数学同好会の先輩がなぜかやたらと勝負を挑んでくる ~パラドキシカル・フィロソフィア~

たたら

第1問 モンティ・ホール問題、もしくはシュークリームとロシアンルーレット


 目の前で甘美な死が口を開けて待っている。

 あるいは、こちらの口が開くのを。


「そんなに見つめても中身は分からないよ」


 長机をはさんで対面に座る有理ゆうりさんが言った。ち、ち、と楽しそうに指を振っている。


「……別に不正しようってわけじゃないんですよ。覚悟するのにちょっとばかし時間かかってるだけで」

「それはそれは、数人かずとくんって案外と臆病なんだね。顔に似合わず」

「最後の一言は余計です」

「でかい図体に似合わず?」

「それはもうただの悪口です」


 ため息をひとつついて、あらためて机上のソレを見やる。

 今まさに俺を悩ませているソレ。

 丸皿の上に三つ並んだシュークリーム。

 握りこぶしよりひと回り小さい、一口で丸ごと頬張れるくらいのサイズ。底面は平らで、中のクリームが外からは見えず閉じ込められているタイプのものだ。

 まるでわたしは無垢なお菓子でございますと主張しているかのような見た目。だが……


「……あらためて確認しますけど、この中のひとつに」

「うん」


 有理さんは笑顔のまま手に持ったチューブを掲げてみせる。

 緑色のチューブ。

 特選おろし生わさび。


「間違いなく入れました」



   ◇◇◇



「あなたの目の前に三つの箱があります」


 ホワイトボードの前に立って有理さんが話し始める。

 そのゆったりとしつつも凛とした声は静かな部屋によく通り、ちょっとした集会の進行か教壇に立った教師かといった感じだが、あいにくと聴いているのは俺ひとりだ。

 放課後、生徒もほとんど通らない校舎の一角、ひとクラスくらいなら余裕で収容できそうな会議室でのこと。

 教師たちにすら全くと言っていいほど使用されないため毎日のように借りられる、しかし二人で使うには持て余す広さの空間で、本日も水越高校数学同好会の活動が行われていた。


「三つの箱のうち、宝石の入っている箱が一つだけあります。残りの二つは何も入っていない空っぽの箱です。箱はしっかりと閉じられていて隙間なんかもなく、開けてみるまで中に何が入っているかは分かりません」


 活動といっても大したものじゃない。というか同好会とはいえこれを会の活動と称していいのか疑うレベルだ。なにせ現状、俺と有理さんがとくに理念も目的もなく雑談しているだけなのだから。


「ここで、あなたはこの三つの箱のうち一つだけ開けることができます。箱を持ったり、振ってみたりすることはできません。箱を開けずに中身を確かめる一切の行動が禁じられています。箱を開けて中に宝石が入っていればあなたのもの! 空っぽの箱を開けたら何ももらえません。チャンスは一度だけです」


 音無おとなし有理。二年生。数学同好会の会長にして、入学間もない俺をこの会に無理やり引き入れた主犯である。

 意志の強さを感じさせる切れ長の目、外に出たことがないのかと尋ねたくなるような白い肌、耳を完全に晒したショートカット。

 高くも低くもない背の丈に、スレンダーというよりは華奢と形容するのが適当そうな体躯、しかしややオーバーで演劇的な立ち振る舞いが存在感を主張する。

 整った容姿にどこか中性的な雰囲気を漂わせた、ふっと目を引くような美人さんだ。

 あくまでも見た目に限った話だが。


「あなたは一つの箱を選びました。すると、なんということでしょう、どこからともなく悪魔が現れて『本当にその箱でいいのか?』と問いかけてくるのです。さらに悪魔は、あなたが選ばなかった箱、残り二つの箱のうち、一つの箱を手に取ると『これは空っぽだな』と言って勝手に開けてしまいました。悪魔の言葉通り、箱の中身は空っぽでした。あなたは考えます。開けるのはこの箱でいいのだろうか――」


 流れるように続いていた状況説明が止まる。

 有理さんはくるりとこちらを振り向くと、何かを期待するかのようにニコリと笑ってみせた。

 めちゃくちゃ作為的な笑顔だ。


「さあ、数人くんならどうする? 開けるのは最初に選んだ箱か、それとも残ったもう一つの箱か」

「宝石が欲しいってんなら、ですけど」


 あまり悩まずに俺は答える。


「残った箱を開けた方が宝石が出てくる確率は高いらしいですね」

「うんうん、それはどうして?」


 言いながら近くにあったキャスター付きの椅子に腰を下ろし、床を蹴ってすーっとこちらの向かい側まで滑ってきた。机に両肘をつき指先を合わせた手のひらを顔の前に、まるで中途半端なおねだりするようなポーズで見上げてくる。

 会議室の机はよくあるタイプのもので、そんなに幅が広くない。

 つまり顔が近い。

 俺は視線を天井の隅へと逃した。


「……モンティ・ホール問題なので」


 視界の隅で有理さんが頬を膨らませるのが分かった。ぷくーと。すごく記号的な『むかつきました』の表明だった。本当にむかついている人なら絶対にやらないやつだ。


「端折りすぎ。説明を要求します」

「意図が伝わってるんだったらそれでよくないですか」

「文章問題は過程が間違ってたら減点だよ」

「テストだったんですかこれ。なんの」

「……数人くんに対する私の友好度?」


 疑問符をつけられても困る。

 仕方ないので解説を加えることにした。


「中に宝石が入っているか開けるまで分からないってんなら、最初に選んだ箱に宝石が入っている確率は3分の1です。これを言い換えると、選ばなかった二つの箱どちらかに宝石が入っている確率は3分の2です。選ばなかった二つの箱、そのさらに片っぽが空であると発覚したとしても、この3分の2って確率は変動しません。すると、残ったもう一つの箱を開けるっていうのは、『最初に選ばれなかった二つの箱を両方開けてもいい』ってのと同じことになります。だから残った箱を開けた方が宝石を入手しやすいです。……これでいいですか」


 何がそんなに楽しいのやら、有理さんはんふふーとご満悦な表情を浮かべていた。


「うん、正解。花まる。最初からそうしてろ実力隠しやれやれ系主人公とか時代遅れだぞ☆」

「何の話ですか」

「俺TUEEE的なのも嫌いではないんだけどね。いまのトレンドはやっぱり、倫理的な正しさに悩みながら自分の価値観をアップデートしていくタイプのちょっと面倒くさいけど繊細でエモなやつだよ」

「いやマジで何の話」

「さておき、そうだね、いま出したのはモンティ・ホール問題ほとんどそのままの例」


 すごく強引に話を戻してきた。


「数人くんなら知ってるかなとは思ってたけど、確認の意味でね」

「まあ、知ってはいましたが」


 モンティ・ホール問題。

 確率論的な正しさと人間の直感との乖離に関する事例だ。論理クイズとか確率トリックとか、そういうのを面白おかしく紹介するタイプの本を読んでいると出くわすことも多いから、その手の話に興味がある人間にとっては有名な問題だろう。


 プレイヤーとゲームマスターに分かれてゲームを行う。ゲームのルールはこう。


1.三つの箱のうちいずれか一つにだけ当たりが入っている

2.プレイヤーは箱を一つ選ぶ

3.ゲームマスターは選ばれなかった箱のうち、当たりの入っていない箱を開ける

4.そののち、プレイヤーは箱を選びなおしても良い

5.最終的に選ばれた箱を開け、当たりが出たら中身をもらえる。


 このルールが事前に共有されているとして、プレイヤーは箱を選びなおすべきかどうか、という問題だ。

 で、解答は『選びなおした方がいい』。理由はさきほど解説した通り。選びなおした方が当たる確率は二倍になる。


 ほんとかよ。


 家の書庫にあった数学パズル本を読んでいた小学五年生(当時)の俺は思った。

 いや、理屈は分かる。中身の分からない箱が二つになったからといって当たりと外れの確率が半々になるわけではないんだなという、その辺は子供ながらに理解できた。しかし『選びなおすだけで確率が二倍に!』と言われると、なんとなくむず痒いというか、騙されてないか疑う気持ちも強くなったのだ。いくら論理的に正しいと言われても、だ。


 直感的にも納得しやすい説明をするなら、箱が三つではなく百個ある例を考えてみればいい。プレイヤーが百個の中から箱を一つ選ぶ。もちろん当たりは一つだけだ。まずもって当たりの箱を選ぶことはない。そしてゲームマスターが選ばれなかった箱のうち、当たりの入っていない箱を九十八個開ける。最後に残った箱に当たりが入っている確率はかなり高そうだと、計算せずとも分かるだろう。


 とはいえ実際にこのゲームに参加した人の大半が『わざわざ選びなおして外れを引くのは嫌だから最初に選んだ箱のまま変えない』という選択をしたそうで。具体的な確率の云々を抜きにしたらまあ、そういう選択をしたくなる気持ちは分かるので、さもありなんである。


 そんな感じで、『人間の直感はあてになりませんね』的な文脈でたびたび紹介されることのある問題なのだが。


「でも先輩、ほとんどそのままって言いましたけど、確率論の事例に悪魔を登場させてよかったんですか」

「え、いけなかった? こういう問題に出てくる悪魔って全知全能の擬人化というか、『外れと分かったうえで箱を開けています』ぐらいの意味だったんだけど」

「そこは分かりますけど。でも悪魔ですよ。最初の選択でプレイヤーが宝石の入っている箱を選んだときだけ『箱を変えてもいいぞ』って言ってくるのかもしれないじゃないですか」

「……そうなる?」

「気になる人は気になるでしょうね」


 おそらく厳密には確率も変わってくる。具体的な計算方法は知らないが。


「んー、よく考えず変にオリジナリティ付与するのはダメってことだね。アニメの実写化みたいな」

「そのたとえはよく分からないですけど」

「なんにせよ」


 パン、と軽く手を打つ。この話はこれでおしまいとばかりに。切り替えの早い人だ。


「モンティ・ホール問題を知ってるなら話は早い、むしろここからが本題。今日はね、あるものを用意してきたんだ」


 そう言うとまた椅子を滑らせて別の机に向かい、置いてあった自分のカバンを開けて中から何かを取り出した。

 あれは……


「シュークリームですか?」


 スーパーとかで売っている、プラのケースに複数個が入っているタイプのやつだ。有理さんが取り出したのは三個入りので、輪ゴムで閉じられているのを見るに開封済みらしい。


「ふふん。ちょっと遅めのおやつ……ではないよ。百聞は一見に如かず、百見に勝るのはたった一回の体験だからね。頭の中でいかに理屈を理解できていたとしても、実際に自分で試してみるまで分からないこともあるものだよ。そこで今日は、モンティ・ホール問題に寄せたちょっとしたゲームをやってみようと思って」


 一緒に取り出した丸皿の上にシュークリームを並べて俺の前に置く。三つ並んだシュークリーム。形はもちろん微妙に違うが、ぱっと見た限りで区別のできるような特徴的な差異はない。

 有理さんはニコニコと楽しそうにこちらの反応を眺めている。


「…………」


 モンティ・ホール問題。

 当たりと外れ。

 シュークリーム。


「……先輩、ちょっとしたゲームって、まさかですけど」

「うん、おそらくご想像通り」


 有理さんはシュークリームの横にスッとあるものを置いた。

 わさびのチューブだった。


「ロシアンルーレット、だよ」



   ◇◇◇



 俺、三崎みさき数人が数学同好会に入会させられたのはひと月前、ここ市立水越高校に入学してわりとすぐのことだった。


 数学同好会。

 もうこの字面だけで過疎団体だと分かる。

 そして実際に少ない。


 少ないというか、俺が入会した時点で会員は有理さんしかいなかった。前の年までは三年生が二人と一年生の有理さんとで三人体制だったのが、上の二人が卒業していなくなってしまったため一時的に独りきりだったらしい。


 現在は俺の他にもう一人、この場にはいないが一年生の女子が新規入会しており三人に戻っている。同好会の存続要件に『三名以上の会員を擁すること』というのがあるらしく、有理さん的には『入会してくれる人が誰もいなくて会が潰れちゃっても、それもまあ仕方ないかな~と思っていた』そうだが……俺が入会させられるに至るまでの紆余曲折を振り返るのはまたの機会に譲るとして。


 数学同好会は在籍者が少ないため部室のような場所を与えられておらず、わざわざあまり使われていない会議室の利用申請を出しては活動を行っている。有理さんいわく、部室もなく部費のような予算もまるで割かれない同好会という形態の唯一のメリットが『会での活動という名目で空き教室の利用申請がすんなり通ること』だそうで、おかげで連日のように会議室を占拠できている。


 占拠して、大した活動を行っているわけではない。

 目標らしい目標もなく、活動方針もなく、基本的にのんべんだらりと駄弁って放課後を無為に消化しているだけだ。


 数学同好会という名称ではあるが、数学の難問を解いてみよう、などといった形で直接的に数学を扱ったことは、少なくともこのひと月では一度もなかった。

 ならばなぜ数学同好会という人の寄り付かなさそうな名前をしているのかと聞いてみれば、これは有理さんにも分からないらしい。前年度に卒業した先輩たちも知らなかったそうだ。会が設立された当初はきちんと数学を扱っていたのが、時代が下るにつれ活動内容が変遷していき、実態とそぐわない名称だけが残っているのではないか……という仮説こそ立つものの真相はもはや藪の中である。


 そんな数学同好会。

 もう一人の一年生は他の部と掛け持ちで、こちらには顔を出したり出さなかったり。これ以上に会員が増える兆候も今のところない。なのでたいていは俺と有理さんが二人きりで貴重な青春を浪費するのが現在の主な活動となっている。


 おそらく俺たち二人とも、貴重とも浪費とも思っていないのだけれど。



   ◇◇◇



 ロシアンルーレット。リボルバーに一発だけ弾を込めてシリンダーを回して、いつ弾が出てくるか分からなくしてから、自分のこめかみに銃口を押し当てて交互に引き金を引いていくという、映画とかでたまに見かけるあれだ。

 それのシュークリームとわさび版。やろうとしていることはなんとなく分かるが、それをモンティ・ホール問題に寄せる、というと……。


「ここに三つのシュークリームがあります。この中のどれか一つはわさびが入った当たりです。どれがわさび入りかは食べてみるまで分かりません。……もちろん、数人くんには、ってことね。私はどれが当たりか分かってるよ」


 有理さんがルールの説明を始めた。


「はずれの間違いじゃないんですか」

「当たりだよ?」


 しれっとうそぶく。『うそぶく』という語の用例として辞書に載せてほしいレベルのとぼけ方だった。


「この中から、まず数人くんがシュークリームを一つ選びます。選ばれなかった二つのうち、わさびの入ってない方を私が皿から除けます。それを踏まえて数人くんは選ぶシュークリームを変えてもいいこととします。選択が終わったら数人くんにはシュークリームを食べてもらいます」


 この辺りは元のシチュエーション通り……と聞いていて、ん? と思った。モンティ・ホール問題では最初の選択で当たりを引く確率は3分の1だが、こちらは3分の2の確率で当たりでない……わさびの入っていない実質当たりのシュークリームを選ぶことになる。となると最初の選択からわざわざ変更する理由もなく、その後のやりとりも意味のないものになってしまうのではないか。

 俺がそんな疑問を抱くのは想定のうちか、ここからが肝心なんだけど、と有理さんは続ける。


「数人くんが食べるのは選んだやつじゃなくて、お皿に残っている、最終的に選ばれなかった方のシュークリームです。そして、数人くんが選んだシュークリームは私が食べます」

「……なるほど」


 当たりを相手に押し付けるのが目的のルールか。これならたしかに、今しがた俺が抱いた疑問は解消され、かなり元ネタに近い駆け引きが予想される。有理さんは当たりの位置を知っていても自分が食べる分を直接は選べないからフェアなゲームのはずだ。

 むしろ、モンティ・ホール問題の通りならば俺が有利なのでは?


「数人くんがどうしてもわさび苦手ってことならやめるけど……どうかな、やってみない?」


 もちろん俺がわさび入りを食べることになる可能性はあるが、その程度のリスクなら受け入れてもいい範囲内だろう。あくまで余興なのだし、勝手にとはいえ有理さんがせっかく用意してくれたのだし。頭の中でざっと検討しなおしてから俺は頷いた。


「まあ、構いませんよ。わさびも、常識的な量ならたぶん大丈夫です」

「あっはは、常識的な量じゃロシアンルーレットにならないじゃんかー」

「あ?」

「ん?」


 いやそんな『何かおかしなこと言った?』みたいな顔されても。

 ……とぼけているのならよかったが、こういう時のこの人はたいてい素だ。天然でネジがひとつ外れている。ひと月程度の付き合いだがそれだけは分かる。


「そんなににらんでどうしたの? 数人くん目力強いから、そんな顔されるとドキドキするんだけど正直」


 わずかに目を伏せてモジモジと身体を揺らしてくる。かなりあざとい仕草だったが、そんなちょっかいに構うより先に確認しなければならない。


「……どんだけ入れたんですか、わさび」

「え? だから、常識的じゃない量」

「具体的には」

「半分くらい?」


 わさびのチューブに目をやる。今まで気づかなかったが、意識して見れば中身は空だった。


「端的にアホでは?」

「んふふ、焦ってきたね」


 なんで嬉しそうになんの。


「でも数人くん、構わないって言ったもんね。二言はないよね。今さら『やっぱりやめます』はナシだよ」

「いや……先輩こそいいんですか。確率的には俺の方が有利なの分かってますよね」

「そこはまあ、こっちから持ちかけた勝負だしね。それに3分の1なんて結構な勝率じゃない? ハサミギロチン当てるより簡単だよ」


 たしかに確率はあくまでも確率、有用な指針であっても絶対を保証するものではないが。


「あ、もしかしてシュークリームといえど食べ物を粗末にするのが許せないとか? だったら安心して。もし私が当たりを引いたら、絶対に吐き出さないで食べきるって約束するから」


 どこかピントのずれたフォローをする有理さん。そういう宣言をされると俺が当たりを引いた時に吐き出しづらくなるのでやめてほしい。そもそも食べ物で遊ぶのはどうなのかと正していたらどう反応したのだろう。シュークリームでロシアンルーレットをやること自体は俺も受け入れていたので今さら突きはしないが。

 ため息。


「……分かりましたよ。やります、やってやろうじゃないですか。ぜってー当たり食わしてやります。どうなっても知りませんからね」

「言ったね? そっちこそ、泣いて謝ったってもう許されないからね」


 誰に謝って何に許されるんだ。

 かくして、その場のノリの適当な啖呵とともにゲームが始まった。



   ◇◇◇



 想像してほしい。

 チューブ半分のわさびをシュークリームに詰めるところを。

 そのシュークリームを一口で丸ごと頬張ることを。

 口内を襲う刺激を。

 3分の1の確率で、その悲劇に見舞われる。


「…………」


 俺は別にわさびが苦手なわけではない。もう高校生なのでお寿司もさび入りで食べられる。

 しかし、しかしだ。

 ものには限度ってもんがあるだろう……!


「ふふ、数人くん、いつになく真剣な顔してるね」


 最初の選択を一向に終えない俺に対し有理さんが茶々を入れてきた。


「真剣な表情もカッコいいけど、そろそろ覚悟キメちゃわない?」

「……先輩、よくそんな平然としてられますね。俺より当たりの確率高いのに」

「それはまあ、私はゲームを準備した側だもの。不利もリスクも受け入れてから勝負の卓に着いてるんだから、数人くんとは覚悟に差があるのも当然でしょ」

「不利と分かっていながらなぜこんな量のわさびを」

「だってこれくらいやらなきゃ緊張感ないじゃんか」


 リスク回避重視かゲームの興趣重視か、前提となる価値観が微妙にかみ合ってない。たしかに緊張感は嫌というほど味わっているが。


「それに、このゲーム私には選択の余地がないからね。私の生殺与奪の権限は数人くんのものだから、見守るくらいしかやることないんだよね」


 有理さんの選択の余地。ゲームにおいて有理さんが介入するのは、俺が最初の選択を終えたあと、『選ばれなかった二つのうち、必ずわさびの入っていないシュークリームを皿から除ける』という操作を行う、この一回のみ。この操作のパターンは、



1.最初に俺がわさびの入っていないシュークリームを選ぶ→残った二つのうちどちらかにはわさびが入っているから、有理さんは必ずわさびの入っていない方を除ける


2.最初に俺がわさびの入っているシュークリームを選ぶ→残った二つのどちらにもわさびは入っていないので、有理さんはどちらか好きな方を除ける



 この二通りしかない。このうち、1は有理さんに選択の余地はない。2なら除けるシュークリームを選ぶことができるが、残っている二つはどちらも『わさびが入っていない』という情報的に等価なシュークリームだから、実質的に選択の意味はない。どちらのパターンでも、『シュークリームを皿から除ける』という操作で有理さんが自らの意図を介入させることはできないというわけだ。有理さんが食べることになるシュークリームは俺の選択によってのみ決定される。

 とはいえ、俺には当たりの位置が分からないのだから生殺与奪の権もなにもないのだが。

 当たりの位置……。


「先輩、わさびはどうやって入れたんですか」

「入れ方? それは普通に、底をちょっとくり抜いてチューブ突っ込んでそのまま出して、くり抜いた部分に蓋してあるだけだよ」

「元々中に入っていたクリームはそのままなんですね」

「そうだね。だから案外、当たりを食べてもまろやかな口当たりで平気だったりして」


 まず間違いなく平気ではない。

 しかしそうか、元のままのシュークリームに追加で大量のわさびが入っているということは、持って重さを比べてみたりすれば……


「あ、もちろんシュークリームの中身を確かめるような行為は禁止だよ。持ってみたり底を見たり」

「……分かってますよ」


 釘を刺されてしまった。いやまあ、どこかに抜け道や当たりのヒントがないかと考えてみただけで、目の前で堂々と比べるつもりはなかったが。

 こうなってくるともうどうしようもない。いよいよ覚悟を決めるしかないようだ。


「……決めました。お待たせしてすみませんでしたね。俺が最初に選ぶのは、こいつです」


 そう言って俺から見て左端にあるシュークリームを指さす。


「ふむふむ。数人くんの最初の選択はこの子だね?」


 有理さんが同じシュークリームを指したので頷く。所詮は運否天賦。当たりを引いたところで死ぬことはない。死ぬことは……おそらく……まだここから選びなおすターンもあるし……


「それじゃあ私の番だね。残った二つの中から、わさびの入ってないやつを一つ、お皿から除けます」


 有理さんは速やかにゲームを進めていく。三つ並んだシュークリームのうち、真ん中にあったものを、元々入っていたプラの容器へと戻した。


「はい、これでお皿の上には残り二つ。ここで、数人くんには選びなおすチャンスが与えられます。数人くんが最終的に選んだ方を私が食べて、選ばなかった方を数人くんが食べる。さあ、どうする?」


 ゲームの佳境だ。冷静に、もう一度振り返る。


 俺の最初の選択、左端のシュークリームが当たり……わさび入りである確率は3分の1、残った二つのどちらかが当たりである確率は3分の2、これは間違いない。

 残った二つのうち、有理さんは『わさび入りでない』として、真ん中のシュークリームを皿から除けた。しかしそれでも、元・真ん中のシュークリームと今も皿に残っている右端のシュークリーム、この二つのどちらかが当たりである確率は3分の2、この数字が変動するわけではない。

 だが、元・真ん中のシュークリームは当たりではない。

 ゆえに、右端のシュークリームは3分の2という当たりの確率を、その身一つに背負っていることになる。


 モンティ・ホール問題についての俺の理解が間違っていなければ、この推論も正しいはずだ。

 正しいはずだが……。


「んふふ、悩んでるね」


 愉快そうに有理さんが言う。机に片肘をついて頬を支えるポーズだ。


「確率的には選びなおした方がいいって、頭では分かってるはずなのにね。それでも即断はできない。ちょっとした心理のジレンマだ。こういうの味わえるから実際に試してみるのって面白いんだよね」


 空いている方の人差し指をぐるぐると回す。あれ、トンボが目を回すっていう動き。


「味わってるの、主に俺ですけどね」

「悩んでる数人くんを見てるのも面白いよ」


 絶対わさび入りを押し付けてやる。

 どうせ確率論に従うのならこれ以上悩んでも仕方がない、俺は決意を新たに、選ぶシュークリームの変更を――


「……絶対か?」

「ん? どうかした?」


 有理さんの指が止まった。俺は質問には答えず、たった今よぎった疑念の影を集中して追いかけ始めた。

 モンティ・ホール問題において、ゲームマスターはプレイヤーが選ばなかった箱のうち一つを開けてみせ、それが外れであると必ず示さなければならない。

 有理さんは、俺が選ばなかった二つの中から、わさびの入っていないシュークリームを皿の外に除けた。


 俺は中を見ていない。


 もし……もし有理さんが嘘をついていて、除けたのがわさび入りのシュークリームだとしたら?


「……先輩。さっきこのゲームにおいて『私には選択の余地がない』って言ってましたけど、はたして本当にそうでしょうか」

「そこに戻る? 余地ないと思うけど」

「先輩がゲームに介入するのはシュークリームを皿から除ける操作のみ。この操作には2パターンしかありません。1、『最初の選択で俺がわさびの入ってないシュークリームを選んだとき』、もしくは2、『最初の選択で俺がわさびの入ったシュークリームを選んだとき』、この二通りです」

「んー……うん、その通りだね」

「1の場合、残った二つのシュークリームはわさび入りとそうでないものが一つずつ。ルールに従えば先輩は必ずわさび入りでないシュークリームを除けなければいけませんが……もしここで、先輩がわさび入りのシュークリームを除けたら?」

「私はルール破ってないけど、そういう仮定としてね。どうなるの?」

「そのあと俺が選びなおそうがすまいが、俺と先輩、二人ともわさび入りでないシュークリームを食べることになります。除けたのがわさび入りということを俺は知りませんから、自分が普通のシュークリームを食べたのなら、先輩が当たりを食べたのだと考えるでしょう。そこで先輩はさもわさび入りを食べたかのような演技をすればいい。ゲームに勝ったんだなと俺が納得して終わりです」

「……それ、何がしたいの私」

「分かりませんか。こうすれば先輩は、


 やはり俺の思考はリスク回避に重点が置かれているようだ。最初の選択において俺が選ばなかった方、有理さんが介入できる方に当たりがある確率は3分の2だが、そこから当たりを除けてしまえば、実際にわさび入りシュークリームを食べる確率をバレることなくゼロにできるのだ。

 有理さんは「そんなつまんないことはやらないけど」と前置いて、


「でもそれって、パターン1、私が介入できる方にわさび入りがある時の話だよね。パターン2の時は? 数人くんが最初に当たりを選んだら、私が除けられるのはわさび入りじゃないやつだけになるけど」

「パターン2ならルールを破る必要はありません。普通にゲームを進めればいいんですよ。なにせ、俺はこのゲームはモンティ・ホール問題を下敷きにしていると思っているわけですからね。最初の選択から選びなおした方がゲームに勝つ確率が高いということになっているんだから、過程はどうあれ最終的に俺が確率論に従って行動すると予測できるはずです」

「……なるほどねー」


 そう、俺たちはモンティ・ホール問題で示される確率の落とし穴――二択のようで不均衡な選択肢について知ったうえでこのゲームに臨んでいる。

 その理屈によれば、俺は最初の選択から選びなおした方がゲームに勝つ確率が高くなるようだ。選びなおすということは、最初に選んだシュークリームこそ最終的に俺が食べるものになるというわけで……パターン2、3分の1の確率で最初に俺が当たりを選んだときは、そのままゲームを進めたら俺が当たりを食べる=有理さんが当たりを食べないですむ見込みが高くなるのだ。

 パターン1と2、どちらの場合でも有理さんはわさび入りシュークリームを回避でき、俺だけに当たりを食べるリスクを背負わせることが可能だったというわけである。


「うーん、これは元ネタのルールをきちんと再現しなかった私の落ち度っぽいね」

「もちろん、実際に先輩がそんなイカサマやってるとは思いませんけど」


 嘘ではない。この人は勝敗よりも過程も含めたゲーム全体を楽しむことを優先しているフシがある。有理さんが一人でこっそり『イカサマばれるかなゲーム』を楽しんでいるという考え方もあるが、それにしてはイカサマの手段がみみっちい。それをやるならもっとインパクトのある……


「とりえあず、除けたシュークリームがわさび入りでなければ、実際にルールは破られていないってことにはなるのかな」

「……そう、ですね。ただ、先輩が食べて『わさびは入ってませんでした』ってやるのはダメです」

「数人くんが中身確かめられないままだもんね」

「じゃなくて、いや、それもですけど。なんか、別のイカサマの手段を思いつきまして」

「別のイカサマ?」

「このゲームの必勝法です。。そうすれば先輩は絶対に勝てます」


 有理さんは頭の回転が鈍い人ではない。いくらかの手落ちがあったとはいえ、モンティ・ホール問題の形式をきちんと盛り込んだゲームを持ちかけてくるくらいだ。これだけの説明で俺の言わんとするところを察したように、ふむん、と興味深そうな顔をした。


「三つ全部に、食べても素知らぬ顔で耐えられる程度のわさびを、ってことかな?」

「はい。そうすれば俺が最初にどれを選んでも、先輩がどれを除けても、最終的に二人ともわさび入りを食べることになります。そこで先輩が平然としていたら、俺はわさび入りを食べたと勘違いして負けを認めることになるでしょう」


 必勝法とは言ったが、どちらかといえば変則的な『わさび入りシュークリーム回避策』の一種という色の方が強い。『どうすればわさび入りシュークリームを食べずに済むか?』という設問に対する『そんな危険なものはそもそも用意されていないとすれば』という仮定。これもまたリスク回避重視から出てくる思考だろう。


 有理さんにどんなイカサマが可能かと考えていたら思いついた案だが、どうだろう。全てのシュークリームにわさびを入れるというのは少し攻めた発想と言ってよさそうだが、それでもまだ、有理さんが採用しそうにない案という気がする。仕込みの手順としてはやや単純だし。


「でもその仮定だと、数人くんが食べる分にはそんなにわさびが入ってないんだよね。私、常識的でない量を入れたって言っちゃってるけど。当たりを食べたのに耐えられるくらいの刺激だったら、そこで疑問を持たれない?」

「わさびの量について事前にそのような発言をしたのはゲームに緊張感を持たせるための方便で、実際は常識的な量にとどめておいた、とでも言えばいいんじゃないですか」

「ん……たしかに、そういう態度も不自然ではないか。まあ実際の実際は大量に入れたんだけど」


 そこは常識的でいてほしかった。


「にしても数人くん、よくそんなにルールの裏をかくような盤外戦術を思いつくね。モンティ・ホール問題ってこんなに抜け道のある話じゃなかったよね?」

「確率論の事例を現実で再現しようとすると意図しない要素が混じってくるってだけのことじゃないですか」

「ちょっと条件を変えただけで結論までがらりと変わっちゃったりね。それこそさっきの悪魔もそうだけど。そういうのもこの手の話の面白いところだけどさ」

「盤外戦術を思いつくのはただの生存本能だと思います」

「そんなに当たりが怖い? あはは。まあ、数人くんが不正に感じるであろう一切のことを誓って私はしてないよ。こんな宣言しなくて済むようにきちんとルールで縛っておけって話だけど。ともあれ、全てのシュークリームにわさびが入っている可能性がある以上、お皿から除けたやつの中身を私が食べて確認するわけにはいかないと。どうしよっか。割って中を見せるのが確実かな?」

「そうですね、それが一番――」


 ガラガラと扉の開く音に言葉が遮られた。

 二人してそちらに目を向ける。

 会議室の前方、俺と有理さんのいる側の扉が開かれ、背の低い女生徒が入ってくるところだった。


「こんにちはー……もしかしてお邪魔でした?」


 何の気のない風に歩いていた足が止まり、女生徒は質問とも確認ともとれない不安げな声をもらす。


「いや……むしろ最高のタイミングだよ、素子もとこちゃん。ちょっとお願いがあるんだけど、私を信じて何も聞かずにこのシュークリームを食べてくれない?」

「うぇ……え、なんかめっちゃ怪しいんですけど、マジメに食べて大丈夫なやつです?」


 こちらに心配そうな顔を向けてきたので「おそらく」とだけ返す。有理さんがルールを守っているのなら除けたのはわさび入りではないはずだ。


「あー、三崎くんがそう言うなら変なものは入ってなさそうですね」

「あれ? もしかして私の信用度低い?」

「有理先輩はまあ、前科持ちですからねー」


 冗談を交わしつつ手ごろな椅子を引き寄せると、女生徒――双川ふたがわ素子はごく自然に、俺と有理さんの対決を観察しやすそうな位置へと陣取った。



   ◇◇◇



 先入観を排し、公平に、フラットに見たとき、自分の通う高校に『数学同好会』なる名前の会があったとして、その会がどんな活動をしていると考えるのが自然だろうか。

 詳細や程度はともかく、数学に関する活動を行う団体であると考えるのはとりあえず妥当な推測なのではないか。

 一言でいうと双川は、きわめて妥当なはずの推測を裏切られた人間である。


 双川素子。クラスは違うが俺と同じ一年生。水越高校数学同好会の三人目の会員だ。

 くせっ毛を放置するに任せたみたいなボブヘアと、感情が如実にあらわれるくりりとした瞳が印象的な女子である。女子にしても背は低めで、小動物的な雰囲気と油断ならなさそうな気配の混じりあった独特の容姿は、人目を引くタイプではないが当人のイメージをよく伝えるものだと思う。

 文芸部にも所属しているが、そちらも大所帯でないこぢんまりとした部活で、定例会以外は日々の活動があるわけでもなくそこまで忙しい身ではないらしい。こちらには気が向いたら顔を出すことにしているようだ。


 双川は四月の下旬、俺と有理さんが例のごとく『正直村へ行くにはどんな質問をすればいいか』『クレタ人の発言はウソかホントか』などと益体もない会話を繰り広げているところへ見学希望にやってきた。そこで語ったところでは、『自分はあまり数学が得意とは言えず、高校の教科書をパラパラとめくってみたらそう遠くないうちに苦手意識を抱えそうな予感がした。その予感を払拭できないかと思っていたら数学同好会というのがあることを知った。ついては、どんな活動をしているのか見学させてほしい』とのことで、人の寄り付かなさそうな名称の会でも需要があるところにはあるものだなぁと俺は変に感心してしまった。

 有理さんが珍奇な見学希望者に答えて曰く、


『期待にそえなくてごめんだけど、ここは別に数学が好きな人が集まる会じゃないんだよね。数学の問題を解いたり勉強したりもしないし』

『えっじゃあなにやってるんですか』

『本質的な問いだね。私たちはなにをやってるんだろうね数人くん?』

『俺は先輩との会話に付き合ってるだけなんで聞かれても困ります』

『私と数人くんが会話してるだけみたいだよ』

『そんな他人事のように』

『はあ。会話って、入る前にちょっと聞こえたんですけど……クレタ人は嘘つきだとクレタ人が言ったら、それはホントじゃなくてウソだ、みたいな?』

『ん? うん、いまはそんな話をしてたね。正確にはウソでもありうる、だけど』

『……やっぱり見学させてもらっていいですか?』


 その日のうちにも双川は『ときどき顔を出す感じでもいいでしょうか』と入会の意思を表明していた。三人で話が盛り上がったということもなく、双川は途中で何度か質問をはさんだくらいで基本的には聞き専に徹しており、結局いつも通り俺と有理さんが雑談しているだけだったのだが……双川的にはなにか引っかかるところがあったのだろう。

 同好会の最低存続要件のこともあるし、でなくともこの先あらわれるかも分からない入会希望者を逃す理由もない。こうして双川は数学同好会の会員となった。


 有理さん以上に短い付き合いだし、いまのところ同好会でしか顔を合わせないし、双川について俺が知っていることはほとんどない。ちょっと皮肉屋の気があり、話を聞くにそこそこの読書家で、好んで読むのはミステリー系の小説らしいというくらいだ。

 ただしその短い付き合いの中でひとつ、双川に対して勝手な確信を抱いている。

 有理さんを役者に例えるなら、きっと双川は自分を人畜無害の観客と称するだろう。



   ◇◇◇



「知ってますよ。っていうか、いままさにお二人がやってるようなゲームの出てくる小説読んだことあります」


 有理さんによる簡単な経緯の説明の後、モンティ・ホール問題について知っているか尋ねられた双川が答えた。


「へぇ、やっぱり先例ってのはどこかにあるものだね。誰の作品?」

「有栖川有栖の『ロジカル・デスゲーム』っていう短編ですね」

「えーっ、たしかそれミステリー作家の中でもめちゃくちゃすごい人じゃなかった? 有栖川有栖と同じゲームを考えるってすごくない私?」


 わざとらしくミーハーな喜び方をする有理さんを放置して双川は除けられたシュークリームを指さす。


「それで、つまり私は、このシュークリームを食べて中身が普通であることを確認すればいいと」

「うん、お願いできる?」

「いいですよ。むしろ実質おやつなんで、ごちそうになりますですね」

「いえいえ、つまらないものですが」


 有理さんが言い終わらないうちに双川は除けられたシュークリームをつまむと、その小さな口にあむりと押し込んだ。一口だった。行動が速いうえに大胆だ。じっくりとゲームの展開を追いかけてきた俺と有理さんはともかく、双川からすれば『どれか一つに致命的な量のわさびが入っており、どうもこれには入っていないようだ』というかなりあやふやな情報しか与えられていないわけで、それでこうもためらいなく丸ごと口にするのはかなり度胸がいるのでは……などと考えていたら、もぐりと口を動かした双川が顔をしかめて口元に手をやった。おん?


「どうした、大丈夫か?」


 一瞬、まさか本当に何かの手違いでわさび入りが、と思ったが、口元の手がOKの形に変わり表情も戻ったのでひとまず問題はないようだ。そのまましばらく咀嚼が続き、こくり、と小さくのどが動いた。


「けふ。ん、ごめん平気。変なものは入ってなかったと思う。さっぱりしてておいしかったです」


 味の感想だけは有理さんに告げた。


「そうか。ありがとう双川」

「どういたしまして」


 もし双川が食べたのが当たりのシュークリームだったら、双川が刺激に対して極端に鈍感でない限りあんなに平然と食べられるとは思えない。わさび入りはわさび入りでも、先ほど俺が考えたような『すべてのシュークリームに少量のわさびが入っているパターン』だとすると……双川が最初、ちょっとおかしな反応を見せたことへ説明がつくような気もするが、わさび入りを食べたことを俺に隠す理由が思いつかない。双川は俺にも有理さんにも肩入れしていない、善意の第三者のはずだ。そもそもを言えば、当たりに入っているのは常識的でない量のわさびだとの言質がある以上、このパターンはほとんど塞がっているようなものだ。

 変なものは入っていなかったという双川の感覚と証言は信用していいだろう。

 除けられたシュークリームには一切のわさびが入っていなかった。

 つまり、皿に残っている二つのうち、どちらかが当たりで間違いないということだ。


「素子ちゃんありがとね。さてさて、だいぶ遠回りしたけどようやく本題に戻れるかな。数人くんは最初にこのシュークリームを選んだ。それを受けて私は選ばれなかったシュークリームの中から当たりでないシュークリームを一つ除けた。お皿の上にはシュークリームが残り二つ。このうちどちらかがわさび入りの当たり。数人くんは選ぶシュークリームを変えてもよくて、最終的に選ばれたシュークリームを私が食べる。残ったもう一つを数人くんが食べる。さあ、私に食べさせるシュークリームを変える? どうする?」


 俺が最初に選んだのは三つ並んだうち俺から見て左端のシュークリーム。有理さんが除けたのは真ん中のもの。右端にもう一つ。

 可能性は低そうだと思いながらも念のためにと穴を潰していたらなんだか決断を先延ばしするみたいになってしまったが、一度は出している結論だ、いまさら迷うことはない。


「変えます」


 俺は短く、ただそれだけ宣言した。

 有理さんがわずかに眉をあげる。


「即答だね」

「考えるべきことは考えましたからね。あとは素直に確率に従うだけです」

「たしか、変えた方が当たりの確率が高いんだよね?」


 双川の質問に頷いて返す。


「最初に選んだやつが当たりの確率は3分の1、変えた方が当たりの確率は3分の2だ。絶対じゃないが、変えない理由はない」

「でも数人くん、もし最初に選んだのが当たりだったら、わざわざ選択を変えて当たりを逃すのは悔しくない? いまならまだ取り消してもいいけど?」

「それがまさにモンティ・ホール問題で間違った判断をする人たちの心理なんでしょうが。そもそも今回のゲームは元ネタのような豪華景品が手に入るボーナスステージじゃなくて、いかにしてわさび入りを食べないかの勝負です。途中で迷いはしましたが、リスクを避けるための最善手に行きつくのは当然でしょう」

「そう。なら、決まりだね」


 そう言って有理さんは俺から見て右端にあったシュークリームを手にとる。最終的に俺が選んだもの、有理さんが食べることになる分だ。


「私がこれを、数人くんが残りの一つを食べる。どうせなら、せーので食べよっか?」

「……ええ、いいですよ」


 俺は左端、最初に選んだシュークリームを取った。少し小ぶりな、一口で頬張れるほどのサイズ。実際に手にしてみても重さに違和感はなかった。このサイズの中にチューブ半分のわさびが入っているというのはタチの悪い想像のようで、この局面になってもいまいち実感が持てないのが逆にリアルで嫌な緊張を膨らませた。覚悟を決めたとはいえ3分の1は怖い。

 強張っているだろう俺とは異なり、対面の有理さんは余裕すら感じさせる表情だった。ふと思い出す。有理さんはどれがわさび入りのシュークリームかを知っている。このまま進めばゲームがどのような決着を迎えるかも分かるわけだ。もしやその余裕は、俺が当たりをつかんでいることに起因するものではないか。


「……先輩、ずいぶんと余裕そうじゃないですか。自分で食べるのが当たりじゃなくて安心しましたか?」

「さあね? こういうゲームを仕掛けた以上、もし自分が当たりを食べることになっても、食べるまでは一切の不安を悟らせないようにするのも私の務めだからね」


 探りを入れてみるが揺らぐ様子はなかった。もう少し踏み込んでみるか。


「理屈ではそうでしょうけど、実際に平然とふるまえるかは別の話じゃないですか。なにせ当たりを押し付けられたらアホみたいな量のわさびを食べることになるわけですから」

「そんなに気になるなら、やっぱり数人くんがこっちを食べる?」

「…………」


 シュークリームが差し出される。やり返されてしまった。正直、少し揺らいだ。しかしここで流されてはならない。俺は意識して首を振った。


「……いえ、このままでいいです」

「ふふ、一貫してるね」


 選択を変える最後のチャンスを自ら手放した。いよいよ自分の決断と心中する時が来たようだ。


「あ、そうだ」


 双川は唐突に足元のカバンを漁ると、ペットボトルのお茶を取り出してテーブルに載せた。


「口つけてないんで、よかったらどうぞ。もしわさびに耐えられなかった時は飲んでください。三崎くんも、遠慮しなくていいよ」

「ああ、ありがとう」


 刺激をごまかすためのセーフティだった。効果があるかは分からないが、もしもの時はありがたく頂戴するとしよう。……『もし耐えられなかった時』という言葉が字義どおりの意味ですんなり通るこの状況、やっぱりおかしくないか?


「ありがとう、助かるよ。さて、これで心置きなく死地に臨めるね」

「叶うなら一人で突っ込んでほしかったところですが」

「いまさらそんな寂しいこと言わないでよ。私と数人くんの仲じゃん」

「どんな仲ですか」

「どんな仲がいい?」

「質問で返されても」


 ふっと、有理さんの表情から笑みが消え、逃げるように目がそむけられる。その瞳はどことなく憂いを帯びていた。


「ねえ数人くん。食べる前に一つ、お願いがあるんだけど」

「なんですか」

「どんな結果になっても、私のこと嫌いにならないでね」

「…………」


 素直に文脈をたどれば『当たりを食べて苦しんでも恨まないでほしい』という意味になりそうだが。


「……それこそいまさらですね。こんなどう転んでもどちらかがマイナスになるしかないバカげたゲームに、そうと分かっていながら乗っかったのは俺の責任です」

「私が無理やり引き入れたのに?」

「強く拒否もしませんでしたよ。というか、この期に及んでしおらしい態度で動揺を誘おうったって無駄です」

「あ、バレてた?」


 有理さんはいたずらっぽくチラッと舌を出した。顔に薄く微笑みが戻る。

 こういう表情が似合う人なんだよなと、無関係なことを頭の隅で思った。


「これ以上の御託はいりません。食べましょう」

「そうだね、焦らすのはこれくらいにしよっか。どうする、思い切って一口で?」

「構いませんよ」

「じゃあ一口だね。いい、せーので同時にだよ。いくよ? 『せーのっ』!」


 唾をのみ込むワンテンポ遅れたが、俺と有理さんはほとんど同時にそれぞれが手にするシュークリームを口にした。

 一口で頬張り、意を決して噛み、皮に守られていた中身が舌に触れ――




「「ぶっはぁっっっ!?!?!?!?!?!?」」




 ――、盛大にむせた。



   ◇◇◇



 ゲームの内容にばかり気を取られて見逃していたが、振り返ってみると、もう少し冷静になっていれば疑う余地はあったように思う。


 俺は双川のことを善意の第三者として捉えていた。であれば、有理さんが用意したシュークリームを実際に食べた双川の反応と感覚を信用して、疑問を突き詰めるべきだったのだ。

 シュークリームを食べたとき、双川は思わずといった感じに口元をおさえていた。あれは、外からは見えない内部に想定とは違う何かが存在していたがゆえの動作ではなかったか。その直後にOKのサインを出していることもあわせて考えると、なにか異物が混入していたというわけではなく……『想定と違っていて少し驚いたが、食べる分には問題ない』、そういう動作。

 食べ物を口に含んですぐに気づける『想定と違うなにか』。固さ、触感、材質などもあるが、もっと分かりやすい要素が一つある。


 味。


 食べ終えた双川は『さっぱりしてておいしかったです』という感想を残した。しかしどうだろう、シュークリームの味の感想として、『さっぱりしてて』という形容は出てくるものだろうか。普通シュークリームの中身として想定されるのはカスタードクリームやホイップクリームだと思うが、それらは暴力的な甘さの象徴みたいな存在のはずだ。シュークリームの中身がそれらだったとしたら双川もあのような感想を残すまい。

 裏を返せば、有理さんが用意したシュークリームには、カスタードクリームやホイップクリームでない、『さっぱり』した食感のなにかが含まれているのではないか。だからこそ双川は実食の際に少し驚いたような反応を見せたのでは?

 具体的に何が入っているかまでは分からなくとも、普通とは違う何かが入っているかもしれないとは気づけたはずなのだ。しかし有理さんとのゲームに集中していた俺は違和感をスルーしてしまった。だから気づけなかった。


 元々シュークリームが入っていたプラのケースはよく見ていなかったし、ゲームから除けたシュークリームの中身を確かめる流れになった時は割る前に双川がやってきた。中身を確かめることをやんわりとでも拒否しなかった以上、有理さんにシュークリームの中身を隠す意図はなかったはずだし、双川が味の具体的な正体について言及しなかったのもたまたまだ。


 わずかばかりの注意の欠如と偶然の連鎖が招いた悲劇だった。


 ……『さっぱり』の正体がジャムやあんこのようなものであればよかった。しかし現実は最悪だった。

 丸ごと頬張って思い切り噛んだシュークリームの中から溢れ出てきたもの。

 口の中に容赦なく広がる渋味。鼻に抜ける独特のにおい。なにより苦さと甘さが同時に主張して脳がバグるかのような気持ち悪さを催す味。

 むせながらとっさに押さえた手のひらについた深い緑色のクリーム。

 俺の舌が異物判定して反射的に吐き出そうとした、こいつは――




 抹茶じゃねえか!!!!!!!




 脳内で全力で叫んだ。

 抹茶だ。

 抹茶だった。

 何を隠そう、俺は抹茶味のスイーツが大の苦手だ。

 抹茶は苦手ではない。抹茶味というものがダメなのだ。味を想像しただけで少し嫌な気持ちになるし、実際に食べてしまったときは必ずと言っていいほど咳き込む。どうして抹茶の風味に甘さを求めるのだ。和菓子やクッキーなど固形のものならまだマシだが、抹茶味のアイスやクリームなんかはマジで意味が分からない。口の中で抹茶の味をした甘いナニカがなめらかに溶けていくのは何かの拷問だと思う。

 抹茶味の好きなひとには申し訳ないが、俺はこれをスイーツとは認めない。


「げほっ! ぐっ……!」


 口の中のものを吐き出さないように必死でこらえながらペットボトルに手を伸ばす。

 急いで蓋を開け、口の中身を押し込むようにくわえてお茶を流し込んだ。なるべく舌がクリームに触れないようにしながら何度か噛んで無理やり飲み込む。再びペットボトルに口をつけ、口内に残る嫌な感触を洗い、どうにか人心地つく――と。



「ん゛ん゛ん゛ーーっ!!」



 口元を押さえた有理さんが必死の形相でこちらに手を伸ばしていた。

 涙目で、身悶えするかのように全身が震えている。

 思考より先に身体が動いてペットボトルを差し出した。有理さんはそれをひったくるようにつかむと中身を勢いよくあおった。

 ……俺の抹茶味嫌いはいったん置いておいて。

 俺が食べたシュークリーム、俺にとって衝撃的な味ではあったが、辛いわけでも、ツンとくる刺激が襲ってくるわけでもなかった。

 わさびは入っていなかったのだ。

 つまり、当たりのシュークリームは有理さんが食べたやつだったということになる。


 チューブ半分のわさび入り。


「むぐ、ん。ごほっ、ごほっ!」


 何度も盛大に咳き込み、ぜーはーと肩で息をする有理さん。涙を流し、呼吸は荒く、顔はほんのりと上気している。そこだけ取り出すとなんだか官能的な風にとれなくもないが、なまめかしい感じなどまるでなく、ただただ病人として心配になる様子だ。


「先輩……大丈夫ですか」

「……ふ、ふふ。みっともないところ、見せちゃったね」


 息を乱したまま気丈に笑う有理さん。だいぶ無理をしているらしく、頬がどうしようもなく引きつっている。


「でも、なんで数人くんは、あんなに慌てて……?」

「あー、俺、抹茶味のスイーツめちゃくちゃ苦手なんです」

「そうなんだ。それは、申しわけない、ことを……」

「あの、無理にしゃべらなくていいですから。なんか飲み物買ってきましょうか?」


 手に持つペットボトルの中身はほとんど空になっていた。


「いや、自分で行くから、いいよ……素子ちゃん、お茶、本当にありがとう。おかげで助かったよ」

「いえ、そんな。生きててなによりです」


 双川も心配そうに言う。冗談でなくなりかねない危うさがにじんだ発言だった。


「……ごめん、ちょっと失礼するね」


 有理さんはふらりと立ち上がると、痛みに耐えるかのような歩調で扉へと向かっていった。こころなし背中が小さく見える。俺と双川がなにも言えずに見送っていると、扉の引手に手をかけたところで振り向いて、無理やり作った笑顔を向けてきた。


「ゲーム、数人くんの勝ちだね。おめでとう」


 そんな状況でもないのに、律義に勝者への賛辞を残して会議室を出て行く。

 なんともいえない空気のなか取り残され、部屋の中にはしばらく俺と双川の沈黙が満ちた。


「……抹茶味、苦手なんだ?」

「ああ、うん。めちゃくちゃ」

「言ってあげればよかったね。ごめん」

「いや、別に。そんなの気づけないだろ」

「うん……大丈夫だよね?」


 何がとも誰がとも言わなかったが。


「まあ、ただちに健康に影響するレベルではないと思う」

「役人っぽい言い方。……なんか、からかう雰囲気でもなくなっちゃったね」

「からかうって、何を」

「間接キスとか」

「……あー」


 言われてみれば、口をつけたペットボトルをそのまま渡していた。必死すぎてまったく気にしていなかった。おそらく有理さんもそれどころではなかっただろう。


「お互い意識してなかっただろうし、ノーカンじゃないか?」

「えー。じゃあ忘れたころに蒸し返してあげるよ」

「しなくていい」


 結局からかってるじゃないか。


「……選択を変えた方が勝率は上がる。確率通りの結果になったわけだけど、どう、勝った気分は?」

「正直、実感は全然ない。抹茶食うはめになったし」


 有理さんにその意図はなかっただろうが、用意されたのが抹茶味のシュークリームだった時点で、どれを選ぼうが俺にとっては爆弾だったというわけだ。最終的に俺が苦しむことになるのは必定で、モンティ・ホール問題の理論に従いゲームに勝った結果、苦しむ人間の総数が増えてしまったような気さえする。


「ゲームには勝ったけど全体の状況的にはむしろ負けって感じかな。知ってる三崎くん、デスゲームは運営の示したルールに従っている限り絶対に運営の勝ちなんだよ」

「そうだな。次に命がけのやりとりをする時は肝に銘じとくよ」


 ――『どんな結果になっても、私のこと嫌いにならないでね』


 自分が食べるのがわさび入りシュークリームであると知っていながら有理さんは言った。いったいどういう気持ちでいたのだろう。ほんとうにただのブラフだったのか、それとも、これから起こる事態を見越しての保険だったのか。

 パラドックスの答えが戻ってくるまで、しばらくかかりそうだった。

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