第17話 S病院の職員
2009年、46歳の祥子は小学校六年生の娘とS県湖上に打ち上げられる花火大会を見に来た。湖面に設営される観覧席はお弁当代付き、一人一万円は下らない高額席である。
子供と鑑賞するには少々贅沢だったかもしれなかったが、夫は混雑する場所を嫌うために、結婚以来一度も花火観賞をしてこなかったこともあり、娘に一度は見せてあげたいと思っていたので、小学生最後の夏の想い出として奮発したのだ。
湖面の設営場所へは船に乗っての移動となるため、舟乗り場に並んで時間を潰していた。周囲はシニアの夫婦や若い恋人同士が多かった、そのなかで娘と会話しながら時を過ごしていた時、知らない同世代の男性が祥子を見た途端、ハッとした表情を呈し
「幸せにくらしているんや・・・」と言い、付け加えて
「きっと輝幸も喜んでいると思う」と言った。
その時の祥子は輝幸という名前を聞いても、誰の事なのか思い当たる節もなく、人違いだと思って、
「輝幸さんという方は全く知りませんよ、人違いですよ」と言っていた。するとその人は少々苛立ちながら、
「ニキの事や」と言い捨てるように言った。
「ニキさんという方も知り合いにはいませんよ」と言うと、その人は憤るように
「知らんなんて、なんて冷たいことを言うねん、アイツは死んでしまったというのに」
「えっ、その方は亡くなられたのですか?」と聞き返すと、その人は唖然とした表情で
「本当に知らないの?」と聞き直し、
「はい」と答えると、俯きながら小さな声で
「幸せならそれでいい」とだけ言い残し、同伴者の方へ向きを戻した。
祥子に声を掛けた男性はおそらく、S病院内では輝くんとは親友に近い関係にあったと推測できる、もしかすると、
「生きていてくれて良かった」と輝君に声を掛けられた時に、輝君の隣にいた人だったのかもしれない。輝君は親友にさえも、婦人科での出来事を打ち明けなかったようだ。それにより病院内では祥子と輝君が特別な関係、つまり恋人同士のような関係であり、輝君は祥子が標本扱いされていることに耐えきれずに自殺したのだと誤解されていたようだ。
偽りの看護実習慰労会の席で、祥子がニキという名の男性について認識がないということは白田さんや看護主任さんに確認されていて、事務長にも伝わっているはずであるが、そのことは上層部の胸の内に留まっていたようだ。また盗撮写真には誰かの手が写っていて、その手がニキ君の手かもしれないと、白田さんと看護主任さんは察したようであるが、そのことも踏まえてS病院は隠ぺいしていたことになる。しかし、悲劇的な恋の結末だと勘違いしている職員達の口を塞ぐことは出来なかったようだ。
2012年、祥子が49歳の時、高校のバスケット部の4学年合同同窓会があった。各学年の幹事達は事前に打ち合わせの会合をしていたと聞いている。一学年先輩の幹事はS病院医事課の森口さんだった。祥子は受付にいる森口さんに軽く会釈をして、受付をすませてから、祥子達学年の幹事役のゆう子と合流した。するとゆう子の口から
「S病院で働いていたことがあるのでしょう」と聞かれたので
「短期間だけ、産休の先生の代わりに臨時教員として実習指導に行っていたよ」と言うと
「そのとき祥子はS病院内で人気者だったらしいね」と言ったのだ。その時は何を意味するのか見当がつかなかったが、意図を知った今、ゆう子の底意地の悪さを改めて思い知らされた。
ところで、ゆう子からの質問の続きに戻ると、
「S病院内で人気者だったらしいね」と言ったゆう子の腕を、隣にいた同級生が肘で突いて言葉を制している。祥子の被害のあらましを、先にゆう子から聞いていたに違いない。肘で言葉を制しられたゆう子は話題を変えて質問してきた
「S病院の人と交際してたの?」
「してないよ」
「でも、祥子に好意を抱いていた男性はいたんだよ」
「いや、ありえない、知り合いは誰もいなかったもの」そう言うと、ゆう子は
「森口先輩はS病院で働いているんだよ」と言って、受付の森口先輩に視線を向けた。祥子も森口先輩に振り向き、
「そういえばS病院で見かけましたよね」と声を掛けた、すると、森口先輩は目を逸らして、そわそわしていて返答は貰えなかった。S病院内で祥子に目を合わせなかった時と同様に今もまた目を逸らすのだ。森口先輩は祥子のことは避けているが、打ち合わせの会合の場では祥子の話題を提供していたようだ。さぞかし盛り上がった事だろう。この様にして性被害者は何かと話題にされ続け、拡散され、性被害者というレッテルを張り続けられるのだ。そして時折意味深長な言葉を投げかけられてきたのだ。過去にはこんなに酷い言葉を投げかけられたこともあった。
祥子が35歳、結婚3年目で2歳の第一子とゼロ歳の第二子を連れて、夫とS県の淡水魚水族館へ行った時の事、入場前に湖面の広場で家族写真を撮っていた時に知らない男性二人に、ハッという表情をされ、夫が離れている隙に、薄ら笑みを浮かべながら、突然こんな失礼なことを言われた。
「あんたは貞操のない女やねんで」すると、もう一人が、
「このこと旦那にゆーたろかな~、即離婚されるで」二人はその言葉を繰り返した。
こんなセリフを面白がって言うノリは、S病院の食堂通路の群がりの中から、祥子に喋りかけてきたノリとそっくりだ、そんな最低な人間が今もS病院で働いているかも知れないのだ。
しかし、この時の祥子にはさっぱり意味が分からず、突然見ず知らずの連中に、不愉快な気分にさせられたのである。売られた喧嘩は買うという勢いで言い返している。
「失礼な人やね、夫に言いたいことがあるなら、言えばいい」
そう言って、夫を手招きして
「この人ら、言いたいことがあるらしい」と言った、夫はこちらに向かってくる、
近づいて来た夫に向かって、祥子は付け加えて
「私は貞操のない女なんやて!」
それを言った途端、近づいていた夫は背を向けて、
「そんな奴、ほっといたらええ」と言って、二人連れから遠ざけた、祥子は夫の背に向かって
「だって、私が知りたいもの、聞いてよ」と言ったが、夫は広場へと進み
「写真撮るで、三人でそこに立って」と促す、祥子は第一子と乳母車に乗っている第二子と共に湖面を背にして立った、しかし祥子の視線は奴らを追っていた。
「ほら、こっち向いて、笑って」と夫は促す、
現在57歳になった祥子は陰鬱な気分に陥るかもしれないと思いつつも、淡水魚水族館で撮った写真を探した。何故なら湖面を背景に撮った写真の背後には、二人の男が写り込んでいるかも知れないと思ったからだ。もし二人の姿を見つけたとしても、何の役にも立たないことを分かってはいるが、その男たちに軽蔑の眼差しを向けたかったのだ。
しかし、幼かった子供たちの写真を目にすると、いつしか心は穏やかになり、二人連れの男などどうでも良くなった。二年前に過去が見え始めて鬱々としていた時、夫から
「気分転換になるかもしれないから、楽しかった頃の写真を見てみれば」と勧められたことがあり、独身の頃の写真を見たことがある。しかしその時はカメラに向かって笑顔でポーズを取っている自分を見て滑稽に思い、鬱々した気分は更に暗い淵に沈んでしまったのだ。しかし今は子供たちの笑顔に癒されている、そして感慨に耽りながら子供の成長をながめていると湖面を背景にして撮った写真が目に入った。それは、爽やかな風の中に笑顔いっぱいの祥子と子供たちが写っていて、幸福さに満ち溢れていた。写してくれた夫の腕前に感心しながら祥子は気づいた。被害に気づかないまま過ごしてきた祥子は滑稽かもしれないが、子育てに支障をきたすことはなかった。また子供達の大学受験も終わっていたことに胸を撫でおろし、過去の蘇りは今だったから良かったのだとつくづく思った。
二年前、最初に過去が見え出したときは家族を気遣える余裕などなく、発狂しながら見えているもの聞こえて来る声を家族にぶちまけていた。そんなとき子供達は自室に入ってやり過ごし、夫は同じ話題なら一度は耳を傾けてくれた。もしも子供がまだ幼子だったとしたら、感情を押し殺すしかないが抑えきれるはずもなく、自分も子供も壊れていたかも知れないのだ。
祥子は自分の運命は悪意の人間の手により屈辱の中に放り込まれたが、神様なのか仏様なのかは分からないが、見えない手により守られていたのではないかとふと過り、二人の存在が浮かんだ。
「貴女の幸せを祈らせて貰うわ」と言ってくれた人、幸子さん
「生きていてくれて良かった」と言ってくれた人、輝幸さん
「生きていたら幸せな家庭を築かれていたでしょうに、私のせいで輝君の人生を途絶えさせてしまって御免なさいね、なのに幸せに導いてくださったことを心から感謝しています。」
「墓に手錠を手向けたい」のエッセイ賞は落選だった。しかしの批評ではうらうらナンバーワンと記してもらえた。理由は大病院を倒産に追い込むかもしれないほど危険な内容で、掲載するにはセンセーショナル過ぎるとのことだった。
しかし祥子は、S病院は祥子に謝罪したいのではないかと思っている。祥子の事をきっかけに地域住民が安心して利用できる病院を目指して邁進していると思いたい。
〈完〉
「婦人科」ー墓に手錠を手向けたいー 梶木冴氣 @kajikisaki_57
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
同じコレクションの次の小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます