたビスを取り、次のビス穴に先端のスクリュー部を当てる。

「あっ……」

 十字穴にドライバーを合わせようとしたところで、指先からつるりとビスが逃げた。

 落ちるビスを目で追った時、不意に刺すような日差しが目を焼く。

 脚立の天板に足をかけたまま、僕は手のひらで目から陽を避けた。

 僕は夏が大嫌いだ。

 だから夏が一番忙しく、余計なことを思い出さなくても済むこの仕事に就いた。

「暑いから大変ですよね」

「え? ……ああ、そうですね。でも僕らは夏で食ってるようなものですから」

「なんかどこかのバンドみたいなこと言ってる」

 若い人妻は自分の言った言葉に笑った。

 なんとなくそれに倣って笑ってみるが、どこが面白かったのか僕にはよくわからなかった。

 この若い女とは初対面だ。ほんの一時間ほど前に初めて会った。怪しい話ではなく、客と工事業者としてだ。

 太陽と僕の頭の間に、フェンスの隙間から突き出た木の枝を思わせるな配管が伸びていた。エアコン本体と繋がっている配管と、排水のためのドレンホースだ。

 足元で箱に収まったままの室外機に繋げば、たちまち熱気や熱風とは無縁の、快適な空間を作る魔法の扇風機になる。

 そのための配管を隠すためのダクトケースを、設置しているところだった。

「部屋を涼しくする機械をつけているのに、工事屋さんは汗だくなんて、変な話ですね」

「まあ……そういうものですから」

 僕は家電専門の電気工事士だった。夏はエアコン。それ以外の時はテレビや食器洗浄機、ウォシュレットの取り付けをしている。

 電気工事士といえば聞こえはいいが、夏はエアコン工事専門で一年の稼ぎの7~8割を担っている。仲間の業者はそれぞれ夏以外の季節を乗り切るために、資格を取ったりしているが、僕は夏さえ忙しくしていればよかったのでそうはしなかった。

 この日は、今夏で最も猛暑といわれた。4件あるうちの2件目の現場だった。

 作業の内容はごく一般的なもので、ハイツ型マンションの二階部屋にエアコン一台を取り付ける仕事。夏場なら毎日やっている作業だ。

 工事は順調に進んでいた。客の女も特別おしゃべりなわけでもなく、時々様子を見に来たり、冷えた麦茶を出してくれたりするだけだ。

 配管パイプを室外機に取り付け、化粧ダクトも滞りなく設置し終わる。

 部屋に広げていた道具を片付け、リモコンを片手に女を呼んだ。

「取り付け工事が完了しました。簡単に操作の説明をします」

「はあい」と弾んだ声の返事が返ってくる。彼女はまもなく部屋にやってきた。見ると赤ん坊を抱いていた両の手は空いている。奥の部屋で寝かしつけたようだ。

「やっぱりこうやってみると大きいですね。よく効きそう」

「そうですね。この東芝のRAS-221JH1は人気の機種でして、こちらのボタンを――」

 女から漂う柔軟剤とベビーオイルの匂い。シャツから昇る自分自身の汗の匂い。

 そのふたつが僕の鼻先数ミリのところで混ざり合い、複雑な香りに変わる。生魚とフルーツを一緒にミキサーにかけたような、不釣り合いで不快になる臭いだ。しかし、それ自体は僕にとって厭なものではない。

 一方で新品のエアコンから吹き出す臭いはあまり好きではない。特徴もない、芳香とも悪臭とも言えない中途半端な風。これを鼻腔で感じているだけで、すぐにでも逃げ出したくなる。

 そんな臭いに耐えながらリモコンの操作を説明をしている時、僕の目は小さな黒い異物を捕まえた。目を凝らすまでもなく、。壁を這う黒い小さな虫だとわかる。

 ――まただ。またあの虫が……。

 僕がその虫を見るのは初めてではない。どの現場、どの部屋にも必ずいるというわけではないが、10件~20件に数度の確率で目にする。

 しかも、決まってそれは僕にしか視認できない。何度か客に確かめたことがあるが、3度目の時に妙な顔で見られてからは口に出すのをやめた。

 しかも、この虫は部屋によって現れる数も違う。

 わらわらと大量に壁中を這っていることもあれば、片手で数えられるほどに少ない時もある。体長は1センチもない。

 見始めの頃こそ驚きもしたが、最近では虫が視えても動じなくなった。それどころか、なぜ僕の目にだけしかとらえられないのかと不思議にさえ思う。

 艶のある黒い体躯が光を吸い、カサカサと壁の至る所で蠢く様を見ているとどんなに綺麗な部屋でも幽霊屋敷や廃墟の中にいる気分になった。

 それらにどういう法則があるのか知らないが、一度もクレームがないところを見ると僕以外には視えていないようだ。

「どうしたんですか? 部屋……なんか変です?」

 一点を見つめたままの僕を心配する女の声で我に返る。

 慌てて僕は「いいお部屋だな、と思いまして」とその場しのぎの空言を吐いた。

 怪しまれているかとひやひやしたが、女は訝るどころか得意げに目を輝かせると「そう思います?」と声のトーンを高くした。

「実は……」

 かと思えば今度は思わせぶりに声を潜め、ふたりしかいない部屋でなぜか周りを気にする素振りを見せた。

「この部屋、すごく安いんですよ。相場より4割くらい」

 なにか妙なことを言いだすのではと一瞬身構えたが、彼女が吐いた言葉は実にくだらないものだった。

 拍子抜けの溜め息が漏れそうになるのを押え、相槌を打つと次に「なぜだと思います?」と逆に質問を投げかけてきた。面倒な話になってきた、と僕は内心嘆息する。そうしている間にも部屋はハイパワーの冷風でどんどんと冷え、汗で塗れた肌着が冷たくなってゆく。

「ええっと……ちょっとわからないです」

 適当に考えたふりをして答えると、女は嬉しそうににやりと口を湾曲させた。

「実はこの部屋で、前の住人が死んだんです」

「えっ?」

「いわゆる『訳アリ物件』っていうあれですよ。最近、よく聞くでしょう」

 ええ、まあ。と曖昧な返事をすると、途端に彼女は興味を失ったように無表情になった。どうやら僕を脅かすことに失敗したことに機嫌を損ねたようだ。

「殺人、とかですか」

 仕方なく話を振ってやると、とたんに女はオーバーに手を振りおどけた。

「違いますよぉ! そんなの4割引きじゃ高すぎるじゃないですか。病死だって聞いてます。もちろんリフォーム済だし、すぐに見つかったから腐ったりとかそんなのもなかったんですって。主人は気味悪がってたんですけど、こんなにキレイにしてて4割引きだったら全然いいかなって」

 なるほど。つまり最終的には「割安でこんないい部屋に住んでいる」という自慢を聞いて欲しかったわけか。

 女はさらに話を続けたそうだったが、「次があるので」と僕は確認票にサインをもらって部屋を後にした。


 次の現場に向かう車の中で、僕の頭の中はあの妙な虫のことでいっぱいだった。

 どうして僕にしか視えないのか。どういう条件で現れるのか。そもそもなんという虫か。

 住民が視えていない、というのも内心はどこか懐疑的だった。

 本当は視えているのに視えていない振りをしているのかもしれない。

 なんのために?

 人間の感情の流れに敏感……とか? 現実離れした話だが、昆虫にはハイスペックな能力を持つのも多いという。

 例えば同じ黒い虫の代表格として、ゴキブリがあげられる。ゴキブリは長い暗闇の生活で、目は退化し視界の概念はない。さらにジメジメとした湿気と、温かい場所を好むため足は滑らないようなギザギザしたトゲがある。環境に応じ、不要なものは捨て、必要なものは自ら生み出した。

 長い触覚は感覚の中枢を担い、視覚、聴覚、触覚などの空間認知能力を有している。それは人間が長年の研究と科学の粋を集めて作ったどんな特殊で軍事的に優秀なレーダーよりも優れているという。

 挙げ始めればキリがないので他の昆虫については割愛するが、ともかく、人間の感情に敏感に反応するセンサーを持つ昆虫がいてもおかしくないということだ。

 つまり、あの虫は人間の無意識を感じ取り、気付かれないようにする術を持っている……というのはどうだろう。

 突風が吹き、前の路側帯を自転車で走っていた子供が体勢を崩し、道路にはみ出た。子供の前を走る母親はそれに気付いていない。気付いているのは真後ろを走っている僕だけだ。

 ――このままこの子を轢き殺したら、不可抗力になるのか。

 もしも罪に問われないことが確実だとしたら、僕はこの子供を轢くだろうか。枝から落ちた柿を踏み潰すように頭をぺしゃんこにして、飛び散った脳漿を呆然と見下ろしながら、半狂乱状態で超音波のような悲鳴を上げる母親を呆然と見下ろすのだろうか。

 そんなことを想像していると、無意識にアクセルを踏み込もうとする自分がいる。このままほんの少し、踏むだけでこの子は転倒し、頭が柿になる。

 小さなフォルムに似合わないアスリートのようなヘルメット、アニメのキャラがプリントされたリュック、片方だけずれた靴下、ハンドルを握る小さな手。

 これを無慈悲に散らかすことができれば、さぞいい臭いがするのではないか。

 そう、アクセルをもう少しだけ踏めばいい。警察には、子供が急に目の前で転倒し、ブレーキが間に合わなかったと言えばいいのだ。この状況ならば前後の車の運転手や同乗者だって証言してくれる。過失がゼロ……とはいかないが、こちらが有利な条件になる可能性だってあるのだ。そう、ほんの少し。ほんの少しだけアクセルを踏めば、僕は満たされる。

 その時、前を走っていた子供がふと振り返り、すぐそばまで迫った車の姿を認めて顔面蒼白になった。前を走る母親を大声で呼ぶ。母親も振り返って状況を読むとしきりに僕に向かって頭を下げ、子供に怒鳴り声をあげている。

 こちらの「危ない」という感覚は必ずしも互いが同じように感じるものではない。あの母親もまた「自分の子が車に轢かれるわけがない」と信じ切っているような顔だ。

 すぐさま子供ははみ出てしまった道路から路側帯に再び戻ると、ベソを掻きながらペダルを力強く回した。

 ――そう簡単にはいかないよな。

 心臓は高鳴ったまま、息苦しいほどの緊張感が強い余韻を置き去りにする。子供と母親を横切って追い抜くと、急に汗が噴き出しはじめた。

 僕はたった今、人生を変えるチャンスをみすみす逃したのだ。合法的に死体の臭いを楽しむチャンスを。


 センターに帰ってきたのは夜の10時を回った頃だった。

 翌日の工事伝票を見ながら、台車を押してエアコンの品番を探す。

 こんな時間だというのに、僕以外にも多くの工事士がひしめいている。みんな一様に疲れた顔をぶらさげ、陽に焼けた真っ黒い肌が薄暗いセンター内に溶け込んでいた。

「おつかれ」

 芋虫のような色のフォークリフトに腰を掛け、缶コーヒーを飲んでいる男が目に入った。この仕事のノウハウを教えてくれた、職場の先輩であり、高校の後輩でもある須藤だ。

 疲労が顔に滲んでいる工事士の中にあって、須藤は生気に満ち満ちていた。

 真っ黒に焼けた顔は同様だが、精力を放出しているようなギラギラとした目が、余力有り余っていることを如実に表している。

 心の声に答えるように、須藤は帰ってから飲みに行くと言っていた。

 当たり障りのない雑談を交わし、明日の件数やどこの現場かなど仕事の話に及ぶ。その話の中にあって、自然と僕が行った2件目の、あの女の現場の話になった。

「訳アリ物件?」

「ああ。趣味の悪い女だろう。わざわざ工事業者を脅かすようなことを言ってさ」

「まあ、勝手に谷間や下着を見せておいて『見たから工事費負けろ』なんてとんでもないこと言ってくるやつもいるからな。そんなのに比べればかわいいもんだ」

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