Code _Theventh heaven



目を開けても自分はまだ瞬きの中にいるようだった。


真っ暗闇の中、落ちることも浮くこともない。

いつか居たような心地の良さに膝を丸めながら、


ただじっと漂っている。



――こぽり


安息の瞬きは次第にまどろみに溶けていった。


「……ザー」


―――


御簾の向こう。


聞こえるのは篠突く雨音。


トン、トンと穏やかな調子で廊下を渡る衣擦れの足音。

遠くで、大門のかすがいが低く軋む音がする。


こんな夜更けに大門は何度も開閉を繰り返す。


自分はただ閨に臥してその情景を聴いていた。


「……人と成る 事は難きを わくらばに――」


誰かが歌っていたこの歌。

続きを思い出そうとしていたら、背後から細い腕が絡まってきた。


「その歌、私は嫌いです」


ぎゅっと背中に抱き付きながら、彼女はそう言った。


「死に生きも 君が随にと思いつつ……」


寝返りを打ち、彼女と向き合うようになり、その綺麗な黒髪を指で梳いてやる。


「もうっ」


髪を梳かれて機嫌を良くした彼女を抱きしめたまま、自分はその歌の続きをそらんじた。


冬の凍てつくような夜。

自分たちはこの一時を惜しむよう、最後の夜に共寝をしていた。


「……留まることは、出来ないのですか?」


低い雷鳴が閨に響き、胸の内の彼女が小さく震える。


自分は明日の夜明けにここを発つ。

遠く、遠くの土地に行くのだ。


「だめだよ、行かなくちゃ」


本当は行きたくない。


しかし御命はとうとう覆らなかった。

彼女がこの歌を嫌うのもよく解る。

目覚めたら彼女は一人取り残される。

明日から長い間、互いを惜しむ日が続くのだ。


もしかしたら生涯の別れになるかもしれない。


「我は恋ひむな 見ず久しなば」


そして歌は終わる。

胸に抱く彼女の柔らかな黒髪を梳きながら、その涙に気付かないふりをした。


今も、この夜が明けなければいいと願っていた。


この夜から、ずっと。

後悔は、

今も。



――ごぽり




「――じ……うじ、おい、こら総司!」


突然、全身を打ち付けるような衝撃。

心地よい世界から感覚が離れた。

重たい身体はびしゃりと路肩の水溜まりに倒れ、ひどい倦怠感と寒さに身じろぎするにも力が入らない。


「総司、起きろこら」


誰かに肩を掴まれ乱暴に揺すられた。


「……ッっ、ごほ、ごほっ」


肺にまで詰まっていたかのような大量の水が噴き出した。

ふらりと揺れる狭い視界に映ったのは青いつなぎを着た小柄な少年の姿。


「だ、ダイソン?」

「お、気が付いたか。なら早く起きろ、今回のは結構ヤバいみたいだからな」


輝晃は険しい表情で辺りを見渡す。

その緊迫した様子に気だるさをおしながら路肩の汚い水溜りから起き上がる。


ビルの壁にもたれながら周囲を警戒したが、街行く人はいつも通り流れを作っている。


「こ、ここは何、これはどういう……」


自分は状況が全く掴めず輝晃に尋ねた。


「ここは音重縁の今際の世界だ」

「……えっ」


この何の変哲もない街が縁の今際の世界。

そうだ、縁ちゃんはさっき死んでしまった。

思い出すと胸が締め付けられるように痛む。


あんな、最期だったのか。


あんな最期なら無念が残って然るべきとは思う。ここが縁ちゃんの今際の世界というならば、この街のどこかに彼女の後悔があるということ。

しかしこの街はあまりに普通で、彼女の姿も、遺した後悔も見当らない。


あれだけ彼女の隣に居たのに。


「お前はさっきまでこの張り紙の中に取り込まれてたんだよ。まったく、俺が機転を利かせて助け出してなきゃ今ごろ……」


輝晃がばんっと壁の張り紙を叩く。

示されたのは等間隔に貼られた妊婦の腹部を写したポスター。抽象的ながらも文字も標語も掲げないそれが訴えたいことはよく解らない。

この写真の中に自分が入っていたなんて、どういう事だろう。


「ありがとうダイソン。助かったよ」

「ああ、じゃあ他の奴らも出してやらないとな」


輝晃は「手伝え」と言って手近なポスターをびりっと破いた。

すると破られた場所から『終末』の香里が水を滴らせながらずるりと出てきた。


「香里っ」


輝晃は地面に落ちそうになる香里をぎりぎりで受け止めた。

自分も輝晃に習い、残り二つのポスターを破く。


「天ちゃんっ!かみやん!」


破いた紙の裂け目から『死神』と『天使』の二人が出てきた。

いつもなら身軽な彼らが受身も取れずにどちゃりと水溜まりの上に倒れる。その衝撃で呼吸を始めた二人はげほげほと水を吐出すと疲弊しきった様子でじっとアスファルトを見つめている。


「二人とも、大丈夫?」


ぼんやりとしたままアスファルトの水溜りを見つめる寧々に対し、紅紫は鎌を杖にして立ち上がろうとしていたが覚束ない足はぐらつき膝を付く。


「かみやん! まだじっとしてて」

「…はぁ…はぁ……『……』?」


紅紫の肩を支えると、彼の上がった息の合間に誰かの名のようなものが聞こえた。


「えっ?」


それは今時に聞かない名のようだ。

おそらく紅紫も懐かしい夢を見ていたのだろう。

今際の世界で使者が魂に取り込まれるなど初めての出来事だった。


「かみやん?」

「あっ……せ、セーショーか。ここは……今どういう状況なんだ」


正気に戻った紅紫が辺りを見渡し問う。

自分は膝を付き咳き込む寧々の背を撫でながら答える。


「ここは縁ちゃんの今際の世界だって。自分も、今まで夢見てた。昔の」

「そうか、……あれは夢、だったんだな」

「うん、みんな無事でよかった。ダイソンに起こしてもらったんだ」

「えっ、輝明くん?」


驚いた紅紫が振り返ると香里を介抱していた輝晃もこちらに視線を寄越した。


「おい紅紫、てめえが居ながら魂に取り込まれるとかダセェ事してんなよ」


輝晃が紅紫を真っ直ぐ見据え喝を入れる。


「すまない輝晃くん。でも何で君がここに……」

「うるせえ、俺の香里をこんな目に遭わせやがって」


紅紫の言葉尻を蹴り、輝晃は腕の中で横たわる香里を心配そうに見つめる。


「……私、ダイソンくんのものになった覚えはないよ」


胸を抉るような香里の言及。

輝晃は大きな咳払いをして場を流そうとした。


「ともかく、今際に『終末』を巻き込むのは好ましくない。早々にカタを付けに行くぞ」


輝晃は目標の居らんとすべく場所へ向かおうと立ち上がる。

しかしそれを紅紫の鎌がすっと遮った。


「待って。『終末』もだけど、何より『忘却』が出る場面じゃない。輝晃くんは香里さんと一緒に待ってて」

「あん?」


鎌を向けられた輝晃は些か不快感を露わにする。

輝晃は立ち上がると鎌の刃を指で摘まみ、紅紫からすっと鎌を奪い取るとそれをぽいっと放り投げた。

アスファルトの上をガラガラと音を立てて鎌が回る。


「なっ?」

「確かに、今際に『忘却』が関与する場は無いな。だが居てはいけない決まりはない」


輝晃は唖然としている紅紫の肩をぽんと叩く。


「まぁ邪魔にはならないだろ、俺はここに居る理由がある。総司、見届けさせてもらうぜ」


びしっと親指を立ててキメ顔で振り向く輝晃。

自分は「はい」と言うしか選択肢は無かった。



かくして、香里を一人残すのも危険だということで五人全員で縁を探すことになった。

しかし、行き交う人々の中に縁の姿は無く、街は後悔を顕現することも無い。


「ねえ、ダイソン。さっきのアレ、どうやったの?」


自分は前を行く輝晃に尋ねた。


「アレって?」

「かみやんの鎌。どうやって取ったの」


こんなこと言ったら制裁を受けるだろうが、輝晃は身長も低く手足も細い。頭脳と自尊心の他は色々と未発達の少年だ。

対して紅紫も細身ではあるが鍛えられた肉体を持ち、『死神』としての実力も上級の部類にある。

それなのになぜあんなにあっさり得物を奪うことができたのか。


「そんなの簡単だ。俺の方が強かっただけだ」

「ははっ、そんな――」


まさか。

と言おうとしたその先は輝晃の真剣な視線に塞がれた。


「俺は強い。そう信じる力が紅紫よりも強かっただけだ」

「それって、どういう?」

「今際の世界は夢に近い構造だ。そしてこの世界を創っているのは対象の音重縁。つまりこの場で最も影響力があるのは彼女の意思だ。だが彼女に自由は無い。自分の後悔に囚われているからな。しかし俺たち使者はこの夢の中で思い通りに動けているだろう」


輝晃の講義をふんふんと頷きながら聞く。

相変わらずすごい着眼点だ。


「この夢というフィールドの中で俺たちの強さを示すのは確固たる意志だ。物理的な力はあまり影響されないと言っていいだろうな」

「えっ、じゃあかみやんの鍛錬は意味がないってこと?」

「それは違う。鍛錬によって体得したこと、成功のイメージや自信は今際の世界で何より強力な武器となる。可能なことだけが不動の力量だと言えるし、そこに意志が加わることで力はより強くなる」


確かに、自分たちはこの不確定な世界で知らずの内に普通であろうと努めている。

現実の可能なイメージが逆に不可能を浮き彫りにしていたなんて。


「ダイソンすごい。なんでこんな発見をみんなに黙ってたのさ」


これは世紀の大発見と言っても過言ではない。そのイメージがあるだけで魂の回収はうんと簡単になるだろう。


「黙ってたんじゃない。そもそも俺は今際に赴くのはこれで四回目だ。俺が『書記』の頃の三回と今回。構想はあったが、ここに来て今確証した」


さすが異端の風雲児。

考えることが普通ではない。


「すごい。ならその調子で早く縁ちゃんも見つけてあげて」


彼が探すとなれば縁との再会も近いはず。

堂々巡りで不安だった気持ちが俄かに湧き立つ。


「うん。俺はさっきからずっと対象を見つけ出そうとしているが、それでも一向に見つからん」


輝晃は眉間に皺を寄せ、自分を見上げるように首を傾げている。


「俺の理論上、これは俺より強い誰かの思惑が働いていると睨んでるんだが……」

「それは、だ、誰?」


まさか外部からの干渉でもあるのだろうか、輝晃の推理の先に固唾を呑む。


「はぁぁぁぁー」


輝晃が長い溜息を吐く。

これはどう反応したらいいのだろう、まさかここまで言っておいて真犯人は自力で考えろとでも言われるのだろうか。


「総司、お前は何を考えてるんだ?」


どうしてここで自分に話が向くのだろう。唐突に話を変えられて自分は目を丸くする。


「え? どういうこと」

「『書記』であるお前の意思は、この場において対象の次に強い。総司が願えば彼女は見つかるはずだ。なのに見つからない。お前、彼女を見つけたいと口で言ってはいるが、本当は会いたくないんじゃないか?」


その言葉に自分は衝撃を受ける。

今すぐにでも縁に会いたい。それは紛れもない真実だ。しかし一方で、会えたらそれが最期になってしまうだろう。それに、得体の知れない彼女の後悔に触れるのは怖かった。


自分のこの迷いが縁ちゃんを隠している。ということだろうか。


「総司が見つける気がなきゃ誰も見つけられないんだ。総司、お前はどうしたいんだ、意志を見せろ!」


「僕は……早く縁ちゃんの後悔を見つけて楽にしてやりたい」


そう心から思った途端、灰色の街にかかっていた靄がすっきりと晴れていく。

時間が止まったように流れる人混みは残像になり、目の前に物憂げに微笑む彼女が立っていた。


単純に嬉しかった。

もう会えないと思っていたから。


「……見つけた、縁ちゃん」


すっと差し出した手に縁の白い手が重なった。

どれほどこの時を望んだか、やっと繋げた彼女の温かい手。

縁ちゃんは自分を見つめ、淡い微笑みを向ける。


「えっ、総司君?」

「セーショー、それ、どういうこと?」


背後で動揺の声が聞こえた。

嬉しさも束の間、この現状の違和感に気付いた。


得体の知れない彼女の後悔の、その正体。


「……何で、僕なの?」


縁は微笑んだまま何も語らない。

ただ自分のことを見つめてくれている。


「総司君どういうこと。何で彼女は総司君のことが分るの」

「もしかして、彼女の後悔は……セーショー?」


皆が口々に疑問を投げる。

生者が知り得ない『書記』が後悔になるなんて、そんなこと普通ならば起こらない。


通常、今際の世界と言えど使者は事象の一つであり、対象の目に触れることは無い。しかし彼女は自分のことをしっかりと認識している。

夢で二回会った事があると言えど、自分が彼女の後悔に成れるほど親睦を深めた訳ではない。

と思う。


一体これはどういうことなのだろう。

縁は一体自分に何を求めているのか。


「待て、みんな早まるな。万が一違ったら」

「でも、輝晃くん。もし、万が一そうなら……」


周囲から疑念の目が向けられる。

なぜ出会うはずのない縁と自分が認識し合っているのか。

こう考察するものもいるだろう。

ここにいる自分は『書記』枕野総司ではなく、昇華されるべき彼女の『後悔』なのかと。


「紅紫、待て!」


『忘却』の制止をよそに『死神』が鎌の柄を握り直す。その困惑と不安の混じった眼がこちらを向く。

鎌首がひゅっと軽く風を切って振り上がり『死神』の赤い双眸と目が合った。


「か、みやん?」


その黒い瞳孔が向かうのは縁ちゃん。

ではなく自分に向いていた。


「待って、僕じゃな、うわっ!」


辛うじて鎌を避けると自分は彼女の腕を引いて走り出した。


逃げなきゃ。


彼らが何を考えているかは分からない。

しかし良くない一線を引かれたということははっきりと分かった。


足が全力で街路を駆ける。

後ろから追って来る声と気配。


自分は縁ちゃんを連れ去るように街の中に混ざり、必死で彼らを振り切った。



「くそ、撒かれた……おい紅紫、お前、総司をどうするつもりだった」

「切るつもりだったよ」

「切るって、殺すつもりか?」

「殺しはしないさ、ただ、この今際では対象が認知するものが鍵になる。あのセーショーは対象の『後悔』かもしれない」

「違ったらどうするんだ」

「これは非常事態だよ、輝晃くん。このまま俺たちが全滅する方が問題だ」

「だとしても、そのやり方は間違っている。もし総司が死んだら魂は流れてこの今際は閉じるんだぞ」

「そんなこと分かってるよ! でも腕の一本くらいは切ってみないと分からないじゃないか」

「なっ、総司が逃げたから良かったものを、あいつらが本気で見つかることを拒んだら、俺たちは今度こそ今際に閉じ込められるぞ」


輝晃が紅紫の胸ぐらを掴みにかかる。


「ねえ待って、二人とも落ち着いて。紅紫君、総司君が『後悔』のはずはないわ、だって彼女は総司君のこと知るはずがないのよ。きっと、人違いか何かよ」


香里がその間に割り入った。

しかし寧々が香里の擁護を刺す。


「じゃあなぜセーショーは逃げたの?」

「それは……」

「セーショーは弁明も説明も出来ない疚しさがあったから、逃げた」

「総司君はそんな不誠実な人じゃないわ」


剣を含む疑問の応酬。

皆が向かうべき方向を見失い困惑と苛立ちを隠せずにいたとき、輝晃が声を上げて断言した。


「あーもう、みんな聞け! あれはただの「枕野総司」だ。ヘタレでお人好しで決まりきれないいつものあいつだ。俺が保証する」

「輝晃くんが保証しても一緒だろ、事実セーショーは逃げた」

「あいつが逃げたのは俺たちの憶測が急いた結果だろ、今にも殺されそうな土壇場で立ち回れる度胸は総司には無い!」

「そう、ね。私もそう思うわ」


輝晃は話を続けた。


「総司を傷付けても何も解決しねーよ。あの子が総司を認識した理由も、その『後悔』も、分かるのは総司しかいねえ。そうだろ?」


全員が沈黙した。

現状、同意するに足る話だが、この件は納得するには不可解なことが多すぎた。


「輝晃くんの言ってることは、だいたい分かった。でもそれなら余計、俺には断ち切るべきものが分からない」


ゆっくりと紅紫が疑問を投げる。

寧々もその言葉に続く。


「そもそも、ここに『後悔』があるかも疑わしい。後悔があるからこそ、私たちは今際に呼ばれた。でも私たちが始めに移された場所はこの街じゃなかった」


寧々が言葉を区切る。

皆も各々が最初に見た光景を思い出して口を噤んでいる。


「……この街に『後悔』があるとは、限らない。対象とセーショーがまだこの街にいるかも分からない。この今際は広すぎる」

「だったらどうする? 手分けして探すの?」


香里が不安そうな目で周囲を見る。

それを「いや」と輝晃が遮った。


「それはやめた方がいい。ここで離れるのは危険だ。確かに、寧々の言うことはもっともだろう。だが、他の場所に『後悔』がある可能性は極めて低い」

「なぜ?」


寧々が首を傾げる。


「寧々は別の場所と言ったが、最初に移された今際は、対象に関係のない所じゃなかったか? むしろ、それは俺たちの『――」

「もういい、分かった」


紅紫が輝晃の言葉を制する。


「……悪い。ごほん、最初にも言ったが俺たちがいくら考えても『後悔』が何かは分からない。それが分かるのは、今や総司だけだ」


輝晃の説得に、皆もやるべきことを理解したようだった。

ただ、紅紫は一人俯き、まだ何かを考えている。


「輝晃くん。俺は『死神』としてみんなを正しく導ける気がしない。ここからはお前が……」


紅紫の決した意を、輝晃が両手を上げて「はっ」と一笑する。


「ふっ、まてまて紅紫。確かに俺は天才だが、俺は不幸にも今際に迷い込んだ『忘却』だ。本来ここに居るべきじゃないし、今は香里を守るだけで精いっぱ……」

「紅紫くん、大丈夫よ。あなたが断ち切るべきものはきっと総司くんが教えてくれるわ」

「そう。かみやん、行こう」

「はは……期待してるぜ、『死神』!」


皆の応援を一身に受け、紅紫はすっと前を見据えて背筋を伸ばした。


「ああ、まずは二人を見つけよう」

「よし、じゃあ俺から天才的な名案があるんだが、みんなノッて来いよ」




ーー


「はぁ、ここまで来れば、大丈夫かな」


人混みをかき分け随分走った。

周囲を再確認して安全を確認。

どこにも彼らが追ってくる気配はない。

自分は引いていた縁の手を離して額の汗を拭った。


「縁ちゃん、疲れてない?」


息を切らした自分とは対象に、彼女は一呼吸も荒げる様子がない。

縁は瞳こそこちらに向けてはいるが、その口は一言も語らない。表情も、ずっと淡く笑ったままだ。


「あ、そっか。まっちゃんに吐息を回収されちゃったもんね」


自分は縁との会話を諦め、再び彼女の温かく小さな手を引く。

縁の中の街はどこまで歩いても同じような風景だった。

高さを競うビルも、複雑さを増す高架橋も、ガム吐きだらけの路地のブロックも。何もかも。


「ねえ、縁ちゃん。このままさ、どこか逃げちゃおうか」

「…………」


信号は同じリズムを繰り返し、人の塊が縞模様の上を規則正しく流れていく。

今は赤信号。

自分は人のいない横断歩道の白を選んで、遊ぶように向こうの通りへ。


「ずっとこの街にいようよ。ずっとこうやってさ、街中を散歩するんだ」

「…………」


知っている。

この街は彼女の憧れだった。

小さいころから、今も、まだ。


「ほら、最初にこの街に来たときみたいに」

「…………」


彼女が田舎から都会に越してきたその日、彼女は地図も持たないまま、気ままに一人街を歩いて回っていた。


「縁ちゃん、携帯もろくに見ないから、場所も時間も忘れてたよね」

「…………」


あの時、君は日が暮れたことも、迷ったことも知らないで、どんどん新しい景色を求めていた。


「僕もすごいと思ってたよ。この街の表情はいつだって違う」


いつのまにか夜になってて、君は星が落ちてきたみたいな夜の明かりに浮かれてた。


「夜になってさ、ちょっと危なそうなネオン街を走り抜けて。ライトアップされた夜桜を眺めながら川沿を歩いて、遠くに見えるあのタワーに向かって」


そう。

あの電波塔を見上げに行ったけど、高いビルの壁に遮られて、遠くなって。


「見えてるんだけど、結局たどり着けなかったよね」

「…………」


残念で、疲れ果てて、帰りはタクシーを拾って。

電波塔を横切るとき、見上げてみたけど、あまりに高すぎて展望台すら見えなかった。


「……今なら、行けるかな」


今なら、望めばどこまでも行けそうな気がする。

この街の行けなかったところも、故郷の実家にも、もしかしたらまだ見ぬ異国の地までも。


「…………」

「他にも。行けなかったところ、一緒に」


無念が喉を詰まらせる。

悔しさで目頭が熱くなる。

体温も馴染んだ縁の手を両手でぎゅっと握りしめる。


行けるはずはない。


ここは楽園じゃない。

彼女は、この場所以外を望んでいない。

彼女はこの街に囚われて、ここに心残りを置いているから。


「ねえ、縁ちゃん。応えて」

「…………」


彼女はこの手を握り返さない。

頷かない。



「応えて」


自分は縁ちゃんの華奢な身体を抱きしめた。

その肩が小さく震えている。

でも震えているのは彼女じゃない。

きっと自分かこの世界の方だろう。


この世界を創り出してから時間が経ちすぎたようだ。


「…………」


もうすぐ崩れるこの街に未来は無い。

これ以上、自分たちが存在する意味も無い。


きっと意味はない。


一方的な問いかけも、本心の見えない君の淡い微笑にも。抱きしめた、悔しいほどに手放し難いこの体温も。


君に意味がないなら、もう僕らに意味は無い。

自分は少しだけ身体を離し、真正面から微笑むだけの縁ちゃんを見た。


「……教えて。君の後悔は、何?」


遠くで崩壊の音がする。

人の往来はすっかりと絶え、街はすっかり夜の灯りを点していた。


薄明るい夜の空から雪のように青い光が降って来た。

不気味でいて、落ち着くような不思議な光。

それは自分たちの周りに降り注ぎ、まるでスノードームの中にいるような幻想的な光景を見せる。


「わぁ、ほら縁ちゃん………えっ?」


縁がこちらをしっかりと見返している。

その瞳に今までの虚ろな影は無い。


「どうしたの……応えて、くれてるの?」


偶然ではない。

その言葉に応じるように、腕を掴む手には僅かに力がこもった。


「あの、さっ……」


何を尋ねようかと思ったが次の言葉が出てこない。

見つめた縁の顔は切迫するような真剣さを帯びていた。

何かを伝えようとする彼女の様子に自分の言葉を伏せ、その時を待った。


「……     、   」


彼女の口が音もない言葉を紡いだ。

その言葉を理解した途端、頭の中で意味が弾けた。



       あなたは、生きて。



思い出とか感情とか、色んなものがかあっと込み上げ、目からじわりと涙が溢れた。


「うん……分かったよ……分かった」


何度も頷く。

滲んだ視界の中で縁ちゃんは柔らかく微笑んだ。


そして安心したように目を瞑ると彼女はそのままふっと気を失った。

腕を握っていた手が落ち、身体の重みが自分の腕に預けられる。


「縁ちゃん、縁ちゃんっ!」


声をかけて揺するが反応は無い。

横にしたまま頬を叩いて声をかけるが、同じだった。

二人で手を取り合う幸せな夢から一変、急に現実を叩き付けられたような衝撃に血の気が引いた。


現状を告げるようにどこかでまた崩落の音がする。


「……どうしよう」


彼女の意思は受け取った。

けど、どうすることが正解なのか分からない。

時間もない。

もしかして、このまま世界が壊れてしまえば彼女は意志を遂げるのか。

そしたら全て終わるのだろうか。


遠く地平線に建つあの電波塔がゆっくり崩れていく。音もなく、舞い散る光と同じ速度で。


「だめだ。それじゃ、終わっちゃう」


感傷に振り回されてはいけない。

何か解決策を求めて周囲を見渡す。


未だ夜空からは謎の青い光が降り注いでいる。

雪の様だった小さな光は今や野球ボールほどになり、それらは次第に大きく揺らめき、火の玉はまるで人魂の炎のように自分たちを囲んで踊り出した。


「うわ、くっ……」


火の玉が集まり炎になって視界が群青に染まっていく。

崩壊の音とごうごうと燃える音が足元を揺らがせ、堪らず膝をつく。


「総司! 大丈夫か!」


地を這う轟音の中、どこからか輝晃の声がした。

咄嗟に逃げなきゃと思ったが縁を置いてはいけない。その間にも炎の檻はどんどん収縮し、だんだんと居場所が無くなっていく。


「総司くん、良かった、間に合った」


遠く、目の前。

香里が姿を現し息を切らしてこちらに駆けよって来る。

その間にも火力は増し、頭を押さえつけるようにじりじり重圧を上げていく。


「総司くん、もう少し我慢して! 炎が、彼女に還るまで!」


香里は空になったカンテラを振り回しながら走ってくる。

重圧に潰されながら自分は縁に圧し掛かるように腕を付いた。


もう少しとはいつまでだろう。

一秒がこんなにも長い。

炎は一等濃く燃え上がると収縮を繰り返し、縁の胸に吸い込まれるようにしてすっと消えた。


「……っはぁ」


圧力が消え、自分は気が抜けたように倒れ伏す。

自分の荒い呼吸の傍で、すうと安らかな呼吸の音がした。縁の胸が穏やかに上下している。


「よ、すがちゃん?」

「大丈夫。もうすぐ、意識を、はぁ、取り戻す」


寧々が汗だくになりながら縁の顔を覗き見る。

正面からは香里が駆けつけ、それと同時に輝晃もこちらに駆け寄って来た。


「総司、驚かせたなっ」

「………みんな」


八方塞がりの状況。

自分は誰にも渡すまいと安らかに眠る縁の身体を抱きしめた。

皆が息を切らしている中、さらに退路を断つように背後で刃の鳴る音がした。


「……セーショー」


恐る恐る振り返ると、黒衣の『死神』がそこに立っていた。

しかし紅紫は鎌の刃を地に下ろすと自分に向かって静かに両手を上げてみせる。


「大丈夫、手荒なことは、しない」


一体どういう状況なのだろう。

縁をしっかりと抱きながら皆の顔を見比べる。

その顔は気まずそうな、どこか安心したような。

いずれにしても彼らから敵意は感じない。


「ど、どういうこと」

「セーショー、さっきは、悪かった」


紅紫が深く頭を下げた。


「俺はお前を、切ろうとした」

「…………」


改めて本人の口からそう言われて絶句する。

逃げなかったら、と思うと背筋が凍った。

紅紫の目にも戸惑いが浮かんでいるが、それを払拭するよう彼は背筋を正した。


「でもそれは間違ってた。もう一度、ここにいる全員を救う挽回の機会をくれ」


彼の紅い瞳は真剣で、誠実さを帯びていた。


「す、救うって、どうするの。俺を、殺すの?」


紅紫に恐々尋ねると、紅紫が苦しそうな表情を浮かべる。横から輝晃が割って入って来た。


「それはない。俺が保証する。さっきは俺たちの早とちりだった。すまなかった。総司、教えてくれ。断ち切るべき『後悔』は、何なんだ」


あの輝晃も頭を下げる。

皆真剣なのは分かる。分かるが、


「分かんない……『後悔』なんて、ないよ」

「なっ」


輝晃が言葉を失う。


「そんな訳ないだろ、セーショー。今際には『後悔』を断ち切るために呼ばれるんだ。このままじゃ彼女も終われない」


荒立ちそうになる紅紫を香里が目で窘めて言葉を継ぐ。


「総司くん、気になることでもいいから教えて、みんなで探しましょう」


近くでビルが倒壊し粉塵を巻き起こす。

電線が切れて火花が散り、華やかな街から明かりが消えていく。

いよいよという雰囲気に輝晃が寧々に合図を送る。


「もう崩壊まで時間がない。こうなったら彼女本人に聞かせてもらう。総司、協力してくれ」


寧々が縁の傍に立ち、自分に場を明け渡すよう無言の催促をしてくる。


「無いんだ! 断ち切るものなんてここにはない!」


縁ちゃんを奪おうとする寧々の前に立ち塞がる。

寧々はむうとした表情を浮かべながらも小さく何かを小さく唱えている。


「おい総司、無いって、どういうことだ」


輝晃が静かに問う。

頭の中であの言葉を、意味を整理する。


「縁ちゃんは後悔なんて遺していない。ちゃんと自分が死んだと理解していた。分かってて、僕に「生きて」と。それなのに終わらないんだ。これ以上が、どうしていいか分からない」


自分で言葉にしてさらに頭を抱える。

無念にまた目頭が熱くなる。


街に残る最後の明かりが消えた。


月明かりが静かに崩壊の光景を映す。

もう手立ては無い。

香里は自分を慰めるように背に手を置いて、紅紫は途方に暮れ、輝晃は悩み、寧々は詠唱を続けていた。


ゆっくりと、音もなく、瓦解したビルや信号機が浮かび、バラバラになっていく。

全てが粉塵に帰す中、寧々の小さな人差し指が縁の額に軽く触れる。


「後悔は無い。心残りは、別れ」

「……そうか!」


寧々の言葉に輝晃の目に閃きが宿る。

すると、縁がすうっと大きく息を吸って微睡の瞬きを繰り返す。


「総司、最後だ。男ならしゃんと構えろ」


輝晃はそう言ってどこかへ消えた。


「総司くん、頑張ってね」


背に手を置いてくれていた香里も輝晃の後を追っていなくなる。


「セーショー……終わるまで、待ってる」


紅紫がゆっくり鎌を拾い上げ数歩下がって腕を組む。


「待ってる」


その隣に白いスカートをなびかせて寧々が佇む。


「ありがとう」


誰にとはなく、感謝した。

そして、世界はまっさらに崩れ落ちた。


思い出も、何もない。

あるのは、二人とこの時だけ。


ふうっと吐く息と共に縁が静かに目を覚ました。


跡形もない街に驚きつつも、どこか受け入れたような顔。

縁ちゃんのその瞳はすぐに自分を見つける。

そして笑ってくれた。

笑ってくれているのに、自分は涙が止まらない。


顔を背けて涙を拭う。

彼女のくすりと笑う声。

そして彼女はゆっくりと体を起こし、涙の止まらない自分の顔を覗き見る。


彼女の柔らかな指が自分の涙をさらい、そして彼女はまた小さく笑った。


「よ、よす……」


これはどんな奇跡だろう。

嗚咽で声が声にならない。

何を言っていいか分からない。


時間だけが刻、刻と過ぎ、煌々と照らす月明かりが徐々に薄れ、星が一つ、また一つと落ちていく。


「あのね」


縁の静かな声。

そして彼女は両手を差し出し、自分の頬に当てがった。


「……っ」


しっかりと顔を合わせるようになり、今さら気恥ずかしさに目を背ける。


黒い空から流星が流れて、消える。

月が下弦からさらさらと崩れていく。


「……いいのこしたことがあるの」


彼女の目からも、きれいな雫がぽろりと落ちた。

僕たちはいつもこうして泣いてばかりだ。

止めどなく溢れる思いがぽろり、ぽろりと涙は頬を伝う川になる。


最後の星が落ちる頃。

縁は唇を噛み、そしてしっかりと、ゆっくりと、最後の言葉を口にする。


「いつも、そばにいてくれて………ありがとう」


そしてどちらともなく抱き合った。

どうしてこんなに好きになってしまったんだろう。

見て見ぬふりをして上手くやり過ごせばこんなに苦しくはなかったはずなのに。


『彼』が死んだとき、次はそうしようと決めたはずだった。

でもこうやって繰り返してしまっている。


きっと、もうこの性分は変わらない。


「自分はこれからも、ずっと、君と一緒にいるから!」


留めるようにかき抱く腕がふわりと空をきる。


振り返ると彼女が遠くに消えていく。


彼女の名を呼ぶ自分の声が遠くなる。



今際の最後に残された月の際が、

ひとつ雫となって静寂(しじま)を打った。

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