第2問 クレタ人のパラドックス、もしくはウソもホントもない観察者とその友人について


『すべてのクレタ人はウソしか言わない』と、あるクレタ人が言った。この発言はウソかホントか?

 ホントだとする。クレタ人はウソしか言わない。しかしこの発言をしたのもクレタ人だから元の発言もウソだということになる。おかしい。

 ウソだとする。クレタ人はウソツキではなく正直者だ。すると『すべてのクレタ人はウソしか言わない』という発言もホントでなければいけないはず。おかしい。

 ウソと考えてもホントと考えてもおかしくなる、だからこの発言はウソでもホントでもないのだ――


「――って解説されることもあるんだけど、それがウソなんだよね」


 あまり立ち寄ったことのない校舎の隅、同好会活動の見学に訪ねた会議室でのこと。

 楽しそうに語ってくれたのは、数学同好会の会長である音無おとなし有理ゆうりさんだ。聞いていてどこか落ち着く、安心する声をした人だ。ともするとわざとらしい、ちょっとあざといような言動や仕草が不思議と様になる、これまで出会ったことのない印象の人だった。


「ウソというか、単なる間違いというか……」


 ノートに何か書きながら呟くように訂正をしたのは三崎数人みさきかずとくん。同じく数学同好会の会員で、やや険のある顔をした背の高い男子だ。クラスは違うが同じ一年生らしい。こちらは見るからに覚えのある陰の気を発していたけれど、上の学年である有理さんと物怖じせずに会話していたあたり、コミュ障タイプではなさそうだ。

 机の上に広がっているのは授業の課題だろうか。有理さんが話している間も三崎くんはずっと机に向かっていたが、有理さんは特に気にしている風でもなかったし、体育会系的な上下関係とは無縁の関係のようだ。


 以上二名。水越高校数学同好会の会員はこれですべてだそう。


 数学が好きな高校生がこの世に存在しない以上、数学同好会なんて名前の会が小規模団体であることは容易に推測できるところではあったけれど、はっきりと『ここは数学を扱う会ではない』とまで宣言されてしまったのはさすがに予想外だった。数学への苦手意識については別にそこまで深刻に悩んでいるわけではないし、見学もかなり軽い気持ちだったのだが、こうもあっさりと出鼻をくじかれるとさすがにたじろがざるを得ない。ちなみにもし数学が好きな高校生が存在するとしたらそこはこの世ではない。


 数学を扱わない数学同好会。それではいったい何をやっているのかと聞いてみれば、有理さんと三崎くん、二人が密室(意図的誤用)で雑談を交わしているだけだそうで。それはそれで興味深いシチュエーションではあったけれど、このとき私の興味をより強く引いたのは交わされている雑談の内容の方だった。


素子もとこちゃんはこのパラドックス聞いたことある?」


 有理さんがこちらにも振ってきた。初対面だったのだが、ごく自然に下の名前で呼ばれた。


「たぶん。クレタ人のパラドックス、っていうやつですよね」


 何度か本で見たことがある。どこの国の人かは知らないが、ここまで嘘つき代表のように扱われているクレタ人はそろそろ怒ってもいいと思う。いや、クレタ人がウソついてるとするとおかしなことになるんだけど。

 しかし有理さんは『ウソでもホントでもない、という解説の方こそがウソ』と言った。どういうことだろう。


「ホントと考えてもウソと考えてもおかしい気がするんですけど」

「一手ずつ考えてみよっか。『すべてのクレタ人はウソしか言わない』、これがホントだとする。発言がホントなら、クレタ人はウソしか言わないのだから、クレタ人によるこの発言もウソでなければおかしい。これは明らかに違うね。元の発言はホントではない。じゃあ、ウソだとしたら?」

「裏返しになるんじゃないんですか? 『ウソしか言わない』がウソなんだから、すべてのクレタ人は正直者ってことになるはずで、なのに元の発言がウソなのはおかしい」

「ううん、そこが落とし穴。『すべてのクレタ人はウソしか言わない』のウソ、つまり否定は、『すべてのクレタ人は正直者である』じゃなくて、『ホントのことを言うクレタ人が存在する』なんだよ」


 ……んん?


 なんだかいきなりややこしくなったけれど、有理さんの言葉を追いかけるように咀嚼する。

 ウソ、というか、否定。『すべてのクレタ人はウソしか言わない、わけではない』という解釈だろうか。『ウソしか言わない、わけではない』は、ええと……『ウソも言うし、ホントのことも言う』かな? だから、『すべてのクレタ人はウソしか言わない』がウソだとした場合、有理さんの説明によればその意味は……


『クレタ人はウソも言うしホントのことも言う』


「……すごく当たり前のことを言ってるだけですね」

「そう、当たり前のこと言ってるだけなんだよ」


 クレタ人は嘘つきではなかった。逆転勝訴だ。いや、クレタ人のパラドックスはやっぱり風評被害だったということになるのかな?


「『すべての日本人はウソしか言わない』って私が言うのと同じだよね。なんなら『私はウソしか言いません』でもいいよ。もちろんどっちもウソ。私はホントのことも言います。それでおしまい、パラドックスなんてどこにもなかった」


 おじゃん、という感じに手を広げる有理さん。

 なるほど。解説されてみると得心のいく話だ。私はこのパラドックスをなんとなく言葉遊びのようにとらえていたけれど、じっくり観察してみると論理的に踏み込める奥行きを持っていたわけだ。知的好奇心の充足、というとやや大げさだけれど、知らなかった物事の構造を理解できた気になるのは純粋に楽しい。


「『私はホントのことも言います』って、それはそれでなんかウソっぽいですけど」

「あはは、虚実入り混ぜるのは詐欺師の常套手段だよねー。それじゃ、クレタ人のパラドックスと似た感じで、こんな発言はどうかな。『私はウソを言っています』」

「……? えっと、今しがた『私はウソしか言いません』って言ってましたけど、それはウソでしたよね。同じ理屈でウソってことになるんじゃ」

「ウソでもホントでもないです」


 刺すような低い声がした。三崎くんだ。ノートに目を落としたままだが話は聞いていたようだ。というかそれより、


「え、でも、ウソでもホントでもないっていうのは間違いだってさっき」

「……それはクレタ人のパラドックスの話。いまの有理さんの発言とは別物」


 ちょっと逡巡してから、ややぶっきらぼうに答える三崎くん。同級生の見学者という微妙な立ち位置の客との距離感をつかみかねた感じの調子だった。


「別物って……えっと、『私はウソしか言いません』がウソだとすると『私はウソしか言わない、というわけではありません』になるでしょ。で、『私はウソを言っています』は……」


 ……『私はウソを言っている、というわけではないです』? なんかおかしな日本語だ。これはもう単純に『私はホントのことを言っています』と言い換えていいだろうか。しかし『私はウソを言っています』のウソが『私はホントのことを言っています』だとすると、これはホントのことを言っているわけがないのでおかしいことになる。そしてもちろん、『私はウソを言っています』がホントということもない。

 ウソと考えてもホントと考えてもおかしくなる、だからこの発言はウソでもホントでもない……っていう解説がウソだったわけじゃんさっきは!


「……すみません、ウソでもホントでもおかしそうなことは分かったんですが、『ウソでもホントでもない』が最終的な答えでいいんですか?」

「うん、何も問題ないよ。クレタ人のパラドックスに対する『ウソでもホントでもない』っていう解説が間違いだってだけで、『ウソでもホントでもない』文章は存在するし、それが答えになってもいい」


 なんかミスリードに引っかかった気分だ。


「『ウソでもホントでもない』文章というのは?」

「えーとたとえば、命令文や疑問文がそうだよね。『アイスを食べろ』、『これはアイスですか?』みたいな。それから、意味のない文章。『アイスの二次関数は優しい』とか『アイス屋の掘削機は地獄がスケールの形而上学的に8ミリ上です』とか、ホントともウソとも言えないでしょ?」


 アイスが食べたいのだろうか。今日は別にそんなに暑くないけど。


「ウソでもホントでもなさそうだ、ってことまでは分かるけど、そこから『ウソでもホントでもない』がれっきとした一つの答えなんだ、っていう気持ちにはなかなかなれないよね。数人くんは知ってたみたいだけど」

「まあ、自己言及系のパラドクスは定番ネタですし」

「じゃあこんなのはどう? 『私はウソもホントも言ってません』」

「それなら――」


 ……そこからの二人の会話は意味不明だった。

 有理さんが短い文章を言う。三崎くんはその発言がウソかホントか検証する。また有理さんが別の文章を言う……その繰り返し。有理さんの提示する文章は細かい言い回しが違っているだけで出てくる単語はほとんど同じなのに、三崎くんが出す結論はなぜか次々と入れ替わっていく。ほんの短い文章のウソとホントをめぐってどうしてこれだけ丁々発止のやりとりができるのか。どれだけ理屈を広げるのか。何度か質問をしたがとても追いつけなかった。


 今さらだが、クレタ人のパラドックスは実はパラドックスでない云々の話に私が興味を持ったのは、これは小説のネタになるかもしれないと思ったからである。

 私は文芸部に所属しており……その、なんというか、自分でも小説を書いている。ミステリもどきの、なんか……とにかく、書いているのだ。うん。

 ミステリ小説というのはロジックを扱うものだから、こういうパラドックスとかとの相性は悪くないし、実際に作品のフックとして出てくるのをしばしば見かける。だから何かの参考になるかなと思って二人の会話に参加してみることにしたのだけれど……。


「クレタ人がこう言ったとしたら? 『クレタ人はホントのことを言わない』」

「ホントではないですね。……クレタ人の誰かが一度でもホントのことを言っていたら、ウソです。言ってなければウソでもホントでもないです」

「場合分けが必要なんだ? それだと、パラドクスかどうかさえ未確定になっちゃうね」

「文章のウソとホントを検証しただけで『クレタ人の誰かが一度は絶対にホントのことを言っている』と言い切れることの方がおかしいでしょう」


 手に負えない。

 想像以上だった。

 これ、ガチの論理学的なやつでは?

 この辺りまで話が進むともはや質問をはさむ気にもならず、見学者をよそに楽しそうに議論する二人のことを眺めるくらいしか私にできることはなかった。


 ……楽しそうに?

 ああ、うん。

 楽しそう。

 自然と、そう思った。


 相変わらず三崎くんは机に顔を落としたままで、有理さんが一方的に語りかけているかのような格好だ。それでも有理さんの表情には警戒のない笑みが浮かんでいたし、応える三崎くんは淡々としているものの声に嫌そうな調子はまるで感じられない。この二人にとってはなんでもないような会話で、日常なのだろう。



――『本質的な問いだね。私たちはなにをやってるんだろうね数人くん?』

――『俺は先輩との会話に付き合ってるだけなんで聞かれても困ります』

――『私と数人くんが会話してるだけみたいだよ』



 なるほど。本質的な問いには本質的な答えが返ってくるらしい。


「……ところでいいんですか有理さん。見学者、ほったらかしですけど」

「っと、ごめんごめん。数人くんの反応が良すぎてつい夢中になっちゃった」

「言い方」

「いえ、私にはお構いなく……それより」


 二人が交わしている議論の中身も、理解が伴えばきっと興味深いものなのだろう。いずれ本当に小説のネタになるかもしれない。しかし今、私の中で強くふくれていたのはもっと単純な、この二人のことを近くで見ていたいという欲求だった。


「ときどき顔を出す感じでもいいでしょうか。よければ、入会したいんですが」



   ◇◇◇



 数学Ⅰ、数と式。式の展開、因数分解、実数の範囲。実数は大きく二つに分類でき、そのうち整数、循環小数など分数で表せるものを有理数、それ以外を無理数という。

 これはただの授業の復習だが、教科書に太字で強調されたその文字列を認めて反射のように走った思考に、私はしばらくシャーペンを持つ手を止めてしまった。


 有理数。


 音無有理、三崎数人。


 なんか、カップリング表記みたいな………


 っていやいや、何を考えてんだ私は。昨日会ったばかりの人同士でNLカップリング妄想とかさすがに失礼すぎるでしょ。そりゃ二人とも仲の良さとは違うところで息ピッタリな感じがあったし、並べたらけっこう見栄えしそう……有理さんはそのまま美人だし、三崎くんも第一印象はちょっと怖いけど背が高くて容姿は整ってて爽やかイケメン系とはまた違うカッコよさがあるし。なんだなんだ結局顔か? 否定はしないけども。でも押せ押せでアプローチを仕掛けてくる有理さんに対して少し面倒そうにするけど邪険にあしらったりせずちゃんと付き合ってあげる三崎くんの姿を想像するの超容易、ベリーイージーだな? しかもあの二人、他に来る人もいない教室で毎日のように駄弁ってるわけでしょ。あの空気感で過ごすことがデフォルトになってるわけでしょ? なんというか、必ずしも恋愛方面に進まなくていいから二人でイチャついてほしい、あわよくばそれを最前席で眺めていたい、そう思わせる尊さが――って、いやいやいやいや。


「そんなに首振ってどうかした?」

「どうもしません!」


 反射的に答えてから振り向く。後ろの席の然凪さなが不思議そうな表情で――いつも通り口元はほとんど動かさず、眉の位置と視線と顔の動きで表した感情で――こちらを見ていた。


「なんか、妄執を振り払ってる動きだった」

「妄執て」


 淡々と然凪が言う。

 遠からじ、ってかほとんど正解だけど、さすがに詳細を話すわけにはいかないので、短く答えてごまかす。内心の自由は憲法で保証されている。


 四時限目の数学が終わり昼休みに入った教室だった。

 四月も末、入学しておおよそひと月も経つこの頃には、クラスのみんなの昼休みの行動パターンはだいたい確立されていた。

 仲良しグループで集まる人、購買に急ぐ人、他のクラスに向かう人、さっさとご飯を食べて自分の世界にこもる人。

 私の主な行動パターンは『後ろの席の友人と一緒にお昼を食べてそのままおしゃべりして過ごす』だ。


 然凪は高校に入ってから出来た友人だ。名簿通りの席順で列の最後尾とその一つ前、前後の席になった縁で話しかけてみたら波長が合ったというかなんというか、会話のテンポみたいなものがバッチリで心地よく、それからもついつい話しかけるようになって今に至る。こう書くと私が付きまとっているみたい、みたいというか外形としてはそうなのかもしれないが、然凪の方から拒絶のオーラを感じたことはないので遠慮せずに甘えることにしている。


 雑なごまかしだったが然凪はそれ以上深追いしてこず、学校指定のカバンからお弁当箱を出した。私も出しっぱなしの教科書や筆記用具を片付けて、菓子パンと紙パックの牛乳をコンビニの袋に入れたまま取り出した。登校中に買っておいたものだ。椅子を後ろに向けて袋を床に置く。両方とも手に持てるから机をくっつける必要はない。一つの机だけはさんで向かい合うこの形は好みだ。距離が近いから目の保養になる。然凪は美少女なので。

 美少女……なのだが、何かが引っかかる。なんでだろう。然凪は昨日までと同じく美少女だ。パリッとしたまつげに支えられた鋭さを感じさせる眼を中心に整った容姿。落ち着いた雰囲気を醸し出しているのに揺れるポニーテールと無防備にのぞくうなじがそこだけやけに少女的でかわいらしい、天然モノのやつである。基本的に無表情だが、この容姿で笑顔を振りまこうものなら性別問わずイチコロになるのは必至なので、然凪がクール系キャラであることに世界はもっと感謝した方がいい。社会的評価や周囲の目を気にすることなく顔の良い美少女を思う存分眺めているときだけは女に生まれてよかったと心底思う。ありがとう神様!

 で、私は何に引っかかっているんだろう。デジャブというやつか?


 然凪は手を合わせると小さく「いただきます」とつぶやいて、ご家族の手作りだというお弁当に口をつける。箸の使い方やご飯を口に運ぶ動きや姿勢やと、いちいちの所作が見ていて気持ちいいくらいに整っている。育ちがいい、というやつか。菓子パン片手にストローに口をつける私とは正反対だ。


「……何か顔についてる?」


 と、私の視線に気づいたか手を止めた然凪が聞いてきた。しまった、不躾に眺めすぎたか。


「あっごめん別に。然凪は今日も美少女だな~って思ってただけ」

「そう」


 お弁当に戻った。塩対応だ。いやこれは然凪と仲良くなってからことあるごとに本人の前で美少女美少女言ってきた私が悪い。そりゃ反応も薄くなる。

 しばらく眺めていても引っかかりの正体はつかめなかったけど、そんなに大きな違和感でもないのでそのまま呑み込むことにした。


「そういえば前に話してた部活の見学だけど。部活じゃなくて同好会か。数学同好会。昨日見学に行ってみたんだけど、数学の勉強する会じゃなかった」

「ふうん。何してたの」

「イチャ……じゃなくて、なんだろ、雑談? なんだけど、その内容がかなり理屈っぽい感じで。えっと……」


 昨日交わされていた会話の内容を思い出しながら、ひとつ、問題を出してみることにした。


「『私のこの発言はホントではないです』」


 それだけ言って返答を待つ。然凪は小さく口を動かしながら考えるように目を伏せた。私のこの発言だけで、これが問題であることに気付いたようだ。さっすが。

 わずかの思考時間ののち、形のよい薄い唇が開いた。


「……矛盾、かな」

「おお」


 すごい。一発正解。


「ちなみにそれは、どうしてそうなるのか聞いても?」

「……ホントなら、『ホントではないです』はおかしい。ウソなら、発言は『ホントです』の意味になって、でも前提はウソだからおかしい。、元々の『ホントではない』という発言がホントになってしまうから、おかしい。全部おかしいから矛盾。合ってる?」


 昨日の私が味わった第二の落とし穴だ。

『ウソでもホントでもない』文章は存在するし、ウソと考えてもホントと考えてもおかしくなるときは『ウソでもホントでもない』が正解の場合もある。が、なんとさらに、というのだ。


 知らんて。


 有理さんの解説によると、『ウソでもホントでもない』と考えてなおおかしいときは、文章自体が矛盾を含んでいるのだそうだ。『私は身長が160センチあるが、150センチより低い』『恐竜は絶滅したが、まだ生き残っている』『昨日まんじゅうを食べたが、食べなかった』。矛盾した文章というのはいくらでも作ることができて、それのウソやホントを考えるとどうやってもおかしなことになる。


 混乱するのが、矛盾した文章と意味のない文章は別物、というところだ。矛盾した文章はウソやホントを考え出すとおかしくなるが、意味のない文章はそもそもウソやホントという判定を受け付けない。これらをごっちゃにとらえてしまうと『ウソでもホントでもない』という判定の意味がよく分からないことになってくる。


 それにしても、


「うん、完璧。理由もそれで合ってると思う」


 私の頭で追いつける地点まででさえ、有理さんと三崎くんの会話を自分なりに理解するまでそこそこ時間がかかったのだが、然凪は引っかけのような問題に一発で正解した。きちんと理由付きで。さすがだ。


 然凪を一言で表すなら容姿端麗だけど、二言目が許されるなら頭脳明晰と続くだろう。

 なにせ入学式で新入生代表の挨拶を務めた実績がある。あれ、入試の成績が一番良かった人に声がかかるらしいから、つまりそういうことなのだろう。ウチの高校はバリバリの進学校ではないけど偏差値はそこそこ高く、受験者のレベルは地域の中ではトップクラスのはずだ。そんな中での一位合格だとすれば、然凪自身のレベルも推して知るべしだ。論理的思考力というか、こういうパズルみたいな問題も解けるのだから、単に勉強ができるというだけでなく地頭がいいのだろう。


 ……入学式で黒髪ロングの美少女が新入生代表として体育館の壇上に立ち挨拶したわけだ。フォーマルな場では髪はくくらないらしい。言うまでもなくストレートもめちゃくちゃ似合っていた。新入生代表挨拶を誰がやるかなんてほとんどの生徒は知らないわけだから、あの場にいた人間の10割は挨拶の内容よりも突然壇上に現れた美少女にくぎ付けになったことだろう。そうでないやつは10割に含まれないため人間ではない。


「こんな感じの問題を会長さんが出しまくって、それを会員の男子がバッサバッサとなぎ倒してくの。正直途中から全然理解できなった。すごかったよ」

「ふうん。なんか、小説のネタに使えるの? そういうのって」

「あ、分かる? 私もそれ期待したんだけど、今の私には手に余るかなってレベルだった。でも面白そうだったから入会の希望はしたよ。手続きとかまだだけど」

「入会届みたいなの書くんだ」

「然凪は見たことないっけ?」

「帰宅部だから私」

「そっか。入部届の流用らしいねー。今日の放課後に有理さん、その、会長さんから用紙もらうことになってる」


 ちなみに、同好会と部活動の兼部が校則上可能なことは見学の前に調べてある。


「然凪は? もう四月も終わるけど、やっぱり部活には入らない感じ」

「多分。家の方が落ち着く人種だし。積みゲーも全然消化できてないし」

「積みゲー」


 一般的に美少女とはミスマッチとされそうな略語が出てきた。


「この前も週末セールで日本製の大型タイトルが安くなってたからって親が積みゲー増やして。プレイする時間ないくせにね。ありがたくやらせてもらうけど。でも最近は私も『Among Us』に時間吸われすぎてて。そういえば昨日、ちょっとおかしなゲームがあったんだけど、聞いてくれる?」

「ああ、ハイ、どうぞ」

「ありがとう。えっとね」


 わずかに頷いてから、然凪はすっと息を吸って、


「『Among Us』っていうのは宇宙船で人狼やるみたいなゲームなんだけど。七人中二人がインポスター、人狼でいう狼で、私がインポスターだった回でね。適当にアリバイ作ったりサボタージュ起こしながらウロウロしてて、ベント入ってみたら原子炉でもう一人のインポスターとクルー二人がタスクやってるのが見えて。これはベントから登場して確定黒と示せば証拠隠滅のためにダブルキルに動いてくれるだろうと思って出て行って近くのクルーをキルしたら、相方のインポスターは何もせずにそのまま原子炉から出て行っちゃったの。キルクールタイム中だったのね。私も慌てて現場から離れて、少しも経たないうちに残りのクルーが死体発見通報。これはまずいと思っていたら、通報したクルーは原子炉にいた相方が怪しいっていうのよ。タスクやってて私がベントから出てくるの見えてなかったんでしょうね。相方は反論したけどそのまま吊られちゃって、生存4の2噛み1吊りでゲーム続行だから黒確が出ちゃった形で。ゲーム自体はそのあとクルーの視野では死角になりがちなポイントでキルしてからサボタージュで時間稼いで死体発見させないままクールタイム待ってもう一人キルして勝てたんだけど、相方からすれば絶対目撃される状況でいきなりベントから出てきたやつが自分に黒なすりつけて去っていったわけでしょう? だから申し訳ないことをしたなあって反省してた」


 淀みなく喋ってから、私の反応を待つことなくお弁当のプチトマトを小さな口へと運んだ。


「へーソウナンダー」


 1ミリも理解できなかったがとりあえず相槌をうつ。

 容姿端麗、頭脳明晰、顔が良けりゃ頭も育ちも良い後ろの席の友人について付け加えるべき重要な要素がもうひとつある。


 然凪はゲーマーだ。


 ゲーム以外の趣味らしい趣味もなく、家にいる間はもっぱらゲームをして過ごしているのだという。なんならクラスメイトとの付き合いよりゲームを優先する根っからのインドア派だ。人付き合いが苦手というか我が道を行くタイプというか。詳細な経緯は省くが、新入生代表挨拶を務めた美少女とかいう男子も女子も目を付けそうなハイパー優良物件を入学からひと月足らずで私がほぼ独占できているのもその辺りに由来する。


 私はゲームをやらないので然凪の話している詳しい内容は理解できないのだけれど、どうやら然凪はかなり手広い範囲の作品を、どれもそれなりの練度でやっているらしいということが最近になって分かってきた。読書でいうとミステリだけでなくホラーもSFも純文も恋愛もラノベも国内外問わずで読んでいる濫読派のようなものか。岩波やブルーバックスも範囲内かもしれない。どのくらいすごいのかはゲーム知識のない私には分からない。


「……やっぱり興味ないよね。ごめんなさい」

「いやそんな。相槌しかできないけど私でよければ全然聞くから遠慮しないで」


 然凪がどことなくしゅんとした様子になった(勘)ので慌ててフォローする。

 正直、興味のある話題かといえば首を振るけれど。それでも然凪がここまで夢中になって話してくれる数少ないトピックだ。話の中身そのものより、然凪が(比較的)楽しそうに話している様子こそが私にとっては嬉しいものなのだ。


「私だって、然凪があんまり読まないの知ったうえでよく本の話するし。お互い様だよ。あっ、それとも私の話いつもつまんなかった……?」

「ううん、そんなことない。私、素子が本の話するの嫌いじゃないよ」


 なぐさめておきながら急に不安にかられた私に、然凪はなんでもないような顔で否定を重ねてくれた。


「好きなもののこと話してる時の素子、とっても楽しそうだから。それを見てるのは、わりと楽しい」


 …………相思相愛じゃん(?)


 なんてことだ、趣味がまったく合わなくても友だちになれることを証明してしまった。やっぱり大切なのはリスペクトの精神なんだなぁ、などと私がひとり感極まっている間にも然凪はお弁当を食べ終え「ごちそうさまでした」と手を合わせていた。空になったお弁当箱を布で包みなおす。


「……それにしても毎日すごいよね、それ。お父さんの手作りなんでしょ?」


 以前聞いたところでは、お弁当を用意しているのは然凪のお父さんとのことだった。愛されてるなぁって感じがする。まあ自分の娘がこんだけ可愛けりゃ溺愛もするか。


「ん。手作りっていっても、けっこう冷凍食品とか数人かずとの作った夕飯の残り物とか入ってることあるし、お父さんはあんまり料理はしない方かな」

「ふーん……んんん?」


 いまなんて言った?


「……数人?」

「うん? うん」

「えーっと、然凪のお家ってたしか、お父さんと、お兄さんと、然凪の三人家族なんだったよね」

「うん」

「そのお兄さんって、もしや然凪と双子だったり?」

「ううん」

「だよねー、そんな偶然……」

「年子」


 そっちかー!


 頭の中で浮いていた違和感のピースが高速であるべき場所へとはまっていく。いやうん、昨日会議室で三崎くんが名乗ったときちょっと気にはなったんだよ。でも同じ学年だから関係ないなと思っちゃったのだ。然凪の顔に引っかかりを覚えるわけだ。あらためて意識してみればどことなく顔のパーツの特徴が似通っている。二人ともカッコいい系の整い方だし。


「お兄さんもこの高校に通ってる?」

「アキネイター? うん」

「年子ってことはギリ同学年?」

「うん」

「……数学同好会の会員?」

「うん」

「知ってたんじゃんっ!」


 薄々そんな気はしてたけどね!


「えっなにこわい。どうして言ってくれなかったの」

「聞かれなかったし、会に対する素子の見方のノイズになるかなと思って」

「それはまあ否定できないけど」

「それに」

「それに?」

「教えない方が面白そうだった」

「それが一番の本音じゃない!?」


 ふふ、と、笑みがこぼれる。

 デフォルトの無表情からわずかに頬をあげて然凪が笑っていた。

 ずるい。そんな顔されたら私は絶対に勝てない。パブロフの犬のごとく無条件に嬉しくなってしまうから。



「やっぱり、素子と話してると楽しいね」



 容姿端麗で頭脳明晰でゲーマーな後ろの席の友人――三崎然凪は、笑顔のまま最高の口説き文句を言った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

数学同好会の先輩がなぜかやたらと勝負を挑んでくる ~パラドキシカル・フィロソフィア~ たたら @key_into

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ