軋んでいく音

もと はじめ

軋んでいく音

 インターホンが鳴った。私はソファから立ち上がり、居間のドアに付いているディスプレイの前に立った。


 マンションの玄関ロビーを映す映像。そこに立っていたのは、野球帽を被った男性だった。白黒の映像なので、色はわからない。濃い色の作業着を着ているようだ。帽子のつばで目元に影が落ちていたが、年齢は若そうだ。私と同じか、少し下かもしれない。カメラの位置に視線を下げ、正面を向いている。やや首を右に傾げ、インターホンのカメラを見つめている。レンズのせいで、両目が楕円に広がって見える。


 「どなたですか?」私はボタンを押し、マイクに向かって話しかけた。

 『……お昼時に申し訳ありません。私は○○新聞の者です。少しお話をさせていただきたいのですが』


 男はそう言うと軽くお辞儀をした。それはあまり丁寧なお辞儀とは言えなかった。妙にセコセコとした予備動作があったし、カメラを見つめ続けたままだったので、頭の悪い犬がするような、人を不快にさせるお辞儀だった。口角を上げ、前歯を覗かせる笑みを浮かべている。

 

 私は小さなため息をついた。


 「すみません。ウチでは新聞とらないんです。わざわざ来ていただいて申し訳ありませんが、とる予定もありません。どうぞ、お帰りください」


 一人暮らしを始めてもう5年になる。新聞なんて実家で見かけるくらいで、まともに読んだのは高校生のとき以来だろうか。それも別に毎朝、熱心に読んでいたわけではない。どうしようもなく暇なときに手にした程度だ。実際一人暮らしを始めてから新聞が無くて困ることは殆どない。ニュースも天気予報も、テレビ欄だってスマホで確認すればいいことだ。だから、改めて紙媒体の新聞を月額で定期的に届けてもらうなんて、考えたこともなかった。


 丁寧に断れた方だと思う。私はディスプレイのスイッチを切ろうとした。


 『ちょっとお待ちください』


 男が口を開いた。私は外した視線を咄嗟に戻した。そこには、先ほどと変わらない、男の笑顔が映っていた。


 「ほかに何か?」

 『いえ、大したことではないのですが、せめてお話だけでも、と思いまして』

 「ですから、今後も取らないと――」

 『今、あなたはお一人ですか?』

 「は?」

 『今、あなたは部屋にお一人ですか?』


 男の傾げていた首が、いつの間にかまっすぐになっていた。視線は変わらずこちらを見ている。


 「どういうことです?」

 『……いえ、特に意味はありません。少し気になっただけです。失礼しました』


 そう言うと男はカメラから一歩下がった。そして先ほどよりゆっくりと、しかし丁寧ではないお辞儀をして、踵を返した。遠のく靴音が、やがて消えていった。自動的にディスプレイの映像が消えた。ガラスが反射して、私の顔がかすかに見えた。何か、まとわりつくような違和感が、残った。




 私の住むマンションは築二十年ほどの7階建てで、オートロックがついている。同年代の友人らと比べると広く、快適な部屋だった。大学進学時にこの地へ来て、入居することとなったのだが、その際には両親が援助をしてくれた。一人娘には安全なところに住んでもらいたい、ということだった。多少遠慮はしたが、父の収入を考えるとそこまでの負担にはならないということはわかっていたし、母もそのくらい甘えなさいと言ってくれた。おかげで私は有意義な学生生活を送ることができた。部屋にはしょっちゅう友人らが遊びに来て、夜中まで騒いだ。鉄筋造りで、防音もしっかりしていた。


 就職をしてからも同じ部屋に住むことにした。幸い勤め先は大学と同じくらいの距離の場所にあり、交通の便も問題なかった。父は車を用意してやると言ってくれたが、あまり運転したくはなかったし、維持するお金ももったいないと思った。勤め始めたら部屋も自分で負担すると決めていた。私はそうして自立を始めた。


 そのころには友人らも忙しくなり、部屋に来ることも殆どなくなった。友人らが残したタコ焼き機や、ホットプレート、大きい瓶のリキュールが、棚のスペースを埋めた。私があまり使わない化粧落としのシート、ヘアスプレー、目薬が机に置き去りになった。誰のものかわからない下着が、収納ケースの奥にしまわれた。それらを捨ててもいいのだが、どういうわけか、捨てる気分になれず、今でもそのままにしている。


 キッチンはそんなに大きくはなかった。元々そこまで凝った料理はしないので、一口のみのガスコンロを使っている。まな板も、包丁も一つ。母はそんなものはキッチンと呼べないと言っていたが、私にとっては十分であり、不満はなかった。その他食器類も、母と相談しながら、なんだかんだ楽しみながら選んだ思い出がある。


 居間には二人掛けのソファを置き、赤く小さい丸テーブルをはさんで、テレビがある。そんなに大きくはないけれど、一人で見るには十分なテレビ。友人らとでも、それは十分だった。音が出て、画面に動く映像があればいい。たまにソファで寝落ちしてしまい、自動電源オフ機能が働いて、画面が勝手に消えていることがある。そんなときは大抵姿勢が悪く、背中や腰の痛みで目が覚める。やはりベッドで寝るのがいい。


 私のベッドは寝心地がいい。マットレスが程よい弾力で、布団もフカフカだ。これも一人暮らしを始める際に購入したものだが、他よりも入念に選び、決めた。おかげで今に至るまで、私の睡眠は一定の高い水準に保たれた。実家のベッドよりも寝心地の良い、木製のフレームに、水色の布団。シーツはほぼ毎日替え、天気がいい日は布団をベランダに干す。私の生活はそうやってうまく機能している。

 



 新聞の男。私はしばらくソファにも座らず、それについて考えながら居間をグルグルと回っていた。なぜ男は私が一人かを聞いたのだろう。向こうにはそんなこと、関係ないはずなのに。


 ここに住むようになってから、そのような勧誘が来ることは一度もなかった。このマンションは、悪質な訪問販売は原則禁止となっており、そういった事象が確認されるとすぐに管理会社へ連絡が行くようになっている。以前、警察を呼んだケースもあったらしい。たとえそれがどんな性質を持った勧誘でも、販売員はこのマンションとのトラブルを避けるきらいがあった。

不動産の担当者とここへ初めて訪れた際、そういった説明を受けた。ともにいた母も、大げさなくらい感心し、住むことを決めた。


 この件を管理会社に報告すべきだろうか。……いや、少々大げさな気はする。別にしつこく食い下がってきたわけでもない。あの男は年齢が若そうだ。もしかするとまだ新米で、このマンションについては詳しくないのかもしれない。無視してかまわないだろう。男だって、もっと新聞が必要な人たちを探す必要があるのだ。もう来ることはないだろう。


 気分を切り替えよう。私は冷蔵庫を開ける。簡単なものにしよう。半分になった玉ねぎと、もやし、豚肉を取り出す。そして冷凍室から小分けに保存していたご飯を取り出す。一食分にラッピングしておいたものだ。そのまま電子レンジへ放り込み、解凍にかける。その間に玉ねぎ、豚肉を適当に切る。切り終えてからフライパンに油を注ぎ、それらを放る。野菜炒め。塩コショウと醤油で味をつける。皿に移す。ご飯を盛った茶碗も持って、居間へと向かう。


 数口食べ進めているとまた、インターホンが鳴った。箸先から、もやしと豚肉がポトリと落ちた。嫌な感じがした。私は座ったまま、ディスプレイを遠目に見る。人影が見える。


 あの男かもしれない。私は怖くなった。確認するのも嫌だった。居留守をして無視しよう。箸を皿の淵に置き、ディスプレイの、小さな人影を見つめた。ピクリともしない。なんとなく、首が傾いているように見える。そのシルエットが、より不気味なものに思えた。


 その後、立て続けに二度インターホンが鳴らされた。私はその間、物音立てずにじっとしていた。一階の玄関ロビーにまで居留守が気取られる心配なんてないのだけれど、どういうわけかそうしてしまっていた。やがて画面が消え、部屋は静かになった。冷蔵庫が急に思い出したかのように、ブーンと音をたてた。




 『久しぶりじゃん、元気ぃ?』

 「トモも元気? ごめん急に電話なんかかけて。今、平気?」

 『大丈夫よー』


 食欲が失せ、シンクの三角コーナーに残った野菜炒めとご飯を捨ててから、私は大学時代の友人のトモに電話を掛けた。気味が悪くて、誰かと話がしたかったのだ。お互いに近況を報告し合い、「ちょっと聞いてよ」と、私は起こったことについてトモに話した。


 『うわ、何それ、こわ。無視した方がいいよそれ。』

 「だよね」

 『そういうの、下手に相手するとグイグイ来て、しつこいから。話してると、話途切れないようにワーワー言うし。無視よ、無視』

 「失敗したなぁ。最初から居留守すればよかった」

 『まぁ、ね。でもそこ、オートロックだし、そう何度も来ないんじゃない? もっと他のとこ行くよきっと』

 「そうだよね……」


 そんな会話をして、トモとの電話を終えた。また、久しぶりだからと、来週にトモが遊びに来ることになった。他の友人にも声を掛けてくれるらしい。私は嬉しくなった。スマホのスケジュールに予定を入れる。部屋を見渡す。少し掃除をした方がいいだろう。


 日曜の昼下がり、私は掃除を始めた。まずはトイレ。便座の裏から水槽タンクの下まで、クリーナーシートで拭いた。まだ少し残ってはいたが、芳香剤を新しいものに替えた。


 次に居間に掃除機をかけた。まとめて寝室も。いつもよりも丁寧に。ソファ、テレビ台をずらす。クローゼットの中に、ノズルを替えて塵を吸い込んだ。サイクロン式の掃除機内部には埃と髪の毛がまじりあい、回転した。 

寝室。枕もとのスタンドライトを布巾で拭う。少し埃がかぶっていた。スマホの充電に使う電源プラグを拭う。これも埃がついていた。出しっぱなしにしていた本を拭う。これも埃がかぶっていた。その他、小物も余すことなく布巾で拭う。再度、掃除機をかける。


 思ったより、私の部屋は汚れていた。普段から気を付けていたつもりだが、それだけでは足りなかったのかもしれない。一通り終え、私は居間に戻りソファにもたれた。


 天井を見上げる。蛍光灯のカバーの中に点が一つ、虫の死骸が見えた。ハエだろうか? あそこは掃除をしたことがない。一体いつからあそこにあったのだろう。私はそれに気づかなかった。私の部屋は、知らぬ間にどんどん汚れていたのだ。

 

 夕方、お腹が少し減ってきた。夕飯を作るのが面倒だったので、コンビニ行くことにする。私は部屋着から着替え、部屋を出た。エレベータのボタンを押す。ドアシューが、開く際に異音を放つ。私はそこに乗りこむ。


 さっきの男がいたと思うと、玄関を通るのは少し気が引けた。しかし、そんなことも気にしていられない。何かあるわけもないし、どうということもないのだ。ポケットのスマホを触りながら、私はゆっくりと降下していく。


 エレベータを下りると、すぐに玄関が見えた。ロビーの片側に、訪問用の共通インターホンがある。あそこに男が立っていたのだ。そう考えると気持ちが悪い。でも、今は誰もいない。当たり前だ。気にしすぎてはいけない。


 玄関を抜け、近くのコンビニへ向かった。緑茶と野菜ジュース、冷製パスタと一人分のロールケーキを買った。お酒を買おうと思ったが、明日に差し支えてもいけないからやめた。商品の詰まったビニール袋を下げ、コンビニを出た。


 日中は晴れていた空が、曇り空に変わっていた。小雨も若干降り始めていた。私は少し速足でマンションに戻る。オートロックを開錠し、中に進む。そういえば、昨日から郵便受けを見ていなかった。私はエレベータに乗り込む前に、各部屋番号のついた郵便受けを目の前にする。503号室。ダイヤルの鍵を開ける。右に7、左に5、右に9。ギギッと開けるときに音が鳴った。普段はスッと開くはずなのに。中をのぞくと、不自然に膨らんだ大きめの封筒が入っていた。手に取ると、その封筒に一枚、白い紙が指で切った短いセロテープで張ってあった。


 “本来は契約者様に贈呈するものですが、差し上げます。おいしいですよ〟そう書いてあった。


 ざらざら、と中の何かが鳴る。お米のような、細かい粒が入っているようだ。それだと一合分くらいだ。


 さっきの新聞の男だ。二度目のインターホンはやはりあの男だったのだ。居留守をした際に郵便受けに入れていったのだろう。男の字は、封筒に張り付けてから書いたのか、表面の凹凸によってガタガタで、一文字一文字が大小まばらになっていた。


 思わずその封筒を落とした。グシャッと床に。気味が悪かった。他の郵便物がないことを確かめ、私はその封筒の角を指先でつまみ、ビラ用に置いてある屑籠にそれを捨てた。


 ふいに辺りを見回す。別に何事もない。いたって普通の玄関ロビー。しかし、そこはいつもよりも暗く感じる。いつもついている照明が一つ、切れているのだ。今日は日曜日。管理人室は閉まっている。エレベータのボタンを押し、待つ。嫌な気分だった。すぐに部屋に帰りたかった。一台しかないエレベータが妙に遅く感じられた。

 

 部屋はすっかり暗くなっていた。私は袋を丸テーブルに置き、カーテンを閉めてから明かりをつける。さっき見つけたハエの死骸は、同じ位置で死んだままだった。すぐに着替え、買ってきた食事を始める。野菜ジュースをさっと飲んでしまって、そのままパスタを頬張る。空腹が功を奏して、妙においしく感じた。すぐに食べ終わり、立て続けにロールケーキも頂いた。それからテレビをつけてみたが、頭に内容が入ってこなかった。少し眠気が差してきたので、風呂に入ることにした。


 そういえば掃除のときに風呂場を見ていなかった。浴槽を流した後に、シャンプーやリンスのボトルを手に取った。ボトルの底には水垢がこびりついていた。思った以上だった。詰め替えて使用はしているが、年に一回はボトルごと買い換えていた。それに、ここまで汚れることはなかった。これも買い換えた方がいいだろう。ボトルを戻し、蛇口を捻る。ドバドバと音をたて、お湯がたまっていく。


 居間に戻り、ソファに横たわる。相変わらずテレビは賑やかだった。どのチャンネルも騒々しすぎて理解できなかった。私は眠らないように気を付けて、お湯が張るのを待った。


 すると、スマホの通知音が鳴った。トモからだった。手に取り、画面を見る。メッセージが届いているようだ。指紋認証でロックを外し、それを読む。


「ごめん! 来週先に予定が入ってて行けなくなったの。今度、また連絡するね!」


 謝るポーズのスタンプも添えられていた。私は気にしないでほしいという旨の文章と共に、やはりこちらもスタンプを送った。


 気分が一気に沈んだ。大きなため息が自然に出た。スマホのスケジュールを空白に戻した。そのまま、動かぬハエの死体をずっと眺めた。


 その後、風呂に入り、念入りに体を洗った。肌が赤くなるくらいスポンジを擦りつけた。頭皮に爪を立てて髪を洗った。風呂から上がり、髪も乾かぬまま、ベッドに向かった。


 眠ってしまおう。ベッドにもぐりこみ、明かりを消した。低反発枕に水が染み込み、嫌な感触が伝わってきたが、構うもんかと両目を瞑った。感触をごまかすために、寝返りを打った。


 ギシィ。


 ベッドから軋む音が聞こえた。思わず目を開いた。


 確認をするためにもう一度寝返りを打った。


 ギシィ。


 やはり間違いない。ベッドが軋んでいる。


 マットレスだろうか。スプリングの調子が悪くなっているのかもしれない。あるいはフレームの支えがよくないのかもしれない。私は起き上がり、枕元のスタンドライトをつけた。


 立ち上がって、ベッドを見る。外観に異常はない。いつものベッドだ。しかし、両手で布団を押し付けると、確かに音がする。鈍い音。力を入れる度、また力を抜く度に音が鳴った。


 ギシィ。ギシィ。


 こんな音がすることは初めてだ。もう何年もこのベッドで寝ているのに。


 乾かぬ髪から額に、水滴が伝うのを感じた。よく見ると、枕はべちゃべちゃに濡れていて、枕カバーの表面にあざができたように見えた。シーツにできたシワが、失敗したクレープ生地のように見えた。木製のフレームが、無骨でだらしのない置物のように思えた。


 ありとあらゆるものが、少しずつ、だめになり始めている。昨日までとは何かが違っていた。


 このベッドはもうだめだろう。少なくとも、昨日までの安眠をもたらしてはくれないのだ。すると勝手に涙が流れ始めた。こんな風に涙を流したことはない。静かに流れてはいるが、止まる様子がない。拭っても拭っても、止まらない。


 私はあきらめてベッドに戻った。

 ギシィ。

 明かりを消してうずくまった。涙がこぼれ、シーツに染み込んでいく。肩が震え、またベッドが軋む。

 ギシィ。


 軋む音は、どんどんと大きくなっていった。私は早く眠りにつけるように固く目を閉じた。


 軋む音だけが、私の眠りを邪魔し続けた。

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