Code D_305  



お前の名前は『きずな』

彼女と、彼を繋いでいた真っ赤に染まった赤い紐。


漢字では、そうだ『紲』が良いだろう。

罪人をつなぐきずなだ。


これがお前を示す、哀れな名だ。




ーー


めざめた

めざめた

からだがゆれる

うたがきこえる

ここがわたしのせかい


ーー


思えば妊娠してもう四つの季節を廻った。

決して心安いとは言えない、辛い時間だった。


私はこの一年で、人生で最も不安な日々を過ごした。

そう、人生で一番。


初めて感じるあの情熱の春。

そして冷たい夏が別れを誘い、

秋に裏切られ、この冬。


深い悲しみと淡い喜び。

激しい怒りと空虚に彩られた四季だった。


彼と、両親と……この子の事を考えると、決まって複雑な感情が去来した。

やはり誰も受け入れてはくれない。

本当の事は話せない。


どれだけ心を開いたつもりでも、最後のこの一欠片だけは誰にも見せることは出来なかった。

自分の心を守るために、仕方ないことだった。


しかしその心残りに蓋をし、腹を括り、少し微笑むと、私の周りは急に動き出した。


最初は私の行く末を嘆くことが多かった母も、今やこの子の誕生を待ちわびるようになった。

父もまた言葉にはしないものの、この子の成長を見守ってくれている。

親しい友人もそろそろだねと応援の言葉をくれた。


周りが応援してくれる。

私もまた笑えるようになった。

きっと彼も私を応援してくれる。


「今なら……」


そう思っていた私は、少し現実を見誤っていたのかもしれない。



お腹の子が大きくなるにつれて私の中に後悔の波が強く押し寄せる。


日に日に膨らむ未来への不安。

頼る当てのない浮遊感。


やはり私なんかが子供を産むべきではない。

私はこの子の母親に成れるほど出来た人間じゃない。

脳裏に死んだ金魚の白い腹の思い出が浮かぶ。


私はそっと張り出すお腹に手を当てた。

この子を繋ぐ鎖が千切れた途端、私は重荷に耐えられず産み捨てて逃げてしまわないだろうか。

誰にも認められない、誰に見向きもされない私に人なんか育てられるのだろうか。


誰かに「大丈夫だ」と言ってほしい。

誰かに認めてもらいたい。

自信が欲しかった。


そう思ったとき、ふっと彼の顔が浮かんだ。


私の中の忘れかけていた想いも大きくなってきた。


高志に会いたい。


私は寂しかった。

そしてこの期に及んで湧いてきた「もしかしたら」と思う期待が、怠慢にその日に向かう私を彼へと突き動かした。




To:

Sub:久しぶり


元気だった?

あのさ、会いたい。


-END-



泥のような日々に彼に送ったこの短いメールから、私の最終章は動き出した。

高志(たかし)はすぐにメールを返した。


To:

Sub: Re:久しぶり


俺も縁に会いたい。


-END-


……それから何通かやり取りをして、二週間後。

私は心に残るあの一欠片を伝えるために彼のもとへ行くこととなった。



両親には秘密にして行った。

お腹の子に悪いから遠出は許してくれないだろう。

そう思ったから。


馬鹿なことをする自覚は大いにあって、私自身もすごく緊張していた。

もし何かあったら。具合が悪くなったり、産気づいたらどうしよう。

しかし、そんな不安さえ一縷の希望の前には盲目となった。


今はただ、高志に会いたい。


電車は田畑ばかりの風景を切り捨てるようにしてあの街に向かう。


長くも短くも感じる道程の末、降り立ったホームで吸い込んだ空気はもう知らない味だった。

数か月いなかっただけでこの街はまた随分と変わってしまったようだ。


帰って来たという感慨など微塵もないまま、無機質な網の目を伝って彼の住まう場所へ辿り着く。


田舎から都会へ出てきた当初は、次から次にやって来る電車や色んな格好の人が乗り合わせる車内、窓から見える大都会の複雑さに驚いていたものだ。

今はもう何も感じないけど。


出入りの多い駅と換気をするだけの駅を交互に。


降り立った駅から少し歩いて見上げた古いアパート、三階の真ん中の部屋。


高志に会ったらまず何と言おう。

どんな顔で、どんなふうに気持ちを伝えればいいのだろう。

道中繰り返し想像してきた行動予定も、今になって粗が目立つ。


途端に心細くなった。

しかし、もう埒があかないと自分の気持ちに踏ん切りをつけて、私は緊張に震える指でインターホンを押す。


ピーンポーン


決意に比べて軽く安っぽいチャイムが鳴る。

チャイムの後の静寂に耳をそば立てながら、私はお腹の目立たないデザインのワンピースの裾を整える。

そわそわしながら胸の前で手土産の紙袋を弄っていると、扉の向こうから足音が近付いて来た。


ガチャと鍵を開ける音、軋みを上げながら扉がゆっくりと開いた。


「……あ、っ――」


目が合った。瞬間に目を伏せてしまった。

高志は全く変わっていなかった。

むしろ前よりも一層格好良くなったような気さえする。


「…………」


なんと言ったものだろう。

言葉が出ないでいた時だった。


「……縁、久しぶり」


高志は優しい声で私の名前を呼び、夢にまで見た柔らかな笑みを向けてくれた。


「―――高志、」


途端に目頭が熱くなり、じわりと染み出た涙で目の前が霞んでいく。


「……会いたかった」


泣き顔を隠そうと俯いた縁の肩を高志が抱き寄せる。

熱を持った高志のにおい。

広い胸に包まれる安堵感。

乾いた胸に幸せが染みわたっていくようだった。


「……寒いだろ、入れよ」


私は促されるままに高志の部屋に入って行った。

ひやりとした室内には慣れない香水の匂いが漂っている。

テレビとベッドと、窓際の小さなテーブル。

必要最低限の物しかない高志の私室はとても簡素で、どこか借り物のような印象を受けた。


「部屋、綺麗だね。掃除苦手だったのに」

「はは、お前が来るって言ったからさ、頑張ったよ」


あまりにも生活感のない空間に落ち着かないでいると、高志は二人掛けのテーブルに座るよう気を利かせてくれた。少しぐらつく丸椅子に腰かけ一つ息を吐く。


「そういえば、前のアパートにはもう居ないって、どこに引っ越したの?」

「……実家だよ」

「うそ、ウケる。まだ近くに住んでると思ってた」


高志は笑いながら私の向かいの椅子に腰かける。

蓋を開ければ笑い事でもないのに、彼はどうしてだろうか、よく笑う。


「ここまで、すごく遠かった」

「ふっ、そりゃーな」

「……本当に遠かったんだから」

「はいはい、遠路はるばるご苦労様」


高志のあまりにも軽い反応に私がむすくれてみせると、彼は下から覗き込むようにして私の顔を窺ってきた。


「ははっ、怒ってる。そこまでして俺に会いたかった?」


その顔は悪だくみをする青年のようで、とても楽しそうで、私はつい顔を逸らしてしまった。


「違う、高志に会いに来たんじゃない……用事の、ついでだよ」


そして高志はまた笑う。

こんな薄っぺらな嘘、すぐに分かるとでもいう風に。


「じゃあお疲れの縁にコーヒーでも淹れてやろう。ちょっと待ってな」


彼は立ち上がり、食器棚の上に置かれた瞬間湯沸かし器を持って流しに向かう。

コーヒーは、本当は飲みたく無かったけど、久しぶりに会って押しかけた身分で注文を付けるのも申し訳なかったから黙ってた。


「ジャー……」


ポットの水が満たされていく音、ちらりと見える高志の背中を眺めながら、私は幸せだったあの頃の錯覚を見ていた。


高志は居酒屋で働いていたこともあって、一緒に暮らしていたとき何かと台所に立ってくれた。

料理が苦手な自分のために夕飯を作っていてくれたり……いつも濃い味の一品料理だったのが玉に瑕だったけど、幸せだったあの時はそれも笑いの種に出来た。


そして私の心に風化しかけた思いが蘇る。

あの時の彼への深い愛情と、あと―――


「ジャー……キュッ」


深い憎しみを。


「ねえ、高志」


水の満たされたポットを持った高志が振り返る。

振り向きざまにポットの口から水が零れる。


「高志、見ないあいだに、なんか、変わったね」

「そうか?」


高志は返事をしながらポットに電源を入れると再び私の目の前に腰を下ろした。


「うん、変わった」

綺麗な部屋、服装、髪型、その物腰さえ、目の前の彼は私のものだった彼とはまるで別物に見えてしまう。


なぜだろう。

今そんなもの見なくてもいいのに、見えてしまう。


その時、私のお腹の中で異変が起こった。

今まで大人しかったのに、私の中の子が今までにないくらい激しく身じろぎしだしたのだ。


しかしこの痛みは疑問に答えをもたらした。

さーっと血の気が引いていく。


知っていたのに気付かないふりをしていた、気にすることを恐れていた。


私の高志はもういない。

彼はすでに、彼女(あの子)の高志だということに。


まだ? それとも、もう……。


「ごめんっ」


いや、もう帰ろう。期待しても辛くなる。

高志は二度と私のものにはならない。

彼を目の前にして確信した。

そして確信は激痛を伴った。


「高志、会えてうれしかった、これお土産だから……帰るね」


私はよろめきながら席を立ち、土産の紙袋を机に置くと痛む腹部を押さえて玄関の方へ身を翻す。


「えっ、ちょっと待てよ、どうした――」


高志は私の腕を掴んで引き留める。そして気付かれた。

彼は次の言葉を飲み込んで私の腹部にくぎ付けとなっていた。


ザーと水が徐々に滾る音が部屋に響く。


痛みに押さえて張り出した腹は彼の目にさぞかし異常に見えただろう。

腕を掴む力が弱まった。


「……産むの」 


私は彼の手を静かに振りほどきながら短く告げた。


「……堕ろして、ないのか?」

「出来なかった」

「なんで?」


そう問われて困惑した。

こんな状態で彼に会いにいくなら普通そう訊かれることは分かっていること。

しかし私は答えを持っていない。


「……分からない」


私は彼に尋ね返す。


「……ねえ、なんでだろう?」


この感情が期待というものなのだろうか。

縋りたい一心だった。

ただ頼りたかった。


愛していた。


「知らねえよ!」


彼は声を荒げて私に詰め寄った。

ゴボゴボと熱持つ破裂音が不安を掻き立てる。

怯えすくむ私を脅すように豹変した彼は丸椅子を蹴飛ばす。


「俺は堕ろせって言ったよな!」


急に乱暴になった彼、私は何が起こったのかもわからなかった。

逃げなきゃと思った。

しかし立とうとした足は震えて動けない。


「高志っ」


得体の知れない表情を浮かべた彼が近付いて来る。


「ありえねえ、一生の汚点だ」


彼は私の髪を乱暴に掴み上げ力任せに床に投げ捨てた。お腹は守り切ったが頭と肩に鈍い痛みが走る。


「っつ、聞いて――」

「うるせえ、慰謝料か? 手術料? それとも養育費でも請求しに来たんだろ」


最早主張は聞き入れられない。

私は体を丸め必死でお腹を守る。しかし彼に執拗に体を蹴られ、殴られた。

暴言を吐きながら醜い姿になっていく彼はもう人間じゃなかった。


「……た、かし」


やっと見上げた彼のその手が持つ物を見て私は弾かれたように逃げ出した。



ーー


うるさい、うるさい!

こないで!

おとうさんがくるとおかあさんはいつもないてしまう。

ひどくせかいがゆれる。

たたかないで!

ひどいことをいわないで!

きもちわるい、


ーー


体を引きずりながら、なるべく人の多い方へと私は逃げた。

高志は追いかけては来なかったが、最後に投げつけられた熱湯が私の首と脚を焼いた。


小さな商店街の入り口、息を荒げぐしゃぐしゃになった私を人々は遠巻きに見ている。


もうどこが痛いか、何が痛いかよくわからない。


「っあ――」


私は倒れ、ここでやっと人が動いてくれた。

そして無駄に厚くなる野次馬の人垣、

飛躍した憶測を飛ばす主婦達、

携帯を向ける若者達。


遠くなる意識、ぬるく濡れた感触が足下に広がる。


「たか、し」


いつもは聞き流す救急車のサイレンをこんなにも待ちわびながら、痛さと虚しさが連れてきた冷たい涙が無機質なアスファルトを黒く滲ませた。



ーー


ずっときぶんがわるい。

おとうさんがいったあとも、

おかあさんはずっとないている。

きらい、きらいだ。


あれ?

なんだか、からだがおかしい。


…なに?


ーー


暮れかかる冬の空。

慌ただしいサイレンの音が病院に到着するや否や救急車から担架が運び出された。


担架には全身を嬲られて見るに堪えない姿の縁が力なく横たわっている。


「縁ちゃん! しっかりして」


目覚めない彼女の横で泣き叫ぶように名前を呼ぶ総司の声。隣で救急隊員が医師に詳細を報告している。


「二十代妊婦、全身の打撲と首から背にかけて広範囲の熱傷、また意識は不明です。破水していますが、胎児が下りてきている様子はありません」

「家族に連絡は!」

「身元不明、所持品がなく本人証明も出来ないため誰にも連絡できません」

「……早く手術室へ!」


医師は決断を余儀なくされていた。

母子ともに非常に危険な状況、本人に意識はなく家族に連絡も出来ない最悪の状況だ。


「くそっ」


医師は苛立ちを吐き出し手術室へと向かう。




「縁ちゃん! 縁ちゃん!」


意識が無いまま縁はすぐに手術室へと運びこまれた。手術台を中心に様々な機械や器具の並ぶドラマでよく見るような手術室。

濃い消毒薬のにおいが立ち込める中、緑色の手術着の医師達が慌ただしく準備や打ち合わせを進めていた。


着の身着のままの縁が手術台の上に運ばれると医師らはすぐさま配置について手術の準備を始める。

色々な管が縁の身体に取り付けられていく。

一定のリズムを報せる電子音、液晶画面に表示されたバイタルサインは不安定な波形を映す。


そして準備を整えた医師らが縁の周りに集まり、一人の医師が手早く患者の容体と開腹による胎児の取り出しの内容と方法を告げる。


「それでは手術に移ります」という医師の宣言。

物凄い熱量の光が彼女を照らし、消毒や麻酔などの処置が進んでいく。


「メス」と短い執刀医の指示。

補助員が細く鋭利な刃物を執刀医に手渡す。

薄いメスの刃がゆっくりと縁の大きな腹を撫でていく。

刃先の辿る後から真っ赤な血が線を描き零れた。


「っ、縁ちゃん」


その痛々しい光景をとても見ていられず、自分は咄嗟に目を背ける。


あとどれくらいこの場を耐えればいいのだろう。

無事に済めばいい。

だけど、予定通りなら。

……いや、きっと運命は変わったはず。


けど、もしかしたら―――


最悪を考える中でも医師の短い指示は続く。

カチャカチャと鳴る金属音と脈を知らせる電子音、濃い血と消毒のにおいは嫌でも手術の状況を見せつける。


「あっ、総司センパーイ」


背後から場にそぐわぬ声がした。

振り返ると縁の子供の『書記』となる来見が「おひさしぶりでーす」と小走りにこちらに駆け寄って来た。


「……く、来見ちゃん? ああ、そうか、もうすぐこの子の『書記』になるんだね」

「そうですよ、総司センパイ。いよいよ私の初任務ですっ」


来見はトートバッグいっぱいの書類束を抱えながらわくわくした様子で自分の隣にやって来た。


「うっわー、グロっ。センパイよく見ていられますね」


手術中の縁を見るなり来見はさっと顔を背けた。

来見はもうすぐ縁が死ぬかもしれないなんて知らないからその反応は仕方ないかもしれないが、それは確実に自分の感情を逆撫でした。


「言い方に気を付けてよ。縁ちゃんが頑張ってるんだから」

「だいじょーぶですよ、彼女寝てるし。しかもこの私が来たんだから、赤ちゃんも、ちゃんと産まれますって」


いつもは明るく率直な彼女に元気をもらっていたが、今は彼女の空気を読まない能天気さが鬱陶しくて仕方ない。

緊迫した状況なのは明らかなのに、来見は久しぶりの現世を遠足気分ではしゃいでいる。

もう彼女の言動は無視しよう。

そう決めたそのとき、聞き捨てならない言葉に背筋が凍った。


「えっ、なんで、キャー、紅紫さんだー」


騒ぐ来見のその向こう、恐る恐る振り返ると、異様な空気を纏った彼らがそこに居た。


「……みんな、―――」


それは夢にまで見た最悪の光景だった。

手術室にゆらりと現れた三つの影。

黒衣の『死神』

白い『天使』

そして顔のない『終末』


来迎者たちは皆一様に神妙な様子でこちらに近づいて来る。


「えっ……」


そして気付いてしまった。最期の息を引き取る『終末』のその手には二つのカンテラがあることに。

つまり、この場で魂を回収されるのは――


「キャー、超かっこいい、まぢカワイイ」


来見ははじめての来迎に興奮を爆発させている。

この場で唯一、今から何が起こるか知らない『書記』のその姿は逆に憐れに見えた。他の面々も同じ気持ちだったらしく、場に苦い空気が漂う。


「来見ちゃん、少し静かにしていてね。今から大事な仕事があるから」

「……はーい?」


気の毒さが滲む『終末』の声に来見も小さく返事をして後方へと下がった。


「かみやん、こんなのあんまりだよ。本当にもうどうにもならないの?」


震える声で問う。

問われた『死神』は作り物のような穏やかな無表情を自分に向けた。


「迎えの時間だ」


問いかけには答えず『死神』はただそう短く告げた。


胃に重石を落とされたような鈍い衝撃。

報われることのないこの時がとうとう来てしまったのだ。


「やだ、そんな」

「総司くん、覚悟を決めなさい。君に出来ることはこの子の為になることだけよ」


顔掛けで表情を隠した『終末』が厳しい声音で叱咤する。

その言葉に最期の時を思い胸が締め付けられる。


「香里さん、そろそろ」


呼ばれた『終末』は『死神』と共に手術台へと向かう。


「セーショー、この子たちの為にも邪魔しないで」


『天使』が色彩のない声で釘を刺す。

頭の中は真っ白で応えることも頷くことも出来なかった。ただ、これが『書記』の性なのだろうか、今から起ころうとする事を目だけが必死に追っている。


真っ赤な縁の腹の中にゴム手袋に包まれた白い手が入っていく。そして引きずり出されるようにして小さな赤子が姿を見せた。


「……新生児、息が、ありません」


部屋に産声が響くことは無く、その赤子は身じろぎ一つすることはなかった。

看護師が尻を叩けど刺激に対する反応もなく、だんだんと青くなっていく様子に医師が蘇生を試みるが、その皮膚の色が再び赤くなることは無かった。


「……紅紫君、寧々ちゃん、お願い」


『終末』は首を振って持っていたカンテラを下げると『死神』と『天使』に場を明け渡す。

『天使』が箱を持ってくると『死神』が譲られた場に膝を付き、鎌を床に置き首を垂れる。


「産声なき無垢の御霊まだ安らかに、その息吹、後世に吹かせよ」


『死神』は祈った。

そしてゆっくりと立ち上がるとともに鋭い鎌が一瞬で赤子の首を浚った。


医師の手にあるまま介錯された赤子から小さく白い光が玉となって零れ落ちると『天使』がその雫を大事そうに箱に受けた。

そして収まった光を確認すると『天使』は箱の蓋を静かに閉めた。


「これでCode D_305の魂の回収は終わった。来見、お前の仕事は終わりだ。至急斎藤さんに記録を提出するように」

「………えっ?」


突然の事に来見はぽかんとした様子で止まっている。


「来見ちゃん、あなたの現世の仕事は終わりよ。浄土に帰って『運命』の賢輔さんに報告しに行きなさい」


『終末』が優しく噛み砕いて伝える。

呆然としていた来見もようやく事態を理解したようだ。

長い準備期間を経てようやく務める初仕事は死産に終わった。

そう認識した瞬間、来見はわなわなと震えだした。


「……なに? どうして? ありえない、もう死んだとかありえない、あたし頑張って準備したのに!」


来見は持っていたトートバッグを怒りのままに床に投げつける。


「もう終わったとか馬鹿にしてるの? あたしはあれだけ頑張ったのに、この人が頑張らないから全部無駄になった!」


来見のその口ぶりに総司の手が震える。

他人にとってはそういう見方もあるだろう。

しかし、しかし。


歯を食いしばりながらも一言報いようとしたとき、ぱしんと乾いた音が辺りに響いた。


「死を敬え、新人」


呆然とする来見に『天使』が厳しい口調で刺した。


「…は 何それ」


それから彼女は頬を抑え、トートバックと散らかった書類をかき集めると、一切喋る事なく何処かへ消えた。


「ありがとう、天ちゃん」


ちゃんと礼が言葉になったかは定かじゃないが、天使は総司にも厳しい目を向ける。


「セーショーも一緒。邪魔する気なら容赦しない」


返事は出来なかった。

異論など唱えようもなかった。

まるで心の中を見透かされたようでもやもやとした気持ちが胸に広がる。


死を敬え、死を受け入れろ。

それは自分が生きていた時から当然のことだった。


生きている時はそれなりに上手く理解していた。

しかし、自分たち使者が半ば永劫を存在している現状で死の感覚は遠い。

永遠に感覚を狂わされて自分が薄れていく中、縁をはじめ、片割れの生は死の尺度であり、また自分の拠り所となっていたのは間違いない。

故に寄りすぎていたことも承知している。

だがそうでもしないと自分が保てなくなりそうでやりきれなかったのだ。



手術が進む中、縁の傍らに立ち、必死に考えた。

彼らが動き出したらもう縁は助からない。

だが、彼らの作業を阻むことも許されない。

しかしそれが出来れば縁は死なずに済むのかもしれない。

でもそれが出来たとして縁が死んでしまったら自分たちの魂は二度と現世に流れない。

今まで何度も考えた。そして禁忌に手を掛けると確固たる意志を決めていたはずだった。しかしこの場になって自分は覚悟を決めかねている。


「ピピピピ!」


思考がまとまらないうちに事態は急を告げた。

縫合処置の最中、縁の生命維持を知らせていたバイタルが緊急のアラームを鳴らした。


「先生、血圧と心拍が下がっています!」

「すぐに蘇生だ!」


医師らの緊張は一気に高まる。

蘇生を試みようと医師の指示が飛ぶ。

しかし、一方が騒然とする中、来迎者たちは穏やかに、ゆっくりと、縁の命終へ臨もうと歩み寄る。


「や、だめだ。まだ、お願いだから」


彼らに望みは届かず、『死神』の紅い目は静かに縁の方を見据えている。

『死神』の冷たい鎌の刃が縁の方へ振り上げられる。


「かみやん、やめて!」


『死神』を止めようと伸ばした自分の手を『天使』があらん限りの力で引き留める。

『終末』は縁の枕もとに赴きカンテラの口をそっと開けてその時を待った。


「今際に声枯れし者、辞世の句は来世の産声に――」


『死神』が絶命の祝詞を唱え始めた。あと一句の後に縁の魂が絶たれてしまう。そしたら全て終わってしまう。ならば、


しかし。


「いわい八千代に、絶えなく流れよ」


音もなく振り下ろされた刃が縁の喉元を撫で斬った。


ピー


縁の心拍が停止したことを告げる耳鳴りのような音が部屋に響く。


「……っつ」


恐れていた一瞬。

瞬きを忘れた目に青白い吐息の炎の色が灯る。


「うっ、わ……あああぁぁあ」


縁が、死んだ。

喉が裂けそうなほどの悲鳴が電子音と交じって嫌な音になる。


力ない膝ががくりと砕け落ちた。

この気持ちは一体何だ。

怒り、憂い、憎しみ、悲しみ、喪失感。

どれをも伴い、どれとも違う感情が腹の中を這いまわる。


「セーショー、時間がない、選べ!」


『死神』の声に顔を上げると、手術台の縁の身体からは既に死地に向かうべく金色の光が溢れ出していた。

しかしその輝きは力なく薄れ、零れ落ちた光は溶けた鉄のように黒い淀みとなってどろりと広がっていく。


「傷心のままここで終わるか、最期まで立ち会って彼女と次に進むか」


『死神』が問いかける間にも縁の身体から流れ出る黒い泥は嵩を増す。

ぬるりと足下に流れてきた淀みに触れる。

醜く生暖かいそれはまるで自分の心の内の様でもあった。


悲しいの? 苦しいの? 優しく縋るように指に絡みついてきたそれを撫でるように慈しんだ。


「選べ!」


「……行くよ」


縁ちゃんが泣いてるから。


心を決めて『死神』の声に応えた。

すると黒い塊は突然勢いを増し、ぐじゅぐじゅと奇妙な音を立てて身体を呑みこもうと這い上がって来た。


「なぐさめてやらなくちゃ、今度こそ、僕が」


そして全てが淀みに呑まれた。



ーー


いたい

さむい

くるしい

やめて、

いたい。

いやだ、やだよ。

せかいがはがれていってしまう。


ーー



「あなたの名前は『きずな』よ。

私と、彼を繋いでいた唯一の証。


漢字では、そうね『絆』にしましょう。

心で結ばれるきずなよ。


いい名前よね」





いままで、

あたたかかったんだ……



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