船出

「本当に港まで送らなくてもいいのかい?」


「いいって、ここで。港までずーっとめそめそされたらうっとおしいし」


「……めそめそって……。わたしに向かって言ってます?」


 既に目を潤ませている鈴花は玄関先に立つ朔を睨んだ。


 年が明けた一月。朔はリカルドの投資を受けて新大陸に旅立つことになっていた。日本古来の手妻は西洋でも受けが良く、向こうで主流となっているボールやカードを使った技を勉強することも出来る。奇術師としての腕を上げるため、二年ほど留学するつもりだと言っていた。


 朔の荷物は大きなトランクひとつ。商売道具をぶら下げて、彼は遠い異国の血へと旅立つことを決めたのだ。


 玄関先で並んで見送るリカルドが「朔」と声を掛けた。


「いつでも帰ってきていいんだからね」


 ここが朔にとっても家だと言わんばかりのはなむけの言葉。


 しかし、リカルドがちゃっかり鈴花の肩を抱きよせ、見せつけるようにつむじに唇を寄せたものだから、朔はぶちっと血管が切れそうな勢いで怒鳴って出て行く。


「……帰ってくるかよ、バーカッ! 勝手に幸せになってろ!」


「あっ、朔さん!」


 鈴花が朔を振ったと知っているくせに、こんな振る舞いをするなんてリカルドは意地悪だ。リカルドを引っぺがし、鈴花はぶんぶんと大きく手を振る。


「行ってらっしゃい!」

「……ああ。行ってくる」


 戻ってきたらおかえりなさいと言わせてください。わたしの大切な家族ひと

 片手を上げて去っていく朔の背中はとてもたくましく見えた。







「さあて、俺たちもこれからやることはたくさんだね」


「そうですね。まずは……」


「まずは?」


「部屋の片づけを再開しましょう」


 リカルドが出て行く時に一見綺麗に片付けられていた書類の山は、ただ適当にまとめて引き出しや棚の中に詰め込まれていただけだった。


 リカルドの部屋で、溜め込んだ書類を整理しながら呆れてしまう。


 彼があちこちで騙った偽名の弊害として、請求書やら、納品書やら、季節の便りやら……。Rで始まる宛名はどれも微妙に違っていて、頻出するのはリカルドとリッツ。それ以外にもリード、リベルト、リゲール。その場限りで名乗っただけの名前もあるようだし、いったいいくつ名前を使って適当に生きてきたのだろうと思う。


「あっ、西洋料理店レストランの名刺発見!」


 探していたものを見つけ、鈴花はぱっと笑顔になる。名刺と共に調理用ストーブの納品書も見つけた。


「どれ? ああ、これは酒井さかいの店だね。開業準備を手伝ったんだ。ここは『リッツ』で通じるよ」


「よく覚えていますね?」


「貿易商人としてはリッツと名乗ることが多いよ。この屋敷に郵便物だって届くし。あとのは偽名が多いかな……。地方での見世物小屋の賃貸料なんてその場でサインして終わりだしね」


 ――リカルドはこの浩戸の屋敷に腰を落ち着け、貿易商としての仕事を続けていくことを決めた。元々長ヶ崎で学んだ貿易と、日本全国を渡り歩いて得た知識や人脈を使い、西洋菓子の調理器具の卸売りを始めることになったのだ。


 シュウクリームやアイスクリームなどの目新しい西洋菓子はこれからもっと人気が出るだろう。


 まずは居留地周辺の西洋料理店を取っ掛かりに。美味しいと評判が広がれば、家庭でも作ろうとする者が出てくるだろう。クッキーやケーキの型や、泡立て器など、製菓用の道具を輸入していこうという試みだ。


 鈴花も居留地にせっせと足を運び、西洋人から菓子作りの指導を受けていた。女学校で菓子作りの指導をしてみるのもいいかもしれないと思い始めているので、このあたりはリカルドと要相談、といったところ。


「じゃあ、やっぱり、リッツさんが本名なんです?」


「どうしてそう思うの?」


「よく使う名前だから、本名に近しい名前なのかなって」


 少なくとも、Rで始まる名前なのは間違いなさそうだ。


「……知りたい? 俺の本当の名前」


 くすっと甘やかな笑顔を見せたリカルドが鈴花の頬に触れる。


 一度食べたら忘れられないくらい甘いシュウクリームのような笑顔。


 普段はパリッとした皮に守られているくせに、中身は結構繊細でお取り扱い注意の人。


 未だに掴みどころがなくて翻弄されることも多いけれど、これから時間をかけてお互いのことを知っていけたらいいと思っている。


「……知りたいって言ったら、ちゃんと教えてくれますか?」


「もちろん。その代わり、教えたらちゃんと俺の名前を呼んでね」


 甘い囁きが鈴花の耳元をくすぐった。







 これは、わたしたちのいくつもの嘘からはじまった物語だ。


 奇術師のパトロンだと名乗った男はただの貿易商人となり、なんの取り柄も価値もなかったわたしは彼の側で生きていきたいと望んだ。


 彼は二人だけの時、わたしのことを「すず」と呼ぶようになり、わたしは教えてもらったばかりの名前をぎこちなく唇にのせて、そっと微笑む。


 季節は冬。澄み切った空気が身も心も清めてくれるような一月。新しい年がまたはじまる。

 明治の世は目まぐるしく移り変わっていき――……


 今日もどこかで。文化と恋の花、開く。



 <了>

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パトロンと奇術師と帝都乙女 ーミス・クラウンの財宝を巡る憂愁ー 深見アキ @fukami_a

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