【短編】ボクと父さんの時雨煮終活
Edy
グッド・タイム
朝テレビのスイッチを入れると、ニュースキャスターが「おはようございます。世界の終わりまであと七日になりました」と言う。
ボクはうなずいた。
「……わかりました」
画面が変わり、スーツの男が衛星映像を使って台風の進路予想を話し始める。
ボクはふっくらと炊かれたご飯を口に運び、続けてタクアンをかんだ。ポリポリとした食感が心地いい。
ちゃぶ台の向こうで父さんはみそ汁をすすり、古いノートをうちわ代わりにして勢いよくあおぐ。背にする壁にかけられた日めくりがはためき、八月七日と八月八日を行ったり来たりした。
「マサル、今何て言った」
「何でもないよ。ただの独り言」
そうか、と父さんは時雨煮に箸をのばした。
「どうしたの、渋い顔して」
「不味い」
そう言いつつも箸は止まらない。白髪だらけの生え際から汗が流れ、頰に刻まれた深いしわを伝った。
ボクも時雨煮をつまんで、ながめる。おとといに牙をむいて突進してきたイノシシを思い出した。どうやらキミは美味しくないようだ。視線を感じながら口に放り込む。少し筋張っているかもしれない。
「どうだ? 何が足りない?」
「ちょっと固いかな」
「それだけじゃないだろ。エグみが強くないか?」
「どうかな。よくわからない。でも次は上手くいくよ。まだ肉はたくさんあるし」
死んだ母さんの味を再現したいと、父さんは試行錯誤している。イノシシの時雨煮が美味かった、また食べたい、と遠い目をしていたのを思いだした。
「今日は台風対策だ。力仕事になるが無理するなよ」
「畑? わかってる。父さんこそ張り切りすぎないでね」
台風か。本当に来るのだろうか? アレがあるのに。ボクは外に目を向けた。
開けっ放しの障子の向こうは縁側があり、その先に父さんの畑がある。長い坂の先は砂浜が広がり、海があるべき場所はブロックノイズが現れては消える、何があるのかわからない壁になっていた。それは視界の端から端まで続き、複雑な模様を描き続けている。
ボクにつられて父さんも外に目を向けた。
「湾の外を見てみろ。波が高い。台風の前触れだ」
「なるほどね」
この世界の主にはそう見えているのか。まったく人の心というものは複雑だ。
父さんは箸を置いて立ち上がる。
「ごちそうさん。先行くぞ。洗い物が終わったら来い」
「すぐ行くよ」
隣の部屋で身支度する音は廊下を踏む音に変わり、玄関がガラガラと鳴る。次に聞こえてきたのは英語の歌。機嫌が良い時はいつもこの歌だ。その歌はセミの鳴き声に溶けていく。残りわずかな命を燃やす叫びに負けじと、テレビの中で気象予報士が台風の強さを伝えようとしていた。話しきった彼が頭をさげると、再びキャスターが登場し、素早く室内を見回す。ボクしかいないのを確認してから口を開いた。
「話があるわ。一度戻ってきて」
「はい」
米粒一つ残さずに食べ終えた茶碗を置き、手を合わせる。その指をこめかみに当てて目を閉じた。
『イグジット』
途端に体の感覚が消えて、戻ってくる。まるで生まれ変わったように感じた。
あたりを見回す。ドアも窓もない殺風景で真っ白な部屋に一人きり。頭に付けられたヘッドギアを外してデスクに置く。三枚のパネルに表示された数値とログをチェック。七日の間にエラーがなくて安心した。
壁の一部がへこみ、音もなくスライドして白衣姿のトモエさんが現れる。
「お久しぶりです。キャスターのスーツ、とても似合ってましたよ。着替えたんですね」
「服はCGよ。本当に着てるわけじゃないわ。でもありがと。あなた、お世辞も言えるのね」
彼女は目を細くしたが、話とは、とたずねると仕事の顔に戻った。
「伝えた通り、彼に残された時間は七日。十日も早まったわ。何かした?」
「いえ。モニタしていたなら知っていますよね」
「もちろん。一応聞いただけ。ただ、不可解なほど衰弱が早まっているのは理解してほしいの」
わかった、と声に出したくないのでうなずく。そんなボクに気を使ってくれたのか、彼女は明るい声に変わった。
「ところで世界の端はどうなってるの? こちらからは見えないし気になってるのよ。それとあなたが記録したデータもちょうだい。他人の心に入るなんてどんな影響があるかわからないし」
ブロックノイズの壁の事だ。父さんの世界はあそこまでしかなく、観測できないのもうなずける。なぜ、壁として見えているのかはわからないが。
「どちらもアップロードしてあります。壁は映像データしかありませんが。あと、せっかく戻ってきたんで父さんに会いたいです」
トモエさんは一瞬眉をひそめたが、もちろん、と頰を緩ませた。
部屋を出て彼女の後を追う。何枚ものドアを通り、たどり着いた部屋は透明な板で分割されていた。トモエさんは足を止めたがボクは仕切られたところまで進む。板の向こうにはベッドが一つ。横たわっているのは父さんだった。
「今は安定してるわ」
ヘッドギアを被せられ、ゆっくりと胸が上下しているだけ。眠っていると老けて見えるが、それでも実年齢よりずっと若い。もう百と二十を超える父さんは、静かに最後の時に向かっていた。
人間は老いから解放されつつあり現在の推定寿命は五百。これからも伸び続けるだろう。しかし、そこまでたどり着けた人はいない。長くて百五十。偉い人が言うには心の寿命らしい。
みんな、目覚めなくなり、死ぬ。
父さんもそうだ。眠り、心の中に閉じこもっている。治療方は見つかってないが衰弱具合から余命が測れるようになっていた。
「あと七日ですか」
ボクは瞬きせずに父さんを見守る。
「そうよ。あなたのやっている事もきっと無駄。今までに成功した事例はないわ。心に入って生きる力を与えるだなんて」
「わかっています」
ゆっくりとトモエさんに向き直った。では、なぜ? 彼女は何度目かわからない問いを口にする。ボクも同じ答えを繰り返した。
「父さんの果たせなかった思いをかなえてあげたい」
それに……。
目の奥がチカチカして頭を振った。今ボクは何を言おうとしたのだろう?
トモエさんは心配そうに顔を寄せてきた。
「大丈夫? あなたも検査した方がいいわ」
「問題ありません。そろそろ行きます。父さんの心へ」
「……そう。ただし彼が死んだら帰って来れなくなる。それだけは忘れないで」
彼女の優しさにボクは頭を下げた。
「ありがとうございます」
「感謝は目的を果たしてから、無事に帰ってきてから、ね?」
「はい。必ず」
ボクは部屋に戻りヘッドギアを装着。ベッドに横たわった。
『ジョイン』
古い日本家屋とセミの声がボクを待っていた。随分と時間を取ってしまった。急いで洗い物を済ませて畑に向かう。
遅い、と怒られたが一生懸命動いて巻き返すと、父さんに、やるな、と言ってもらえた。
夏の日射しの中、穏やかに作業は続く。朝からの機嫌の良さは続いているみたいで、いつもの歌が聞こえてきた。歌い終えるのを待って顔を上る。
「何て曲?」
「グッド・タイムって何世紀も前の曲だ。意味は――」
「つらくても明るくしていたら、きっと上手くいく。そんな歌詞だね」
父さんは目を丸くして顔を上げた。
「驚いたな。いつの間に英語を覚えた?」
「秘密。ボクも一緒に歌っていい?」
「もちろんだ」
歌いながら思う。火星で英語を使っていた父さんが、こっちの世界で日本語なのがくすぐったかったけど、今では日本語の方がしっくりくる。こっちが本来の姿なんだ。
少し近づけた気がして良い気分になる。きっと歌詞通り、うまくいくだろう。
父さんは腰がつらくなったのか、背筋を伸ばして手のひらで顔に影を作る。
「マサル、休憩しよう。」
ボクは増やした支柱にナスを縛りつけながら答えた。
「まだ大丈夫だよ」
「俺が休みたいんだ。お前ばかり働かせていたらばつが悪い。ほら、こっちへ来い」
父さんは水路に手を突っ込み、スイカを持ち上げた。
「美味いだろ」
「こういうのも悪くないね。でも二人で食べきれるかな?」
「残りは持って帰るさ」
二人とも長靴を脱いで裸足になると水路に突っ込み、並んで座った。冷たい流れが足の指の間を通り抜けていくのは気持ち良い。ザブザブと足を振る。
真っ赤で
二つずつ食べ終えたあと、父さんは胸ポケットから煙草を出して火をつける。ゆっくりと吐き出された煙は風に流されて消えた。見つめているのは家の裏手にある山。その横顔が寂しそうで見入ってしまった。その瞳は何を映しているのだろうか? また吸って、長い、とても長い煙を吐いた。
「随分前に大きな台風が来たんだ。俺は畑が心配でな。母さんが止めるのを振り切ってここまで来た。雨と風が厳しかったが一生懸命補強したよ。母さんも手伝ってくれてな」
指示棒代わりに使われた煙草が指しているのは山と山の間。
「その時、あの辺が崩れた。土石流ってやつだな。それに家も畑も飲まれた。俺たちもだ。なんで俺だけ帰ってこれたんだろうなあ」
父さんの声はかすれていた。
その夜、ボクは縁側で壁を見つめる。今朝見えていた砂浜はブロックノイズに飲み込まれ、この世界が残りわずかだと知った。想定より早い。
もしかすると……。考えが正しいか確認したくてテレビの前に座る。
「トモエさん。見ていますか?」
呼びかけに答えたテレビがひとりでに付く。キャスター姿のトモエさんは少し疲れが見えるが、それを感じさせない明るい声だった。
「あなたから連絡なんて珍しいわね。どうしたの?」
「壁の迫りが早いです。残された時間が短いのでは?」
「ちょっと待って、再計算を……うそ、そんな」
台風で全て失い、それでも生きて、たった一人で畑を元の姿に戻したと思った時には相次ぐ異常気象。とても野菜を育てられる環境ではなくなり、失意の父さんは火星へ移住した。
なぜ、この世界がこの時期で、一人きりだったのか理解できた気がする。これは心の自殺だ。
トモエさんは深刻な表情で口を開いた。
「世界の終わりまであと――」
「二日」
あまりにもつらそうだったので言葉を引き継いだ。
「どうしてわかったの?」
「今朝戻った時にデータベースを参照しました。母さんは八月九日零時に死んでいます。この世界での日付は八月七日、いえ、もう八日になりました。あと丸一日ぐらいですね。明日の夜、土石流に全て流されて、父さんの世界は終わる」
「そこまでわかっていて、なぜ行ったの! その世界が消えればあなたの心も消滅するのよ! 今すぐ戻って来なさい!」
ボクはゆっくり首を振った。
「駄目です。まだできる事がある。そう思うんです」
「なんの根拠があって!」
「ありません。ですが鍵はあります」
ちゃぶ台に置かれたままのノートに目をやると彼女の視線もそれを追う。開かれたところは一度も見ていない。しかし、常にここにある、表紙に何も書かれていないノートだった。
「それが鍵? 何が書いてあるの?」
「わかりません。ボクには触れられないので」
手をのばしたがホログラムのようにすり抜けた。恐らく蓋をした記憶なんだろう。知られたくない思いだからボクにはつかめない。しかし、こうして間近にある。本当に隠したいわけじゃないはずだ。
父さんが知られたくないものにボクは手を出せないし、出したくない。だから今までそのままにしてきた。でも……。
その先を考えようとした時、パチッと目の奥が輝き、ふらついた。
「本当に大丈夫? やっぱり他人の心に長く留まるのは危険よ」
「いえ、大丈夫です」
ノートに目を落としたまま続けた。
「ギリギリまであがきたいんです。見逃してもらえませんか」
彼女は答えずに目を伏せた。ボクはそれを肯定と受け止めた。
「わがまま言ってすみません。それと、気づかってくれてありがとうございます。うれしかった。では」
テレビの裏に手を回し、電源ケーブルを引っこ抜く。最後に見たトモエさんの表情が悲しそうだったのが残念で、ボクも少し悲しいと思った。
ボクは縁側に戻ると空を見上げた。地球の一つしかない衛星は白く美しい。少し強くなってきた風を受けて、しばらくながめていた。
翌朝は風が強く、家中の雨戸を閉めるところから始めた。
裸電球が照らす台所で朝食を作る父さんの後ろに立つ。
「マサル、座っていろ。すぐにできる」
「ボクにも手伝わせてくれないか? やりたいんだ」
「それなら、みそ汁を頼む」
「いや、時雨煮を手伝わせてほしい」
また目の奥がパチッパチッと瞬いた。大丈夫。ふらつきはしない。父さんは手を止めてボクを見た。何か言われる前に言葉を重ねる。
「今まで失敗続きだったろ? もしかするとうまくいくかもしれない。あれを見れば」
居間にあるノートを指差した。
「……見たのか?」
「見てないよ。でも答えがあるならそこだと思う。どうかな?」
「見たければ見ればいい。止めはしない」
「一緒に見ようよ」
少しためらいが見えたが、父さんはちゃぶ台の前に腰をおろす。ボクは隣に座る。
ノートに手をかけたまま動かないが、じっと待った。決断するのを。
柱に掛けられた振り子時計がぽーん、ぽーん、と鳴り始め、八回全て鳴り終えた時にノートは開かれた。
それは母さんの日記。毎日欠かさずに書かれていて、一ページ丸々記されている日もあれば、一行しかない日もあり、きれいな文字もあれば、雑な文字もあった。
父さんが相談もなしに模様替えして腹をたてたり、水路で冷やしたスイカが美味しかったり、誕生日に何も言ってくれなくて寂しがっていた思えば、翌日に仏頂面でプレゼントを押し付けた父さんが可愛くて、笑いすぎて涙がでたり、二人の歩みが細やかにつづられていた。
「可愛いってさ」
「母さんの見間違いだ」
「楽しく暮らしていたんだね」
「あんな事になるまではな」
父さんは時々補足を加えながページをめくり、ボクはそのたびに相づちをうった。
時計が十二の音を鳴らし始めた時、そろって身を乗り出す。探していた答えがそこにあった。母さんが残した時雨煮のレシピだ。
「これだね」
「そうだな」
ページの最後に小さく吹き出しがある。そこには『とっても美味いって! うれしい!』とあった。
父さんは
迷ったが、できるだけ優しく、肩に手を置いた。
「手順は覚えた。ボクが作るから続きを読んでなよ」
「……ああ」
次のページに進みながら短く答える父さんをそのままにして台所に立つ。
イノシシ肉をまな板に起き、薄くスライスする。次は沸騰したお湯で煮て、かき混ぜながらアクを除く。ザルに上げたら流水で洗って水気を取る。
次が問題だった。一枚一枚、スジを包丁で入れていく。レシピにはスジの間隔、深さは書いていなかったので困った。少し考えて手作業を続けた。よく笑い、よく怒る、気分屋の母さんなら
母さんはどんな気分で作っていたのだろうか? きっと父さんの喜ぶ顔を想像しながらだろう。鼻歌を歌いながら手を動かしていたに違いない。想像したらボクまで楽しくなってきた。想像の母さんとボクの姿が重なる。気がつけばグッド・タイムを口ずさんでいた。
それが聞こえたのか、居間から父さんの声が届く。
「それはな、母さんの好きな歌なんだ。よく歌いながら料理していたよ。懐かしいな」
ボクは答えずに歌いながら手を動かす。
スジを入れ終えたら、もう一度お湯に入れる。今度は沸騰させずに塩を一つまみ。やはりアクは取り除く。また流水でさっと洗い、下準備が終わった。
台所の小窓を雨が
いい匂いだな、と父さんが台所に来た。腹に手を当ててるところを見るに空腹に耐えかねたのだろう。
「もう少しだから座ってて」
「手伝ってやろうか?」
「なら、みそ汁をやってよ。具材は用意してあるから」
「任せろ」
今朝と逆の役割に父さんは苦笑いした。
風はどんどん強まり、風切り音が聞こえていたが、ボク達の時間は穏やかだった。夕食に近い時間だけど、ちゃぶ台に並べた料理は遅すぎる朝食。
いただきます、と手を合わせたが、箸も取らずにたずねた。
「どうかな?」
「慌てるな」
父さんはいつも通り、みそ汁から手をつける。ひとすすりしたら、お米。次はタクアン。毎日の決まった流れがボクをやきもきさせた。
そして、やっとイノシシの時雨煮に箸をのばす。
じっとその様子をうかがった。
かんで、飲み込み、また箸でつまみ、口に運ぶ。モグモグと動いたあと、目を細めた。
「母さんの時雨煮だ」
「良かった」
ボクはその言葉が聞きたかった。でも予想される次の言葉は聞きたくない。できれば外れてほしかったが、そうはならなかった。
父さんは箸を置いて満足そうにほほえむ。
「ありがとうな。これで、思い残す事はない」
「……そう」
気持ちに区切りがついたのだろうか? 時計の振り子に勢いがついた。針も同じく加速する。
父さんは気にも止めずに、お前は食べないのか、と言った。
「うん。必要ないんだ。それに……」
母さんの味と言ってもらえた時雨煮は刻みネギを乗せて、とても美味しそうに見えた。話すべきか考えていると、父さんは優しくボクを見つめる。
時計が五回鳴った。
「無理に話さなくていい。お前が俺に強要しなかったように、俺もしない」
「いや、話すよ。ボクに味覚を感じる機能はない。……いつから知ってたの?」
「これを食べるまで忘れていたよ。この世界の俺は本物じゃない。火星で死にかかっている。そうだろ?」
ボクはうなずいた。
時計が六回鳴る。
「一つだけ教えてくれ。わざわざ俺のところに来てくれたお前は誰だ? 息子はいってしまった。母さんと一緒に。あの土石流に流されて」
時計が七回鳴り響いた。
「ボクは、
始めて対面した時、笑いながら付けてくれた略称が嬉しかった。ロボットに親はおらず、必要としなかったが、父親とは彼のような人だろうと考えた。
時計は鳴る。今度は八回。
台風が近い。雨戸がカタカタと震え始めた。
「だますような事をしてすみません」
「気にするな。大人になった息子と過ごせたのは俺も嬉しい。ありがとうな。いい気分だよ」
彼は笑った。晴れ晴れとした良い笑顔だ。本当に思い残しがないと理解できた。
時計の針がさらに加速する。九時。
もう行け、帰れなくなるぞ、と言われたが首をふった。
「耐久年数を越えているボクはマスターを失えば廃棄処分になります。このまま、お供させてください」
「そう、か」
十時。
雨戸の震えが強まる。瓦を打ち付ける雨音がはっきりと聞こえだした。
できれば、と言葉を出したかったが、目の奥がチカチカする。ロボットはマスターの決定に逆らえない。これは警告のサインだ。
トモエさんは怒るだろうな、と思いながら警告を無視。
「できれば、ボクは一緒に生きたいです。それがマスターの意思ではないと理解してます」
右目の奥がスパークしたような感覚とともに視界が狭まる。右目の機能が停止した。体がぐらつくが、ちゃぶ台をつかんで支える。
右頰を伝うような感触がある。指で拭うと透明な液体だった。ボクは泣いているのか? その機能はボクにはない。味覚がないのと同じように。光を失った右目からだけあふれて止まらないのは、何かしらの異常が発生したと判断した。
「お、おい! 大丈夫か?」
問題しかない。本体の右カメラアイとバランサーが強制的に切られ、その上、不可解な不具合。恐らく、次はない。
時計が鳴ったがボクの右目には何も写らない。
父さんを安心させたくて笑顔を作った。うまく笑えているだろうか?
「最初で最後の、たった一つのお願いだ。一緒にいたいよ。ダメかな、父さん」
バチン。
時計が十二時を知らせるより早く、父さんの世界が終わるより早く、ボクの全機能は停止した。
――リブート――
――システムチェック正常――
――ハードウェアチェック正常――
――再起動――
どれほどの時間が経過したのだろう? システムアナウンスがボクの中を反響していた。
ここは……帰ってきたのか。あの真っ白い部屋じゃないけど、似たような造りの部屋だ。
ヘッドギアはない。体を起こすと、どこからともなく声が聞こえた。トモエさんだ。
『目覚めたわね』
どことなく怒気をはらんでいたので謝った。
「すみませんでした。迷惑かけましたよね」
『あなたね、本当に悪いと思ってる?』
「はい」
意識的に法を犯したロボットは機能停止する。再起動するためには色々と手続きが必要なはずだった。
「どうやって再起動にこぎ着けたんですか?」
ため息が聞こえた。
『それほど手間じゃなかったわ。心の世界がモニタできなくなって、何が起こったのか客観的なログがないだけ。だから違法行為が立証できなかった』
「そうですか」
『でも聞いたわ。あなたが何を言ったのかを』
誰に聞いたのですか、とは、たずねなくてもわかる。
「会いたい、です」
『そう言うと思ったわ。来なさい。ドアのロックはしていないわ』
「ありがとうございます」
ボクは立ち上がり外へ出た。どこもかしこも代わり映えしない真っ白な通路を進み、父さんの部屋に入る。
待っていたトモエさんに改めて頭を下げた。
返ってきたのは平手打ち。パシン、と乾いた音が響き、彼女は右手を振る。
「大丈夫ですか?」
「痛いに決まってるじゃない! あなたも少しは痛がりなさいよ! これだから旧世代は! でも、これで許してあげる」
「ありがとうございます。父さんは?」
「寝てるわ。あなたが目覚めるまで待ってると言ってたけど、疲れちゃったみたいね」
板の向こう側は薄暗かったが見えない事もない。良く見ようと近づいた。
小さい二つのカメラアイがあるだけのまん丸いボクの顔が反射して見えづらいが、父さんにヘッドギアはなく、こちらに背を向け、腕を枕にしていた。
「良かった」
「そうね、でもこれから大変よ。目覚めた初めての事例だもの。研究者が殺到するわね」
ボクは彼女に向き直った。
「でも、守ってくれるんでしょう?」
「当たり前よ。私が調べるのがまず先。もちろん、あなたも含めてね。それまでは誰にも対面させる気はないわ。そうそう、伝言があるのよ。見る?」
「はい」
トモエさんは手のひらを見せてくれた。そこにベッドに座った父さんのホログラムが現れる。
視線をそらし頰をかいて短く二言。日本語のメッセージだった。
『心配かけて悪かった。これからもよろしく頼む』
ボクは眠っている父さんをもう一度見る。
隣に立つトモエさんの目が細まった。
「どうだった、あっちの世界は? つらい時もあったんじゃない?」
「いいえ。
反射して写るボクの顔は、そんな機能もないのに笑っているように見えた。
終
【短編】ボクと父さんの時雨煮終活 Edy @wizmina
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
同じコレクションの次の小説
関連小説
ネクスト掲載小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます