後編

いつか訪れる破滅を、俺はうすらぼんやりと十数年後のことだろうと思っていた。

そして、それは俺にとって遥か遠い未来と同義語だ。

だから、それは今じゃないとだけ俺は思っていた。


スマートフォンが荒く震える。

それが通話機能によるものだということをだいぶ久々に思い出していた。

わざわざ俺に電話をかけるような人間はいない。

親との連絡はLINEを使っているが、それだって基本はチャットだ。

クレジットカード会社、動画の販売サイト、

それ以外で言えば、俺の電話番号を知っているような人間はいない。

はずだった。

俺はインターネットカフェの自分のブースを離れ、通話スペースに移動する。


「もしもし、伐崎きりさきです。覚えてるかな、高校の時一緒だった」


電話口の先から陰鬱な声が聞こえた。

ただ、どこか浮かれるような奇妙な熱があった。

伐崎きりさきという名前に聞き覚えはない、俺は人の名前を覚えることが苦手だ。

だから、きっと電話口の向こうの彼は真実を言っているのだろうけれど、

俺は何も思い出せなかった。


中学の頃も高校の頃も、俺は女の子にモテた。

大学に行っていたのならば、そこでもモテたのかもしれない。

宝石を身につけるかのように、皆は俺を身に着けたがったのだろう。

俺は誰に告白されても断らなかったし、そこから長くても2週間は続かなかった。


「綺麗なだけだね」

「遠くから見ているだけで良かった」

「後悔してる」

誰が言ったのかはわからないのに、別れの言葉だけははっきりと覚えている。

俺は美しいだけの人間で、それ以外の何一つとして長所を持たない。


俺が人形なら、俺が宝石なら、俺が造花なら、俺が絵画なら、いや猫や犬でも良い。

俺が人間以外のあらゆるものならば、俺は永遠に誰かのものになっていただろう。

ただ俺は致命的に恋人には向いていなかった。

皆が俺を人間として扱おうとしたために失敗した。

そして俺だって俺自身を人間として扱おうとしたために失敗した。


付き合ってきた女の子の名前は当然覚えていないが、顔も覚えていない。

少しは俺に距離が近しかった人間のことを覚えていないのだから、

当然、伐崎きりさきと名乗る人間のことも覚えていない。


電話を切ってしまえばよかったものを、

俺はどうにかこうにか声を絞り出して、久しぶりだねというようなことを言った。

全く覚えていない、かといって誰ですかと聞くようなことも出来ない。

無駄とわかっていながら、俺は目の前の誰かの機嫌を取るようなことをする。

俺だけがそう思い込んでいるだけだし、俺ですらそう思い込むことが出来ていない。


「ああ、覚えていてくれたんだね」

電話口から嬉しそうな声が聞こえる。

申し訳ないな、と思う。思うだけだ。

だから、何かをしようとすることはない。

いや、もう本当は君のことを知らないということに何の意味もないのだ。

俺の人生はこのような小さい後悔と大きな後悔だけを積み重ねて出来ている。


「その……動画見たよ、綺麗だった」

伐崎きりさきは重大な事実を告げるように、ゆっくりと間をあけて言った。

今俺に電話をかけてきている相手が、

女装した男が好きなのか、ちんこの生えた女が好きなのかはわからないが、

少なくとも、そのどちらかであることは間違いないようだった。


「動画のことをバラされたくなかったら、一回で良いんだ、抱かせてくれないかな」


それは俺でもわかるような明確な脅しだった。

問題があるとすれば、俺の人生はバラされるまでもなく終わっていることぐらいだ。

そもそも、伐崎きりさきは誰にバラすというのだろう。

俺の親か、高校時代の同級生か、別の誰かか。


いや――今、はっきりと自覚した。

動画の件がバレたからと言って特に何かを思うことはない。

いや、宣伝になってありがたいとすら思うかもしれない。


「い」を何度も繰り返した後に、俺は「いいよ」と言った。

その後に「バラして」と付け加えた。


「な、なんで」

動揺に満ちた声、そんなに俺の言葉が予想外だったのだろう。

脅してまで俺が抱きたかったのならば、申し訳ないことをしたのかもしれない。

俺は理由を説明しようとしたが、

自分の心の中はどうしても言葉にならなかった。


もしも、電話が音以外のものを伝えられるならば、と思う。

頭をかぱっと開いて、脳をスマートフォンに押し付けてやりたい。

電波を伝って俺の脳は伐崎きりさきのスマートフォンに届くだろう。

そして、伐崎きりさき耳に俺の脳は入り込み、

思考は少しの誤差もなく、はっきりと伝わるだろう。

もしも、そんな技術があれば――俺はもう少し人間に向いていたのかもしれないが。


俺はやっとのことで、いいんだというようなことを絞り出して、通話を切った。

電話は再び掛かってくるのかもしれない、

いや、これで伐崎きりさきは諦めるのかもしれない、

あるいは腹いせに俺の動画は誰かの知るところになるのかもしれない。

だが、俺は奇妙に清々しい気分だった。


俺は人間になりたかったのだろう。

生物としての人間ではなく、社会の一員としての人間に。

何もボロを出すこと無く、友達がいて、恋人がいて、

誰かに尊敬されているような、

少なくとも5年後ぐらいの未来を想像することが出来る人間に。


それでも、それが駄目ならば――人間を辞めたかったのだ。

映像の中の美しい存在として、ただ愛されるだけのものに。

ボロを出すことのない、完璧な存在に。


人形になりたかったのだ。

宝石になりたかったのだ。

造花になりたかったのだ。

絵画になりたかったのだ。


もの言わぬ美しいだけのものに。


切り売りした人生を、自分の分身として誰かの中に住まわせたいのだ。

人間に向いていないのならば、せめて人間以外のものとして愛されたいのだ。


俺の破滅とは、金を稼げなくなることじゃない。未来の消えることでもない。

愛されなくなることだ、動画の中の自分が。

完璧に美しいだけの存在としてある自分が、美しくなくなってしまうことだ。


伐崎きりさき、殺してくれ。

もしも、俺に残された社会性というものがあるのならば、それを殺しきってくれ。

社会生物としての俺の残滓が死ねたのならば、

俺はそれを切っ掛けにして人間を諦めることが出来てしまう。

映像の中でただ、美しくあるだけの俺になる。


役者にもなれない、ホストにもなれない、誰かの愛を受けることも出来ない。

それでも、映像の中でマスターベーションをすることぐらいならば出来る。

それで誰かの情欲の対象になるぐらいのことも出来る。


俺に人生というものを完璧に諦めさせてくれ。

そうすれば、俺は。


電話を切ってからしばらく、通話スペースで俺は高らかに笑い続けた。

本当におかしくておかしくてたまらなかった。

そうしている内に、奇妙に甘ったるい匂いがした。

人生が腐る匂いがしてるのだと思った。

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我が身貪れアメイニアス 春海水亭 @teasugar3g

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