第5話
「発見時はねえ、まだ4日くらいしか経ってなかったのと11月頃だということもあって腐食はまだはじまってなかったんだあ」
「ええっ、これ腐ってないんですか!」
デイトが驚いた声をあげ、ジェラシーが顔を引きつらせる。
龍太郎は画面を直視していた。
気付かれないよう、無言でその顔を見つめる。いいな、やっぱり。
鼓動が早く打つのがわかる。血が下腹部に集まり熱を持つのも。
「うっぷ!」
人の形をした蛙の画像を見続けた龍太郎が急に口元を押えた。
「え? ああちょっと、やめてくれよお。水回りは使えないんだから!」
クリーニング済で新しい入居者がまだいない部屋だけに、酒井は慌てた。吐き気を催した龍太郎は部屋を飛び出し、それ以降部屋には戻ってこず外で終わるのを待っていた。
その後、首つり自殺で2週間後に発見されたという物件と、孤独死した中年男性の部屋に行った。
特に後者は家主の経済的都合で満足なリフォームが行えず、微かに臭いが残っていた。個人的にお気に入りの物件だった。
だが酒井秘蔵の事故物件はこんなものではない。この企画が定例化すれば、第二弾、第三弾を決行しても弾切れにはならないはずだ。
龍太郎の吐いた汚物を思い返し、期待に胸が躍った。
◆
サークルメンバーのモニカ。
最近、妙に龍太郎にまとわりついていて、ろくに話もできない。サークルで話ができなくとも、龍太郎とはプライベートで会っているから特に問題はないが。
彼女から龍太郎を引き離すような真似をすれば、たちまちサークル内に広まるだろう。考えるほど今はなにもしないに限る。
それに彼女はサークルにとっても大切な存在だ。無碍にするわけにもいかない。
とはいえ龍太郎も男だ。いつ龍太郎の中で優先順位が逆転するかと考えると、内心肝を冷やす。
思えばあの女に『モニカ』の名をくれてやったのは失敗だった。
せめて違う曲からニックネームを付けるべきだったと、後悔してもしきれない。
吉川晃司の代表たる楽曲にあの女は分不相応だ。
他人に龍太郎の能力を話すのは勿体ない。あれを利用すれば、もっと面白いことができそうだ。そうすれば。
よそう。とにかく、次の内見ツアーについて酒井と打ち合わせをしなければ。それでなくとも酒井は「自分も危ない橋を渡っているから」と、白々しく報酬の上乗せを言ってきた。
いずれそんな話にもなるだろうと思っていたが、予想よりも早く言ってきやがった。
龍太郎のことは気になるが、目下このことに専念せねば。あの話をすれば、酒井も乗ってくるに違いない。奴は儲け話には目がない守銭奴だ。
しかし、ことは慎重に行わなければ。酒井に話すかどうかも状況を見守りつつ、ということになりそうだ。
数日後、都内のカフェで龍太郎と会った。
彼は思いのほか浮かない顔をしていた。
「どうだい。彼女との調子は」
「やめてくださいよ。そんなんじゃないですから」
その表情は照れている、というより本当に龍太郎は厭そうに見えた。
男女として関係が進展しているか、もしそうならどこまで進展しているのか、それとなくそれを探ろうと考えていたが、その必要もなさそうだ。
ふたりは心配しているような関係にはなっていなさそうだ。少なくとも、今のところは。
「たまには気分を変えようって思って、いつも聴く番組じゃないのを聴いたんです」
「なんだ? なんの話だ」
「ラジオですよ。そのラジオで言っていたんですが、吉田松陰は松下村塾で長所を伸ばしつつ己の強みを自覚させる教育を行っていたといいます。そして、松下村塾からは高杉晋作をはじめとする優秀な後継者がでた」
「出し抜けにどうした?」
「わかりませんか。僕にとってカミオカさんは松陰先生のような存在なのです」
付け加えるように、龍太郎はいつもはANNを聴いていると言った。
真意を測りかねて、なんと答えるべきか迷った。
単純に「師匠」と仰ぎたいのか、それとも「落伍者」として見下したいのか。
「だったらお前は高杉晋作か? えらくおいしいポジションを持って行くじゃないか」
「いいえ。僕は高杉晋作なんかじゃありません。まして、伊藤博文や桂小五郎でもない。数多くいた塾生の中の、名もなきいち生徒でしかない。僕はただ師匠の教えに学び、思想に憧れを抱くだけ」
「俺は君の長所を伸ばし強みを自覚させているかい」
龍太郎は抉り込むように深くうなずいた。目はこちらを向いたままだった。
内心、心中は穏やかではなかった。龍太郎の目の奥は濁っていて、生気を感じない。昆虫が微動だにせず獲物の隙を伺っているような、とても「師匠」と仰ぐ人間に向けるまなざしには思えなかった。
……吉田松陰は、後継者こそ優秀な人材を生んだが松陰自身はこれといった成功は収めていない。むしろ度重なる政策の失敗で投獄を繰り返していた人物だ。指導者としての松陰は尊ぶべき人間ではあるが、そういう意味では素直に喜べない。
まして龍太郎がわざわざ名を挙げるくらいなのだから、ストレートに「尊敬している」という念で言っているとは思えなかった。しかし、それもまた自分自身の考えすぎだと反省する。
「貴方と出会い、会話を重ねる度に僕の中の本能が血管のくだから粘膜をまとって這い出して来るんです。僕はこれまでずっと、自分の本能と向き合うことはありませんでした。自分が普通でないことを認めることが怖かったのです。でも、カミオカさんに出会ってから、本能を曝け出すことは恥ずかしいことではないと知りました。僕は、ここにいてもいい。生きていてもいいんだと思えるようになったんです」
「そうか。君の生きがいとして俺やサークルが役に立っているというのなら、それ以上の喜びはないよ。誰しも自分の本能を曝け出すことを躊躇う。特に事故物件なんかを専門に楽しんでいる我らのような変人集団はその辺を誤解されやすい。だからこそ、自由に自分を解放すればいいんだ」
龍太郎は嬉しそうにうなずいた。
龍太郎の半生と現在の状況について聞いた。
なんでも母は今、老人介護施設にいて、父親はすでに他界しているという。
生まれは千葉の茂原。見渡す限りの田園と稲穂色ずく季節に生まれた。兄弟はおらず、龍太郎はひとり息子で両親の愛を一身に受けて育った。
半面、父は躾には厳しく、ことあるごとに烈しく龍太郎を叱責し、時には愛の鞭と称した暴力も受けたという。
幼いころの龍太郎はよく茂原のあちこちにある、旧日本軍の残した掩体壕(ルビ/えんたいごう)でひとり膝を抱えていたという。それも彼が大人になる頃には戦争遺産の名目で立ち入り禁止になった。ともあれ自分も含め、団塊の世代を親に持つ子供にはままある環境だったといえるだろう。それが別段、珍しいというものではない。
その後もごく普通の生活を営み、高校もごく平凡な地元の学校に通った。
大学には進学せず、しばらくは悠々自適なアルバイト生活を送りながら実家で過ごしていた。だが25歳の時に母親が認知症の症状が表れ、介護を恐れて家を出た。
両親の手前、就職を言い訳に上京。同じ時期、すでに東京で電気工事の仕事をしていた須藤に頼み込み、職に就いた。
ちょうど繁忙期の夏前だったこともあり、邪険にされることもなくこの業種に飛び込めたことも幸いだった。3年ほど下積みを経験し、独立。今に至る。
拍子抜けするほどに凡庸な半生。こんなにも変わり者だというのに、頭角を現すようなエピソードなどは皆無と言ってよかった。
ただひとつ、気になることがあるとすれば母親の話だろうか。
「父は他界していて、母は今施設で過ごしています。費用はかさみますが、僕ひとりで介護するのは考えられなくて」
「そうだな、まだ君は若いし、将来もあるからな。年老いた母親の介護に付きっ切りで芽をつぶすのは勿体ない。判断は正しいと思うよ。きっとお母さんもその方がいいと喜んでいるさ」
「ありがとうございます。母親はどうも父が死んだことを理解していないようで、たまに様子を見に行った時も『お父さん、お父さん』としきりに言っているんです」
「つらいね」
「いえ。母がそういう状況なのは今に始まったことではないので。ただ、母が『おいしい肉』と口にするとどうしても思い出してしまって」
「おいしい肉?」
「え?」
「いや、今『おいしい肉』ってお母さんが言うって」
「言ってませんよ。聞き間違いじゃないですか」
「そんなはずない。確かに言っただろ」
「知りません」
龍太郎は頑なに自分が口走った「おいしい肉」という言葉を吐いていないと否定した。
そこに確固たる意思を感じ、それ以上の言及は控えた。結局、なにを思い出したのかも聞きそびれてしまい、安直に突っ込んだ自分を悔いた。
とにかくとして、龍太郎の人生を聞いてやることで龍太郎はさらに多大なる信用を抱いてくれたようだ。その上で唐突な吉田松陰の話が飛び出した、というわけだ。
どこから見ても普通の優男。特別な特徴などなく、髪型や服装にもこだわりもない。話していても柳にうちわを仰ぐように芯を食わない。
エンマ虫が視える能力と、事故物件に対する異常な執着がなければ実につまらない男だ。ただ、そのふたつが龍太郎を異様にしているのもまた紛れもない事実だ。
「今日はありがとうございます。自分のことを喋れて、すっきりしました」
軽く会釈をすると、カバンのストラップを肩にかけこの後用事があると龍太郎は店を出てゆく。「師匠」をひとり店に残して自分だけさっさといなくなってしまった。
苦笑いを噛み殺し、カップに残った冷めたコーヒーを一口に飲み干した。
◇
「今回のテーマは、みなさんご存じ事故物件公示サイト『99番目のお隣さん』による勉強会だ。昨今の事故物件ブームというのはこの管理人ヤベオカから始まったと言っても過言ではないね。元々は個人の趣味で始まったホームページが、今では全国に情報提供者やサポーターがついた巨大サイトに変貌を遂げたのは周知のとおり。出版された著書も数多く、監修という形でかかわったものも数に入れると相当数あるらしい。覆面作家ながらテレビでも露出が多くなり、気付けば怪談番組にも引っ張りだこという、本業とは少しずれたところでも活躍……といったところだね」
そう説明するとメンバーの中から笑いが起こった。
龍太郎もモニカとべったりくっつきながら笑っている。その様子が目に入るたび、癇に障った。
「え~……きたる12月に我が『Owl Night』が主催する事故物件ウォッチャーのためのイベントに、このヤベオカの管理人であるヤベオカさんがゲストで来てくれることになりました!」
今度は驚きの歓声で沸く。龍太郎とモニカは離れない。メンバーたちの歓喜の中で、心だけが乾いてゆく感じがした。
誰のためのヤベオカだと思っている。
「カミオカさん、すごいじゃないですか! あのヤベオカさんを呼び込めるなんて!」
「本当ですよぉ! ええっ、すごいすごい! 今から緊張するぅ~」
サークルメンバーから次々にコメントが耳に届く。興奮して集まってくる様はまるで蛆虫だ。もし自分がエンマ虫なら、残さず食ってやるのに。
苛立ちは止まらず、龍太郎とモニカの距離も縮まらない。こんな気持ちは実に久しぶりだった。
「そういうわけで、来る『99番目のお隣さん』イベントに先立って、勉強会をしたいと思います!」
わああっ、狭いレンタルスペースが揺れる歓声。慌てて静まるように声を上げたところで案の定管理室から職員が「静かにしろ」と駆け込んできた。
平謝りすると、他のサークルメンバーも続いて頭をさげて謝った。
だが、頭を垂れて謝罪を口にする龍太郎らの節々から、「俺たちはすごいんだぞ」というオーラが漏れ出ている。
ヤベオカが来ることに「こんなビッグネームを呼べるサークルなんだ」という傲慢さを身にまとって、気が大きくなっているのがわかった。
当然、そんなことをわかりもしない職員は忠告だけを置いて、再び管理室へと戻っていく。
「みんな、ヤベオカが来ると知ってテンションマックスなのはわかるけど、ここではもうちょっと静かに」
「すみません……」
あちこちから謝罪の言葉が聞こえる。それを手で制しながら「辛気臭いのは抜き。切り替えましょう」と笑った。龍太郎とモニカは離れない。
「孤独死は発見が遅れる。また最近は高齢者の一人暮らしが社会問題になっていて、部屋でひっそり死んでいてもしばらく誰も気付かないことが多い」
「なにがきっかけで気付かれるんですか?」
「そりゃあ、君。わかるだろ? これが事故物件の醍醐味だよ。ずばり、臭いだ」
場がしん、と静まる。この中の誰としてその臭いを知る者はいないだろう。
「季節や温度にもよるが、大体一週間もすれば臭いが漏れ出してくる。二週間すればもうどろどろに溶け、体液がえらいことになる。よほどじゃない限り死後二週間以上が経つことはないが、住民から苦情が来るのはうなずけるほどの烈しい悪臭らしい」
うええ……とだれかのえづく声が聞こえた。情けないやつだ。そういうのは現場でこそ許される。想像だけで気分を悪くするな。
表情に出さず、心の中で愚痴りながらさりげなくえづき声を上げた犯人を捜す。
――ちっ、お前かよ。
手で口を押えている人影があった。間違いない、あの声はこいつだ。よりにもよって。
「モニカ、気分悪かったら外の風を当たって来るかい?」
心配した素振りで言ってやる。本心はこうだ。「早く帰れ」
だがモニカは僕が本当に心配したのだと思ったのだろう。笑って大丈夫だと強がった。
「『ストレンジャー』、高齢者よりも発見が遅れるケース、わかる?」
サークルメンバーの中で比較的古参のストレンジャーに問い掛ける。ストレンジャーは、50代の会社員だ。スポーツをやっていたのか、ガタイがいい。見るからに固そうな胸筋とパンパンに張った腕が手ごわそうだ。
死ねばさぞ臭いもキツいだろう。
「ええっと、合ってるかわかりませんが……私と同じ年代の方でしょうか」
「ご名答。その通り! もっとも発見が遅れるのが50代の、高齢者とは言えないまだ元気な層。それも圧倒的に男性が多い。龍太郎らは周囲の目から見ても若く元気そうなので、まず死の予感がしない。そして、日中仕事をしていると思われているので昼間から姿を見なくても不思議に思われない。だが実際は、仕事もなく金もないのでずっとに家に引きこもり、ひっそりと息を引き取る……。そうして、誰にも死んだことを気付かれずに時間が経つわけだ。そういう人たちは大体が訳アリで仕事をしていないことが多い。その理由は様々だとは思うが、病気だったり、私生活が崩壊していたり、と満足に日常を送れないため引き篭っている。しかも若いから、腐敗した時の臭いも相当すごい」
ドアが閉まる音。反射的に目で追うと、モニカと龍太郎の姿がない。
6
「犬と猫、どちらが好きですか」
深夜のファミレス。龍太郎が出し抜けに訊いた。なにを質問されているのか、一瞬、混乱した。
それを表情から読み取ったのか、龍太郎は「にゃあにゃあか、わんわんか、ですよ」とニタニタと笑いながら言い直した。
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