母性の果て

上松 煌(うえまつ あきら)

母性の果て

 「ね、功(こう)ちゃん。あんた、お母ちゃんの通帳知ってるよね?何かあった時にって、暗証番号も教えといたよね。それがないのよ。…ね?あんたでしょ?返して」

「ウゼエなぁ。知らないって言ってるだろっ」

「ウソ。知らないはずない。あれはあんたの修学旅行費用なの。前は未払いでも学校が立て替えてくれたけど、今はそうじゃない。お母ちゃんは、あんたを修学旅行に行かせてあげたいの。ね、ねっ、お願いだから返してちょうだい。どうしても必要なお金なの」

あたしの声が必死になると同時に、功(こう)の声も荒々しくなる。

「知らねえって言ってんだろっ。出てけっババアッ。生んでくれった頼んだわけでもねえのに、勝手に生みやがって。ど~してくれるんだよっ、ああ?育ててやったのになんて御託並べんなよな、クソ女っ」


 功(こう)はあたしを乱暴に部屋から突き出した。

馬鹿力で掴まれた腕はきっとアザになる。

いつもこうだ。

母親としての気持ちはいつも息子には通じない。

高校に行きたいって言うから、県で最低偏差値の学校でも入学させた。

あたしの貯金だけでは足りず、母が孫のために入学費用を工面して、やっと入った高校。

それも行ったり行かなかったり…。

無駄になるだけの授業料が家計に痛い。


 あたしは高校も高校の修学旅行にも行っていない。

せめて、功(こう)だけにはと思って、彼が高1の時から心がけて少しつつ貯めた9万円。

たぶん、いつもつるんでいるワルに巻き上げられてしまったのだろう。

臆病弱虫のくせに見栄っ張りだから、それを見越して近づいてくるのはいつも問題のある子たちばかりだ。

中学のときには顎で使われるパシリで、呼び出されて万引きもさせられていた。

アイツにそっくりの屁たれ。


 19の時に結婚したアイツ。

同じ居酒屋の従業員だった。

初対面から軽くて口達者な男だったけど、最初は優しくて面白くて、楽しい未来が待っている気がした。

あたしは義務教育終了の中学卒業と同時に社会に出て働いていたから、寂しかったのだろうか?

誰かに頼りたかったのだろうか?

確かにそれもあったけど、あたしは温かい安らぎの場が欲しかったのだ。

父は型枠大工で無口な人だったけど、その父があたしの中学2年の時に亡くなるまで、父母は本当に仲が良かった。

あたしが育ったそんな家庭を、早く自分の力で築きたかった。

勝手に甘い夢を見て、アイツに言われるままになって、気が付いたら功(こう)がお腹にいた。

『婚前交渉』

母は顔をゆがめたけれど、「生みなさい」と言ってくれた。

アイツは、

「ああ~?ガキぃ?おまえのせいだぞ、頼みもしないのに妊娠なんかしやがって。費用はお前もちだぜ、と~ぜんだろ」

と吐き捨てたのだ。

最初から暗雲漂う結婚だった。

それでも父親になれば少し変わってくれるのでは?と期待する気持はあった。

付き合ったころの優しさを、バカなあたしは忘れられなかった。

でも、産院で早くもそれは裏切られたのだ。


 アイツはあたしを見向きもしなかった。

どこかへ出かけたまま連絡すらよこさなかった。

母だけが駆けつけて見守ってくれた。

あたしの隣のベッドの人はお互いのご両親や友人、親戚までが来て賑やかだった。

でも、ちゃんと気配りの出来る人たちで、うるさいのでは?と気を使ってエントランスで話したり、沢山の見舞い品をおすそ分けしてくれた

見たこともないような高級スイーツや高価な果物。

笑顔とともに彼女に投げかけられる、祝福の言葉の数々。

あたしは幸せな家庭がどんなものか見せつけられる思いがした。

ちょっと悲しくて、母にそっと訴えると彼女は笑った。

「人は人。おまえだって生まれた時はお隣りみたいだったのよ。私の両親はもちろん、お父さんのご両親も田舎からわざわざ出てきてね。そりゃ、お互いに貧乏な部類の家だったからお見舞い品はこんな立派なものじゃなかったけど。でも、お祝いの気持ちはてんこ盛り。お父さんなんかね、戸惑っちゃって怒ったような顔してんの。大丈夫、母親はすぐ親の自覚を持てるけど父親は段々に父になって行くのよ。おまえの

竜二さんもやっぱり時間がかかるわね」

母の言葉にあたしはすがる気持ちだった。

でも、産着にくるまった功(こう)と対面した時、母は重くつぶやいたのだ。

「ああ…。この子は親に苦労をかけるよ」



                  *



 確かに育てにくい子だった。

夜泣きがひどく、アイツはイライラして赤ん坊でも容赦なく叩こうとする。

それを必死で止めて、何度も夜の町に出た。

古くて狭くて汚い小さな家々が乱雑にごたごたとひしめく町。

湾岸には工場が立ち並び、多摩川の河川敷には青テントが続いている。

治安も空気も人心も悪いから、あたしはいつも功を背負って駅に近い病院の前に行く。

街灯で明るいし、赤ん坊の泣き声に文句を付ける人もいない。

低い石垣に腰をおろして、植栽に隠れるように身体を縮めて、そっと功のお尻を叩きながら


 ♪早く泣きやめ

 功、功ちゃん

 泣きやんだら親孝行

 泣きっぱなしじゃ親不孝♪


自作のこんな歌を歌って時間をつぶしたのだ。

身を切るような真冬のことだった。


 そういえば、功と名付けたのはアイツだ。

「功でいいじゃん。成功の功。コイツが成功すりゃ左うちわだ。エ、カと書いて功だろ。これでエ~カ、なんちって。アヒャヒャヒャ」

笑って言う、その言葉に、ひょっとしたら子供に関心を持ってくれるのでは?と期待したけど、結局ただの気まぐれ。

アイツは「釣った魚にえさはやらない」とうそぶきながら浮気を繰り返したのだ。

期間工のアイツが、いくら給与をもらっているかは知らない。

機嫌のいい時に、お願いして、お願いして、やっともらえる1~2万。

あたしが働けない子育て期間中は母がずっと補填してくれた。

他の子より言葉も遅れ、おむつもなかなかとれず、人と目を合わさない異様な我が子。

一時期、母にあづけて働きに出たけど、多動で衝動的な功に振り回された母が、疲労困憊して寝込むほどだった。


 あたしにだって、生まれた子に対する夢も期待も希望もあった。

ああしてあげよう、こうして喜ばしたいっていう愛情もあった。

でも、結婚と同じようにそんな望みもあっさり裏切られた。

2歳児のイヤイヤ期がずっと続いたままのように、いつまでたっても精神的成長の見られない功。

いさめたあたしの母に、

「育ててもらったのになんて馬鹿言ってる大人には、ケーベツしかねぇんだよっ。ああ?産んでもらったのにぃ?頼んでね~ワ。親が勝手に産んだのを、おれのためみたいに言うなっ。ウゼエんだよっ」

と、乱暴に手を振りまわしたのだ。

あたしと母は狭いキッチンの隅で一緒に泣いた。

功がこの借家の一番いい6畳を使っていて、居たり居なかったりのアイツは四畳半、部屋はそれしかないからあたしは寝る時も台所。

下女か女中のような生活。

空しく寂しかった。


 そう言えば、功が小学校高学年になった時、あたしはデリヘル嬢になったのだ。

パートより効率よく稼げる。

事務所に連絡を取れば、頻繁に休むことも可能だし、パートのように他の従業員とのコミュニケーションに気を使うこともない。

出勤して待機所で待ち、指名や客がつけば事務所の車でホテルなどに出向く。

表向きは本番なしだけど、商売が商売だから新風俗法の目を盗むことも多々ある。

もちろん母には内緒だ。

手塩にかけた娘が風俗嬢だと知ったら、母はどんなに嘆くだろう?


 功が高校生になった今、あたしはいわゆる「ババ専」だ。

10代の子がいっぱいいる世界ではあたしみたいに30越えた女は婆ぁなのだ。

当然、料金も低いから、稼ぎは減ってしまった。

でも、需要はあって、客の中には若い子に気後れする人たちもけっこういて、ハードルが低く見える年増を指定してくる。

他に太めの子を求める「デブ専」もあるから、若い美人や可愛い子ばかりが嬢なわけではない。


 デリヘルに頼る男たちは、それぞれに少しづつ屈折している。

でも「ババ専」に来る人たちは優しい人が多かった。

人生や社会で疲れきって性欲も減退しているのか、一緒にシャワーを浴びていちゃいちゃしたり、寝っ転がって手をつないだり、おっぱいをしゃぶらせてあげるだけで満足してくれる。

楽しかった中学時代の部活の思い出を、夢中で話し続けているうちに時間が来てしまう人もいる。

それでも文句も言わず、お礼を言って料金を払ってくれるのだ。

あたしにはそんなお客さんが数人いる。

みんな心が傷付いていて、寂しく人恋しいのだろう。

あたしも同じだ。


                  *



 一度、先生が家庭訪問に来たことがある。

やはり学業の遅れなど、高校でも問題児らしかった。

事前に連絡があったから、親として仕事はお休みにしてお茶とお菓子を用意した。

高2は進路のことなど、普通の親なら考えることはたくさんあるらしい。

最初は3人で軽く話し、そのあとは先生に促されてあたしは席をはずした。

台所で座っていると、功の声が聞こえた。

先生が家族関係を知りたくて、なにか質問したのだろう。


 「え?まぁ、高校行くのも金かかるしぃ。働くってそういうことかも知んないけど、余計なストレス受けてんだよね。可哀想っつっちゃ可哀想だよ。おれのためにって必死に金稼いでるんだから。でも、おれもおれでクズだからそれは報われない努力だよね。そりゃ身体壊すんじゃね?考えてみりゃ筋違いだけど、不憫に思えんだよね、母親が。やっぱさぁ、胸が痛いし吐きそうになる。なんでこんな…って。生んでもらっても感謝なんかない。生まれて来たくなかった。…おれってさぁ、ホント、考えちゃうんだよ。生まれてさえこなければ…こんな思いをしなくて済んだのに…って」


 自分を憐れむ自分の言葉に酔って、鼻を詰まらせている。

頭がはじける思いがした。

(嘘だ、嘘だよ、功)心が絶叫していた。

(あんたは先生の前で演技しているだけ。可哀想とか、他人様の前で涙を見せてまで言う言葉を、なんでお母ちゃんにはただのいち度も言わないの?お母ちゃんだって功の言葉に支えられたい。功の優しさに触れてみたい。あんたは血ぃ吐くような思いで頑張って、苦しんでるお母ちゃんをただ冷たく見てるだけじゃないの。何もしてくれない。手も差し伸べてくれない。小さい時からそうだった。思春期でテレ臭いんじ

ゃない。あんたには自分さえよければそれでいいんだ)

痛い涙が目じりを伝うのがわかって、あたしは玄関の外に出た。

だれも通らない狭い路地の片隅で寂しさと無念に震える心を持て余す。

(功、お母ちゃんは悲しくて仕方がないよ。筋違いだけど、ってあんたは言ったけど、何が筋違いなの?親を不憫に思う心のどこが筋違いなの?あんたはいつもそう。口ではいっぱしのことを言うくせに、いつも他人事。自分はなにもしないくせに、何の努力もしないくせに、いつも都合の悪いことは親や世の中のせいにして逃げる。あんたはいつも被害者面じゃないの。自分だって当事者のくせに、知らんふりするだけ

で何の手助けもしてくれない。この前、お母ちゃんが買い物に行った留守に雷雨が来て、干したフトンがびしょぬれになったよね。あんたは取り込むことすらしてくれなかった。なにしてるっマヌケって、お母ちゃんを叩いただけ。病気の時もそう。お前、おれの飯はどうすんだっ、って怒鳴って、あんたはお母ちゃんの枕を蹴ったのよ」

 

 父親のアイツにはもうなにも期待していないけど、お腹を痛めて生んだ我が子には、せめて心を通わせたい。

ひと言ふた言でいい。

あたしがつらい時に言葉をかけて欲しい。

簡単な家事でいい。

具合の悪い時に手伝ってくれたら、母親はどんなに救われるだろう?

功が物ごころついてから、きっといつかは、と思ってきたささやかな夢。

彼が17歳になった今でも叶えられる兆しがない。


 (功。お母ちゃんの人生ってなんだろうね。お父ちゃんのアイツは家庭を顧みないし、息子のあんたは自分さえ気分が良ければ、お母ちゃんが床を這いずっていたって気にしない。いつも必死に頑張ってるけど、お母ちゃんだって家族に助けられたい時だってある。寂しくて不安で心がつぶれそうな時だってある。そんなとき、あんたが気遣って助けてくれたら、あんたがひと言慰めてくれたら、お母ちゃんはまた頑張

れるのに。…功、疲れちゃったよ。功…)


 自暴自棄になって、何もかも振り棄てて走り去りたい衝動を懸命に抑える。

そんなことをしても結局、残るのは後悔だけだ。

あたしは功を見捨てることが出来ない。

母親の性(さが)だろうか?

命を生み育てる者の本能だろうか?

それとも無意識の共依存?

わからない。

あたしがいなければ更に堕ちていくだろう功を、あたしはただただ見放せないのだ。



                  *



 目の前に冷たく閉ざされたふすまが見えていた。

功はこのふすまに鍵を取りつけている。

親といえども勝手に開けることのできない空間で、彼は気に食わない者をすべて遮断して生きている。

その筆頭が今のあたし。

修学旅行費の入った通帳のありかを詰問する、親のあたし。

それでも聞き出さなければと強く思う。

これは親と子の信頼と絆の問題なのだ。


  功については、何一つ父としての役目を果たさないアイツと、いち度だけ話したことがある。

「おれが子育てに協力ぅ?な~ぜぇ?おまえとおれがセックスという気持ちのいいことを楽しんで、その結果、運悪く生まれちまったガキだ。そんだけのヤツだよ、功は。おまえにまかせるワ。生んだのはおまえだしな」

ゾッとするほど非人間的な、親の責任を放棄した返事だった。

でも、アイツの性格を知っているあたしには、あるは程度予測できた反応だ。

それでも余りにも身勝手だった。

「そんな…。無責任すぎる。じゃあ、堕ろせばよかったの?せっかくの命なのに?」

「そう、堕ろしゃよかったんだよっ。クソ可愛くもないウザいガキに髪振り乱してるおめえが辛気臭いっつうのっ。ったく、これじゃ家にいても面白くね~ぜっ」

アイツは声を荒げて立ち上がり、床を踏みならして出て行ったのだ。


 あたしはひとり、彼の言葉を反芻した。

「おまえとおれがセックスという気持ちのいいことを楽しんで、運悪く生まれちまったガキ」

違う!

根本的に間違っている。

セックスには快感が伴うが、それがすべてではない。

男女の愛情や信頼、すべてを捧げて共に人生を歩みたいという一体感、将来への希望や責任、なによりも相手を唯一無二と認識してこそのセックスなのだ。

その精神的充足がなければ、ただの空しい排泄、ただの行きずりの売春と変わらない。


 「ね、功。開けて。お母ちゃんは怒ってるんじゃない、叱ってるんじゃないから。あんたが貯金通帳を知ってるんじゃないかって思って、正直に言ってほしいって言ってるだけ。使っちゃったなら仕方がない。お母ちゃんはまた貯めるから。ね、功、せめて本当のことを教えて。あんた、通帳を知ってるよね」

呼びかけながら、ふすまを叩き続ける。

「ね、お願い。知ってるんだよね」

全くの無反応が空しい。

「功、聞いてるよね?開けて」

「ウゼエッ、バカッ」

突然の罵声とともに、はじかれたようにふすまが開く。

柱に当たってバシッと大きな音がした。

「知るわけねえだろっ、ババアッ」

「嘘っ、嘘よ、功。お母ちゃんの目をちゃんと見て。ね、目を合わせて返事して。お母ちゃんはあんたに正直に言ってもらいたい。お腹を痛めてやっと生んだ子だもの、功を信じたい。ね、ホントのこと言って」

目じりから知らないうちに涙があふれていた。

「ウゼエつってんだろっ、おれは生んでくれなんて頼んだ覚えはないんだぜ。おれがこんなになったのもおまえのせいだっ」

「功、どうしてそんなことを。あんたはなんにもわかってない。子供はね、親がもう、あたしはこの出産で死ぬんだと思わないと生まれてなんか来ないのよ。こんだけ医学が進歩した現代だって、お産で死ぬ母親は後を絶たないのに」

「知るか、糞ババアッ。勝手に生みやがってこっちは迷惑だっ。あああぁ~っ、イラつく。みんなおまえが悪いんだよっ」

「バカッ」

あたしの手が無意識に動いていた。

功の頬がパチンと鳴り、彼が凶暴に目を吊り上げるのが見えた。


 目から火花が散った。

身体は一瞬でバランスを崩して壁にぶつかり、反動で功の足元にうずくまった。

「アヒャヒャヒャ」

笑いが聞こえた。

アイツそっくりの軽薄な笑い。

「な~にやってんだ。よけろよぉっ。ババア鈍すぎっ」

力の弱い者に居丈高になる臆病弱虫の態度と言葉。

「こ、功。お母、ちゃんを…蹴る、なんて、なんて情け、ない子なの?」

息切れで途切れる。

「お母ちゃんは、悲しい。あ、あんた、なんか、生むんじゃ…」

功があたしに飛びかかって、髪をわしづかみにして柱に叩きつけた。

ゴンッという音がして側頭部がしびれ、くらくらとめまいがした。

抜け千切れた毛髪が散らばっている。


 「教えてやろ~か。あ?ババア」

勝ち誇った声が聞こえた。

「そ~だよ。おれ知ってんだよ。上納金が足りないんでさ、もらったんだ。い~いじゃん、おれの修学旅行の金なんだろ、はなっからおれの金ってことじゃんかぁ」

やっぱり、仲間に巻き上げられていたのだ。

「功。…聞いて。お金がない、と、付き合えな…いなんて、友達、なんかじゃない。あんたは、り…利用されてる、だけ」

「ウゼ~な。口出しすんな馬鹿ババア。あ?しょ~じきに言ったんだから満足だろ」

功はゴミでも掃き出すように、足であたしを台所に蹴り出した。

「来週、また金がいるから、それまでにいくらか貯めとけよな。おれは働かね~から。バイトもしない。働いたら負けってこと」

そんな捨てゼリフを残してふすまに鍵をかけ、彼は肩をいからして外に出て行った。

うずくまったままのあたしなんかには目もくれない。

いつもの通りだった。



                  *



 みじめすぎて涙も枯れ果てた気がした。

このままでは功は仲間に引きずられて、もっともっと堕ちていく。

善悪の意識に弱く、衝動的で享楽的、欲望を抑えることが出来ない。

日常の個々の出来事に、昆虫のような脊髄反射で生きている。

強いものに弱く、弱い者に強い脆弱を恥ずかしいとも思わない。

人としての情愛に欠け、愛情を理解せず、被害者意識に歪んだ弱い心で、他人の善意をむさぼるだけだ。

子供の時からあたしの手に負えなかった彼が、この先、どのような人生を送るか目に見える気がした。

あたしは生むべきでない子を生んでしまったのだ。

家庭に対しても、社会に対しても、そして、あたし自身にも…。


 (功のお嫁さんになる人、苦労するだろうな)

その光景が自分に重なり、心から将来が案じられた。

「おれは働かね~から。バイトもしない。働いたら負けってこと」

彼の言葉がよみがえる。

それは宿主に寄生して養分を吸い取って肥え太り、結局、宿主を疲弊させ衰弱死させてしまう寄生虫を思わせた。

(お母ちゃんだって自分のために生きたいよ。功のことなんか忘れて自由に…)

心でどれだけ思っても、どうせあたしは出来はしない。

アイツのことも功のことも、捨て去れるものならとっくに捨てていたはずだ。

                 

 台所でうずくまったまま、どれだけ時間が過ぎたのだろう。

いきなり玄関がガラッと乱暴に開いて功が帰ってきた。

「飯だっ。おれの飯ぃ。早くしろっ」

いつもセリフだが、なんとなく違和感がある。

ろれつが回らず、プンと酒臭い。

「功?あんた、どこで何してきたの?」

「ああ?ムカつくからイッキ飲みしてきたんだよっ。いちいちウゼエってんだよっ」

きっと近所の酒屋だ。

店の隅に酒を飲ませるコーナーがあって、成人・未成年を区別しないというウワサだった。

足元もおぼつかない。

たぶん、売上を上げたい店主におだてられて、調子に乗ったのだろう。

自室のふすまを開けるや万年床に倒れ込んだ。

「功、お水あげようか?」

「うっせ、飯っ」


 とりあえず、ふらつきながらも起き上がってご飯の支度にかかった。

刻み野菜を多く入れたチャーハン。

野菜嫌いの彼の食感を誤魔化すために、みじん切りにする。

体のあちこちが痛いので動作が鈍い。

急がないと彼は癇癪を起こすのだ。

「さ、出来たよ」

大急ぎで皿に盛り、開けっ放しの部屋に運ぶ。

功はふとんの上にだらしなく転がったまま口を開け、よだれを垂らしていびきをかいている。

「功、大丈夫?」

少し不安になる。

急性アルコール中毒もあるのだ。

膝まづいて覗きこむ。

「ね、ご飯食べられる?気持ち悪くない?」

「うっせぇ、眠い。あっち行けっ」

荒々しく手足を振りまわして壁際に向く。

よける間もなくその腕が皿に当たり、せっかくのチャーハンがあたり一面に飛び散った。

「ああっ。こぼれちゃったじゃない。功。功ったら…どうしていつもいつも…」

枯れたはずの涙がまたあふれてきた。


 拾い集めようとする意志はあるのに、しばらく動けなかった。

悲しみと空しさ、大声で狂ったように笑いだしたくなるような自嘲。

「あたしって、ホント馬鹿だよね。こんなことをいつまで続けるの?」

自分の涙声が心底、みじめだった。

空っぽの頭の中でなにかが音を立てた気がした。

今までとは全く違った、決然として動(ゆる)ぎない意志のようなものが急速に膨張するのがわかった。

そう、今の今まで先送りしてきたけど、あたしにはやるべきこと、やらなくてはいけないことがある。

それを実行しない限り、この怨念のような呪縛を解くことはできないのだ。

いや、出来ないのではない、やらなかっただけなのだ。


 (功、ごめんね。あんたがいつも生まれて来たくなかったっていう意味がお母ちゃん、今、やっと理解できたわ。あんたは生まれてきてはいけない子だったのよ。生まれる前の所に、あんたがいつも帰りたがっていたところに、お母ちゃんが親の責任で帰してあげる。自分の快感や利益しかないあんたは社会に出ても犠牲者を増やすだけ。社会に悪をもたらさないために、お母ちゃんはあんたを生みだした親として、あ

んたの存在を消さなければいけないのよ。臆病なお母ちゃんは、今まで怖くてそれが出来なかった。それがお母ちゃんの間違いだったの)



                  *



 人の殺し方くらいはあたしでも知っている。

ささやかなテラスにある洗濯ロープ。

それを雨よけの柱に結んでから、功の首にそっと回して端を持ち、反対側に勢いよく引けばよいのだ。

部屋の敷居に両足裏をかけて踏ん張り、綱引きのように腰を落として断続的に引き絞る。

ドラマとは違い、そうしなければ女の力では人を殺害できない。


 不意にあたしの母の顔が浮かぶ。

功が生まれた時、

「ああ…。この子は親に苦労をかけるよ」

と言った時の落胆と悲しみに満ちた顔がよみがえる。

(お母さん、本当にごめんなさい。あなたにまで余計な苦労をかけました。17年たって、やっと決心がついたの。アイツとも別れます。たぶん、あたしが刑務所に行ったら、アイツはビビって絶対に別れ話を持ちかけてくる。いいチャンスだわ。何年かわからないけど待っててね。あたし、今度こそあなたの娘として自分の人生を生きます。自分とあなたのために、あたしは自分の人生を賭けます。もう、決して苦労はかけない。だから、どうかどうか、少しの間だけ待っていてください)

つぶやきというより、祈りの言葉だった。


 あたしは立ち上がった。

少しよろめいたけど、転ぶほどではなかった。

妙に澄んだ頭でテラスの屋根柱に洗濯ロープを結び、何度も引いて強度を確かめた。

(功が目を覚ましてくれたら…。こんなことをしなくても済むかも…)

未練がましい思いが浮かんで決意を鈍らせる。

(あたしは本当に愚かな母親なんだなぁ)

すがっても裏切られるだけの幻想に、この期に及んでもしがみつこうとする。

散々泣いたのに、ぶったり蹴られたり突き飛ばされたりして、嫌というほど痛い目に遭ったのに。

一生懸命稼いでも感謝もされず、まるでザルの目を抜けるように消えていくだけのお金。

ババ専のお客のほうがよっぽど心を通わせられる。

一緒に住んでいるから家族なの?

血のつながりだけで家族なの?

ひとりだけがひたすら努力して、だれも見向きもしないのが家族?

嘘、嘘だ。


 功のだらしのない白痴的な寝姿があたしを現実に引き戻した。

傍若無人のいびきの音が響いていて邪悪なモンスターを思わせる。

そうだ、人の姿はしていても、人としての慈愛・倫理・矜持・襟度を持たない者は、すでに人間ではないのだ。

化け物を社会に解き放つのは危険な悪であり、健全な人々に対する背任であり、許し難い親のエゴなのだ。

ナイロン糸で編んだ青いロープの端を握りしめる。

そっと掃き出し窓を開け、忍び足で功の枕元に立つ。


 今しかない!

あたしはあらんかぎりの力を両腕にかけて、後ろに倒れ込むように引き絞っていた。



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