ユキと幸介
第1話 ユキと幸介
この世に生を受けた時点で運命というものは粗方決まっているのかもしれない。
伊波幸介は、どこにでもいる普通の男の子としてこの世に生まれた。警察庁長官というキャリア組の頂点として働く父親と、デザイナーとして国内外を問わず活動の幅を広げる母親。そんな二人の間に生まれた幸介は、周囲からの期待と羨望の眼差しを浴びながらすくすくと大きくなった。
幸介は幸せだったのだと思う。両親共にそれぞれの分野の第一線で働く人間であったためずっと一緒にいられるわけでは無かったが、三歳で大学までエスカレーター式に繋がっている名門校の幼稚舎を受験し見事合格を決めた幸介は、確かに傍から見れば恵まれていた。受験のための勉強は大変だったけれど、「流石私たちの子だ」と笑う父と「頑張ったわね」と優しく抱きしめてくれる両親を見ていると、遊ぶのを我慢して塾の先生に叱られ続けた日々のことなんてどうでもよくなってしまう。
しかしそんな幸せは長くは続かなかった。いや、本当は最初から幸せだと思い込んでいただけなのかもしれない。
「……おとうさん?」
「ああ、幸介。これから暫くこの人たちが家を出入りするからね。私が居ない間は彼らに色々教えてもらいなさい」
「はい、分かりました!」
忙しい立場である父が家を空けるのはこれが初めてでは無かった。しかし家に仕事先の人間を連れて来るのはこれが初めてのことで、自分を見下ろして微笑む若い男たちに少し緊張しながらも幼い幸介はぺこりと頭を下げて挨拶をした。
「幸介くん」
一緒に父を見送った後、男たちの中でも一際優しそうな笑みを浮かべた男にそう呼び止められた幸介が慌てて後ろを振り返ると、男は幸介と視線を合わせるようにしゃがみ込んでこう言った。
「お母さん、どこにいるか知ってる?」
今思えば、この時点で幸介は気付くべきだったのだろう。目の前で薄い笑みを浮かべる男たちが、明らかに警察の人間ではない雰囲気を纏っていたことに。
広い家の中を小さな身体で一生懸命案内した幸介が、二階の母の自室のドアの前で男の顔を見上げたとき、男はもう幸介に対する興味などとうに捨て去っていた。いや、そんなもの最初から存在していなかったのだろう。彼らの求めていたものは、親の言いなりになってちょこまかと動き回る小さな餓鬼ではなく、若く美しい母だったのだから。
普段からの母との約束通りその扉をノックしようと手を伸ばした幸介を突き飛ばしたのは、今まで黙って後をついて来ていた男のうちの誰かの太い腕だった。ようやく幼稚舎の年長組になったところの子供がそんな力に敵うはずもなく、幸介はあっさりとその場から吹き飛ばされて勢いよく壁に背中を打ち付けてしまった。
「っ、痛……!」
驚きと痛みで幸介の瞳から溢れる大粒の涙。するとその泣き声が聞こえたのか、母の部屋の扉がガチャリと音を立てて開いた。
「幸介……?あなたたち、幸介に何をっ、」
そこから幸介がはっきり覚えているのは、幸介に向かって手を伸ばした母が男たちに引き摺られるようにして部屋の中へと連れて行かれる姿だった。男の大きな手で口元を押さえられた彼女は懸命に腕や足をジタバタと動かしながら痛みに蹲る小さな幸介をじっと見つめていた。
絡み合う視線を断ち切るように閉まった扉にかけられる鍵の音。母を助けなければいけないと思いながらも、扉の向こうから聞こえてくる彼女の泣き声と叫び声に幸介は嫌々と駄々をこねる子供の用に首を振りながら自分の耳を押さえて身体を丸めることしか出来なかった。
一体どれくらいの時間が経っただろうか。ゆっくりと開かれた扉に、幸介は呆然としながら立ち上がった。部屋の中から出てくる男たちはみんな幸介を面白そうに眺めながらも足を止めることなく廊下を歩いて行く。
「……おか、」
部 屋の奥で動いた影にそう声を掛けて、幸介は動きを止めた。そこにいたのは確かに母だった。幼稚舎に通う他のどの子供たちの母親よりも若く綺麗な母が、その白く滑らかな肌にたくさんの痣と傷の花を咲かせて冷たい床に這い蹲っていた。
「お、お母さん!」
「やめて!」
震える足で母の元へと駆け寄って伸ばした手に奔る鋭い痛み。それが母に叩かれたことによるものだと気付き驚いて母の顔を見やると、彼女は今まで幸介が出会ったどんな人よりも悲しく恐ろしい瞳で彼を睨み付けていた。
「……お母さん?」
「……っ!幸介、ごめんなさい、私、幸介……!」
ペタンと尻餅をついてもう一度小さく母へと呼び掛けた幸介に、彼女はハッと目を見開いてその大きな瞳からポロポロと涙を零しながら傷ついた身体を引き摺って幸介をギュッと抱きしめた。ただただ静かに泣き続ける母に何も言うことはできなくて。
同じ人間とは思えないほど冷え切った母の身体からは、幸介の知らない匂いがした。
父の言った通り、男たちはそれから約半年の間幸介の家で好き勝手に生活していた。しかし彼らが一体誰なのか、父とどういう関係なのか幸介が知ることは無く、母の部屋からは毎日のように泣き叫ぶ声が聞こえていた。
男たちは幸介に「誰かに話せばお母さんがもっと悲しむことになるぞ」と言いながら毎朝大きな黒い車で幸介を幼稚舎まで送り届け、夕方になると迎えにきた。まるで逃げる隙など与えないぞとでもいうように。先生とにこやかに話を交わす男に「そいつは悪い奴なんだ」と言いたかったけれど、母の白い肌に浮かぶ痛々しい傷跡を思い出しては黙って唇を噛みしめた。
長い間家を留守にしていた父が帰って来たのは、幸介が幼稚舎を卒業した後のことだった。正義の印である紺色の制服に身を包んだ父の隣で相変わらず薄い笑みを浮かべる男たちを指さし、幸介は「こいつらは悪い奴なんです!」と叫んだ。これで全てが終わる。お父さんが悪い奴らをやっつけてくれる。そう思った瞬間、父の大きな手が幸介の頬を殴りつけた。
「何を言っているんだい幸介。失礼だろう。謝りなさい」
「でも、こいつらは母さんにひどいことをしたんです!」
もう一発。今度は先程よりも勢いのある一発で、幸介の視界がちかちかと点滅する。
「うちの息子が申し訳ない。少し家族で話をしたいのですが」
「そうですね、折角久しぶりの家族水入らずだ。邪魔する訳にはいきませんよ」
男たちが家を出て行ってから、父はその場に座り込んでいた幸介の首根っこを掴むと荒々しく二階へと上がり、母の部屋のドアを開いた。以前よりもずっと痩せてしまった母が驚いた顔で立ち上がろうとしたところを襲う、父の逞しい腕。何が起こっているのか分からなかった。お父さんはずっと昔に言っていたのに。自分は警察で一番偉いのだと。だからこの世の悪い奴はお父さんがやっつけてやると。そう、言っていたのに。
その日から父は変わってしまった。彼は仕事から帰って来る度に母に暴力を振るい、時には幸介の前で彼女を犯した。
見たことのない表情で見たことのない声を上げて泣く母が、幸介は只々怖かった。女としての母の姿は幸介にとってひどくおぞましく、同時に言葉では言い表せない類感情を彼の中に植え付けた。
変わってしまったのは父だけではなかった。父が帰ってきてから、母は幸介のことを幸と呼び始めるようになり、自身の立ち上げたブランドの女児用の服を好んで着せるようになった。ピンクのワンピースに、エナメルのバレエシューズ。ふわふわのシフォンスカートに、可愛らしいデザインのシャツ。
そして幸介が初等部へと進んだとき、彼女は女子生徒用の制服を買い与えた。勿論そんな恰好をしている男の子は幸介だけで。家へ帰った幸介が「男の子はみんなズボンを穿いています」と告げると母は気でも狂ったかのように彼を殴りつけ、それからそっと抱き締めた。
「幸は女の子として生きるの。そうすれば幸せになれるから」
それがあの頃の母の口癖だった。彼女の中から幸介という名の息子の姿は消え、代わりに幸という娘が現れたのだ。伊波幸介は殺された。彼の実の母親によって。
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