【旅行記】『エリンドルまで我行けり 𐰼𐰤𐰓𐰼𐰏𐰲𐰀:𐰉𐰺𐰑𐰢』

 エリンドルとはエールンドレのことです。異界の遊牧民が訛って呼んだものです。

 本【設定集】の総纏めとして、今までの設定を踏まえ、架空世界の架空旅行記を捏造してみます。

 無文字社会のエールンドレに旅行記を書く者などいません。当然、異界人が異界人の言語で記した旅行記になります。 

 何処かに所蔵されている写本を翻訳したという体裁を取ります。勿論、世界の何処にも実在しない偽書です。



【訳者序】


 『エリンドルまで我行けり Erindr giçe bardim』は正藏院所蔵の写本です。長らく、謎の文字が羅列される未解読の珍本とされてきました。勿論、著者どころか題名も不明の書物でした。そして、存在自体が近年まで忘れ去られていました。使われている文字そのものが不明で、正藏院の目録にも記録し様が無かったのです。

 しかし、平成末年の発見により、漸く日の目を見ることになりました。何と、謎の文字は突厥文字だったのです。これは、敦煌莫高窟で発見された『占いの書 Irk Bitig』と並ぶ突厥文字の写本です。

 そして、令和三年三月に犬坂大学のリポジトリで、『Erindr giçe bardim』という題名で突厥文字の原文と翻字が公開されました。また翌月には転写の試案も公開されました。これで漸く大凡の内容が判るようになりました。

 突厥文字は子音に癖が有ります。子音だけで使われたり、母音を含む音節文字としても使われます。また、語頭の母音「A,e」が省かれることが多いのです。その為、容易に転写できず、未だ試案に留まっている様です。

 このままでは何時、転写の決定版が出来、何時、日本語訳が公表されるのか定かではありません。それまで待ちきれないので、転写の試案を基に試しに自ら翻訳してみました。訳文は、原文の雰囲気を出す為、出来る限り直訳調にしました。

 お目汚しに以下試訳をご覧いただけましたら幸甚です。


※ルビの振られていない漢字も、訓読みして貰えましたら幸いです。



【第一節――吐蕃国(トュピュト)への旅立ち】


 エリンドルまで我行けり。


 我々の先つ祖はエルゲネコンから来たそうだ。高き山々に囲まれた豊かな牧場とそうだ。エリンドルに我は行った。エリンドルもまた高き山々に囲まれた豊かな牧場であった。


 牛の年、我は可汗より勅命(ヤルリク)を下された。我は使者(エルチ)となって吐蕃国(トュピュト)へ向かった。道すがら、俄かに大雪に見舞われた。吹雪で伴を見失い、皆と逸れてしまった。

 吹雪は収まり、雪は止んでも、空は晴れなかった。我は霧の中を迷い続けた。

 霧が晴れると大きな山が現れた。我の行く手を遮った。山肌から滝が流れていた。その下には小さな湖が有った。その畔で休んで、馬に水を飲ませた。


 我は白い峰々を見上げた。滝の上の石造りの砦が見えた。

 我は辺りを見回した。麓から砦まで細い道が伸びていた。長く細い九十九折れの道であった。


 「あの砦で宿を求めよう」と、我は考えた。我は轡を引き、歩いて九十九折れの道を登った。

 緊い坂を上りながら、辺りを見降ろした。飛ぶ鳥も、走る獣も見当たらない。あの砦だけが頼みの綱であった。


 砦の門まで近づいた。すると迎えの者たちが出てきた。顔だちも、身なりも、波斯人(バルシャグ)に似ている。彼らの衣は、我らの衣よりも、体にぴったりとしている。


 我は軽く頭を垂れて申した。

「我は鉄勒人(テュルク)のバルクン・ベグと申す。可汗の使者(エルチ)として吐蕃国(トュピュト)へ参る旅すがら、吹雪に遭い、伴と逸れてしまいました」


 すると、出迎えの者が答えて言った。

「我は此のダルバンド・クルガンの頭(バシ)オスラブと申します。

 吐蕃国(トュピュト)へ赴かれる旅すがら、吹雪に遭い、伴と逸れられたのですね。それは、お困りでしょう。

 鉄勒人(テュルク)のベグ様よ!

 このまま貴方を追い返せば、我が国の恥となり、このまま貴方を見殺しにすれば、我が身の罪となりましょう。

 遠くからの、思いがけぬ旅人を心よりおもてなし致します。どうぞ心行くまで、お留まり下さい」


「これはこれは心尽くしの御申出、真に痛み入ります」

 オスラブ殿の申し出を、我は心より有難く思った。


 我は脂の浮いた肉汁と柔かいナンに有り付いた。我が馬にも、暖かい馬屋と柔かい馬草が与えられた。



【第二節――ダルバンド・クルガン】


 我は暇を告げて旅立とうとした。すると、オスラブ殿は、我を引き留めて言った。

「ベグ殿、今出ていかれても、また吹雪や霧に遭い、再び迷われるでしょう。もう暫らく、ここにお留まり下さい。

 ここで貴方を引き留めねば、貴方を見殺しにするだけです。さすれば、我が国の恥となり、我が身の罪となりましょう」


 我は引き留められた。その夜は葡萄の美酒でもてなされた。我とオスラブ殿は互いに語り合った。


 このダルバンド・クルガンは、エリンドルと言う谷間を守る関である。ダルバンド・クルガンの奥には洞穴が有る。その洞穴を抜けるとエリンドルの谷に出るのだそうだ。

 エルンドルの民は、もともと古の波斯国(バルシャグ)の民であった。大昔、拂菻(プルム)のエレクセンドルという地獄魔王(エルリクカン)によって、古の波斯国(バルシャグ)は滅ぼされた。国を失った波斯国(バルシャグ)の民は、このエリンドルの谷に落ち延びたのだそうだ。

 

 我とオスラブ殿は互いに盃を傾け合い三日が経った。三日目にエルンドレの国主(クワダイ)から使者(ヤラバチ)が来た。

 使者(ヤラバチ)が我が元に来て告げた。

「我が国主(クワダイ)パーディシャーの御言葉を申し上げます。

 『是非とも、遠つ国より、お越しになられた客人バルクン・ベグ様をおもてなししたい』と仰せです」


 エリンドルの汗(カン)である国主(クワダイ)の誘いに、我は快く応えた。エルンドレが如何なるところか楽しみであった。


 ダルバンド・クルガンには、クルガン・バシのオスラブ殿の他に二十人ほどの徒士が居た。誠に善くして貰った。共に、しばしの別れを惜しんだ。


 使者(ヤラバチ)の名はアシュタグ・バスプラガンと言う。バスプラガンとは我らのベグの様な位らしい。国主(クワダイ)パーデシャーのダル・アンダルズベドをしてるそうだ。我らで言う所の侍従長(オルダバシ)である。

 アシュタグ・バスプラガンの導きで、我は洞穴の中に入っていった。洞穴の幅は馬二頭が並んで通れるほどである。その高さは人が馬に乗ったまま通れるほどである。しかし、我らは歩いて洞穴を進んでいった。下は濡れていて馬が滑る恐れがあるからである。

 洞穴の道の名はスラクと言う。スラクの中を松明に照らされながら歩いた。スラクを抜けるまで、恐らく一(ひと)野里(ヨル)は歩いただろう。



【第三節――エリンドルの谷】


 洞穴の道スラクを抜けると、またダルバンド・クルガンが有った。エリンドルの内側のダルバンド・クルガンは、外側のものと殆ど同じ造りであった。十人の徒士たちが並んで我を迎えた。エリンドルの内側は、やや温かかった。風に潤いが有った。


 ダルバンド・クルガンの門を潜ると、素晴らしい見晴らしが目に入った。

 エリンドルの谷は白い峰々を頂く山々に囲まれている。その山々は、エリンドルの民からアルボルズと呼ばれている。縦横四(よつ)野里(ヨル)ほどの広さで、まん丸の形をしている。蒼天(キョクテングリ)は、まるで帳屋(アブ)の屋根裏の様である。アルボルズの峰々は蒼き天を支える柱の様であった。エリンドルの民の考えでは、蒼き天は蒼い石で造られた屋根だそうだ。確かにエリンドルの蒼き天は蒼き宝石(セシュグ)であった。

 切り立ったアルボルズの下の麓は豊かな牧原であった。青々とした草は首を垂れている。遠くに、牛や羊が草を食む姿が見える。厚さ一(ひと)野里(ヨル)ほどである。牧原が輪っかの様にアルボルズの麓を為している。そう広い訳では無いが、これほど豊かな牧場を未だ嘗て見たことが無い。エリンドルの民は、この豊かな牧場をラグと呼んでいる。

 ダルバンド・クルガンの辺りはアルボルズの山背(クズ)に当たる。下り坂の草原には、疎らに樹々が生え、少し残り雪が残っていた。

 ラグの牧場の下には森が広がっている。ここもまた厚さ一(ひと)野里(ヨル)ほどである。森は輪っかになって平らかな野を囲んでいる。平らかな野は、縦横二(ふた)野里(ヨル)ほどである。真ん中に湖が有り、微かに川の流れが見えた。

 森の名はベシャゲスタンと言い、平の名はロドバルと言う。エリンドルの民にとり、ラグの牧は夏牧場(ヤイラク)で、ロドバルの平は冬牧場(クシュラク)である。



【第四節――エリンドルの民】


 エリンドルの民は、我ら鉄勒人(テュルク)と同じく、畜に隋いて水草を逐って生業としている。彼らの馬は、我らの馬より、細身であるが背が高い。雅やかである。我が連れた馬は駿馬(アルギマク)なれど、ずんぐりとして見えてしまう。

 エリンドルの民は鞍や鐙を知らない。馬の背に敷物を敷いて跨るのである。足はぶらりとした儘で、腿に力を入れて馬の背に跨っている。古の鉄勒人(テュルク)も同じ様に鞍や鐙を知らなかったそうだ。鞍や鐙は拓跋人(タブガチュ)から伝わったそうである。


 我は、アシュタグ・バスプラガンの導きで、エリンドレの汗(カン)パーデシャーの幕府(オルダ)へ向かった。我らはラグの牧原を駆け抜けた。草の蔭には、大鼠(スグル)や野兎(タブシュガン)、野猫(サパン)が隠れている。遠くに羚羊(ケイク)の姿も見える。善い狩場である。


 パーデシャーの幕府(オルダ)に着くまで、見かけた帳屋(アブ)の数は二十ほどである。帳屋(アブ)が四つか五つ毎に固まって群れをなしていた。パーデシャーの幕府(オルダ)は、七つの帳屋(アブ)に囲まれていた。恐らくエルンドレの民の帳屋(アブ)の数は、五十か六十ほどではなかろうか。汗(カン)と言っても、百騎頭(ユズバシ)並の騎士(アトルグ)しか集められないのであろう。我が治める民の数よりも少な目である。


 道すがら立ち寄った帳屋(アブ)では、ナン好くが出てくる。小麦で作った焼き菓子も好く出てくる。それぞれの帳屋(アブ)では、山の様に積まれている。ラグの牧では、植えられているように見えない。ロドバルの平で食べきれないほど作られているのであろう。

 ダルバンド・クルガンで徒士たちはロドバルに住まう民らしい。徒士たちも、馬には乗れることは乗れるが、馬の背で剣や槍を振るったり、欲しい儘に矢を放つ技は使えないそうだ。

 ロドバルの平では、デフベドとかビスベドとか呼ばれる代官(トドン)が民を治めているそうだ。これらの民は奴隷(クル)や奴婢(キュン)ではないらしい。田畑を耕し、果物を育てて生業を為しているそうだ。

 ラグの高原より目を凝らすと、湖の北の畔に町が一つ見える。冬を過ごすオルドバルクらしい。丸い石壁に囲まれているようだ。村らしきものも微かに見える。数十と言った所だろう。ロドバルの民の家の数は千は下らないだろう。



【第四節――パーデシャーのオルダ】


 パーデシャーの帳屋(アブ)は大きく華やかであった。しかし、鉄勒人(テュルク)のベグの帳屋(アブ)ほど華やかではない。

 オルダの入り口には髭面の益荒男(アルパグト)が六人並んでいた。やはり、エールンドレの民は波斯人(バルシャグ)に似ている。鉄勒人(テュルク)と違い、髭が濃く、顔の彫りが深かった。

 アシュタグ・バスプラガンに付いて、オルダの入り口を潜った。

 パーデシャーは年若く未だ髭も生えていない。まるで女の様な顔をしている。女の様に膝を立てて坐っている。周りの小姓(オグラン)も、パーデシャーと同じく、女の様であった。オルダの中は香(イパル)が焚かれ、甘い匂いに包まれていた。


 我はパーデシャーの前で首を垂れて敬った。そして、暖かく迎え入れてくれたことを有難く思っていることを伝えた。

「この度、道に迷っている所、エールンドレの民に助けていただき、厚くもてなされたこと、誠に痛み入ります」

 パーデシャーは鈴の鳴る様な声で答えた。

「旅人に手を差し伸べるのは、当たり前のことです。貴方に手を差し伸べなければ、我が国の恥となり、貴方を見殺しにすれば、我が身の罪となりましょう。どうか、お気になさらないで下さい。どうぞ、貴方の家と思って、思うが儘にお寛ぎ下さいませ」

「温かきお言葉、誠に有難く思います」


 そして、我をもてなす宴が開かれた。肉や焼餅、様々な果物、葡萄酒が運ばれてきた。肉は脂が乗り、焼餅は芳ばしく、果物は瑞々しく、葡萄酒は濃かった。鉄勒人(テュルク)の糧や酒よりも旨かった。

 パーデシャーは酒を嗜まなかった。パーデシャーは小姓(オグラン)と共に舞い、我の目を楽しませた。


 パーデシャーは我にも出し物をするように勧めた。我は舞も歌もコブズも嗜まなかった。外に出て弓の技を披露した。

 エリンドルの益荒男(アルパグト)たちも、我も彼もと腕比べに加わった。

 エリンドルの益荒男(アルパグト)たちの弓の技も、なかなかであった。必ず的の真ん中に矢を当てた。

 しかし、我が強弓(こわゆみ)を以て矢を射ると、的ごと打ち砕いた。的は真ん中から、真っ二つに割れた。

 エリンドレの民たちは驚いた。我より背が高く、肩寛き者でも、我が強弓(こわゆみ)を引けなかった。

 パーデシャーは小鹿の様な眼を爛々と輝かせて我を見つめた。我も思わず童に恋をしそうになった。パーデシャーはエリンドルの女たちよりも美しかった。



【第五節――パーデシャーとの恋】


 宴が終わると、パーデシャーは人払いした。我とパーデシャーは二人きりになった。

 鉄勒人(テュルク)には、波斯人(バルシャグ)の様に童を愛でる習わしはない。異国(とつくに)のパーデシャーを払いのける訳にもいかない。エルンドルの民にも、エルンドルのパーデシャーにも、とても善くして貰った。何しろ、パーデシャーは女よりも美しい。しなを作る様は女そのものである。さて、どうしたら好いものだろうか?


 パーデシャーは甘い匂いを伴いながら、我に近寄って来た。我の腕に抱き着いた。我の腕にパーデシャーの胸が触れた。柔らかく温かかった。

 パーデシャーは長い睫毛を瞬かせ、我の顔を覗き込んで言った。

「バルクン様、何を驚いてらっしゃいますか?」

「パーデイシャー様は女子(おなご)であらせられましたか?」

「バルクン様、今まで私を男子(おのこ)とお思いでしたか?」

 パーデシャーは、クスリと笑って我に抱き着いた。


 そうして我とパーデシャーは夫婦の契りを結んだ。


 何故、パーデシャーが女と気付かなかったのであろうか?

 鉄勒人(テュルク)の女とて、男とそう変わりない身なりをしている。思い込みとは誠に可笑しきものである。見えてる筈の物事が見えてないのである。

 しかし、もしも、パーデシャーが男子(おのこ)であったとしても、臥所を共にしていたかもしれない。


 パーデシャーの名はペリーバヌグと言う。

 我はペリーバヌグの影に様に寄り添った。やがて、ペリーバヌグは我が子を身籠った。エルンドレの民も、鉄勒人(テュルク)の猛き血を受け継ぐ子供が産まれることを喜んだ。やがて、ペリーバヌグの胎は月が満ちる様に大きくなった。

 パリーバヌグは大きなお腹を抱えて言った。

「今宵にも、貴方の子は産まれるでしょう。私は独り離れた産屋に籠ります。側仕えの者すら一人も随けず、私独り籠って子供を産みます。それが、この国の習わしなのです。

 貴方も決して産屋の中を覗かないで下さい。私が産んだ子供を連れてくるまで、しばしお待ちください。何が起ころうとも、決して覗かないで下さい」

 我は答えて言った。

「鉄勒人(テュルク)とて、男が産屋に立ち入る習わしなど無い。獣が子を産むのは見たことが有るが、人が子を産むところなど見たことが無い」

「それでは、産屋を覗いてはなるぬこと、忘れないで下さいましね」

 我は当たり前のこととして頷いた。


 オルダから離れた所に産屋は張られていた。誠に誰一人随かず、ペリーベヌグ独りだけで産屋に籠った。

 考えて見れば、エルンドルの習わしは少し変わっていた。子を産むときは、産屋に手伝いの女も随くものであった。産屋の外に随いて待つ者すらいなかった。


 日が暮れ、夜空に星々が輝いた。ペリーバヌグの苦しむ声が聞こえた。かなり離れているのに聞こえた。側仕えの者たちも、その声を聴くだけで、決して動こうとはしなかった。

 ペリーバヌグの喘ぎ声が我が耳に響いた。何時までも絶えることなく耳に響いた。

 始めは、産みとは、そういうことなのだと割り切っていた。鉄勒人(テュルク)ならば、子を産むときに付き添う女たちがいる。だから、気にせずに、任せきることが出来た。

 しかし、ペリーベヌグは只独りきりである。これを気に病まずにいられようか?

 ペリーバヌグの叫び声は益々大きくなっていった。しかし、男の出る幕ではない。

 ペリーバヌグの叫び声は更に大きくなった。まさか、独りでいる所を獣にでも襲われたのだろうか?


 我は気が気ではなくなった。腰元たちが止めるのも聞かず、我は飛び出した。気が付いたら、産屋の前にいた。思わず、産屋の帳を捲ってしまった。


 我は腰を抜かした。中に居たのは大きな蟒蛇であった。産屋の中で蜷局を捲いている。愛しいペリーバヌグを助けるべく、我は匕首を手にかけて産屋の中に立ち入った。

 すると、頭の上からペリーバヌグの声が聞こえた。

「あれほど見るなと申しましたのに、貴方は誓いを破りましたね」


 蜷局を巻いた蟒蛇はペリーバヌグの体であった。ペリーバヌグの腰から下は蟒蛇であった。ペリーバヌグの腕には玉のような赤児が抱かれていた。

 ペリーバヌグは大粒の涙を流しながら言った。

「もう貴方とはお別れです。再び会うことは無いでしょう。別れる前に、この子に名をお与え下さい。男の子です。貴方の様な益荒男(アルパグト)になるでしょう」

「その子の名はエルドニとしよう。

 其方の真の姿を見て驚いた。だが我の其方への気持ちは変わらん。何故、別れねばならぬ」

「それは物事のことわりなのです。私と貴方の気持ちが通い合っても変えることなど出来ないのです」

「我の気持ちは変わらぬ。決して其方を放すことなどしない」

「貴方は誓いを破った。それでも、私とて貴方への気持ちは変わりません。永久に貴方のことを忘れたりしません。

 でも、定めを変えることは出来ぬのです。せめて貴方の思い出として、貴方の形見を私にお与え下さい。そう、その貴方が手にした貴方の匕首を」

「ならば、我にも其方の形見として、其方が肌身離さず身に付けていた匕首を望もう」

「わかりました」

 ペリーバヌグは頷いた。


 我とペリーバヌグが其々の匕首を取り換えた。すると我の目の前は真っ白になった。霧の中に包まれている様だった。霧の中に愛しいペリーバヌグの姿を見失った。



【第六節――目覚め】


 目が覚めると温かい帳屋の中であった。

 すると聞き覚えのある声が耳に入った。

「バルクン様、お目覚めですか?」

「・・・お主は?」

「バルクン様は、この奴がれのことをお忘れですか?」

「えっーと、コムックか?

 久しぶりであるな。幾月幾年経っている?」

「バルクン様、何を御戯れを仰ります。吹雪の中、逸れてから一日も経っておりません」


 あれは夢だった様だ。

 善い夢だったのか?

 悪い夢だったのか?

 一日も経たぬと云うのに、夢の中で一年も過ごしたような気がした。


 我は、吐蕃国(トュピュト)への使いを果たして故郷(ユルト)に戻った。

 ある時、匕首を手にした。見慣れぬ形をした匕首であった。だんだんと何かを思い出した。思い出すと、心の中に虚しさが込み上げて来た。

 それは、夢の中でペリーバヌグから貰った匕首であった。夢では無かったのだ。

 それから、我は何もかもが虚しくなった。


 死のうと思った。戦に出た。死を顧みず戦に臨んだ。我は手柄を立てた。我の名は高まり、富も増えた。しかし、名や富は心の虚しさを埋めることは出来なかった。

 ある時、僧侶(トズン)と出会った。悟りを開けば、心の虚しさを埋められるだろうと教わった。国を捨て、民を捨て、家を捨て、我も僧侶(トズン)に成った。

 再び、吐蕃国(トュピュト)を訪れ、エルンドルを探した。幾ら探しても、エルンドレは見つからなかった。

 エルンドレを探し、彷徨う中に、タブガチュの国に辿り着いた。タブガチュの国でも、エルンドレは見つからなかった。

 我はタブガチュから海を越えジャバルガに向かった。


 ジャバルガの山も川も風も、エルンドレには全く似てなかった。しかし、何処となく似ていた。

 我はジャバルガの僧侶(トズン)から、紙と筆を譲り受けた。そしてエルンドレで見たことを紙にしたためた。


――鼠の年に書き終えた。



 以上、伝奇ものの様になってしまいました。


 鉄勒系の人間から見たエールンドレでした。地名や人名は鉄勒語訛りになっています。意味不明なルビは全て鉄勒語です。


 (歴史ものを含む)異世界ファンタジーの雰囲気作りには様々な工夫が有ります。一番手っ取り早いのは挿絵ですが、絵が巧いからと言って、必ずしも異世界の雰囲気を復元できるとは限りません。それは絵師の仕事なので、これ以上の言及は止めておきます。挿絵の次に雰囲気作りに効果的な工夫は言語です。その異世界の設定に沿った言語や用語を使うことです。文章を巧く書く以上に重要なことだと思います。その趣旨に従い、本設定集では、態々意味不明な用語を乱用しました。


 これにて『【古代~中世ペルシャ風異世界】エールンドレ』は完結ということにします。

 誤字や細かい間違えを見つけたら、随時訂正します。


【解説】


※オスラブ ⇒ フスラウ


※クルガン ⇒ 要塞のこと。ディズに相当する語彙。


※野里(ヨル) ⇒ テュルクの距離の単位で約六粁、フラサングと同じである。


※ペリーバヌグ ⇒ ペリーバーヌーグ


※ゾロアスター教の価値観では魔物フラフスタルと看做される蛇が登場する所が味噌です。サルマルドの母シャーマーラーンとは、蛇の王と言う意味です。サルマルドの妃アーバーンドフトは、水の娘と言う意味です。しばしば、蛇は水や豊饒と結びつけられます。

 エールンドレの設定を使用される方は、宗教上の矛盾など気にせず、自由に話を作って好いと思います。

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【異世界設定資料集】貴き落人の御圀――エールンドレ(Ērndore) 犬單于 𐰃𐱃 𐰖𐰉𐰍𐰆 @it_yabghu

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