Cord_ silver
あれから約一月の時間が過ぎた。
音重縁の死は、現世じゃ一日で消えるネットニュースにしかならなかったらしいが、あの世では未だに物議が醸され、議論の的となっている。
その間、俺は『忘却』の務めに勤しんでいた。
近年稀に見る忙しさだったと言っていいが、多忙の極みは時間を忘れさせ、彼女の中有なんてあっという間に経ってしまった。
今日はCode D_4 音重縁の死後から五十日。
『人生の補足』を提出する日だ。
ドぎつい反射を繰り広げるガラス張りの直方体。
その隙間でスーツ族が暑っそうに人波に洗われている。
この浄土に四季折りの雅など無いが、季節があるなら今は初夏。
熱暑地獄はもう少し先だというのに、今日はひどく暑い。
「っつーか、痛ぇ」
ぶ厚い茶封筒を頭に乗せて日を避ける。
あまりの暑さに青いつなぎの上半身を脱いで腰に巻いたが、次は腹回りに熱が籠る。
黒のタンクトップと白いタオルがこの街の黒服達に馴染んでいるが、いかんせんあふれ出るカリスマ性までは抑えられない。
人目を集めながら俺は目的のオフィスビルへ向かう。
「ふいー、暑かった」
Dビルは丁度いい涼しさに保たれている。
エレベーターで四階まで。
よく音の響く縦長の廊下を鼻歌交じりに進んでいく。
突き当たりにある扉。
ここが目標の賢輔の部屋(ポスト)。
「しゃーす」
と口に出しながら応接室を素通りし右側へ。
今月何度目かの到来か、分厚い事務室の扉の前に立ち一つ深呼吸をする。
……キた。今日刻むビートは、これだ。
脳内にマヨネーズと三分をイメージした小粋なリズムが降りてくる。
そのリズムを目の前の分厚い壁に向かってノックという技法で華麗に表現してみた。
タカタンタ タタタン タカタンタ タタタン
タカタンタドゥルルルルルルルル・ル・ルンルン
「……クソっ、うるさい、入れ」
扉の向こうで苛立つ声がする。
賢輔本来のガラの悪さが抽出されたピリッとした入室許可だ。
「失礼します。おー賢輔、お疲れみたいだな。ご苦労 ご苦労」
賢輔は夏バテとでもいうのだろうか、スーツのジャケットを椅子に掛け、シャツは袖を曲げ、ボタンを二つも開けて緋色のネクタイは胸元まで緩めていた。
賢輔は茹でダコのようにのぼせ上った顔でべたん べたんと書類に判を押していた。
「お前、またそんな恰好で……今回は誰の分を持ってきたんだ、とっとと置いて帰れ」
「今のてめえに容儀指導されたくねえよ。ほら、総司んとこの『人生の補足』。あと、これも」
「……何だ、これは」
賢輔は分厚い茶封筒を受け取り、裏表、そして中身を確認する。
「欲しがってただろ、今際の実態。今回はかなり有益なーー」
「違う、なぜこの封筒は濡れている」
よく見ると茶封筒の色が若干違う箇所がある。
主に中心部が局所的に湿り気を帯びているようだ。
俺は今までの行動を思い起こした。
「あー、それな。俺の汗だ」
賢輔は口の端を軽く痙攣させ、あからさまに嫌な顔をして見せる。
そして何事もなかったかのように話を取り直す。
「……あの後、また今際に許可なく行ったのか」
「経過を咎めるな、結果を評価しろ」
「律は守るためにあるんだ。破天荒も大概にしろ」
ふうと溜息を吐きながらも賢輔はレポートをぱらぱらと捲っていく。
乖離線の発生した音重縁の今際に行った後、他の今際に赴き蓄えた情報。
その量およそ二百頁。
さすがの賢輔も読み終えるのに時間がかかるだろう。
俺は賢輔の机にひらりと腰かけると、そこらに散らかっている書類を手に取った。
出来るヤツってのは仕事場が綺麗なもんだ。
俺はこんな現場許さない。
俺は三分のマヨネーズを口ずさみながら書類を集め、机の上をスッキリさせた。
あと足りないものは、息抜きの一杯。
出来るヤツってのは根を詰めすぎない。ハードな仕事の合間にも一服の余裕が必要だ。
俺は不可能な任務のテーマを唄いながら忍び足で事務室を出て応接室を突っ切り賢輔の私室に侵入する。
大きめのマグにコーヒーの粉をを匙一杯。
湯を沸かす間、端に積まれた色とりどりの包装箱を物色するとハート型の箱がごろごろと雪崩出てきた。
「くそ、インテリが。見せつけやがって」
軽く殺意を覚えたが大人げを取り戻し、ピンクのハートを破り散らかした。
盆の上を整え胸クソ悪い私室を後にする。
「賢輔、見たかー?」
見ない間にちょっとテンション上がってる賢輔の前に盆を置き、俺は再び机に腰かける。
内容はもう佳境というところだろうか。
あ、読み終わった。
「ああ、これは素晴らしい内容だ。五百年、いや六百年ぶりの進展と言っていい」
「ケチケチ刻まないで千年ぶりの快挙って褒め称えろや」
「認めたくはないがな」
賢輔は分厚いレポートをばさりと机に置き、俺の特製珈琲を一口啜った。
俺もカップを手に取り飲むが、ざらりとした新食感に富む味わいだった。
粉よ、なぜ溶けていない。
不良品か? 量か? あの三角スプーンじゃ多かったのか?
「人類には早すぎたか」
「バクテリアに進化できれば美味いんじゃないか。とりあえず、この報告書は近日中に各所に送っておく」
「おう」
「それからこっちは再提出だ」
賢輔は茶封筒の中からもう一部の書類を取り出しひらひらと振ってみせた。
総司の対象、Code D_4 音重縁の『人生の補足』だ。
「はあ? まだ見てもいないだろ。内容を評価しろ」
「内容など無い」「よー」
「うるさい。文句を言いたいのは私の方だ、なぜ業務外の書類は完璧なのに本業で遊ぶんだ。定型に従って書けばいいだけだろ」
賢輔は極彩色に彩られたキャンバスを床に叩きつけた。
結構いい出来だったのに俺の芸術はいつまで経っても評価されない。
こちらも人類にはまだ早すぎたか。
「定形外。それが俺の仕事の流儀」
「黙れ、また軟禁監視の中で書かされたいのか」
「御免被る! ……ところで、総司は来たか」
『書記』は対象の死後、『運命』に対象の『人生』を提出するのだが、まだそれらしいものは置かれていない。
「まだだ。特に今回は追加の書類があるからな」
「そっか」
もうすぐ期限だが、総司のことだ。彼女との思い出を一つ一つ丁寧に書いているのだろう。
それに加えて今回の件は異界の中でも結構な大事(おおごと)になってしまったから書類をまとめるのも大変なはずだ。
なにせ今際に使者が五人巻き込まれ、あろうことか回収した吐息を放ち、その上『後悔』を切れず仕舞いだったから。
俺達は戻るなり事情聴取の名目でこっぴどく絞られた。
もちろん賢輔も監督官として上に納得のいく説明を求められいる。
「初めて聞いたときは言葉も無かったが。収穫は大きかったな」
「ああ、これで紅紫の降格やらお前への弾圧も手の平返しだ」
賢輔はふっと珍しく微笑むと俺の新感覚コーヒーをまた一口啜った。
「ああ、助かった」
「助かったぁ? ありがとうございました。だろ」
「ありがとう、輝晃。お礼と言っては何だが、俺が『人生の補足』の書き方について特別講習をしてやろう」
「はぁ、要らねえってつってんだろ」
「まずは書式だ。P4キャンバスじゃない、A4レポート紙を使え」
「だからいいって」
「次に筆記具。今はPC打ちが基本だが、アナログなら黒ボールペンまたは万年筆を使え。面相筆は却下だ」
「あーもう帰る」
耳に出来たタコをほじって部屋から出ようと机から飛び降りる。
と、賢輔はすっと立ち上がり俺の正面から覆いかぶさるようにバンっと机に両手を付いた。
「なっにすんだ、うっ……わ」
机で背を強かに打つ。
仰向けになった眼前、賢輔の真顔が数センチまで迫っている。
「あとは文を行に沿って書けばいい。さあ、今ここでやれ。俺の言った通りにすればサルにでも出来る」
これはマジでヤバいやつだ。
銀縁眼鏡の奥で細めた目がマジだもん。
俺は逃げようと抵抗を試みるが、賢輔に両手を掴まれ机に張り付けにされてしまう。
「け、けんすけぅにゅー」
賢輔が片方の手で俺の両の口角を摘まむ。
眼鏡のレンズに映るタコ助のような俺の顔。
くそっ、なんという非道な仕打ち。
「さあ、出来るな」
にやりと口角を上げる賢輔。
何とか言ってやりたかったが、タコちゃんのままでは反論することもできない。
「……う、うん」
「よし、お利口だ」
俺が返事をすると賢輔はタコちゃんの刑を解き、俺の頭を撫でるとゆっくり身を離す。
俺ともあろう者が……
俺は机に乗り上がったまま悔し涙を拭った。
ふと扉の方で何かが動く気配がした。
首だけ動かして見てみると、うっすら開いた扉の向こうで誰かが走り去っていったようだ。
俺はのそりと机から起き上がり、扉の向こうを確認しに行ったが、そこには誰もいない。
扉の前に厚めの茶封筒が一つ置かれているだけ。
「これは……賢輔、総司が来てたみたいだぜ。『人生』置いてってる」
「ああ、そのようだな」
「そのようだって、気付いてたなら応対してやれよ」
賢輔は俺を冷やかして涼しくなったのかネクタイを整えて椅子に座り直す。
親切な俺は、ぼやきながらも総司が置いて行った『人生』を賢輔の元まで持っていってやった。
「ほれ」と封筒を差し出す腕を賢輔に掴まれた。
『人生』が床にばさりと落ちていく。
「さあ、輝晃、続きだ……」
ーー
やばい。
見てしまった。
見てしまった!!
縁ちゃんの『人生』を置いて応接室の扉を静かに閉めると自分は廊下を競歩選手並みのスピードで歩き去る。
賢輔さんが、あの賢輔さんがダイソンを押し倒してた。低い声で何か囁いてたし、二人ともなんかいつもより脱いでた。
暑いから? アツいから! ?
いや、でもちょっとあれはキワどい。
「ああぁぁあぁぁあ」
ああ、誰かに話したい。
誰かに話さなきゃ、一人でこの案件は抱えられない。
……でも誰に?
①香里さん:ダメだ。
ショック死の主犯として検挙されてしまう。
②かみやん:ダメだ。
絶対信じてくれない。笑われて終わりそう。
③天ちゃん:あ、いいかも。
このモヤモヤをズバッと切り捨ててくれそう。
目的地ルートを③に絞り、いつもよりも何だか熱いオフィスビルを一目散に上層界エレベーターへと向かう。
数本の透明パイプの中をガラスのエレベーターが上り下りしているフロアに来ると、自分は使用許可書にサインをして到着したエレベーターに乗り込んだ。
相乗りは二人の天使と三人のスーツの人。
皆が口々に何か話し合っているが今は何も聞こえない。
自分の頭の中をあの情景が何度も流れる。
二人の乱れた服装、ダイソンの焦りを帯びた表情、賢輔さんの嗜虐的な微笑、コーヒーのビターな香りと甘い声……
……こ、これがブロマンス? それとも B……NO!!バディものか!違うな!
無心(?)でいるうちにエレベーターは灰色の街から白いふわふわの天界へと景色を変える。
チーンとお鈴の後引く音と共にエレベーターのドアが開き、自分は入国口に駆け込むと知り合いの顔を探す。
いた。天国の門番、入国統括次長の治(じ)井(い)さんだ。
自分がおーいと手を上げると治井さんは皺を手繰り上げて笑いながらよぼよぼとやって来てくれた。
治井さんに至急、天ちゃんとの面会希望を申し出ると、彼は何かを心得たように腰を曲げながらとととと走って連絡を入れてくれた。
しばらく待つと、治井さんがぴらぴらとチラシのようなものを振ってやって来る。
渡されたのは、
〈最新版 天国観光案内〉
というパンフレット。
と、
〈十五分後、天国門前町4096番地の4「懺悔室」まで。 天利寧々〉
という震えた達筆で書かれた小さなメモ。
礼を言い走り出そうとする自分に治井さんは「迷える子羊に、どうか神のご加護がありませんことを」と真剣に祈ってくれた。
「えっと、門前町……懺悔室――」
全体的に白で構成された天国。
どの建物もだいたい屋根が尖がった教会スタイル。
懺悔室なる施設がどんなものかも知らないまま、似たり寄ったりな建物を右往左往しながら白い石畳を歩き続ける。
「たぶん、ここら辺にあるはず……」
門前町はさすが天国の入り口だけあって、色んな店が群雄割拠している。
自分はパンフレットと現在位置を照らし合わせて一歩一歩と門前町の商店街に踏み入った。
【生花 やまゆり】
【bar icon】
【定食 天使の鍋】
【床屋 Moses】
【居酒屋 はしご酒】
【喫茶 懺悔室】……あ、これか。
白い塗装が所々剥げた老舗感の漂う箱型の一軒家。
白塗りにされた鉄格子風のドアには、燻された一枚板に焼き鏝で【懺悔室】と書いた看板が掛けられている。
お洒落でキレイな店が続いていただけあって、この喫茶店は妙に古びていて、ネーミングセンスとかも、その、ヤバい印象を受ける。
「天ちゃんの行きつけ……かなぁ」
大丈夫だろうかという思いを忍てドアノブを引く。
カランカランと鳴るドアベル。
ふわりと優しいコーヒーのにおい。
ニスのきらめくバーカウンターと間仕切りのあるソファ席。昔ながらの喫茶店という印象に自分は安堵の息を吐く。
時間はランチタイムを過ぎたころで、お客の入りもまばら。
店内に入るとカウンターから白いエプロンドレスのおばさんがひょこっと顔を出した。
「あら、寧々ちゃんのお友達かしら? だったら一番奥のソファ席よ」
と笑顔で案内してくれた。
ぎいと鳴る板床を踏み、奥の席の間仕切りを覗く。
「天ちゃん、おまたせ」
白いシフォンのワンピースの幼女がふわりとした長い金の髪を三つ編みにして遊んでいた。
青い目がこちらを見るなり、天ちゃんはすぐに仕事モードの顔つきとなる。
「むう。悩めるセーショー、座りたまえ」
「あ、はい。失礼します」
柔らかな茶色のソファに腰かけてメニューを開く。
天ちゃんはすでにミルクフロートなるものを頼んでいるらしい。牛乳に生クリームを絞りバニラアイスを乗せた白い飲み物はとても白くて甘そうだ。
……今日の天ちゃん、どこか威厳ある風貌に見えると思ったら口の周りの白ひげはこのせいか。
「コーヒー……は、今は止めとこ。すいません、ロイヤルミルクセーキお願いします」
おばさんに注文すると、天ちゃんは「良い選択」と嬉しそうに頷いていた。
「天ちゃん、急に時間取ってもらってごめんね。あ、ちょっと口こっちに向けて、そうそう」
とりあえず気になるからナプキンで口元をを拭ってやる。天ちゃんは「気にしない」と言うが、時間のことかクリームか、どちらのことだろう。
そしてお互い気を取り直して背筋を伸ばす。
「さてセーショー。告解せよ」
「それがね―――」
そして自分は先ほど見てしまった 賢×輝 事件の一部始終を語る。
プライバシーを考慮して実名を伏せるが、天ちゃんはすぐに誰のことか心得た様子だ。
途中でおばさんが注文していたロイヤルミルクセーキを持ってきた。
グラス一杯のしゃりしゃりしたミルクセーキに大粒のマシュマロが乗っている。
「ありがとうございました」と笑って礼を言ったが、おばさんは何故か眉を顰めながら自分を見下していった。
……ちなみにこの件が幼女に相談する内容でないということには数日後に気付いた。
話が終わると、天ちゃんは全て了解した顔で頷いてストローくわえる。すうぅぅん、とグラスの半分以上が一瞬で吸い込まれていった。
天ちゃんは頬張ったものを胃に収めると、また一つ頷き、じとりとした目で自分を見据える。
「セーショ、よく告白した。けど、それはここだけの話にするべき」
「あー、だよねー」
自分もここでロイヤルミルクセーキを一口。
甘すぎるくらいの甘さに舌がしびれる。
「でも、あの二人だよ。犬猿の仲だったのにどうしてって、まだ信じられないんだ」
「仕方ない、恋は急に始まるもの」
そう言った天ちゃんの顔は幼子のそれではない。
この子、さては恋のキューピッドか。
「このまま進展するのかな、香里さんにばれたらとか……あーもうあの人達の顔まともに目られないかも」
「気になるのは分かる。でもセーショーが気に掛けることじゃない」
あまりに達観した意見に自分は「はぁ」と生返事を返すことしかできない。
「二人は悪くない。もちろんセーショーにも罪は無い。この件は私たちの胸の内にしまっておこう。大丈夫、セーショーは一人じゃない。」
「うん、ありがと。それが一番だね」
やっぱり天ちゃんに相談してよかった。
これから彼らに何が起こっても温かい気持ちで見守ろう。
それにしても大岡裁き並みの名解決。
これから大天使⭐︎天さんと祈り崇めたい。
「セーショー……気持ちは、楽になった?」
「うん。なんかすごくスッキリしたよ。さすが天ちゃん」
感謝を伝えるが天ちゃんは「あ、違う」と少しの戸惑いを見せた。
先ほどの率直さはどこへやら。
天ちゃんは小さな手をぎゅっと握って黙り込んだ。
「ああ、縁ちゃんのこと」
気を遣ってくれてる天ちゃんを心配させないように微笑んで見せると、天ちゃんは小さく「…うん」と頷いた。
「大丈夫 大丈夫。もう結構時間経ったし、忙しかったからそれどころでもなくてさ」
とは言ったものの、あれから自分の時間は少しも経ってない。
「なかなか進まなかった身辺整理もやっと終わったし」
彼女の『人生』をまとめながら色んな思い出が弾けては片付けられない気持ちに戸惑った。
「こんなハプニングに気を揉めるようにもなったもん」
毎日思ってた。
今日が終われば前を向けると。
なのに毎日、心は進むことを拒んでいた。
「いい加減、次の人生を支える準備しないと。また天ちゃんに殴られちゃうね」
今、自分は正しく笑えている。
さっきから天ちゃんは握った両手を見つめていた。
自分の顔なんて見ていないけど、どうしても笑顔を取り繕うことを止められない。
「その必要は、ない」
「えっ?」
「それは正しくない。セーショは間違ってる」
俯いていた天ちゃんは急に顔を上げ自分を睨みつける。
そして再び視線を伏せると握ったままの両手を額に当てた。
まるで必死に祈っているようだ。
「大丈夫なんて言わないで。時間が経っても、何が起こっても、忘れないで」
過去に受けた叱咤激励とはまるで逆の言動。
天ちゃんにしては大きな声が静かな店内に響いておばさんがちらりとこちらを見た。
「……今際で、彼女に連れて行かれた。
私の、過去……最期」
震えながら小さな唇が単語を紡ぐ。
彼女、とは縁ちゃんのことだろうか。
単語だけじゃよく分からないが聞き返そうにも天ちゃんの懺悔は続く。
「そして思い出した。全部。大和の、ことも」
大和、そういえば天ちゃんにずっと懐いてた黒猫、最近その姿を見かけない。
「私は、間違ってた。大切なことを忘れて、セーショーを殴った。それが、正しいことだって……」
「天ちゃん、もうういいよ」
あまりにも可哀想に思えて制止をかけるが、天ちゃんが大音声で「よくない!」と叫ぶ。
おばさんがいよいよこちらを警戒し始めた。
「それは大切なことだから、大切なの。大好きだった!」
祈る手の向こうから雫が落ちる。
大好きだった。
その言葉が深く胸に刺さった。
「……うん」
天ちゃんが叫ぶのは、柵の中の自分の気持ちだ。
この痛みを忘れるな、この痛みこそが自分の本当の気持ちだ、と。
「あ、りがと」
声が震えてしまう。
何となく分かってしまった。
誰もが囲いの中から叫んでいた。
彼らも自分の片割れを愛していたと。
でも、不安や虚勢がそれを覆い隠して、他に悟られないようにしているうちに忘れてしまった。
でも目の前の天使は肯定してくれた。
これからも縁ちゃんのことを好きであっていいと。
それが大切だと痛いほどに教えてくれた。
「ありがとう。天ちゃんは優しいね」
「ふわーん、セーショーのばか、ばかぁ」
そして二人でさんざん涙を流し、安い言葉で愚痴り合い、最後の紙ナプキンを奪い合った。
激甘のミルクセーキを飲み干して、目尻が赤くなったおばさんが持ってきてくれた水を一気に呷る。
「はー。なんだかんだ、みんなにすごく迷惑かけたよね」
「うん。お礼、まだ行ってないなら行くべき」
「そうだね、今ならみんなに会いに行けるよ。ありがと、天ちゃん」
今、自分は正しく笑えている。
天使が押してくれた背中はまるで羽が生えたようだ。
みんなの気持ちから逃げていた日々と決別し、前に進み始めた気持ちと感謝を連れて、自分は【懺悔室】を後にした。
「いってらっしゃい」
ーー
寧々の涙が染みたしわしわのナプキンに描かれた地図。
自分はそれを頼りに天国から下に、下にと降りていく。
途中で大きな釜の中に入ると別の釜から吐き出された。まるで土管に入る赤い配管工のゲームみたいだ。
そして西部ガンマンが撃ち合いしてそうな荒れた土地を黙々と進む。
手描きの地図の精度を疑い出す頃、遠く目の前にぽつんと建った一軒の古い長屋が見えた。
ここだ。
【八(はち)大(だい)市黒縄(こくじょう)四丁目畏(い)鷲処(じゅうしょ)~テンペスト黒縄~】
自分は『死神』のかみやん、こと上谷紅紫を尋ねて地獄に来た。
第一村人は黄色の作務衣の大きなおじいさん。
箒で長屋の前を掃いていたが、自分が声をかけると快く中に入れてくれた。
開閉の度に軋む鉄扉とかスリリングでホーンテッドな雰囲気だが、本当にここがあのかみやんの家なのだろうか。
「部屋はたくさん空いてるからの、好きな所を使ってくれな」
どうやら入居者の内見か何かと思っているのだろう。
自分は
「あの、僕。かみや……紅紫さんに用があって来たんです。その、魂の回収でお世話になって」
「おお、もしかして君がセーショー。あちゃー、紅紫ならさっき街に出て行ったよ」
「ああそうですか。それなら、また後で伺います」
天国から端末で連絡したときは確かにここにいると聞いたのだが、急用でも出来たのだろうか。
応対してくれた赤ら顔の大きなおじいさんは太い眉尻を下げて「すまんなあ」と頭を下げる。
「ああ、いえ。自分が思い立ったように来たものですから。いつ帰られるか分かりますか?」
「仕事の電話だったみたいだが、ほれ、端末も鎌も忘れて行ってしまったよ。良ければ届けてほしいんだが……」
確かヤマさんと言った長屋の管理人は、背後の鎌架から紅紫のあの大鎌を取って自分に渡そうとする。
「えっ、いやいや無理です。良くない。持てませんって」
「大丈夫だ。ティリアンは標準より軽いから」
「ティリ? いや、まあ重さもですけど、かみやんの居場所も分からないし、地獄に来たの初めてだし。それに、そんな大切な物、僕が持っちゃダメでしょう」
鎌持って街にくり出すとか、すごく大胆な銃刀法違反だ。
「だーい丈夫。紅紫はあんまり気にせんよ。儂もそろそろ出ていく時間だから。宜しく頼んだ」
どすどすと重たい音を立て、ヤマお爺さんは無責任にも自分を置いて長屋を出て行った。
「無理だよ、こんなの」
とりあえず机に立て置かれた鎌がちょっと怖かったから鎌掛けに戻そうと試みたが、
「え、あ、無理無理ムリ! 重っ」
だって身長と同じくらいの鎌だもん。
全部鉄だし。
持ち損ねた鎌はガランガランと派手な金属音を立てて土間に倒れてしまった。
「あ……うん、仕方ないよね」
自分はそのまま長屋を出ると、オフロードな足元に苦戦しながら地獄の回転釜の方へ戻って行った。
来たときに教えてもらった使い方を思い出し、釜の横にあるハンドルを回す。
目的地「閻魔の庁」の角度に設定して蓋を開けると煮えた湯の先に街が見えた。
「なんで地獄ってこんなホラーシステムなの」
異文化をディスり息を止めると、自分は一思いに煮え湯に飛び込んだ。
「―――ぷはっ」
一瞬で煮え湯の向こうに到着した。
つんのめるように降り立ったのは回転釜ではなく、一つの枠の中を行く用・来る用に区切った火鍋スタイルの釜だった。
みんな当たり前のように鍋に入っては消えていき、地下街の階段を上るように鍋からにゅっと登場してくる。
「カルチャーショックって、これかあ」
郷土差というものを久しぶりに痛感した。
釜処を出ると何だか見覚えのある街がそこにあった。
「渋谷……じゃないね」
でもそんな感じ、ただし建築物や行き交う人はみな黒か赤を基調として全体的にゴテゴテしている。
緑のパーカーとか着ている自分がものすごく浮いて見える。
「やだ、帰りたい」
天国で膨らんだ自信と希望がみるみる萎む。
大体こんな
一歩も踏み出せずに立ち竦んでいると「まぁぢでー」「まぢまぢ」という呪いの嬌声が聞こえた。
振り返るとボロボロの黒い布を幾重にも纏い、皮膚まで黒化したメラノイド女子二人が、一つの端末の画面に向かって呪詛を唱えている最中だった。
「えーコレ紅紫(これは紅紫さん)? チョー久ぶりだし(久しぶりに拝見します)、まっぢかっけー(本当に格好良い)」
「モノホン(本物でしょうか)? パね(すごいです)、え、これマノチョ(あら、ここは閻魔の庁ですか)?」
ちらりと覗く画面には爽やかに微笑むかみやんの姿。
見知った姿にまたも涙腺が緩みそうになった。
そして彼女たちの呪怨は止まらない。
「そー010スタじゃねー、(はい、臨終ビルのスタジオでしょう)復帰マジやべえーし(復帰されるとは素晴らしい)」
「それ超ニュース、(それは素敵なお知らせ) ソッコー拡散!(早速皆さんにも教えましょう)」
二人は狂ったように画面を指で突き、甲高い笑い声だけを残して去って行った。
「はあ、010ビルの、スタジオ……」
顔を上げるとそれはすぐに見つかった。
スクランブル交差点の向こうに高々と聳え立つ建物。
道行く人を吸い込んでは排出している庁内最高規模のモンスタービルだ。
黒い人だかりに混じって赤黒の横断歩道を渡り店内へと踏み入れる。
「う……わっ」
店内は濃い薔薇の香りが鼻を刺し、フロア一帯に激しいロックとデスボイスが鳴り響く。
具合が悪い、正直もう帰りたい。
この経営方針で購買意欲が上がるなんて、何て呪い。
店内案内でスタジオを探すと十階にどうやらそれらしい場所がある。
人口密度の濃いエレベーターがのろのろと上へ向かう。
上に行くにしたがって人も捌け、ファッションフロアも過ぎた上層階まではほとんど誰も乗って来なくなった。
そして目的の十階。
エレベーターを降りるなり黒い壁が視界を遮る。
テナント募集中? そう思ってフロアを一歩きすると、あった、撮影所の受付。
しかしここで難題だ。
「あの、すみません。中に神谷紅紫さんって方いますか?」
「申し訳ございません、お客様の呼び出しなどは受け付けておりませんので」
取り付く島もなく営業スマイルでぶった切られる。
自分は「あ、すいません」と退かざるを得ない。
「はぁ、どうしよう」
せっかく勇気を振り絞っつ来たのに、これでは居るかさえも分からない。
身寄りも無く、ふらりと自動販売機の前で途方に暮れる。
頑張ってここまで来たのに……
なんか喉かわいちゃった。
自分はちょっと休憩しようと自動販売機に並んだ商品を眺める。
「地獄の釜炒りコーヒー」
「微淡酸ブラッドオレンジ」
「ガンガン刈死有無(カルシウム)」
「鬼子母神(きしぼじん) 子安(こやす)の柘榴露(ざくろジュース)」
「超蕃椒(ハバネロ)⭐︎ 仙人掌(サボテン)」
「荼毘焙煎(だびばいせん) 法事(ほうじ)茶(ちゃ)」
「鬼清水」
自販機に並ぶ地獄オリジナルドリンクの独特なテイスト。気になる商品ばかりだが、何か買ってみようにも飲むには少し怖かった。
「……もう帰ろ」
また今度出直そう。
もうこんなところ嫌だけど。
溜息交じりにそう思った時だった。
「お? セーショー」
知った声に振り返る。
臙脂のシャツに黒のジャケットを肩で羽織った見知らぬ男が長財布片手にこちらに手を振っている。
ちゃらりと瀟洒な様子がナンバーワンホスト
……いや若頭のような風体を醸している。
「かみ……?」
ピンと来ないまま半眼で睨みつけていると、男が爽やかに前髪を軽くかき上げる。
前髪の奥の緋色の瞳が俺だ俺だと訴える。
「か、かみやんっ?」
いつも爽やかなかみやんしか見たことがなかったし、化粧とか色々黒いから分からなかった。
かみやんは笑顔を見せると一歩後には真面目な顔で自分に向かって深い礼を取る。
「セーショー。この度は、御愁傷様(おつかれさま)でした。その、俺の早計がお前を苦しめた。……その、すまなかった」
「こ、こちらこそ。勝手ばっかりして、迷惑、かけて、ごめん。なさい」
「いやいや俺が」
「いや僕が……」
なんて、二人で深々頭を下げること暫く。
お互いわだかまりがあったけど、それもこの数秒の内に消え去った。
あの時は、二人ともただ必死だった。
互いの大切なものを守るには互いの意思が障害となっていた。
しかし今は違う。
もう互いの障害は受け入れた。
素直になれば苦は無かった。
どちらともなく顔を上げると、二人でばつが悪そうにはにかんで見せる。
「で、どうした? なんでセーショーが地獄(ここ)にいるの」
かみやんが自販機の前に立ち、前衛的なラインナップを眺めながら問う。
「その……かみやんに今回のこと、謝ろうと思って」
かみやんが驚いたようにこちらを振り返る。そして照れたように笑った。
「それてわざわざ地獄まで? 本当は俺が行かなきゃいけないのに、ありがとな。何か飲む?」
かみやんは勇敢にも「鬼子母神 子安の柘榴露ジュース」をチョイスした。荒れ狂う鬼子母神の真っ赤なラベル缶がガコンと落ちてくる。
「あ、いや。あー。じゃあ、オススメご馳走してください」
折角なのでお言葉に甘えることにした。
かみやんは自分にどのご当地ドリンクを選んでくれるのだろう。
「じゃあこれかな」
かみやんがオススメしてくれたのは「微淡酸ブラッドオレンジ」。一番シンプルな商品だが、よく見ると微炭酸じゃなく微淡酸だ。
一体どんな味なのだろう。
「ありがと」
カシュっとプルタブを上げるとふわりと甘酸っぱい香りが立ち上る。
「俺それも好きなんだ」
かみやんはもっとコーヒーとか水しか飲まなそうな印象だったが、意外とフルーツフレーバーが好きというちょっとした発見。
飲んでみるとグレープフルーツのような微かな苦みとほのかな酸味、そしてやわらかな炭酸がしゅわりと弾けて広がった。
「ほんとだ、おいしいね」
どこか切なさに似た味が、今の自分に馴染むのだろう。二人で黒い壁を背にしてちびちび缶を傾ける。
「ところで、かみやんはそんな恰好で何してるの」
「ああこれ? 礼服の撮影。今は休憩中なんだ」
「へー」
礼服って、どういう服だっけと思いながらちらりとかみやんを見る。
ブラックフォーマルの定義はさておき、男の自分から見てもかみやんは格好良い。
彼にとってモデルは天職だろう。
しかし風の噂で休職中と聞いたような気もしていたが。
「モデルの仕事、再開したの?」
「ああ、休職解いた」
「なんで?」
「秘密」
「教えてよ、ケチ」
自分さ格好良く笑うかみやんを軽く蹴ったくる。
かみやんはそれを避けながら「じゃあ少しだけ」と言って缶を呷った。
「俺な、昔むかーし探し物をしてたんだ。頑張ったけどずっと見つからなくて、そのうち探し物は忘れ物になって、最近じゃ見つけることも忘れてしまってたんだ」
「あー、それよくある。そういう時、僕は歳のせいかなって思うようにしてる」
「いや、ダメだろ」
かみやんは素早いツッコミを入れると、残り少ない缶の中身をちゃぱちゃぱと振ってから飲み干した。
「最近では何で頑張っていたのかも忘れて、苦しくて不安だったんだ。で、モデル活動を休止した。安心したかったんだ。使命に集中していればこの意味の分からない苦しみから解放されるって信じてたから……でも思い出しちゃった。だからまた頑張って探そうかなって、思って」
冗談のように語るかみやんはずっと切なそうに笑っていた。
「……要点を得ない」
「なんか天ちゃんみたいな言い方」
かみやんに肩を小突かれ、持っていた缶の中身がちゃぽんと波を立てた。
「モデルしてたら、それが見つかるの?」
「さあ。無駄だとは何回も思った。でも俺はこの方法しか分からないから」
多分、分かった気がした。
かみやんが探しているものは多分もう見つからない。
それはもう彼の過去の中にしか存在しないものだろうから。
「探せたら、それでいいの?」
「ああ、きっと。それだけでいい。もう忘れたりしない」
決意を宿したその瞳にはもう見えている。
過去に置いてきた大切なものが。
「かみやんって、意外と不器用だね」
「うるせー」
かみやんが照れたように自分の頭をくしゃくしゃと撫で回した。
何にせよ、かみやんはもう見つけたんだ。
そしてこれからもそれを忘れないために探し続けるのだろう。
「す……素晴らしい」
二人で詰り合っていると、どこからか知らない男の人の声がした。
「来たよ……降りて来られた。芸術のぉ神がぁ!」
「あ、監督」
すごい大声を発しながら、柱の影から小さくて派手なおじさんが生えてきた。
顔見知りだろう、かみやんがどことなく引き攣っている。
「紅紫、そして君。素晴らしい、素晴らしいよエクセレンッ! 私は求めていた。復帰した紅紫は過去と同じではいけない。飢えた読者の刺激となるエッセンス、それが君だ」
小さいおじさんは大きな声と身振り手振りで胸の内の情熱をプレゼンしてくる。
「かみやん、あれ誰」
「監督、地獄では結構有名人」
二人でひそひそと話している最中にも監督は止まらない。
「友人と戯れる何気ない瞬間、仕事では見せないオフの顔にファンは震えるだろう。時代はクロスオーバーと化学反応を望んでいるのだ! ほら、もっと語らい給え。何ならバーでも居酒屋でも貸し切ろう」
監督の背後に謎の後光が差す。
光源がない廊下でここまで輝けるなんて、只者じゃない……
「なに、良いようにしかしないさ。ところで君、名前は」
「ま、枕野総司です」
「ソーシー・マクラノ。良い名じゃないか。やってくれるな!」
その迫力たるや否応呑み込まんばかりで、自分の首がこくこくと勝手に動いた。
かみやんが「セーショ」と小さく窘めるが、仕方ないだろ。
「おお、これは歴史に一石を投じる選択だ。紅紫、素晴らしい友人を持ったなHAHA!」
廊下に響き渡る監督の笑い声。
一通り落ち着くと監督は誰もいない廊下で「スターッフ」と叫ぶ。すると、どこからともなく委細承知のスタッフたちが機材を持って現れ、自分とかみやんは異議を唱える間もなく攫(さら)われていった。
「さあ、もっと! 見たことのない顔を見せておくれ!」
ーー
知らない間に夜は明けていた。
二度寝を誘う緩むような気温、ゆるゆると気怠い体が柔らかな寝具に埋もれている。
ここのところ、ろくに熟睡できていなかったからこんな気分で朝を迎えたのは随分久しぶりだ。
寝ころんだままぼんやりと窓から差し込む朝の白い日差しに目を瞬(しばた)かせる。
「……ッ、ここどこ?」
がばりと飛び起き周りを見渡す。
全体的に白い部屋。
芳香剤に交じる消毒液のにおい。
ガラスの器具が並ぶ棚。
目に飛び込む全てに見覚えがなくて困惑する。
「あ、総司くん、起きた?」
白衣姿の香里さんが棚の向こうからひょこりと顔をのぞかせた。
試験管を片手に、今まさに仕事中という様子で。
時計を見るとすでにお昼目前という時刻だ。
「わ、な、なんで自分こんなところでっ」
「まぁ、こんなところとは失礼な」
慌ててこぼれた失言に香里がぷんと頬を膨らます。
「今朝方、紅紫くんから連絡があったの。総司くんをちょっと呑み潰しちゃったから看てもらっていいか、って」
「あ、それは、その。ご迷惑おかけしてます!」
寝かされていたソファから跳ねるように立ち上がる。
早朝からどれほどの迷惑だったかを察すれば自然と頭が深々と下がっていく。
「いいのよ、総司くんもたまには羽目外さなきゃね」
そう言って微笑む香里のサイドテールが揺れる。
菩薩のような心の広さ、そして優しさ穏やかさ。
これほどまでに出来た人と同じ所属だなんて……
見上げるような彼女の徳の高さに上げた頭が再び下がる。
「そうそう、紅紫くんにも一言連絡しておいてあげてね」
「かみやんに?」
「うん。総司くんを連れてきた時、紅紫くんも随分へろへろしてたから休んでいけばって言ったんだけど、仕事があるってすぐに帰っちゃたの。総司くん潰すまで飲ませたこと、気にしてるみたいだったわ」
昨日のこと……だめだ。あの監督という人が現れてから自分の記憶は何もかも嵐の後のように吹き飛ばされている。
ただ、彼の笑い声だけが二日酔いのように頭の中を錯綜していく。
「うっ……」
「総司くん、まだキツいなら無理しないで寝てていいからね」
「いや、これはちょっとした精神的外傷なので、もう酔いは醒めたので大丈夫です」
香里さんは「そう」と安堵したように微笑むと棚の向こうに消えていく。
自分はソファに座って昨日からの色々を思い返した。
今までにないほど縦横無尽な行程だった。
一部分記憶にモザイクがかかったり消去されてるところもあるけど、とりあえず皆の元気そうな姿を見られて安心した。
あれからひと月。
思えばここまで来るのにひどく迷走したものだ。
縁ちゃんの生命の永遠を願って、禁忌を犯してでもそれを証明したくて。結果、踏み外した。
そして混乱だけを生んで、結局何も成し遂げられなかった。
これだけ世間を騒がせておいてまだ自分が『書記』として存在できるのは、賢輔さんや僕を知る七天のみんながあれこれ手を尽くしてくれたからだろう。
「あら、総司くんどうしたの、泣いてるの」
柔らかな紅茶の香りに目元が緩む。
「いや、自分がこんなにも愛されるって、実感してしまって」
つい恥ずかしいことを言ってしまった。
香里さんは柔らかく微笑むと自分の隣にすっと腰かけた。
自分は差し出された紅茶を受け取ってその湯気と香りを吸い込んだ。
じんわりと暖かな紅茶の温度に残る不安も溶かされるようだ。
二人黙って座っていたが、唐突に香里さんが「私ね、」と言って天井を見つめた。
「もうすぐ流れようかと思うの」
「えっ……」
唐突な告白に、何と言ったのか理解出来ないでいた。
流れるとは、つまり使者であることを辞めるということ……だろうか。
「どうして?」
「私、賢輔さんに……フラれちゃったの」
……言葉が出ない。
いろいろと理解が追い付かないうちに香里さんは話を続ける。
「そりゃそうよね、私たち使者の恋心はまやかしで、私たちの向ける愛と献身って義務付けられたものだもの。分かってたけどね、愛してるんだと思ってたのよ。特別だったの」
知っている。
彼女がどれだけ賢輔さんを慕い、支え、愛情を示していたか。
人の世が幾遍の変革を起こそうと変わらなかった香里さんの恋心。
いつの間に、その想いに終止符が打たれたのだろう。
「今まで片想いでも楽しかったわ。毎日わくわくしてたの。でも今は何も浮かんでこない。これからの永劫をどう過ごしていいのかもう分からなくなっちゃった」
「そ、んな。でも流れることない、よ」
『書記』なら片割れと代わり現世に流れることができるが、片割れのいない『終末』に後はない。
流れればただ消えてしまう。
「私は、私の愛をね、探したいの」
香里さんは悲しそうに笑う。
自分も縁ちゃんを愛していた。
しかしそれは義務で、報われないことを知っていた。
悔しいがよく理解していた。
だから愛している証明が欲しかった。
それはもう叶わなかったけど、今もまだこの胸に残っている。
自分は熱い紅茶を一息に飲み干しソファから立ち上がる。
うつむく香里さんの目の前に立ち、ぐっと震える手をを握る。
「……香里さんは、ちゃんと香里さんの愛を持ってた。叶わなかったかもしれないけど、義務に縛られてなんか、なかった」
「そう?」
自分が大きく頷くと香里さんは震える声で笑って見せた。その頬に涙の筋が走る。
その涙は、感情は、愛ゆえ。
そう信じたいし、そう信じてる。
今ひとつ、やるべきことが見つかった気がした。
「香里さん、紅茶ごちそうさま、俺、ちょっと行ってくるから」
泣いた彼女の涙を拭うのは自分じゃない。
自分は研究室を出ると端末を耳に押し当てながら走り出した。
「もしもし、ダイソン!」
春の河原を走りながら、自分は笑っていた。
ーー
あの人の死は地元新聞のおくやみ欄の一行になった。
彼女の死はネットニュースで少しだけ世間を騒がせた。
その子の死は、報じられることも悼まれることも無く、誰の記憶にも残らなかった。
そんな一事に心を乱される自分は、死者にも成り切れていない、まだほんの人間なのだろう。
この思いは青空を行く雲のように、
水面を流れる笹舟のように。
切った手首から流れる血のように。
悠然と混迷しながら、ゆるく、ゆるく時代に流れ続けている。
世間を生きる人はこれらに気を留めつつも、それは無かったことのように自分の日常に没頭する。
過ぎ去る日常に撤し、
起きる様々を黙し、繰り返すんだ。
その身に死の運命が訪れるまで、
SEVENTH HEAVEN すうさん. @suuudot
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