第21話
足を引きずりながら階段を上ることがこんなにも困難で苦痛なのだと初めて知った。
やっとの思いで上りきり、最初の部屋の玄関の戸に手をかける。鍵が開いているという期待はしていなかったが、念のため引いてみた。
予想に反し、あっさりと戸は開いた。拍子抜けしたが、これはツイていると前向きに捉え、素早く中に転がり込むと中から鍵を閉めた。これで奴が来たとしても少しなら時間稼ぎができる。真っ暗な部屋でカビと埃のせいでまず喉をやられた。奥に進むたびに烈しく咳き込む。
畳の腐ったような臭いに歓迎された僕は、この部屋にはなにもないとわかった。
引き返し、隣の部屋に入る。やはり鍵は開いていた。
この部屋も先ほどの部屋と大差はない。だがカビと埃に慣れはせず、また咳き込んだ。
それにしてもこのアパート、散らかってはいないが廃墟と変わらない。これでカミオカの部屋のようにゴミで溢れていたなら、モニカを放って逃げ出していたかもしれない。
そう思いつつ、痛みに耐えながら次の部屋へと進んだ。
一番奥の部屋に着く頃には、指先の間隔がなかった。単純に寒さのせいだとわかる。
雪はさらに強さを増し、風もかまいたちのように肌を斬る寒さだ。指先の末端神経は麻痺しているくせに、太ももと腹の傷の痛みは一向に治まらないことに苛立ちを覚えた。
「ん……?」
一番奥、突き当りの部屋。今までの部屋はどれも鍵がかかっていなかったのに、この部屋の戸は鍵がかかっていた。その証拠にいくら引いても開かない。建てつけの問題ではなさそうだ。
玄関から数歩離れ、デミグラスソースの缶を投げつけた。想像した通りの音を立て、ガラスが散らばる。
そして中の鎌錠を回し、戸を開けた。
三和土を上がったところで僕は異変に気が付いた。
ばちばち、としきりになにかが壁にぶつかる音がするのだ。
ここだけ鍵がかかっていたことも含め、この部屋は明らかに他の部屋と様子が違う。「なにかを隠そうとしているカミオカの意思」がはっきりと感じ取れた。
どの部屋も奥に行くにつれ暗闇になっていったが、この部屋の暗闇は質が違う。カッターナイフで綺麗に切り抜いたような漆黒。純真な黒があった。
その先から聞こえるばちばちぶつかる音。そして、仄かに鼻先をかすめる異臭。この先に進むことで、僕は凄まじい後悔をする……そんな気がした。
ふと立ち止まり、カミオカが来ていないか振り返る。気配はしない。
あれから結構な時間が経っている。本当に死んでしまったのだろうか。死んだのならばこんなにびくびくしなくて済む。だが僕は人殺しにはなりたくない。確かに酷い目には遭っているが、同じ目に遭わせてやりたいとは思いつつ殺すほど憎くはない。
気にしている状況ではないことはわかっている。だが、せめて救急車くらいは呼んだほうがいいのではないか。
感覚が死んだ指先をポケットに入れ、スマホを出そうとするがない。下のカミオカの部屋に落としてきてしまったことを思い出した。
「しまった……」
これでは誰かに連絡することができない。もうカミオカが追ってくることはないとは思いつつ、万が一の場合を思うと心臓が割れそうになる。
……あれが届いていればいいけど。
ボクはとっさの判断で作成したメッセージを思い出す。あの状況で送れているかさえ怪しい。
ほんの数十分前の悪夢のような出来事を思い返す。フラッシュバックのようにフェラチオしているカミオカの顔が思い浮かび、思わず叫びそうになった。
この先一生、なにかにつけてあの顔を思い出すのだろうか。そう思うと、人生を棒に振ってでもそれを忘れられるような生活に憧れてしまう。
このまま一生、誰ともセックスできないかもしれないと思った。
闇が近づく。自らの足で進んでいるはずなのに、闇のほうからこちらへ向かってきているような錯覚を覚えた。
なぜ僕はこんなにも恐れているのだろうか。本能的な警告なのだろうか。
ドアの取っ手に手をかける。触った感触で、これまでの見た目通りの作りでないのがわかった。下の部屋と同じく、ここだけ比較的最近作られたというのが。
ドアのすぐ向こうでばちばちという音が近づいている。取っ手を引くと、ガチャリと重々しいを立て分厚いドアが開いた。
直後、顔に生温かな風と細かな粒が顔にぶつかる。あまりの強烈な衝撃に、危うく気絶しそうになった。凄まじい激臭、べったりと顔に張り付くような湿度の高い生ぬるい空気。一体なにが僕の顔に当たったのだろう。
中に入ると明かりは点いていた。ムシっとした空気と鼻をへし折るような激臭で、眩暈と頭痛がする。この臭いはいったい何なんだ。
この部屋だけやけに空調が効いている。しかも、かなり室温を高めに設定しているらしい。外との温度差で耳がおかしくなりそうだった。
脂のまとわりつくような不快な温度と、生ごみのような饐えた悪臭、それにどこか甘い香り。とびっきりに臭い口臭をさらに何十倍も濃くしたような――。
……口臭?
ふっ、と体温が抜ける感じがした。体中の血液が外に放出してしまったと錯覚していまうような、とてつもない寒気。直後、部屋の灯りが点いた。
「ぅぅううわあああっっ!」
半ば強制的に僕の視界を独占したのは、茶色く、ずるずるに溶け体液を床に滲ませた人型のなにかだった。叫びながら頭の中で、それが人間の死体だと遅れて理解した。
それも一体ではない。辺り一面にどろどろの死体が転がっていた。
死体にはカリフラワーのようにもこもこと形作った、おびただしい量の蛆が群がっている。そして、部屋中にはそこから孵化したであろう大量のハエが飛んでいる。
この部屋のドアを開けたとき、顔にぶつかった粒のようなものはハエだったのだ。同時に、開ける前にしていた「ばちばち」という音の正体もハエが部屋の壁にぶつかっていたものだということも。
この世の地獄のような光景に足がふらつく。
自由の効かない片足のせいで、踵が絡まりその場で尻餅をつく。思わず床に手をつくと掌がねちゃりとした液体に触れた。死体から垂れた体液だ。
「ひぃやあああっっ!」
ここまでの生涯で発したことのない悲鳴を立て続けにあげる。再び自分の思考が幾重にも分裂するのがわかった。
手に付いた茶色なのか灰色なのか緑色なのか複雑すぎてわからない醜い色の液体。強烈な異臭を放っている。
……ま、まさか、モニカ……?
最悪の可能性だ。もしも彼女だとしたら、気が触れ、二度と正気には戻れない。
「いいだろ、それ」
背後で声。振り返るまでもなく、カミオカの声だ。
「最近死んだんだ。だからちょうどいい具合になっているだろ」
「さ、最近……」
「ああ、僕の物差しでの最近だがね。日数にして二週間ほどか。嗅ぎ甲斐がある」
「こ、これは……この人は」
「さあ? 歩いてたらいた」
歩いていたらいた? どんな理由だ。人間は猫や虫じゃない。その辺にいたからといって連れて帰っていいはずがない。それに――。
「こ、殺したん……ですか」
「なにが?」
「この人……モニカを殺したんですか!」
「ん? モニカ?」
突然カミオカは笑った。気の済むまで笑った後で、なるほど確かに二週間くらいだなと納得したようにつぶやく。
「安心していい。これはそれじゃない。それにあれもこれもそれじゃない。大体、あの女だとしたらサイズが小さすぎるだろ」
その言葉を受け、咄嗟に溶けた死体を見る。
落ち着いて見れば、確かにカミオカが言った通りどれも大人としては小さい気がする。
「こ、子供……?」
「そうだよ。そっちのはこの間、歩いてたらさ、ひとりでいたから連れてきた」
床に体液で張り付いたアイスの包み紙があった。それと死体を重ね、アイスを片手にカミオカに連れ去られた子供の在りし日が浮かぶ。
「い、一体なんでそんなこと!」
「こどもだと殺すのが楽なんだよ。さすがに飽きてきたがね。大人はしばらくやってない。子供だと手に入りやすいが、あとあと面倒なことが多いんだよな。ほら、親が必死で捜すだろう。警察もそうだ。だから極力子供はやめているんだけど、これの時は衝動的だった」
「衝動的? 衝動的に人を攫って」
「うるさいぞ、お前」
声色が変わる。ようやく振り返り、カミオカの顔を見上げると逆行で顔が陰で真っ黒に潰れていて表情が読めない。
「僕の好きな君は、おしゃべりじゃない。あと、なんでもかんでも聞きたがるのはやめてくれ。気分が悪くなる」
錯乱していても、カミオカが「黙れ」という意味のことを言っているのはわかった。だが自分の口を塞ぐのに使った手。これに付着した体液をもろに顔に受けてしまい、この世のものとは思えない拒絶反応を起こし、その場に嘔吐する。
「いいなあ、そんなサービスもしてくれるんだ。やっぱり、君が好きだ」
げえげえ吐きながら、涙が溢れる目でカミオカを見た。ズボンの上からでもわかるほど、カミオカは股間を固くしている。
それに対する嫌悪感がさらに吐き気を助長した。
「ここに僕が来るの、全然わからなかっただろ。ここは僕の部屋の真上の階だからな。押し入れを改造して階段を作った。頻繁に行き来するためにね。今日ほどそれが役に立ったことはないな」
それにしても……と続けながら、ドアの閉まる音。吐瀉物と死体の体液でぐしょぐしょの顔で見上げる。しまった、閉じ込められた。
カミオカは僕のすぐそばに半壊したラジカセのデッキを置いた。
「あんな女のどこがいいんだ。これで殴った後、すぐに逃げていれば助かったのに。わざわざ二階に上がってまで捜すから手遅れになるんだ」
「手遅れ……?」
「視える?」
「む、虫ですか? み、視えます! 視えますから、たすけ……」
「白けるなあ。視えてないよ。君には閻魔蟲がね」
カミオカが近づいてくる。それから逃れようとするが体液と吐瀉物ですべり、うまく動けない。床にこぼした水で溺れ死ぬのを待つゴキブリのようだ。
ゴキブリのように、僕は殺されるのだろうか。なんの抵抗もできず、つぶされ、体中から中身を飛び散らせて死ぬのか。
「いやだ! そんな……そんなのはいやだ!」
無我夢中でカミオカから逃れようと暴れる。カミオカは飛び散る液体がかかるのも気にせず、正気を失ったような恍惚とした瞳で僕を見下ろした。
「視える。視えるぞ、龍太郎。君はいま真っ黒だ。真っ黒な……真っ黒で大きなエンマ虫そのものだ」
口角からだらしなくよだれを流し、股間をせり上げたカミオカが迫る。
僕は四つん這いになり、犬猫のような体勢で奥へ逃れようとした。その時、少女の死体が横たわる先に、ドアがあることに気付いた。
激痛に痺れ、自由の効かない足を強引に立たせ、ぶつかるようにしてドアに体ごと当たった。ガチガチに震える手で夢中にドアの取っ手を引く。業務用冷蔵庫のような厚いドアを押し開くとそのまま奥へと転がった。
急いで開いたドアを閉め、体重をかける。
……鍵は、鍵はないのか!
取っ手の周りを手で触ってみるが、ここから施錠できるようなものはない。或いは中からなら施錠できるのか。もしもそうなら、完全な袋小路だ。追いつめられるのは時間の問題。
それにこの部屋はなんだ。完全な暗闇に支配されていてどういう場所なのかわからない。不可解なことに窓のようなものもなさそうだ。これまでの部屋の間取りから考えるとここは窓のある部屋なはず。塞がれているのだろうか。
ドアに体重をかけたまま、なにか手がかりはないか手探りで探す。ぺたぺたと手のひらが冷たいドアの表面に当たり、体液と吐瀉物が混ざった悪臭が全身から漂ってくる。
ドアに耳を張り付かせ、中にいるカミオカの足音をうかがう。これだけ分厚いドアだが古いアパートだけにそこ以外の作りは安い。こうしていればカミオカの足音は手に取るようにわかった。
どういうわけかカミオカはすぐに僕を追ってはこなかった。中にいるはずなのに歩き回っているような気配もない。
カミオカがどうしているのかは気になったが、それよりもここから脱出するための手がかりを見つけることが重要だ。
「……!」
伸ばした腕、指先になにか固いものが当たった。よく触ってみると山なりの形をしているのがわかる。体をずらし、その周囲に触れる。どうやらそれは、壁に設置されたスイッチのようだった。
こんなところに付いているスイッチといえば、用途はひとつだけだ。確信した僕は突き出している山なりの部分を押した。
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